理想のオンナは
ベルダンディーだなんてふ・ざ・け・る・な〜♪

一気に下まで行きたい

1999年

10月31日(日)

「征服少年カトリ」をまた録画し忘れる。号泣。

早朝(コンビニのコピー機は早朝がいちばん空いている)、「大作戦」をコピー、そして製本。
早く起きすぎたために、仕事場でなんか疲れてきた。陽気もどんよりしていてしかも暑いようで、なんかおかしく感じる。
そんな自分にまた号泣。

原稿を製本し終えた後に、中に書いた「少林拳の型から変身するのはスカイライダー」と書いたことが間違いのような気がしてきた。
そこで新宿紀伊国屋で仮面ライダーの本を探したが、ストーリーダイジェストの掲載されたような本はひとつも売っていなかった。

さらにCD屋に行ったら「カリキュラマシーン」の音楽集が売っていたのでうろたえ(欲しいが金がない)、金がないので買わずに店を出る。

芝居のチケットを買おうと思ったが、「チケットぴあ」を探す気力がなくなったので今日のところはヤメる。

イライラして帰宅、インターネットしたら自分のホームページに入れない。

でも検索はできた。やはり「スカイライダー」ではなく「スーパー1」であった。さすが高度情報化社会。
自分は特撮マニアでもないので、よけいなこと書かなきゃよかったと思う。また号泣。
たいした部数でもないので、製本した同人誌を手書きで直す。
原本も直す。

疲れたと思ったら今度は眠れなくなってしまい、ネットをウロウロしてたら人のいい私ですら「ぐはは」と笑ってしまう「論争」の情景に出会った。
いやあ、あまりにわかりやすいんで(笑)。

10月30日(土)

ゲーセンでタワムレにUFOキャッチャーをやったら、「バルキリー完全武装!」というおもちゃが2回で取れた。
自宅で、大喜びで遊ぶ。

「ぶっとびマンガ大作戦」Vol.3の原稿がやっと完成。
まだコピーや製本はしていないけど、とりあえずホッとした。

しかし同人誌製作をやっている間、「こんなことして何になるのか?」という疑問と、「いや、これはやらなければならないんだ」という気持ちとが100回くらい交錯した。いつもそうだけど。
実践していて、私自身のことを「自意識のガス抜き」が必要だと思ってしまいますな。イヤな自分。

原稿ができてホッとしたので、吉田等に個人誌、もしくは「楽しい午後の過ごし方」の端数号(メンバーのどちらか一人だけが製作するときには、正式ナンバーに入れず号数に小数点をつけ、端数にすることになっている)の進捗状況を聞く。

やはり会社で変動がある時期で、現時点で何もできていない模様。
ワレワレも社会人であるので、致し方ないことです。

10月29日(金)

なんだか10月は格段に「暗い日記」、「泣き言日記」になってしまった。
10月27日の日記における「コミケの参加者は、自律的に報われればそれでよい」という考え方は、コミティアと真っ向から対立するような物言いで恐くなってきた。 撤回するつもりはないんだけど。
ただし、多くの創作マンガ同人者が「個性を主張するために努力をする」、という「努力」の部分を重要視する点には、基本的に異論はないことは明言しておきます。
しかし、その「努力」は、客観的には計測不可能なのも事実。
手抜きで傑作もあれば、努力して駄作もあるってこと。
そして、ここからたいていは「同人誌創作論」は「同人誌精神論」に移行していってしまう。
「精神論」自体はけっこうだけれども、それだけでは物事の一方しか見ていないのではないか、と思う。

まあ私の論旨も「努力している人」が前提にはなっているんだけどね。
「自分ばかり楽しもうとする」っていう「客批判」ってのはクラブ(銀座のクラブとかじゃなくてDJが音楽かけるクラブ)でも常に行われていることだし。
私自身も、「何か楽しいことを与えてくれそうだから」ってだけで、あまりにも何も考えず即売会に参加するってのはどうかと思うよ。

しかしそれでもなお、やはり「即売会はプロを養成する畑ではない(結果的にその機能を果たしているとしても)」、「即売会には参加したらしただけの何かを、ルールを守るだれもが享受できるべきである」という主張は、変わらない。

10月28日(木)

妙に暑い日。
同人誌の原稿を書いているうちに、なんだか本当に「何が面白くて、何がつまらないのか」わからなくなってきた。

いやまあ客観的にはいろいろあるんでしょうが、自分で「これでいい」ってのがなんだかうまく出てこない。

本屋に行って「マンガの鬼・アックス」というガロみたいな(っていうかつくってるのガロ編集部だっけ? 違うっけ? 忘れた)雑誌を立ち読みしていたら、「評論賞」の募集が載っていた。

「自分はココで要求されている文章が書けるだろうか?」と20分くらいシミュレーションしたが、けっきょく書けないと結論。
別にだれもがみんな評論ぽい文章が書けないといけないわけでもないだろうが、いかに自分が「ただ思ったこと」だけを書いているか骨身にしみた。
評論ってアレでしょ? 立証できないといけないんでしょ、思ったことを。違うかな。

まあいいや。とにかく、何見ても打ちのめされるんだよなあ最近。

給料が出たので本を買いまくりたい衝動にかられるが、いつも月初めにいろんなものをバカ買いしてしまい後悔するので、とりあえずガマンしてみることにした。

10月27日(水)

昨日の続き。
つまり、人間そう簡単に個性的にもなれなければ無個性にもなれない。

「個性」ってのはよくも悪くも漏れ出てきてしまうものであって、たとえば「手作りの結婚式」がそうとうイタイことになってたりというのが典型的な「個性尊重主義の(お気楽な面での)ダメな部分」だとしても、いわゆる典型的な結婚式をしたとしても、その式は個人がやっている以上、どっかしらに個性が「出てきてしまっている」

ここで言う「個性」はタダの「個別性」とか「固有性」じゃねーか、と思う人がいるかもしれないがまあそのとおり。
でも「過剰な個性尊重主義」がナンセンスであったとしても、すでにそうした時代に生きていかざるをえないことを認識することは重要だと思う。

たとえば一見話は飛ぶようだけど、コミケ批判
昨日も関連事項を少し書いたけど。

コレの典型的な例としては「どのサークルもみな同じ」とか「スタージョンの法則によって90パーセントはクズ」、そして「悪しき個性尊重」ということは言われ続けている。

厳しい創作姿勢によって、それこそ家出して、食うモノも食わずして四畳半でコツコツとやる「創作活動」ね、あるいは才能至上主義的な「才能のあるものだけがマンガ描いたり小説書いたりすればいい」という見解ね、これらはすべて「『悪しき個性尊重』批判」とつながりのあるものである。それ自体はそれなりに正論ではある。

で、逆に「コミケ擁護」ということで言えば、「裾野が広いほど豊かな才能が育つ」という考え方がある。
だが、私はこの見解はとらない。
だって、この見解ではけっきょくコミケは「裾野」にすぎないわけだ。ひとにぎりの才能を開花させるための畑でしかないという見方。

ここで誤解されると困るけど、「参加サークルの一つひとつにそれなりの個性があり云々」みたいなおためごかしが言いたいのではない。
そりゃ、プロも含めた巨大なマンガ文化全体から見れば、おそらく本当に90パーセントはクズだろう。私のマンガも含めて。

そうではなくて、みんなが自律的に満足すればいいってことなの。売れ行きでも、ただそこにいるのが楽しいっていうことでも、何でもいいから参加者(創作者)が満足すればよい。参加者が満足することが存在意義。
だからそこから才能がどうの、ってのは二次的な意味合いですね。私にとっては。
マンガ読者としての私にとってもね。

これを陳腐な言い回しで「コミケの祝祭的側面」と言ってもいいけれども、本当のお祭りとの違いはやはり「どんなささいなものでも個性を主張しなければ(サークルとしては)参加できない」ということで、それをイタさととって批判されることが、私の周囲では多かったね。

だけれども、どんなに気配を消したって、個性というのはなくなるもんではない。
イタいならイタいままでいいじゃん、というのが私の最近の考え。
もちろん、出る才能はどんどん出ればいい。

実は「完全なる『個性尊重主義批判』」というのは、徹底させると結局は「力の強い人の言うとおり」にしなければならなくなる。
「潰して潰れる個性など潰れてしまえ」って言われて、それはある程度まではそう思うけど、「だれが、どのように潰すのか」ってことを考えておいた方がいい。
「自分探し」でも「サラリーマン川柳」でも何でもいいが、確かにイタいものはイタいんだけど、それをイタいままで放り出しておくことも大切なんじゃないかと思う。

それを鑑賞するのもいろいろな意味で(笑)、楽しみではあるしな。

人生、けっきょく「苦痛と快楽のバランスをいかに保つか」ということが最大の命題ではないかと思う。
話飛びましたか。飛んだと思いますか。

「訓練→勝利」とか「我慢→出世」、「倹約→金持ち」というのが一般的な例だけど、それがTPOに応じて「コレを我慢することによって果たして快楽が得られるのか」ということが常に最大の問題となる。

(だから、宗教では「一生我慢=快楽」であるとしたり、革命思想では「ものすごい我慢→遠い未来に莫大な快楽」としたり、また理想世界像でも「我慢のない世界」を思い描いたりした。だが「我慢と快楽」のバランスについては、単純素朴な「人生いろいろ」という言い方以外に「これだ」というものはない。)

「自分探し」における「自分らしく」は、「他人から強制される『自分像』からの解放」という意味において
「我慢→我慢しないという快楽」につながり、それが本当にその人のためになるのか、というのが大きな疑問なのだけれど、でもそれはけっきょくだれにもわからない。「自分を探している」当人にしかわからない。

ただこれまた80年代的なキーワードだけれども「社会化」ということだけを金科玉条のモノとしていくと、当然「自分探し」は悪になる。だって他人が要請する役割を拒否する場合があるわけだから。単純に考えれば「社会化していない」ということになる。
だがあまりに「社会化」ということを考えすぎるのも一種の倒錯ではある。

ザックリしすぎているとは思うが

戦中(個性圧殺(本当かどうかはともかく、戦後から見た場合そう受け取られてきた))→戦後(個性尊重)→60年代、70年代(「個性」についての混乱)→80年代(あいかわらずの無邪気な個性尊重とその反動の「反」個性尊重)

要するに「個性尊重」と「反個性尊重」は繰り返されたり混ざっているにすぎず、それはそのときどきの「どれだけ我慢すればどれだけの快楽が得られるのか」という見込みで唱えられているにすぎない。「個性を尊重するか否か」は、それ自体が問題なのではなく、「どっちにしたらイイことがあるか」って点だけが問題だと思う。

尊重しようが圧殺しようが、またされようが、人間が幸福を感じていればいいわけで、私が20代のときに考えているよりも物事はそう単純じゃない、って思うだけですな最近は。

10月26日(火)

評判悪いね、癒しブーム。
「『なごみ』が今世紀中の自分テーマ」とかいつか書いたと思うけど、ココロある人々の中では「癒し」って言葉自体が評判悪いスね、なんだか(「なごみ」も「癒し」もまあ似たようなもんだろ)。

だから、アホかと思われないかと心配に(被害妄想)なってきたんで書いておくけど、こういうのってモノの見方の問題なんだよな。

現代社会は、一方で「ものすごくイヤな社会」であり、もう一方で「ものすごくお気楽な社会」であるわけで。
特定の立場からどちらとして解釈するかで、「癒し」という言葉もイヤかそうでないかのスタンスが変わってくると思う。

私が言ってんのは、森林浴だのうさんくさい心理学だの新興宗教だの相田みつをだのが提供してくれる「癒し」じゃないんだよ。そういうのが世間で言う「癒し」ってんでしょ???

あ、森林浴はした方がいいかもしれん健康のために。でもうちの近所に森林がないんだよ。森は生きている〜。氷に閉ざされたマツユキソウだって生きているというのに……。

そうだなあ……どう表現していいかわかんないけど、スパーッと切れ味鋭い決め打ち、も実に楽しいんだけど、さらにそこから漏れ出るヒラヒラみたいなものを確認すること、それが「癒し」ですね。私にとっての。

まあこの日記に書かれているわずかな明るい話題、それが私にとっての癒しとでも思っていてください。

「癒し」と親戚関係にある言葉で「自分探し」ってのがあって、これもココロある人々からはかなり眉にツバを付けられて見られている。
これはおそらくそれ以前にあった(現在でもある)過剰な「個性尊重主義」の反動から来ていて、眉にツバはつけられて当然だとは思う。
しかしだ。その「自分探し否定」も、強すぎればまた抑圧になる。

この「抑圧になりうるかどうか」も、物事をどう認識しているかで変わってくると思うが、たとえばよくいる「自分は個性的」と思っているが凡庸な人々ね、こういう人ってものすごくけむたがられて、実際けむたいんだけど、でもそういう人たちが出てくる土壌に自分たちもいる、ってことを、凡人であるならば認識しておいた方がいい(天才やエリート、優秀な人々はある程度ゴーマンでもよろし)。

案外、そういう「私って個性的でしょ?」な人と凡人とは、「自分は個性的でない」という自覚の有無だけが世間的な評価の差だったりするからね。って自戒だなこりゃ。
自覚だけでは何も動かない。その「自覚」のみをプライドの源泉にしてたら、そりゃ「自分を個性的だと思っている人々」と同じになっちゃうからね。これも自戒。

あと「個性」っていうと抽象的になっちゃうけど、サラリーマンとかしてても人間「私は凡庸です」とはなかなか言えないもんだ。TPOにもよるけど。どっかで「個性」をアピールしないといけないことが多い。そこでアピールされる「個性」がホントの個性かどうかはわからないが(たぶん違うんだろう)、「自分は凡庸でもいい、逞しく育ってほしい(なんつー古いたとえ……)」などと思っていると、足下をすくわれますぜ新社会人の諸君。

「エキセントリックだと思われない程度の個性(個性で悪けりゃ「他人との差異」、個別性)」は保持していくことを考えんとねい。うひひ。さーどうする。

それと「学級崩壊」ね、最近ぜんぜん小中学生情報が入ってこないので、本当に「学級崩壊」があるかどうかから話を進めなければならないんだけど、まあ「ある」と前提させてください。
これも「個性尊重の弊害」であろうとは思う。親がいいかげんなんだろ。放任を個性尊重とカン違いしてんだろな。

だが、もし「学級崩壊」があったとしても、自分は何ら不思議だとは思わない。
戦後(っていっても終戦直後に生きてたわけではないから予測で書いてんだけど)、一貫していろんなものが崩壊・解体していって、逆になったことは一度もない。そりゃ学校現場がダダモレたって当然だ。

援助交際とか淫行、大学生の集団レイプなんかもぜんぶそう。性は一貫して「解放(カッコつき)」の方向に向かっているんだから、これもまた予想の範囲内。

話がそれたが、こうしたことどもを見た際、「個性尊重主義批判」は実に有効なカードに思える。そしてそれはある程度、事実である。何度も書くが。
だが、ここがどうしてもネックになるんだけど、同人誌、それも創作マンガなんてやっていると、「個性」というものに向き合わざるをえない。あるいは凡庸な個性の自分。そして凡庸な個性の他人に。

「社会的に有用な個性」だけを尊重して後は潰していったら、創作マンガ同人誌の大半は消えてなくなってしまうだろう。

商業レベルのマイナー作品の詳細な研究や、メジャー作品の独自の視点からの解説、そして一定のパターンに支えられ、送り手と受け手とのコミニュケーション色が濃厚なアニパロ、また需要の多いエロパロ、そしてオリジナル・エロ。
これらはコミケでも膨大な数のサークルが存在する。これらの存在意義については、「『安易な個性尊重主義』を批判すること」を保持したまま、擁護することは可能かもしれない。
集合無意識の顕在化のようなものとしてとらえれば。

しかし、創作マンガのみが、ジャンルとしては同人誌において逆に鬼ッ子になっているのが現実ではないかと思う。
それは、もっとも「個性」というものについて考えざるをえないジャンルだからだ。
創作マンガ同人誌について考えるたびに、いつもいつも思う。自分の個性や、他人の個性がナマに近い状態で突きつけ、あるいは突きつけられているのだと。

つまらないアニパロ同人誌を見たときのイタさは、「個性のなさ」のイタさかもしれない。もちろんレベル自体の低さもあるが。
だが「つまらない創作同人誌」を見たときのイタさは、「個性そのもの」に感じるイタさだ。

これにはちょっと耐えられない人もいるんじゃないかと思う。

「オタクアイテム」の中に、アニメ・特撮の評論やパロディ同人誌などは入っても、「創作マンガ同人誌」が入りそうで入らなかったりするのは、そこにゴロリと「個性(他人にとってどうでもいい場合が多い)」が転がっているからではないのか。
「複製文化」としてとりあえずは十把一絡げにすることができるオタク文化(もっとちゃんと言えば「個性の発揮の仕方」が従来の文化と違うんではないかと思う、そこに個人のなにがしかがゼロなわけでは決してないとは思うことは強調)、そこに入りそうで入らない、「創作マンガ同人誌」はやはりあらゆる意味において鬼ッ子である。

さらに「売れない創作マンガ同人誌」となると存在意義がますますあやしくなる。

「大衆に支持されている作品を土台としている(パロディ)」、「商業誌に掲載されるほど一定レベルをクリヤしている」等の大義名分がまったくない。
そこにはナマで、その作者の「個性」がアピールされている(もちろんそれは「私小説」的なマンガにとどまらない、エンターテインメント作品だって同じことである)。

だから私の考える「創作マンガ同人誌」は、広義のサブカルチャーにとって鬼ッ子であり、それは「個性尊重主義」をある程度認めざるを得ない立場に立たざるをえないからだ、と思っている。ああ、なんたるアポリア(苦笑)。
だから私の立場から結論を言えば、「個性尊重主義」ってのは「酒癖は悪いがときどき小遣いをくれる近所のオヤジ」のようなカタチで、あやしながらつきあっていかざるをえないシロモノなのだ。

そりゃ「ガーディアン・エンジェルズ」みたいのが一掃してくれたらさぞかしスッキリはするかもしれないが、私自身の居心地も悪くなってしまうだろう。

そして「創作マンガ同人誌」は早急に論理武装の必要がある。
「いい作品を描くことでアピールする」という意見や、「同人誌でもオリジナル・エロはじゅうぶん需要があるのだから何もリクツをこねる必要はない、創作マンガ同人誌はすでにその存在意義を認められているとは言えまいか」という意見も確かにあるだろう。

だが私が言っているのは私も含めた「取るに足りない、箸にも棒にもかからない作品」の存在意義である。

もっとも素朴な初期衝動としての「創作」が「果たして才能のないものがやっていいことかどうか」は、イヤ〜な話だが、きちんと見つめておかねばなるまい。

10月25日(月)

 病院へ行くために、7時に家を出る。
 行きにキオスクで「ヤンマガ」を買い、西調布のコンビニで森秀樹の戦国マンガの新連載(「海鶴」)の載っている「ビッグコミック」を買った。
 向こうに8時頃ついてから、1時間半……2時間近く待たされた。
 しかし、ひさしぶりに買った「ビッグコミック」が思いのほか面白いのには驚かされた。こういうのは本当に「うかつ」だ。

 診療が終わってからまた30分から1時間近く待たされた。
 受付のおねーちゃんの行動を観察していると、午前中が特別忙しいのか何なのか、まったく受付業務をせずカルテのようなものを30分以上も探し回っていた。それを見ているとどんどんイライラしてくる。
 「順番、まだですか?」と催促し、ようやく金を払いさらに薬をもらって病院を出た。

 金もないのにどうしても古本屋に行きたくなり、調布の先の分倍河原駅で降り、そこの「BOOK SUPERいとう」へ行く。
 何冊か個人的な掘り出し物を買うことができた。

 その後、牛丼が食いたくなったが近所に牛丼屋が存在しない。
 回転寿司屋に入ったら、昼を過ぎていたせいか客が自分しかいない。
 寿司もいろいろなものがじゅうぶん回っていたので注文する必要もなく、黙々と食べていたのだが寿司職人さんはヒマそうで、「何か注文があったら行ってください」などと言ってきたがとくに注文などない。
 かえって気まずいので早々にそこを出た。

 帰宅後、「ぶっとびマンガ大作戦」の原稿を書く。
 合間あいまに1年以上前に借りたセガサターンのゲーム「グランディア」をやりながらの作業だった。
 書いている最中も、吉田等の「ぶっとびマンガ大作戦」に対する関心のなさが頭をよぎる。
 だれに頼まれている作業でもなし、書いているうちに、自分は

「酔っぱらって、周囲はどうでもイイと思っているのにいい塩梅にタクばなしをしているオヤジ」

 なのではないかというような、イヤ〜な気分になってくる。でもやめないけどネ。

10月24日(日)

「征服少年カトリ」の録画に失敗。「TVブロス」を見てタイマーをセットするんじゃなかった。
新聞を参考にすべきだった。
ちなみに同作は「バカはサイレンで泣く」の椎名基樹が構成をやっている。
おまけに「アルテミ」も半分しか見れなかった。でもキャバクラ嬢のゲーム大会だったから別にいいや。

録画しておいた「サイコメトラー映児2」の前後編を見る。
前回のシリーズとは直接の関連性のない、主人公格3人以外はすべて変えてのリニューアル版。

前回高校生だった彼らは数年を経て年を食っているため、主人公・映児はボロい貸しスタジオの住み込み管理人、もう一人はコンビニのバイト、残りの一人はよく見ていなかったけど学生か。ボンクラ度はアップしている。
冒頭、パチンコ屋の新装開店に急ぐ映児を女刑事(工藤静香)がジャマするシーンがテンポがよく、引き込まれる。
「隠れ家」的な映児の自宅(つまり貸しスタジオ)、刑事部屋もちょっとないような独特な感じ。キャスティングも、工藤静香の上司に加藤茶、部下に宇梶剛士(「ウルトラマンガイア」の上司)、レギュラーかは不明だが屋台のラーメン屋に藤原喜明となんだか楽しい。後藤理沙は動いている方がずっとカワイイことを再認識したし、死体役に現役ミニスカポリスの朝倉めぐみが出ているのもチェック。

さらにNHKのSF道徳ドラマ「虹色定期便」で小悪党をやっていたヒト、コンビニのちょっとアブない店長に板尾創路と、キャスティングだけでも楽しい作品だった。

サイコものとしては「こんなものかな」なんだけど、真犯人を追うのが骨子というよりは、街で抗争を繰り広げるチーマーや殺される女の子の描き方などがウマく、展開にもテンポがあってイカす。
V6の面々はたぶん「傷だらけの天使」や「探偵物語」を参考にしていると思うが、それでイイと思う。やさぐれた若者の感じがよく出ていた。

10月23日(土)

吉田等と「楽しい午後の過ごし方」の電話で打ち合わせ。
1カ月ほど前は「REMIX」の新しいのをつくりたい、という吉田等側の提案でネタを練ったりしていたのだが、彼は体調を崩したりしたそうで、けっきょく今回は吉田等の個人誌ということになりそう。

なぜ個人誌かというと、私の方で年4回発行がキツいので年3回くらいにしてほしいと以前提案したのだが、逆に今回「REMIX」として増ページを要求されてしまった。
わたくし事だが「たの午後17号」の自分担当部分の原稿にはかなり不満があり、これ以上ギリギリの状態でやるのなら発行点数を減らすことを提案したのだった。

この「自分担当部分の原稿の不満」というのは、ひとえに私が「いったい何がおもしろくて何がつまらないのかの基準がわからなくなった」ということが大きい。

だが吉田等は「毎号出したい」のが希望だということが、今回確認できた。
そこでよくよく考えれば、吉田等の「毎号出したい」という気持ちに私が毎号つきあわなければならないというコトでもないので、だったら個人誌を出したら、ということになった。

私の方では「ぶっとびマンガ大作戦」のVol.3をつくろうと、ぼちぼち資料を揃えているところ。

10月22日(金)

「チャボの鶏小屋をつくれ」と言われたので組み立てる。
ところが、このテのもの(本棚、服をかけるラックなどを含む)は、取扱い説明書が異常なまでに不親切であることは有名だ。
完成した状態を理解するのに2時間かかってしまった。

だいたい、完成した状態の写真のモノと、部品自体が違っているし、部品の「Aパートをどこそこに差し込め」って書いてあってもどれがAパートでどれがBパートか書いていなかったりと、ひたすらに不親切なのであった。
さらに、かなり巨大で何の説明もない部品もあった。

これらは我々を試しているのであろうか。スンナリ組み立てられたものだけを集めてプレゼントをくれるとか。ボクは「どこへでも行ける魔法のボールペンのキャップ」がいいなぁ沼の女神さまぁ。
……まあそんなにマメなら、これほど不親切ってことはないわけだが。

昨日の録画しておいたミニスカポリスを見る。

しばらく見ていなかったら、新メンバーに永井流奈が入っていたのでビックリ。

水着姿で思いっきり後ろから旧メンバーの女に乳をもまれていたが、もんだのは女とはいえセクハラとしてのシャレにならなさ度にはかなりのものがあり、番組的にも永井流奈のどんよりした顔を察して乳モミはとりあえずヤメた。
あからさまなセクハラは、実写で見るとこれほどヒクものなのか。
そう思ったのであった。

あと、捨てたか残したかわからなくなったマンガがあって、混乱して泣いた。

10月21日(木)

今日は定休日。
もちろん、「ごきげんよう」を激視聴!!!!!

ゲストは「なぜあそこまで必死に画面に映りたがるのか」というダ バンプ吉本(ウルトラマン役の人の娘)多香美、そして森川由加里(ショウミーショウミー、と歌っていた人、帽子集めが趣味だった。野球選手が夢だった←KANのアルバム名)
あ、「KAN」ってのは「愛は勝つ」を歌っていたKANね。野球選手が夢だった。

さて、ダ バンプの「目立たなきゃ!」という意識は強迫観念の域にまで達しており、「さんまのまんま」でゲスト出演したときもさんまにあきれられていた。
きっと、その辺におちていた小枝を携帯電話だと思いこみ、そこから漏れ出てくる声を「ボス」の指令として聴いているんだろう。
それで腕を組んでヒップホップ・ダンスのポーズ。

ここまで書いて、急速に私の中でダ バンプについての興味が薄れていった……。

吉本多香美は、「友達の子供の3歳の誕生日に、レナ隊員のかっこうで来てくれ」と言われて行った、という話。
レナ隊員って当然ながら「ウルトラマンティガ」のレナ隊員。

あれ、なんか吉本多香美についてたくさん書きまくろうと思ったのに、なんだか忘れちゃった。とりあえず

「むかし、『王様のブランチ』のレギュラーだった」

ということを思い出し、橋本愛(現在の「ブランチ」レギュラーであり「ウルトラマンガイア」の隊員役)の根性の曲がり具合などに思いをはせた。

さてさて(あ、以上で惜しまれながら「ごきげんよう」ばなしは終わり)、その夜 深堀骨さんから電話がかかってきて、「ホームページが面白かった」と言ってくれたので嬉しかった。
「どこが面白いんですか?」と聞いたら、「日記」とのこと。
「日記」について感想をくれる人は意外に多く、いつも何書いていいかわからない「心のごみすてば状態」になっているこの地域がなぜ……と考え込むことになった。

自分でどうしても書いていることが面白いと思えず(というか、面白い、つまらないの基準がわからない)ので試行錯誤しているのだが、でもやっぱりわからない。
そりゃ好き勝手なこと書けばいくらでも書けるよ。
うなぎとハンバーグが好きです、とか。
「小さな巨人ミクロマン」とか。
「大きな巨人ミクロマン」とかね。「大きな巨人ミクロマン」ってのはないけど。 でもそれじゃだめだろ。自分として。

……他の後輩にも「新田さんのねらっているところは、つまらない(大意)」、って言われたんだけど、それじゃあ「ねらわない」って心がけると、それはけっきょく「ねらわない」ということによる効果を「ねらっている」ということになるわけだ。それでは究極奥義は得られないと思うんだよね。

とりあえず、だれがなんといおうとマンガの感想は続けるね。この「マンガの感想」(とくに「つれづれ」の方)の無用性には我ながら舌を巻くが。だって新刊の感想なんてほとんどないもんね。「魔術っ子!! 海堂くん」の感想なんて1年前ってコトで間が悪すぎるっての。
でも、やる。やるったらやる〜!!!!!

あ、それと、
・21世紀のトレンドは「中途半端」「ひがみ根性」である
・「H計画の詳細についてどのようにアピールしたらよいのか?」について考える
エンクミの今後について考える(個人的に、お色気担当希望)
※現在遠藤久美子が愛人役とかやったら、逆にやらしい感じがしてよいと思うのだが。
……ということを今後主張していきたい。

さらに、電話で聞いた話では「酒井美紀は平気で蜘蛛を食う」ということなので、酒井美紀に「蜘蛛食いウーマン」というドラマに出てもらう。敵役は発泡スチロールでつくった「発泡スチロール人形」。
中に入って操縦しているのは、それよりひとまわり小さい発泡スチロール人形だったという衝撃的なオチを、なんかATG映画風の映像で取る。

10月20日(水)

「つれづれなるマンガ感想文」に「きまぐれ★オレンジロード 特別版」の感想文なぞ書いていたら、なんだって? ソレが掲載された「週刊プレイボーイ」のインタビュー。これがモトで、当の西村政務次官が辞任しちゃったんだって?
ニュースで「強姦、強姦」と言っていたというのでおだやかじゃないな、と思っていたが、TPO的には相手は大川総裁でしょ。いわば言いったくれなんだよね。おふざけ。
「へええ、こういうおふざけでも辞任させられるんだぁ……」と思った次第。
政治家的には悪ふざけだったのかね。いろいろ大変スね。

しかし、「週刊プレイボーイ」買ったけど、この部分読みもしなかった。「きまオレ」、宮下あきらの「天より高く」「キン肉マンII世」読んでパタン、と本閉じて寝たよ。
そしたら寝ている間に大事件になっていたわけね。世の中いろいろ。

「きまぐれ★オレンジロード」で思い出したが、同作は「うわあ、恥ずかしい、恥ずかしい」とか言いながら読むのが正しい読み方だと思っていたら、昔パソコン通信のニフティサーヴで「きまぐれ★オレンジロード特設会議室」が開かれたとき、みんなけっこうマジだったのでヒイたことを思い出した。

なんかマジなんだよ雰囲気的に。

でも、最終回のあの男にとっての都合の良さは、ちょっとタイヘンなことになっているんじゃないかと思うんスけど。
あと「新」とか「II」とかあったかもしれないけど、ボクは知りません。

10月18日(月)

急速に寒くなってきた。近年、東京では秋が短い。
今年も短そうだ。

夕方、何か宇宙全体に異を唱えているような勢いで泣き叫んでいるガキがいたので、窓を開けて見てみたら近所の小児科からそのガキが母親と一緒に出てきた。

なんぞ不満でもあったのか知らんが、その泣き声といったらもう半径100メートルには届こうかという勢いだった。
これをまたたしなめるでもなく、若い母親が完全無視

子供が泣くのは日常茶飯事なので、メンドクサクなっているのはわかるが、近所迷惑なんだよ。ホントにすげーうるせえの。
ここで路上で子供を置き去りにでもしようものなら、よっぽど「てめえの子供だろ! 黙らせろ!!」と叫ぼうと思ったが、角を曲がっていったのでタイミングを逸した。
そしたら角を曲がったところでまだガキが泣き叫んでいる。

こういう「路上で泣き叫ぶ子供を親が完全無視」って光景はたま〜にあるんだけど、
そういう教育方針があるのかどうかは知らないが、いや、そんなものがあろうがなかろうが、
「とにかく黙らせろ!!」
今やそうした母親たちの多くは、私より年下になった。それで察しがつくようになったが、こーいうのは母親の方がガキである。公衆道徳を身につけろよ。

幸せ家族なんだろ? え? だったらそれなりのことしてもらわなきゃあ。←また嫉妬心が……(笑)。

どうしても入れないHPがあったのでおかしいと思っていたら、「~」と「^」をずっと間違えて打ち込んでいた。
仕事でも「8」を「3」と見間違えるし、視力おちてんのかなー……。

10月17日(日)

まったく時期はずれの発言で申し訳ないが、ファーストガンダムの第24話 「追撃! トリプル・ドム」で、アムロが、マチルダさんを過労で寝込んでしまったブライトのところへ連れていくシーン。
ここで、看病に来ていたミライの足の色が肌色、つまりナマ足状態になってい る(笑)(もしかして有名な話?

ホワイトベースで「軍服にナマ足」という妙なカッコをしているのはフラウ・ ボゥだけのはずだが(ミライさんのは単なる色の塗り間違いでしょうが)、私はこの段階で

「ブライトとミライはブライトの自室でヤっていた」

説を唱えたい。

この数話前から、「指揮官代行のはずなのにわざわざブライトの看病に行く」 ミライを見てアムロが「ああ、こりゃ気があるな」とピンと来る描写がマジで あるだけに、笑ってしまうのであった。

他にもこの24話ではマチルダさんが死ぬシーンや、「黒い三連星」の「ジェ ットストリーム・アタック」が敗られるシーンが、案外淡泊だったのに驚いた りした。
あんだけ印象に残っていたのにね。

10月16日(土)

「アルテミッシュNIGHT」において、以前書いた「レースクイーンインストラクター」(悪女ヅラ)がVシネマで脱いでいることを知る。
またアルテミで教養を身につけてしまったぜ。

最近、ニフティのトラブルが数年前と比べて格段に多くなった。パソコン音痴の私にはその理由はわからないが……。
定期メンテナンスが時間どおりに終わらないなんて毎回だもんな。

深夜、家の前に止まった車がずっとエンジンの音をさせているので憎しみを感じる。
それと、毎朝、演歌のようなものを唸りながら自転車で通り過ぎる中年男。最初は微笑ましいと思っていたが、だんだん憎しみに変わっていった。うるさいから。ピアノ殺人的言動。

10月15日(金)

朝っぱらから家族とつまらないことで口論になり、気分最悪。

録画しておいた「アンドロメディア」を見る。
とくにSPEEDファンというわけではないのだが、「ヴァーチャル美少女モノ」だというから。

死んでしまった島袋寛子(役名:マイ)の記憶や個性などをコピーしてプログラムとして
パソコン内に移す、というアイディアはけっこうSF小説とかにあるけどそれはよろし。
その「ヴァーチャル寛子(役名:アイ)」のプログラムが欲しくて、悪の組織が追ってくる。

マズいのは「プログラム化した寛子」が電脳空間上では自由、という設定でありながら、
彼女のボーイフレンドが「寛子の入ったパソコン」を持って逃げ回るということ。
結局、ヤクザっぽい男たちとの「パソコンの争奪戦」というなんだかマヌケな話になってしまった。

さらに「肉体のないヴァーチャルな存在との恋愛」が、そのいかなる意味においても活かしきれていない。
これでは普通の女の子との恋愛とそう変わらない。

それとSPEEDの他のメンバーは完全に添え物で、仁絵に至っては見せ場がひとつもない。

ラスト、「海に沈んでいくパソコン」がプログラム寛子の消滅を象徴しているんだけれど、これも少なくともネット内のヴァーチャル少女の消滅の仕方にしてはあまりにダサい。
クライマックスが著しく説明不足なのも困りもの。

その後「スタトレ」のずいぶん前に録画しっぱなしになっていた回「イマジナリィ・フレンド」を見る。
友達がいないために「イザベラ」という架空の親友をつくりあげた少女。だが異星人が「イザベラ」のイメージを借りて実体化し、少女を利用してエンタープライズ内のモロモロを調査しようとする。
「子供の頃にいた架空の友達」が実体化したらどうなるか、という興味深いお話。

録画しておいた「ターンエー ガンダム」も見たが、どうものんびりしすぎているような気がしてしまう。
ちょっとイライラ。

さらに録画しておいた「ハイランダー」も見る。これは何百年も生き続ける不死身の人間「ハイランダー」たちが剣で殺し合い、生き残ったものだけが「宝」を得ることができるという、超歴史チャンバラ。面白かった。

酒の禁断症状が出るが、ガマン……。サンマとつけソバを食べる。

10月14日(木)

定休日。朝、パンにチーズのっけて2枚食い、マンガなどを読む。
あとは昨日取っておいたビデオを見る。「ゲームWave」とか。
アシスタントの川村ひかるは明らかにやりにくそうだ。なんか同情票がオレの中に……。
どうひねってもオタク的アプローチができかね、伊集院ともからみ辛いと思っているに違いない。

昼にカレーを2杯食べる(食い過ぎ)。
昼に吉田等から電話。土曜日同人誌の打ち合わせのはずだったが、ダメになりそうなので今日会おうという。
なんだか昨日からマンガの読み過ぎで頭がパンクしそうになっていたので、だれかと話がしたかった。これ幸いと会う。

新中野駅前「ビルディ」で待ち合わせ。
吉田等は飯を食い、私はレモネードを飲む。
だが彼はちょうど異動の時期を迎えており、会社がゴタゴタしていて同人誌どころではないらしい。
私の方も、気のおけない無駄話に餓えていたのでけっきょく河岸を変えてモスバーガーに移っても、プロレスだのマンガだの小説だのの話のみでうち合わせらしき話はゼロであった。
「増ページ」ということで考えていたが、最悪「減ページ」ということになりそうだ。

10月13日(水)

「暗い日記」と命名したら、何だか気がラクになってきたような気がした。
そう考えたら、突然だが
暗くない話を書こうと思って。

別に深い意味はなかったのだが、夏コミの後のことを書かなかったスね。
夏コミが終わった後、気楽院さんの紹介というかなんというかで、ニフティサーブ「裏モノ会議室」フォーラムのアクティヴの方々や、と学会などの人々の合同打ち上げのようなものに参加させていただきました。

唐沢俊一議長をはじめ、ふだん名前と書き込み、あるいは著書のみで知っていた方々にお会いすることができたのはとても嬉しかったです。
すごい大人数でした。で、私は自分がファンである人とお会いするとキンチョーしてどんなことを話してよいかわからなくなってしまうタチでもあり、唐沢議長がわざわざ挨拶に来てくださったのに恐縮して、挨拶以上のことを話せませんでした。ざんねん。

(以前、「ダッシュ四駆郎」の作者である徳田ザウルス氏とお会いしたときもそうであった)。

それはそれとして、ご挨拶した方々、できなかった方々含め、ふだん文章やネット上の書き込みでしか接することのできない人と同席するということは、テキスト以外の膨大なモロモロを(本当にわずかな時間ではありますが)肌で感じるということであり、「勉強になった」というと変ですが何か感慨深いことがあったことも確かでした。

10月12日(火)

「コミックレヴォリューション」のカタログを買いに新宿書店へ。
実は新宿にこんな店があることを、知りませんでした。
エロ漫中心の書店。
新刊でエロ漫欲しいとき、けっこう奔走してましたよこれまで。
仕方ないとき、池袋の芳林堂まで行ってたもん。
でもここは新刊入りそうですね。
……と思って「メイドロイド雪之丞」を探したんですが見つかりませんでした。
まあ最近マンガ買いすぎなんで、その方がよかったかも。

その後、みね武の「極道記者」のDX版2巻を探しにまんだらけへ。ワゴンセールで200円のを首尾よくゲットできたが、なんだかんだで2500円も買い物してしまう。
もう家にもマンガの置き場所がほとんどねーし、だいいち金もない。
ここらで2、3カ月、スッパリ本を買うのをやめないと、破産してしまう。
棺桶まで持っていけるわけじゃないしなあ。

「パンチラ目的で女の子が拳法をやるマンガ」というのがジャンプ系には妙に多いのはいったいどういうことなのか。考えつつそういうマンガを買い集めていたりする。

眠ったらものすごく気持ち悪い夢を見る。
考えてみると、最近気持ち悪い夢しか見ていない。
伊集院光のラジオで「見た夢を書いて送ってきてくれ」というコーナーがあるが、私の見る夢はいつも気持ち悪すぎて思い出したくもないモノばかりだ。

ここの「長い日記」というネーミングもなんだかイヤになってきた。
長いこと書かなきゃいけないような強迫観念にやられて。
イヤイヤ病。

10月11日(月)

昨日、力学(ちから・まなぶ)と「ヒマつぶしに遊ぼう」などと電話で話していたが、身体の調子が戻らず、午前中寝て過ごす。

今度始まった「ブースカ」の録画をビデオで見る。
トクサツ関係の詳しいことはわからないが、わたし的には
「あわてもんのすけ(漢字表記忘れた)」という刑事役で、
宮川一朗太が出ていたのに大満足。
宮川一朗太関係についても詳しいわけではないが、彼のコメディっぽい演技の「妙な感じ」は数年前の「笑っていいとも」で感じていた。

殿様のかっこうして登場してきたのだが、「一休さん」の殿様を意識していて
「これこれ桔梗屋」などと言っていたがタモリも会場もだれも「桔梗屋」についてのリアクションがなかったりと、スバラシかったから。

夜、「楽しい午後の過ごし方」の打ち合わせもかねて吉田等に電話する。
たまたま共通の知人の話題になり、その人の職業やどこに住んでいるか、などを私が知らないことについてなんか説教めいたことを言われ、ムッとする。

イキナリ初対面の人に
「あなたは姉派ですか? 妹派ですか?」
と聞く人間に説教されるとは思わなかった(笑)ので反撃しておく。

何かの発言に対し「おかしいな」と思うときには、たいてい「平均化」した意見を自分で吐いていることに最近気づく。過激な意見より平凡なバランス感覚、なのだろうかこの私は。まあでもホントに日常普通に生きるならバランス感覚だろう、「私に言われたくない」って人もいるとは思うが。

それととつぜん「料理がまったくつくれない」ことに危機感を抱くが(コンビニ飯万歳派)、いちいち危機感を抱いていたら生きていけないので忘れる(私は運転免許も持ってないし泳げないし、持病を持って薬を常用している。このうえ何をどうしようというのか)。

10月10日(日)

なんだか身体の調子が悪く、ガタガタに。絶望をかいま見る。

力学(ちから・まなぶ)と電話で話していて、いつの間にやら(当然だが)知り合いがトシとっているのでガクゼンとする。
私にとって「希望」なんてものはモラトリアムの言い換えでしかなかった。
あるいは「未定」ってだけのことにすぎなかった。
そんなことを考えていたらダークになってきたので、寝る。

マンガ「細密系」を考える(CGについて)
マンガにおけるCGについての議論も、端緒に入ったばかりだろうと思う。
ただここで切っ先を制しておきたいのは、「パソコンに頼る前に基礎を身につけろ」的な物言いは、ひとまずの正論であるとは認めつつ、いちいち議論のマクラにソレが入るのはうっとうしいことこのうえない。

今まで紙に絵を描いてきた人がパソコンに対してある種の胡散臭さを感じるのは当然で、使うソフトによって技法が限定されてしまったりと問題も多いとは思うが、それにしてもなお、私はそれはヒトの勝手なのでそれはそれでイイじゃないかと思う。
マンガにおけるパソコンの使用法について、あがりそうな批判について以下に私見を述べてみたい。

まず第一に、「紙に描かれたマンガ」に技法が引きずられる、という意見。
これはまだCG黎明期の現在において、むしろ当然のことだと思う。一言申し添えるなら、「紙でできることをパソコンでヤルなら、パソコンでの方がラクでなければならない」と、私が思っているってことか。

第二に、「CGという手段」が、「表現」という目的に先んじることへの懸念。
それも別に悪いことだとは思わない。
どんな人でも、「絵」に興味があってソフトをいじっていくうちに(私はあんまりいじったことないんだけどね……)、できることとできないことがわかっていくだろうし、「パソコンがなかったら絵を描かなかった」人が出現してくるのも当然だろう(「ワープロがなかったら小説を書かなかった」人がいるのと同様)。
それが作品のデキと無関係だったとしても、「そんなに才能のある人間はゴロゴロいるわけではない」ということにすぎない。

これはほとんどフォトショップ程度しかいじったことのないボンクラの言うこととして聞き流してほしいが、「紙媒体に印刷するのなら」、それほど劇的なモノは「現在では」CGでそうはできないと、私は思っている。
現在のマンガにおける最大のメリットは、CGをインターネットなどに「乗せられる」ということだろう。技法に関しては、せいぜいぶっちゃけた話「アニメ的な」表現ができるとか絵の使い回しができる、といった程度のことでしかないと思う。

むしろ、CGの可能性はゲームの方にあるだろう。「シェンムー」のデモみたいのをテレビで見たが、3Dで絵が精密化していくことが、「写実」とイコールではないことがどんどん明らかになりつつあると感じた。立体的で、精密で、それでいて非現実な美少女(なんで美少女に限定するんだ(笑))をこの手にできるのは、そう遠いことではないんじゃないですかね。ゲームにおいては。

10月9日(土)

ネット研究(2)ナニサマ系、かつ名無し系
以前ここに書いた「ネットにおける議論の研究」に(1)と番号をふってしまったが、それほど議論ウォッチャーでもバトルウォッチャーでもない私にはとくに続きを書くネタがない。まあそれに対し別にだれもど〜とも思っていないだろうが、いちおう(1)で終わりじゃあまりにナサケナイので、この項に(2)とつけさせていただく。

インターネットはじめてから、無名のヒトの「ナニサマ」な文章を読むことが多くなった。

文章がすご〜くうまいとか独自の視点が入っていれば言うことないんだけど、
当然ヘタなのも多い。
私の言う「ナニサマ系」とは、「上から見下したような文章でバッサリ決め打ちする。
その際、悪意ムキダシで名指しでの悪口(批判ではなく悪口)も垂れ流しする」文章のこと。

そういう文章で「イヤな感じ」がした場合は、いちもくさんに逃げることにしている。
まあ「○○も終わったね」「○○最低」的な無責任な言い方は、人間だれしも日常的にしているわけだけど、そういうのがネットに乗ってきちゃってる。単なる悪口ならかえって気にならないが、「ナニサマ系」ってのは「系」とつくくらいだからして、新田的には一定レベルをクリヤしている文章だから始末が悪い(繰り返すけど、私が嫌いなのは有効な批判などではない「単なる悪口」ね)。

「大物にかみついて名をあげたい」ってんならそれなりの覚悟をこちらも汲み取るし、
仲間うちでの批判なら気心のしれた者同士の議論が活発になる可能性もあるだろう(馴れ合いの危険性もあるが)。
だが、ほとんど世間的に「権威」でもなんでもない人物をつかまえて、しかも無署名、あるいはオノレの無名性を利用して悪口をダダモレさせるのは程度低いと思いました。

程度低いと思うので、これについてはもう書きません。

10月8日(金)

昨日から今日にかけて、ティアズマガジンの春咲小紅さんの連載企画として「24H耐久マンガ喫茶マラソン」に参加させてもらってきました。

24時間、マンガ喫茶をハシゴしてひたすらマンガを読み続けるというモノ。
詳細については、ここに書くかもしれないし書かないかもしれません。
とりあえずティアズマガジンの小紅さんの記事を楽しみにしましょう。

10月5日(火)

ホムペ批評についての批評
ついに見ちまったよ……。あんまりにも有名なもんだから。
なんかHPを評価して点数付けてるような某サイト(点数付けるのはヤメたらしいけどな)。
「某」なんて書くと「どこですか?」とか「あそこのことですか?」とか、人に会ったときイロイロ言われると思うが、メンドクサイので秘密です(少なくとも「ジャンプ感想に花束を」ではありません。あそこは10月10日までの限定。マンガレビューについて考えさせられるところではあるぞ)。

さて、ちょいとその「某HP」てえのを覗いたんだけど、正直言って少し見ただけで「お腹いっぱい」です。
もう見に行きません。
ホームページはだれでもつくれる(パソコンとHPを維持できる財力さえあれば)。
だからクダラナイもの、見なくてもいいものもたくさんある(ウチがそうだって? エヘヘヘヘヘ)。

一般的に、もっともよく批判されるのが、「家族の紹介だけのページ」
なんか家族の集合写真があって、赤ちゃんの写真がものすごいっぱい貼ってあって、なんじゃのかんじゃの、ってヤツね。
確かに私も、ホームページアドレスが同人誌の巻末やパソ通のカキコに載っていて、覗いてみたらガックシ、ってこともあった。だから真っ先にそゆのを批判したい人の気持ちはわからんではない。

しかしですな、「だれでもつくれる」ってことは、逆に言えば「だれでも世界に情報を発信したいわけじゃない」ってコトでしょ。
どうひねったって「こりゃ家族の知り合いしか見てないな」ってのもあるわけだ。
「家族の知り合い」だったらば、別に「赤ちゃんの写真いっぱい」でもかまわんでしょ。

部長「○○君、キミのホームページ見たよ。
子供さん、大きくなったねぇ」
○○「あ、部長もインターネットなさるんですか。
いやあ参ったなあ」

……ってなコトに利用できれば十分。
私、ハイテクヒッピーというわけでも、インターネットで世界がひとつに、ともぜんぜん思ってないから、それはそれでいいんじゃないの、と思う。

この「超個人的なHP」を少し広げて、「シュミのHP」にした場合を考えてみる。
「どうでもいいことをダラダラ書く日記」とかな。今のコレみたいに(笑)。
でもさ、これでも、意外なことに知り合いにあったときに日記について感想をもらうことがあんだよ。
それだけでも私には充分役に立っている。
話題の接ぎ穂にもなるし。
読みたくないヤツぁ読まなければいいんだし。

だれかがやらなければならないとは思うけど、「ありがちなホームページ」とか「よくあるパターン」とかを指摘するのは、私にはもうA41枚のレポート用紙でいいよ。そんなもの監視してしょっちゅう更新してくれなくてもいい。

同人誌のときがそうだったね。即売会に初めて行って、最初は物珍しいんだけど、読み始めるとパターンがわかってくる。たとえばあるアニメのH本があったとすると、1、2本メインのヒトのHマンガが載ってて、2、3のゲストのマンガやイラストが少し。巻末には「刊行が遅れてごめんなさ〜い」とか手書き対談とか、フリートークとかでしめられてる。
そのフリートークも、「ひえ〜今夜中の○○時です〜間に合ったらみなさんコミケでこれを見るはずですよね〜?」とか妙にせっぱつまってたりする。

「みんな同じな」。そういうことを指摘したくなる時期って、確かにあるわな。
だけど、次に考えるのは、「そうしたコンテンツが安定しているから」、それだけの数があるということでしょ。
同じパターンでも、確実に質の高いものというのはあるし、そういう部分はおうおうにして言語化できないタグイのものが多いんだ。

ホームページの場合も同様で、パターンだけ批判しても始まらない。そりゃ決め打ちの楽しさってあると思うよ、「あるある、そーいうページ」ってね。だけどボクはもう、よっぽどのものじゃないとその「決め打ち」自体がツマラナイんだよ。

根本的なことを言っちゃうと、私個人の考えでは「ホームページは膨大な全体像から見たらつまらなくて当たり前」。その「つまらなさ」の源泉はもちろん、……あくまで「面白さ」を基準にすればだよ……私も含めた「大半の人間の哀しき凡庸さ」から来るんだよ。
だけど「哀しいことを哀しい」と言ってたってはじまらないじゃん。いいよな、「哀しいことを哀しい」と指摘して高みから見下ろしているような才能あるやつはよー。

ところで、もうひとつのホームページに対する批判として「サムイ」、「ウケようとしてすべっている」っていうのがある。
ウチもそうかもしれんが(笑)、この「サムイ」という批判ほどむずかしいものはないよ。
だって「何が笑えて、何が笑えないか」という議論はものすごくむずかしいものになっちゃうから。

それと「笑わそうとしてつまらないサイトは、みんなノリが同じだ」っていう批判もあったけど、それならば「そのノリの源泉は何なのか」を指摘する方がよほど意地悪でためになると思うけどどうかねぇ。
ここで私がはっきり書いちゃうと、「バカはサイレンで泣く」、「バカドリル」系のものが多いと思うね。それを滑らしたようなヤツ。
ではなぜ「バカサイ関連が多いのか」ということにでも考察がつながれば面白いんだけど、言いっぱなしじゃなあ。だからインターネットってタダなのか。タダほど高いものはねーか。

とにかく、私はホームページにかぎらず「笑い」に関する議論からはすべて逃げることにしている。
まず感覚的な言い合いに終始してしまうことと、同人誌レベルで「ギャグについて」なんて書いているところはほとんどが凡庸な意見しかない、という言論レベルの低さ(まあ私もどう書いていいかわからないから「逃げる」んだけどね)が大きな理由ではあるけれども、私は「私自身が、実はどんなものでも笑えるんじゃないか」と自分で思ったりするから(笑)。

むかしの「ジャンプ放送局」「映画館ではたいして面白くないギャグでも必要以上に笑い声が大きくなるのはなぜだろう?」ってのがあった。確かにそうだ。だがそれを単なる「お祭り的高揚感」とか、コジャレ系、あるいはマニア系の映画での「フフン、オレこれ知ってんだ」的な、だれにともつかない自慢系笑い、と片づけてしまっては、もうそれでこの話は終わり。
でもそれだけじゃないんじゃないの?
客に「よし、せっかく1800円払ったんだから笑ってやるぞ」
って思ってる「気合い」みたいな部分があるんじゃねえかなあ。
「笑ってやるぞ」っていう。
マイナーなお笑いのライブとかでもそうだけど。

ってことはだ、人間、「笑おうと思えばある程度笑える」ってコトだ。
これは「一杯のかけそば」などの「泣かせモノ」にも言えることだ。
「よし、泣くぞ」ってなって、泣いている人って多いんじゃないの。
エロものでもそうだよな。
ムショ暮らしで、独房に何日も入ってて、そこにちっとも好みでない女の子のAVがあっても、ぜったい見て興奮すると思うよ。だってそれしかないんだから。

……ってなわけで、よほどシュミに合わないかぎり、笑おうと思えば笑えるんだよなオレ。「笑おう」と思えばなんとなく好きになってくる、って場合もあるわけで、たとえばデフォルトでヤリ玉にあがる(一方では支持者ももちろんいる)人々の中で「中山ヒデ」、「田中義剛」、「グレートチキンパワーズ」にもサムシングがあるんじゃねーかと、機嫌のいいときは考えたりします。
(だが私の機嫌が悪いときは、テレビに向かって
「じゃがりこ」を投げつける
どうにもなんねーのもあるけどな。「AERA一行コピー」とかな。あれだけはどうにもならん(含む:書いているヤツの社会的地位に対する嫉妬心

そのような生理的なものに対し、うかつに「論」は展開できねえなあ。バッサリ「これつまらない」って言える人って、勇気あると思うよイヤマジで。

あ、それと「コジャレ系」の「私を見てください系」みたいなので、凡庸なヤツ?
そんなもの同人誌なら掃いて捨てるほどあるし、それは「自我の肥大化」ってコトですべて片づけられるじゃん。「自我が肥大化している」のはそれ見て笑ってる我々も同じ穴のムジナなんだよ。で、そのムジナの中から、能力のあるモノだけが笑われずに済んでいるだけなんだよ。
それをイタイのなんの言っている時代は、オレの中でもう終わった(
超絶的にイタイものに関しては、逆にぜひ見てみたいが)。あ、まあイタイものはイタイんで、何らかのカタチでそれにつきあわされたりすると迷惑は迷惑だけどね。HPぐらいいいじゃん。立ち上げさせてやんなよ。

マンガについてはすっかりやる気なし。やる気なしっきゃ騎士(ナイト)。
うっわあ、これで確実にウチも「笑わそうと思って滑ってるHP」の仲間入りじゃん。
前からそうだって? キツいなあおたく。あっ、これでボクもオタクの仲間入りだ。

10月3日(日)

なんだか真夏より自室に蚊が多い。毎晩刺されては、かゆみからか悪夢を見る。
これで伝染病で死んだりしたら、一生呪ってやる(何を呪えばいいのか?)

マンガ「世紀末救世主」に関しては、「まったく新しいキャラクターを登場させて、今までの展開をチャラにするのはどうか」と考えて自分の中だけで一瞬盛り上がるが、冷静に考えればよけい話をややこしくするだけだろう。考え直すことにする。

以下はテレビ関連の感想:

暴走族の少年たちを追うドキュメンタリー
ノーヘルで車に衝突、路上に放り出され重傷を負った少年、彼の入院費等々で貧困にあえぐ家族などを見て「ああ、貧困はやだなあ。本当に貧乏はダメだ」と思い、一瞬だけマジメに働こうと思った。
郷力也の「ホステスNo.1」を読んでもそう思う。反省。

再放送「開運!! なんでも鑑定団」:
非常に美人の「飛行機コレクター」が出てきたが、仕込みのような気がしてしょうがない……。「鑑定団」に出られるレベルはおろか、私の周囲で「コレクター」というほどモノを集めている女性というのはあまりいない。もちろん私の周囲でいないからどうだということもないが。
いつか出てきた「風コレクター」(「風」に関するモノを集めている)といい、今週「どう見てもニセモノ」の「斜光器土偶」を持ってきた「日本にピラミッドがある」と信じている男性といい、再放送の鑑定団は最近ネタが苦しい。
それにしても「古代史調査で150万使った」男が、なぜ土産物の土偶を本物だと信じるのか……。
これはちょっと並大抵の恥ずかしさじゃないぞ。

救急戦隊ゴーゴーV:
後半に入り、新ロボ、新悪役キャラが出てきて、敵内部での反目が起こってくるという年中行事的パターンに突入。それにしても、「ゴーゴーV」は初回から数回があまりにもカッコよかったために、ルーティンばなしに戻ってからの普通っぷりが目立った。正直言って脚本家の宮下隼一ってあまりうまくないと思うんスけど……。

DAIBAクシンほかチェキッ娘関連」:
10月の改変でテレビはおおかた終わったのかな? CD売り上げで上位ランキングを見ると、生粋のアイドルがまったく入って来ていないので、ぜひがんばってほしいと思います。番組的にはほとんど100パーセントがチェキッ娘のPRに終始していて、「夕やけニャンニャン」のように秋元康関係であったり「とんねるず」であったりと言った、それ以外の「色」がまったく見えなかったのがいまさんだったが、いずれにしろ「月〜金帯のバラエティ」が何の根拠もなくテレビには絶対必要、と考えている新田としては「DAIBAッテキ!!」もその後金曜のみになってからも見てました。さすがに「チェーン」までは追いかけていなかったけどね。

あとチェキッ娘の出ている「スリーエフ」の中華まんのCMは、チャイナドレスがなかなかカワイイよ。

おはスタ:
アニメだの何だのが入り込んで、「スーパーライブ」なるスタジオのシーンが少なくなってない? それからあまり見なくなった。もう「ムチッ子」はいらない。

10月2日(土)

実は、ってほどのモンでもないが、私はオリンピックは風車という創作マンガ同人誌のサークルに所属している。ひさびさに新作を描こうと思ったのだが、ナマイキにも続き物にしているため、過去の自分の描いた作品を引っぱり出さなければならなかった。
だがぜんぜん出てこない。探し物だけで疲れてしまった。

描きはじめて5年近く経ってるし、もうそろそろ完結させたい作品でもある。
そして古いフロッピーを見てみたら、なんと最終回の直前までネームができていた。
しかも、新機軸を打ち出そうとちょいとシリアス路線にしたりして、自分なりに考えているじゃないの(笑)。
こんなこと考えてたのか、おれ(笑)。
しかし、これをこのままマンガにすると、「世紀末救世主」というタイトルなのに新世紀まで食い込んでしまいそうだ。また新世紀を迎えてまで描き続ける情熱が自分にあるかわからない。

過去の自分の絵を見ていると、ヘタクソで死にたくなる。ましてやその続きを描く気が失せる。
……締め切りは11月6日なのだが、もう少しどうにか考えるか。

10月1日(金)

テレビ東京「64マリオスタジアム」のゲストが「おはスタ」の(っていうか声優の)山寺宏一
司会の渡辺徹と芸風が近いので、お互い中途半端なボケ合いをして、新田的には大満足の回。

アニメ「ポケットモンスター」にはひさびさにタケシ登場。
妙にマメなところ、「ふられた」ことについての繰り返しギャグなど、作品のメリハリが蘇っている!
トゲピーのお守り役になり下がりすっかり動きがなくなってしまったカスミ(EDの歌はカワイイが)、キャラクターとしてはいまいち(いや、「いまさん」か)弱いケンジ、さらにサトシの冒険旅行にもロケット団の悪役ぶりにも必然性が感じられなくなってきたことなど、新田的には盛り下がっていた昨今。やはりアニメ「ポケモン」を盛り上げるのはタケシしかいまい。

斉木しげるがテレビに出ていて、「SF小説しか読まない」ことが発覚。……っていうか有名な話なのだろうか。
「現在読んでいるヤツ」も、作家の名前も私が知らない本だった。
「いちばん好きな作品」はオースン・スコット・カード「エンダーのゲーム」「死者の代弁者」だそうで、やばい、私「死者……」はまだ読んでいないよ。
もちろん司会も会場の客もカードの名前を知るはずもなくシーンとしてしまった。
「映画になったようなもので好きなのはないんですか?」
という質問にも「砂の惑星」と答え、さらに客はシーンとなってしまった。
やっぱしSF小説ってマイナーなもんなのかなあ。

それと斉木しげるがパチンコファンなのは知っていたが、「不思議少女ナイルなトトメス」で父親役の斉木しげるがナイルな悪魔の手によって「パチンコ王子」に変身してしまう回、アレは彼の趣味を反映してのことなのか。
まあ「休日のお父さん>パチンコ」というアイディアはそんなに無理なく出るとは思うが、「マシンマン」でプロフェッサーKがスペインに行ってしまった(K役の天本英夫は本当にスペインへ行った)ことだけを根拠に、「彼の趣味を反映」と思い込むことにする。



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