つれづれなるマンガ感想文6月前半

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一気に下まで行きたい



・「全日本妹選手権!!」(2)感想その3
【コラム】・追悼、ナンシー関
・「ウォーB組」マガジン・ウォー!7月号増刊(2002、マガジンマガジン)
【コラム】・「オタ文化自体が枯渇しつつある」のか?
・「フランス」(上) タイム涼介(1995、2002、零)
・「全日本妹選手権!!」(2)感想その2
・「それいけ!! ぼくらの団長ちゃん」(1) 小野寺浩二(2002、少年画報社)
【映画】・「少林サッカー」 監督・脚本:チャウ・シンチー(周星馳)(2001、香港)
・「碁娘伝」 諸星大二郎(2001、潮出版社)
・「麻雀探偵ジュン」 岩田文夫、上田しんご(2002、ノアール出版)
・「バサラ 〜破天の男〜」(3)(完結) さいふうめい、ミナミ新平(2002、講談社)






・「全日本妹選手権!!」(2)感想その3

まさかこの作品に、3回も感想を書くことになるとは……(笑)。
まず、ちょっと気になっていたんだけどどこにあるんだかわからなかった岡田斗司夫氏のコメントは『全日本妹選手権!!』をマジメに評価してみる。その2放課後妄想クラヴ)にあります。ここの「妹選手権」に対するコラムも、非常に興味深いものです。
で、全日本妹選手権に関してもにょもにょ語るリンク集J-oの日記跡地)というのができてました。気づきませんでした。コレもなかなか勉強になります。
私がこのHP内に書いた感想としては、感想その1感想その2があります。

同じことの繰り返しになるかもしれませんが、私は同人誌をやっている女性が「本作の同人女性が間違って描かれている」と言う権利は、あると思います。ただ、要はそこから先ですかね。「間違って描かれているから評価しない」立場か、「間違って描かれていても評価する」立場か。
これまた同じことの繰り返しになりますが、あえてクレームのつきやすい「同人女」をテーマにした段階で、私はなんかズレているという気がします。いわゆる「あるあるネタ」として描かれているのに、実は「あるあるネタ」じゃない(と、同人誌をやっている女性の意見を聞いてわかる)。その辺に、どうにも座りの悪いものを感じています。
作者自身の「おまえはどうなのよ」という着地点が、ぜんぜんないんですよね。「リンク集」をざっと読んで、その中に「着地点のなさ」を「俯瞰しているから」ととらえて評価する意見があったということは、すごく違った視点を提示された感じがしました。たぶん、同じ要素を評価するかしないかで私と意見が分かれているのだと思います。

そして、ここではじめて当HPの名前が「ふぬけ共和国」である理由が明らかになるのですが(なんじゃそりゃ!?)、私は「イタいこと」に対する耐性がぜんぜんできてないため、「妹選手権!!」は楽しめないのです。なんかもう、お尻のあたりがモゾモゾして、終電気にしながら酒飲んでるような、6、7人のグループの中でオタク話をしていて、一人だけものすごく辛辣なノンケの人が混ざっており、それに気づいているのは私だけ、というような……。
とりあえず、同作の同人女にリアリティがあるかないかは置いておいて、マンガとして楽しめるかというと「ちょっと……」という感じです。これはもう最初の感覚なのでどうしようもない。私自身余裕がないんだと思いますが、ウチはそういう方針でやってるので(笑)、どうしようもありません。

こんなに念押しして、もし作者に会う機会があったらどうしよう……(笑)。でもほら、リレーマンガは面白いから。もっとああいうの描いてください。

ここまでは「リンク集」をたまたま見つけたから書いた話。以下どんどん関係なくなります(関係ないんだ……)。単なる「こういうのもあるよ」的な話。

「悪意を持って書かれたオタク女子」で印象的な作品が、2つあります。

・「世紀末同人誌伝説」 同人誌糾弾委員会、作:水谷潤、画:藤宮幸弘(1988、大陸書房)

出版社の著作権管理部に所属する主人公が、コミケで「大手サークル」を摘発して回るという話。ちょうどキャプつば・聖矢ブームのまっただなかで、女オタクをここまであしざまに描いた作品を私は他に知らない。でも、男オタクもボロカスに描かれている。話が「あるあるネタ」に入り込まないだけに、カリカチュアライズも極端で、まあ書き割り的というか類型的なキャラクターを描くことでギャグにしている。
作者自身がコミケでセーラームーンの同人誌を売ったりしているんで、そのオタクに対する愛憎相半ばする心情は、現在の状況よりむしろわかりやすい。むかしはオタクがオタクを自虐的にデフォルメして描くと、たいていこういうのでしたよ。……でも、女オタクをボロカスに描いていることには変わりない。
私は個人的にこの作品をわりと高く評価していて、その理由はあまりにもメチャクチャだから。細部がどうのという作品ではない。藤宮幸弘は他にも「アニメーション入門講座」という、ちっともアニメーション入門でない、安い賃金で激務に耐えるアニメーターをボロカスに描いたマンガも描いていて、まあ「そういう人」なんですよね(笑)。
これは、ボロカスに描いていてもどこか納得できる部分が、私はある。

・「リバーズエッジ」 岡崎京子(1994、宝島社)
なんか夢も希望もない、川べりの街に住む高校生を描いたマンガ(実はよく覚えてない)。
いい機会なんで初めて書きますが、実は名作のほまれ高い本作にぜんぜんピンと来ませんでした。だって「死体を見つける」って発端もありきたりだし、「死」のイメージもなんかこう……ピンと来なかった。
まあたぶん、シモキタで生まれて育った岡崎京子って、同じクラスになっても口も聞いてくれないヒトだと思うし、漫研にも入らないと思うし、私と接点何にもないんですな。「ウゴウゴルーガ」に本人がチラッと出たことだけは覚えてます。

で、主人公か主人公格の女の子の姉が、やおい同人誌をつくっている、という設定なんですよね。それだけは覚えている。主人公の女の子がわりとセックスにもあけすけで、男の子と恋愛を楽しんだりしている(ここら辺記憶だけで書いてる)のに対し、お姉さんはひたすらにブサイクで暗い。最後の方では「暗いホモマンガばっかり描いてんじゃねえよ!!」とか妹に罵倒される。
私、やおいのことはよくわからんのですが、これはぜったいおかしいと思った。いや、根拠はないがおかしいと思う。

そりゃさあ、オタクって言われている人の中には男女問わず暗いヒトはいるよ。ホントにそういう「暗い同人女」ってのもいるのかもしれんけど、本作においては明らかに「オタク=暗い」という固定イメージのもとにキャラ造形してる。取材してそういう人がいたから描いてるってわけじゃないと思う。
これって94年の時点で、かなり古いオタク像ですよ。「世紀末同人誌伝説」から6年も経ってるしね。「リバーズエッジ」をほめるヒトは本当に多いんだけど、作品評価とは別に、94年の段階でわざわざ「暗い姉」を造形する際に「ホモマンガ描いてる」って描写されたってことは、指摘されてもいいと思うんですわ。
私、岡崎京子ってもっとわが道を行ってて、「そういうの」に目くじら立てないヒトだと思ってたけど、ああ、わりと単純なのねと思った。当時。

「オタク一般」の描写ということに関しては、現在マンガにおいてはわりと陰影が出てきていると思う。名前忘れちゃったけど「ななか6/17」で、6歳のななかと「ドミ子」のことで話が合っちゃうオタクくんとか。10年前、20年前だったらもっともっと嘲笑の対象として描かれていたと思う。ちなみに「浦安鉄筋家族」に出てくるオタクのあんちゃんは、もっとステロタイプなやつ。同じ雑誌でも、連載開始時期でオタク像に差がある。

が、「男オタク」、「女オタク」って分けた場合、まだその差はお互いよくわかんねえというか、同じ漫研とかアニ研とかでわかっているつもりでもわかってないところが多いというか、ギャグにするにはまだはっきりした差は読者に認知されていないと思う。
それこそ、実際のオタクカップルの一方が描く日常的4コマとか、前述の「世紀末同人誌伝説」くらい少年マンガ方向で極端化するしか、まだないのではないか。
「ギャグ」ってことだけで言えば、別にオタクうんぬん関係ないんですよ私は。ただやっぱり「妹選手権」はどこかに座りの悪いものを感じてしまって。3人の「妹」のうち、かみさんの妹(つまり義理の妹)が入ってるのって明らかに「妹萌え」とも違うわけでしょ。むしろフランス書院的ですよね。かわいいキャラが「実兄を慕ってる」ってところに悪意があるのでは、という意見も読んだけど、私はそれはギャグにするための方便だと思う。近親相姦ネタって、タブーがないとドラマになんないし。

だからこの作者、オタク趣味はないのかなあと思ったら、2巻では語る語る。って感じだから、なんか「ものすごい変わり者なんじゃないか」とか思うんだけど。とか書いちゃっていいのかな……。「エイケン」の松山せいじとは違ったベクトルでの「変わり者」な感じがするんだよねえ。

結論もないまま、終わる。
(02.0613)



【コラム】・追悼、ナンシー関

消しゴム版画家・コラムニストのナンシー関が急死と聞いたのが12日。ビックリした。まあビックリもするわな。39歳とまだ若いし、持病を持ってるとか入院してるとかいう話も聞かないし。身体に悪いほど太ってたらしいが、知り合いだったわけじゃなし、「太ってる」ったってどの程度か知らなかったし。
死因についてはいずれハッキリしたことがわかるのだろうが、こう簡単に片づけちゃいけないんだろうけど「人間、どこでどうなるかわからん」とは思いました。

さて、死の事実を知ったときは正直な話、非常にショックだった。多大な影響を受けていたからねえ。現役バリバリだったし。しかし伊藤俊人のように「これからの人だったのに」というニュアンスではない。もっと何十年も同じスタンスを続けて欲しかった、現在の、テレビを付ければ平日は必ずそこにある、「笑っていいとも」みたいな存在になってほしかった、そんな感じだ。

・その1
「辛口のエッセイで人気のあった……」的感想とか記事が多い。実際そのとおりだったと思うが、ハタと気がついたがこの人の言ってることで「さすがにそれはまずいだろう」とか「いくらなんでもそりゃないんじゃないか」とか思ったことって、なんだかよくわからないけど個人的に一度もなかった気がする。なんでだろう。
ひとつにはテレビエッセイならば「テレビにおけるその人物の印象」のみを問題にしていた、ということはあったかもしれない。それ以外の業績とかはとりあえず棚上げして、「テレビうつり」のみを問題にした。だから「芸能界人」的な人への批評が得意だった。
もうひとつは「ああ、この人知らないで強引に書いてるよ」っていう感じのものが少なかった。自分側に引き込んでサカナにしちゃえってのがなかった。何か書いてみたあとに「知らないけど。」と付けるのが得意技だったが、逃げ技であると同時に、自分が何を知っていて何を知らないかをわきまえている、という感じがすごくしてた。
知らない領域には、意識的に踏み込まないといった印象。

3つ目は、結論があってそこに導こう、というのがミエミエでなかった。もちろん、ミエミエでないだけであらかじめ用意された結論はあったのだが、それを示すのが奥ゆかしかった。これはおそらくすぐ上の世代がゼンキョートーだの何だのだったことと無関係ではない。
話がそれるが、文芸春秋で呉智英とナントカ大学のだれかが「公共的なスピーカーによる騒音」について個別に反対運動をしていて、いかに無駄な騒音が巷に溢れているかを語り合っていた。私も騒音は本当に勘弁してくれという人間なので興味深く読んだが、結論部分で「日本人は公的な騒音には寛容だが私的な騒音には厳しい」、「五十五歳以下でスピーカーの音をうるさいと思うか自然の音をうるさいと思うかの感覚が違ってくる」、「最近の若い人はスピーカーの音はうるさく感じなくてお寺の鐘の音はうるさく感じる」、「要するにスピーカー音問題に抗議することは、音に関する日本文化の衰弱に問題定義している」っていうようなことを言ってる。
ここまで読んで、本を閉じた。もともと呉智英やナントカ大学の先生の騒音反対運動は単なる反対運動ではなく、善意とか義務によって公的機関が起こす騒音を問題にするという社会的意義があるのだが、音の感覚がどうのから日本文化のどうのこうのに話をすり替えられては付き合っていく気はしない。要はそういうこと言いたいんだ、ふーん、とか思ってガッカリする。タダで健康食品をくれるからと説明会に行ったら宗教に入りなさいと言われたようなガッカリ感だ。

三十代後半から四十代後半くらいまでのコラムとか書いてる人は、こういう上の世代のあけっぴろげな結論の持って行き方に抵抗があるヒトが多いと思う。ナンシー関もその一人だったと感じる。

「結論」への持って行き方が控えめだから、あえてヒドいことを言って常識を揺さぶろうといったタグイのサベツネタやザンコクネタもなかったし、同族意識やなれなれしさから特定のだれかをわざとあしざまに言う、という手法もとっていなかったと記憶する。その辺は、個人攻撃と反比例してむしろ奥ゆかしかったと思う。

・その2
ナンシー関が最も嫌ったことのひとつは、無意識な、あるいは無意識を装った厚かましさといったようなもので、これにはキツかった。裕木奈江や奥田瑛二の奥さんをあそこまでボロカスに書いたのも、そのあたりが原因だと思われる。

外へ出て取材して書いた著作もあるが、基本的にはテレビ評が中心だった。スタンスの特徴といえば、「読者が知り得ない情報を持ってきてキモとする」ということはいっさいとらない、あるいはとっていることを気づかせなかったことだったと思う。これは、コラムの筆者と読者がまったく同じものを見ていて、材料はすべて同じだと明言したうえで、読者の気づかなかったこと、気づいていたんだけど言語化できないことを文章化して見せていたということだ。いわばアームチェア・ディテクティヴ的。
文章の中でも想像してみたって始まらない「芸能界」とか「テレビ界」を想像することはせず、あくまでもテレビの画面内で起こっていることのみから、それをテキストとして解釈して見せていた。実際にはかなり調べていて内情も知っていたのではないかと思うが、そういうのは表に出さないという芸風だった。

同じようなことをやって、同時期に評価されていたヒトは何人かいるが、私がナンシー関のエッセイをまったくとぎれなく昭和から平成へと読み続けていたのは、その(実際はどうか知らないが)「テレビの前でひたすらに消しゴムを掘りながらブツブツ文句を言っている」ようなスタンスが変わらなかったからだろうと思う。
とくべつ新しいことを始めようとか、自分の考えてきたことを抽象化してまとめようとか、そういう動きがぜんぜんなかった。ただ毎日テレビを見ていて、それの感想を書くという基本作業をずっと続けていたことに、ある種のカッコよさを感じていたんだろう。

・功罪
功罪の「功」の面は、テレビから自然に流れてくる情報は「意図的にだれかが流したものである」ということを、常に喚起し続けたということだ。こうしたテレビ評は、おそらくきまじめなジャーナリズム風のものばかりで、ナンシー関以前にはほとんどなかったはずだ。テレビブロスなんて、一時期そういう感覚だけで雑誌をつくってた。

「罪」の方は、他の80年代後半から出てきたコラムニストと同じように、「感性だけでたやすく同じようなものができる」と読み手に信じさせてしまったことがひとつ。読者と情報を共有し、違った視点を提示するだけで(それを文章における「ワザ」のひとつとすることはできても)すべての文章を書こうとするには天才的な資質が必要だったのだが、「感性」で何とかなると才能のない人々まで信じてしまったのは罪だった。
泉麻人やえのきどいちろう、みうらじゅん、大槻ケンヂ、小田嶋隆などと並んで「そういうことを信じ込ませてしまった人軍団」(別に徒党を組んでたわけじゃないけど)の一翼を担っていたと思う。

「調べたり取材したり」っていう能力を隠すことがカッコいいと思われた時代が、確実にあったと思う。主に80年代。それはオタク論的に言えばオタク否定ですよね。ナンシー関も、確実にその流れの中から出てきたということは言える。
90年代に入って、コラム・エッセイにおいて「何かを調べて、研究すること」を中心に据えた方向にシフトするでしょなんか。いとうせいこうが全国のすき焼きを食いに回ったり、みうらじゅんがいろんなもの集めてそれを発表したり。いや、以前からやっていたかもしれないけど、だんだんそういうのが全面に出せるようになっていく。後から「感性だけで勝負します」なんてエッセイ書いてる人、ロクなのがいなかったし。私見ですが。
んだからたぶん、泉麻人っていろいろ知ってるとは思うけど、データ的にこうです、こういうグラフができます、みたいのってあまり得意じゃないと思う。微妙な位置にいて、微妙なことを書くことで人気を得ていたのではないか。

ナンシー関も、なんとく最近では「細かく調べてる」部分がかいま見えるときもあった。意図的か自然に出たのかは知らないが。そんな80年代から90年代を、ほとんど同じスタンスで行けたんだからたいしたものだとは思う。
話がそれたが、80年代の「感性重視」は「調査・取材・研究軽視、あるいは隠蔽」の裏返しだった、ということをナンシー関は21世紀までほぼ同じスタンスであり続けることによって、結果的に(あくまで結果的に、だけど)証明していたということは言えると思う。あ、こりゃ「罪」じゃなくて「功」か。

それと「罪」のもうひとつは、広い意味での「芸」の評価があくまでもテレビの枠内におさまっていたこと。
どんなに舞台や別の場で評価されている人でも、それを「テレビというまな板の上に乗せられた状態」で評価し、そこからほとんど一歩も出なかったから、広い意味での「芸」評価についての限界はあった。簡単なところでいうと「たま」とかを斬って捨ててたけど、何年か前ライブで「たま」を見る機会があったんだけど舞台で見るとすごくいいんだよね。
「場が変わると印象も変わる」というのは、ナンシー関のエッセイ内で明記はされていても、どうしても記述がテレビ中心になるのでうっかりすると読者の方が見失ってしまう部分は、あった。

・おわりに
なんか書こうと思ったことの半分も書けなかったが、たぶんオオツキリュウカンがどこかで総括するだろう。でもホントにオオツキリュウカンが総括していいのか? とも思う。なんか思想的なところにおとしこもうとするじゃない、あの人。
ナンシー関の思想的スタンスは、何冊かエッセイを読めばわかると思うんだよね。思想の抽出は重要でないとは思わないが、個人的に今後の位置づけで気になるのは「いわゆるサブカルチャー内での芸風としての評価」と、「だれでも手にとって見る週刊誌に書かれた芸能評論としての評価」ですね。
芸能評論という意味では、テレビ的なものに対してヒドい人が多すぎたっていうのはある。芸能レポーターが芸能に詳しいことを要求されない、ってのがまずいまだに「ええーっ」っていう感じだし。
福岡翼とか「おれは他のやつらとは違うんだぜ」みたいな顔してるけど、たぶんあの人にとっての芸能って洋画とかシャンソンに詳しいってことで、そっから斬ってもわかんないことの方がほとんどでしょテレビって。やくみつるはふざけんなって感じだし。あの人こそ、マンガ家だってだけで適当なこと言ってるだけだもんな。あ、野球には詳しいのか。すいません、やくみつるのことはいいです。

とにかく、ご冥福をお祈りします。似たような芸風のやつがしれっとして出てきたら、せせら笑ってやっててください。

それにしても、さすがに本文をマンガと結びつけることはできなかった。「消しゴム版画」をマンガだとすることは、鳥獣戯画をマンガだと言い張るくらいにムリがあることだしねえ。
(02.0613)



・「ウォーB組」マガジン・ウォー!7月号増刊(2002、マガジンマガジン)

巻頭グラビアの大沢舞子って、どこかで見たことあるある、と思ってちょっと検索したらかつてのグラビアアイドルみなみだったことが判明(昔、「ギルガメッシュないと」に、水着でマッサージのコーナーに出ていた女の子)。ネットは便利だなあ。なんだか喉のつかえがとれた感じだ。
短大に行っていて休業していたか、事務所が変わったかしたんだろう。写真うつりによっては常盤貴子にも見えんこともないこの人、ガンバってほしいものである。
それにしても、結果的にギルガメはいろんなものを拡散させてしまったよな。イジリー岡田の主要舞台がまた欲しい。

「ぼくとメス犬」野田ゆうじ。基本的に「女の子を犬みたいに調教するHマンガ」。先月落ちていてガッカリ。今月は載ってる。
今回は、ねえちゃんから「メス犬」すずなを押しつけられたケンちゃんの「エヴァ」シンジくん的内省からは離れ、謎の組織につかまってしまったねえちゃんについて描かれる。
ロマノフ王朝時代の秘宝であるスフィア・エッグの謎を知っているらしいねーちゃんが拷問を受けている最中、相手の耳をくいちぎって「まじい」と言うなど、劇画的というか伝奇的な要素がかいま見られて、けっこう面白い。続きが気になる。

マンガに関するゴシップ記事、「マンガ業界 ヤバい噂の真相」。まったくタイトルどおりの記事で、それ以上でも以下でもないのだが、特集巻頭の業界提言みたいのはどうなんですかね? 正しいような気もするし、間違ってるような気もするし。
ただ、以下の「コラム」でも私が書いたように、「○○は死んだ」というのは一種の常套句である、ということは言えると思う。この記事では、95年あたりから売り上げ的にもマンガは下がっていることや、「萌え」重視で作品を軽視したメディアミックス、さらにコンビニ売りの、往年の名作をブツ切りにしたペーパーバック形式のコミックの乱立から「漫画は死んだ」と言う。

私は「業界批判」というのは業界にいる人にしかわからんと思うので、読者の立場から言わせてもらうけど、まず第一に「メディアミックス批判」、「メディアミックス」という手法が始まってから一歩も進歩がない。「どこからがメディアミックスか」というのもむずかしい問題ではあるが、いっつもいっつも同じ議論が、少なくともここ30年近く繰り返されてきたことになる。これは、95年以降云々では読み解くことができない問題だ(問題だとしたら、の話だが)。
もうひとつはコンビニ売りのペーパーバック形式のコミックについてだけど、これは、長編のブツ切りであってもそれを読んで全部読みたくなった読者が、全編をフォローできるような体制(全巻、刊行されて注文すれば買える)であれば何の問題もないだろう。販促ってそういうもんじゃないのかなあ。
他にも往年のジャンプ名作の続編の乱立についての批判や、各方面で言われているコミックバンチ批判などが載っているが、決め手に欠けると思うんだよねえ。
ジャンプ直撃世代は、往年の人気作家が駄作を乱発、しかもそれがかつて熱中したマンガの続きだったりしたら腹が立つのはわかる。
しかし、80年代を通じてあれだけ新人ばかりで人気を獲得していた少年ジャンプという雑誌自体が異常だったし、当時固め打ちといった感じで才能ある新人を排出し続けてきたのだから、彼らが何らかのかたちで「群体として」出てこようとしたとしても、あまり不思議な気はしない。ただし、十把一絡げで悪いが、どれも予想したほど面白くなかったということは、残念ながら言える。それがマンガ家のせいか、編集体制のせいかまでは部外者の私にはわからんけども。

この特集記事は、本誌のそこはかとない「オタク嫌い」がにじみ出ていると言えるんだが(その「方針」は毎号読んでるとなんとなく感じ取れる)、載ってるHマンガがぜんぶ広い意味でのアニメ絵じゃあねェ。説得力としてちょっと……。基本的に好きな雑誌なんで、がんばってほしいとは思うんだけど。
(02.0612)



【コラム】・「オタ文化自体が枯渇しつつある」のか?

しゅうかいどう(6月9日)(日記読んでいただいててありがとうございました)からおんぐすとろーむ だーざいん 戯れ言(6月9日)おんぐすとろーむ だーざいん)に飛んでみて、そこで「オタク文化は終わってしまった」的意見を読む(その後も、少しこの話題について語られた)。
で、ここからTakahashi's Web -diary-6月8日Takahashi's Web)にリンクされており、そこでも「オタク文化の終焉」的なことが書いてあった。

さらに、俺ニュース200206-101301でも「★オタ文化自体が枯渇しつつある」として上記のTakahashi's Web -diary-6月8日がリンクされているところを見ると、やはりある程度共通する感覚なのではないかと思う。ちなみにTakahashi's Webの管理者は、ゲームとかのシナリオライターさんらしいから、クリエイターの立場から語っているんですね。

で、私はこれらの文脈に関連する更科修一郎氏のコラムを読んでないし、エロゲーをほとんどやったことがないんで恐縮なんですが、私自身が以前オタク第一世代、第二世代、第三世代というきわめて消化不良な文章をこのサイトで書いていて、それと関連するようなしないような感じの話題なので、それの続編的な感じに私見を書きたいと思う。
別にだれを批判したいとかそういうんじゃないんで、それは読めばわかると思います。

・もともと定義が曖昧な概念だということは、自覚しておいた方がいい
まず第一に、「オタク」とか「萌え」というのはいまだに定義論争が続いたり、最初の定義のところでつまずいたりするが、これは理由は簡単で、「オタク」と言われる人の多くに自覚がないから。「萌え」は、定義やなんかはまだなんとかなりそうな気がするけど。
オタクとしての自覚のある人もいるが(自覚のある人のみがオタク論を展開しているということにもなるが)、それこそ「自覚」自体が千差万別なため、あまり共通項にはならない。その「自覚者としてのオタク」の共通項を示したのが、大塚英志や岡田斗司夫であったということはできると思う。

そもそも「ナントカ派」とか「ナントカ族」とかと言ったときに、「本人に自覚がない」なんてことは他にあまり例がない。「ヤンキー」とカテゴライズしたときに「自分はヤンキーなんかじゃない!」と反発するヤンキーって、たぶんいないと思う。「左翼」とかもそう。自認してものを考え、行動している。
ところが「オタク」ってのは自覚がない場合も少なくなく、ハタから見てどう見てもオタクなヤツが「あいつはオタクだから」って他人を嗤ってたりという状況は昔からあった(今もたぶんあると思う。オタクネタの天誅の曲とか聞いてると。いや、私は「天誅」はきらいじゃないですけど)。それがつかみどころのなさの最大の原因。

で、そうした「自覚なき人々」も含めた状況の中で、「何かが決定的に終わる状況」というのがありうるのかというと、それは非常に微妙な問題だと思う。
私が「オタク第一世代、第二世代、第三世代」で言いたかったことは、オタク文化は発展途上だからこそ意見が分かれるんだ、だからすべてが出そろって終焉したとき、もっとはっきりとものごとが見えてくるはずだ、ということ。ただ、それは今ではないというのが私の考え。
「終焉」が2年後か、3年後か、5年後か、10年後はわからないけど。

「自覚の芽生え」は、スタイルの確立ということでもある。スタイルが確立されれば、そこからその「スタイル」についての議論が起こったり、「こんなの本当の○○じゃない」ということにもなる。守りに入るというかね。だから「オタクとはこういうものなんだ」っていうのがはっきりした段階から、終焉に向かっているということはできる。

・「何をもって終わったとするか」は、きわめて恣意的な解釈
しかしだ。これからはっきりと自覚的に矛盾するつもりなんだけど(笑)、「○○は終わった」というのは、もういろんなジャンルで繰り返し言われていることなんだよね。
そもそも「オタク文化」そのものが、60年代から70年代にかけての「政治の季節」というかね、学生運動の終焉と入れ替わるようにして出てきたもので。「三無主義」とか「シラケ世代」とか言われて。過去の世代の文化の「終わった感」とは無縁のものではなかった。
若い頃は、そういう「死亡宣告」みたいなことが軽いショックなんだよね。他の人は知らないが、私はそうだった。
だけれども、そういう「終わった感」は単なる「感覚」でしかないかもしれない、というのは考えのうちに入れておいた方がいいと思うんだよね。

ヘンな言い方なんだけど、要するに「自分自身がいちばん有意義な人生を送れればいい」のであって、ジャンルの衰退とか隆盛というのはそれとは密着しているようで実はしていない。「他人のために何かをしてやる快楽」も含めて「自分自身がいちばんおいしいところを持っていく」ということを考えた方が、問題は明確になると思う。

他のジャンルを見渡しても、みんな「終わった」って言われたものばかりだよ。「文学は死んだ」と言われたし、「SFは死んだ」とも言われたし、ロックだって詳しいことは知らないけど「終わった感」があったからパンクが出てきたわけでしょ。あと「広義のクラブカルチャー」も、金持ちしか入れなくなっちゃったからレイヴ(路上で踊ったりするやつ)が出てきたっていうし。
推理小説分野でも、我孫子武丸だったか法月綸太郎だったかがもう「本格推理小説は終わった」と自覚していて、そこから出発しているんだと言っていた。「希望があることしかしちゃいけないんですか?」というある意味逆ギレ的な法月綸太郎の言葉は(すいません、初出忘れた)、ものすごい「やる気」を表しているとも思うしね。

だから「○○は終わった」という言い方は、あまり信用しない方がいいと思うんだよね。自分が「こりゃ終わったわ」と思ってどうしてもついていけなくなったら、そこから改革を考えるか、スッと抜けるかすればいいわけで。

・無根拠な予想
予言ってのはたいていはずれるから、わざわざそんなことする必要もないとは思うが、個人的な感覚としては「オタク的なこと」ってまだまだこれからという気はしてる。
その理由は、「二次創作」とか「ぷに」とか「萌え」とか、まあ「動物化」でもいいけど、新しい言葉がどんどん出てくる時期って、そのジャンルが盛り上がってる証拠だというかなり根拠のない私見なんですけどね。
ラップ/ヒップホップって、黒人のスラングとかがやたら多い。それだけで用語解説とかが何ページもあるくらいだし、実際、日本のラッパーが日本語でラップをやる際にもそれらを取り入れている。
そういうことは、「ロックを日本語で歌っていいかどうか」ってなことから、洋楽ではたぶん議論されてんでしょ。実はよく知らないんだけど……。でも、「借り物感」ってのはぬぐいがたくあるわけですよ。

そういう「どこそこではレコードのことを『ヴァイナル』って言うんだってさあ」みたいなの(今はもう言わないのか?)、ホントはカッコ悪いじゃん。常にそういう情報を発信しているのはどっかよその土地で。そこに鋭敏に目や耳を向けていないと、たちまち遅れてしまう状況ってのは。
でも、自分たちがくっちゃべってることから発して、それが実際にプロの創作や評論でも用語が使用されて……っていうのが同じように日本でもあるのって、オタク文化だけなんじゃないかという気がするんですよね。日本のオタクの人、別に自分たちがふだん使ってる言葉で、「これはヨソの国で流行ってるから使おう」っての、まずないでしょ? アメコミとか海外アニメのファンは別にしても。明らかに自分の足下から情報が発信されてるワケだから。

そういうのは、まだ元気がある証拠なんじゃないかと、まあ繰り返すけどあまり根拠のない、説得力のない説なんだけどね。

(02.0612)



・「フランス」(上) タイム涼介(1995、2002、零)

町鈴(まちりん)
−−風の強い日
住宅地の空に
しなる風にまざって
聞こえる不思議な
鈴の音

辞書には載ってない
ボクが作った言葉だ……

……というセリフがずっと気になっていた本作。ヤングマガジン連載中も断片的にしか読んでいなかったのだが、このたび自費出版されて、読むことができるようになった。

良平は父を事故で亡くし、母も病気で入院、学校ではいじめられたりバカにされたりする孤独な小学生。彼の父はかつて「タオル」というフランスの格闘技をやっており、いちばんすじのよかった弟子であるピンチが良平の親代わりのようになってあれこれ世話焼きをしている。
ピンチは二十歳だがまだ高校に行っていて、路上をブラブラしては人の家の牛乳を盗んだり、学校の女子便所に汚らしくウンコをしていやがらせをするといった幼児性の持ち主、というか「町のボンクラ」といった感じの人物。タオルを使った格闘技「タオル」の腕も、強いんだか弱いんだかわからない(たぶん強いのだろう)。

お話は良平がピンチやその仲間に引っ張り回される日常を描くのが中心だが、どこかにありそうでない町で、かなり現実離れしていたりしていなかったりといった出来事が繰り返され、ギャグを全面に押し出したいのかあるいは「町鈴」のような独特のせつなさを描きたいのか、キチンとした部分がない不定形な感触を持っている。

「キチンとしてない」のがまったくマイナスではなくて、何とも言えない独特の居心地のよさがある。しかしそれは「サザエさん」とか「ドラえもん」的なルーティンな印象でもむろんない。下巻や最終回の展開などはまったく読めない。しかし面白い。
そんな不可思議なマンガである。下記のページから通販で購入することができる。

タイム涼介本店フランス

(02.0608)



・「全日本妹選手権!!」(2)感想その2

見下げ果てた日々の企て(6月7日)そうか。実際にやおいを趣味としている人々の感想としては「妹選手権」のやおい同人女像はウソくさすぎる、ということなんですね。(6月4日)

やー、そうだったのかやっぱり。そういうことは、もっとはっきり指摘されてもいいと思いますね。……っていうか、「妹選手権」の作者ってやおい同人女性をカリカチュアライズして描くときに、自信満々すぎるとは思ってたんだー。
自分の漫研時代の作品をのっけてたり(しかもなんかすごい恥ずいメイドもの)、おまけマンガにおける「ロリコンだと自称する編集者からのインタビュー」を皮肉混じりに描写するくだりなど、作者の「自己批判力」というか「自分自身やものごとを突き放してギャグ化する能力」に何かゆがみを感じざるを得なかったんですが、そうした「?」な感じは、本作に登場する同人女が現実と乖離しすぎているとしたら、その原因とたぶん無縁ではないと思いますね。

で、自分のレビューを読み返してちょっと気になったんでもう少し補足しますと、「登場人物たちの『やおい妄想は絶対化し、男オタク妄想は全否定する』という考えは、まあ現実世界にあまりにあること」というのは、私の被害妄想かもしれない、と書いておきます。……っていうか実際にあったんだけどね。1回あったから、100回あるとは言えない。ちょっとダーク入りすぎました。すいません。

それ以外は、今でも考え方は変わってません。以前にも書いたように「要するに、内容はオタクネタだけど、主人公を女の子にしたがために、オタクの性差まで考えざるを得なくなっちゃうんだよな。あくまで結果的にね。」という印象ですね。キャラ立ちをさせるために、作者の女オタクと男オタクに対する知識を両方登場人物の女の子たちに詰め込んだんで、男のオタクとしても、女のオタクとしてもありえないキャラになっちゃってるという印象です。

でも実は「オタク自虐ギャグは、『性』そのものがネタになる場合が多い」以上、どうしてもギャグが中途半端、自虐や批判も上すべりせざるを得ない。それが、やおい同人ネタになってからの「妹選手権」の座りの悪さではないでしょうか。

いや、私にしては厳しすぎる意見のような気がするけど、「元気をくれないオタク自虐ギャグは意味がない」と思ってるから……。「こう生きて行くしかないんだ」っていう迷いと開き直りと、その間を揺れ動く感じ、というのがないかぎりオタクネタをギャグにしてもそれは「けっきょくどうしようもありません」ということでしかないから。
やくざ映画で、刑務所生活の中でボスの腰巾着の山城新伍(あくまで役の上で)がいい目を見て、新入りの小林稔侍(あくまで役の上で)が虐待される、というような、「世の中けっきょく要領です」っていうようなことでしかなくなっちゃうからね。それは現実かもしれないけど、笑えない現実ですね。
(02.0608)



・「それいけ!! ぼくらの団長ちゃん」(1) 小野寺浩二(2002、少年画報社) [bk1] [amazon]

……たった今、パソコンの前に座ろうと思って、ほんの一瞬、CDの入ったタワーレコードの黄色い袋に手をついたら「ピシッ」という音がして、まだ1回も聞いてない中のCDのケースの1枚が割れてしまった!!
いや、完全にバキシとふんずけたのならわかるよ。ほんのちょっと手をついただけだよ!? なんだこれは。無意識に合気を使ってしまったのか!? それとも、神がおれを試そうとしているのか!?

それにしてもCDケースってのは割れすぎる!! 代えのケースも売ってるけど、割れたCDはほとんどが凝った仕様で既製品と合わない場合が多い。なんだよ!! 超合金Zとか発明されてんだろ!?(されてない) オリハルコンとか!?(されてない)

……さて、本書はヤングキング連載。漢華(おとこばな)高校応援団団長・神崎夜叉丸は、これ以上男らしいヤツはいないというほどの男気を持ったヤツだった。しかしタンクローリーにひかれて全治7カ月の重傷に。
そして、なぜか妹の凛(りん)(今まで団とはまったく無関係)に団長を任せてしまった。だが、応援団内で団長の命令は絶対。小さくてかわいい、応援団とは対局にあるような少女・神崎凛を団長に据えて、漢華(おとこばな)高校応援団はあらたなスタートをきるのだが……。

正直言って、読む前は「小さい女の子が応援団の団長ならかわいくていいにゃ〜」みたいな、ダレッとした「萌えマンガ」を連想していたのだが、最後まで読んで燃えた(「萌え」ではなく)。そして泣いた。オレは感動して泣いたよ。
まあよく考えてみりゃ、「妄想戦士ヤマモト」の作者がそんなベタなことするわけないか。とにかく、「一生懸命なかわいい女の子」が応援団団長になってからの団内でのドタバタエピソード、高校野球での相手校応援団との戦い、入院中の凛の兄のメチャクチャさ、そして後半になってからの「なんで自分はこんなことしてなくちゃいけないのか?」という凛の疑問、そしてそれにさらに追い打ちをかける応援に命を賭ける男・大神達狼との出会い。それぞれが実にキッチリ描かれていて、正統派の少年マンガだなあという気がする。

よく「妄想戦士ヤマモト」を読んでとことん感動したらアブないとかダメ人間とか言うけど、実は私はあまりそういうことは思ってなくて(本気の本気で信じたらダメだよ!!)、少年誌ではああいう生きざましかないと思っているんだけど、その方法論はオタクネタだけではないものにもちゃんと通用することを、本作は証明している気がする。
「ロリータ番長」とかの一連の短編のやつ、投げっぱなしのオチのものが多くて実は「う〜ん」とか思ってた。しかし、本作を読んで少年マンガとしての訴求力、地力はタダモノではないとみた。小野寺浩二。

さて、本作を「少年マンガ」と書いてきたが(「青年マンガ」でもいいけど、なんというか「熱血」というニュアンス)、実はこの方法論は「少女マンガの熱血部分」からとられたところも少なくないのではないかと思う。
「アタックNo.1」とか「ガラスの仮面」とか「エースをねらえ!」とか、いくつかのファッションものとか(例が古くてすいません)、少年マンガ的勝負要素を持った作品の系譜は少女マンガでもひとつやふたつではないはず。それを「単に少年マンガ的方法論を移植しただけ」と言いきることができるかというと、おそらくできないのではないか。
「少年マンガにおける萌え」を考えるのも悪くはないが、「少女マンガにおける熱血」というのも、何か重要なテーマのような気がしてくる。そんな作品である。

おお、レビュー書いてたら何かCDケースが割れたことなんて小問題のような気がしてきたぞ!! がんばろう。
(02.0607)



【映画】・「少林サッカー」 監督・脚本:チャウ・シンチー(周星馳)(2001、香港)
[bk1]←「少林サッカー読本」

かつて「黄金の右脚」と呼ばれたサッカー選手のファン(「ファン」という名前ね)は、自らの欲とチームメイトのハンの陰謀により脚を折られてしまう。20年経った今では、サッカーチーム「デビル」の監督となり成功したハンの下僕みたいな存在になっていた。
自分の境遇に落胆しながら街を歩いていたファンは、くず拾いをしながら少林拳普及の夢を持つ青年シン(チャウ・シンチー)と出会う。シンは人並みはずれた拳法の脚技を持っており、ファンはシンを見込んでサッカーチームをつくることを持ちかける。「サッカーを通して少林拳を広めたい」と思ったシンは、かつてともに修行した兄弟たちをスカウトして回るが、それぞれが自分たちの生活に追われて拳法のことなど忘れてしまっていたかに見えた。
彼らは真のサッカーチームになることができるのか? そしてハンのチーム「デビル」との対戦は……!?

……なんかチャウ・シンチー作品の面白さって映画ファンの間では常識みたいなんですけど、私はよく知らない。この人の映画は、初めて見た。
……なので、まあどんな感想を書いても無知により墓穴を掘りそうなのだが、とりあえず「アストロ球団」か「疾風!! アイアンリーガー」か「島本和彦のマンガ」か「コスモスストライカー」が好きな人は、絶対に見に行った方がいい。
はじめから終わりまで、目が離せない。ベタな繰り返しギャグも、シンと饅頭屋で働くムイとの恋愛模様も、ファン監督の一種の復讐劇も、他の兄弟たちのがんばりも、それぞれがキマっている。

こういう作品は「○○みたいな作品」としか形容のしようがなく、私も「アストロ球団」とか書いてしまったが、そう聞いて見た気になってしまってはいけない。
最近思うんだが、まあ映画って(マンガもそうだけど)10年スパンくらいではそう変わらない。よほどの映画マニアでないかぎり、漠然と映画館に足を運んでいるとなにやら「どれを見ても感想同じ状態」になるような気がする。とくに最近は画面はCG処理できれいだし、よほどのドウデモ映画でないかぎり、脚本に大きな破綻もなく、こぢんまりとしたものになっている。見る前も見た後も、感想が同じだったりする映画もある。
傑作であっても、十代の頃の感動とかがなくなってくる。でも違うね。もう少し時間が経ってくると、もう一周してまた別の感動が「来る」ような気がする。

たとえば、昔ブルース・リーの映画を見て極真空手に入っちゃうやつがいた。それは映画が直接的な影響を与えたと言える。
でも、トシをとるにつれて「ンなわけねえだろ」と思うようになり、映画の中の人物と自分が乖離したような気に……なったことないですか? まあ世代にもよるが、「未知との遭遇」でなんだか選別の基準がよくわからないまま宇宙に行っちゃうヤツ、あれ見せられてその後どーしろっつーんだとか思ったり。もうあそこまで行ったらその先はないでしょ。努力とか根性とかそういうの超越しちゃってるから。言っている意味がわかっていただけるでしょうか。

でももう1周すると、もっと「たとえ」として映画を見るようになるというか。ならないですか? どうも映画について書くのは自信ないですな。そんなに見てないから。とにかく、もうちょっと、映画を抽象化して見るじゃないですか。三十過ぎてヤクザ映画見て「ヤクザになりたい」と思ったらアホでしょ。やくざ映画ってもっと象徴性高いし。
そういった意味から、「サラリーマンもの」ってあんまり好きじゃないんだよな。要するに、もう少し自分と映画の中の人物を抽象化して照らし合わせることができる年頃になってるのに、まだ「サラリーマン」というダイレクトなものを通してしか感動できないってのは、なんかちょっとダメだなあというか。
まあすぐれたサラリーマンものってあるとは思うけど、いちばん安易な手法だけに考えてやらんといかんと思うし。

そういう「1周した状態」でも見て楽しく感じる勢いが、本作の中にはある。パターンがどうのとか、ワイヤーアクションがどうのとか、CGがどうのとか、そういうリクツはとりあえずわかったから見なさいと。なんかそういうふうに感じる。「スパイダーマン」を見たときも感じたことだが、要するにヒーローを通して、こまごまとしたことを語ってるんじゃない。もっと当たり前の、深いところで納得するような話をやってる。それを「勧善懲悪」とか「努力・友情・勝利」とか言うのは易い。
でもさあ、トシをとってきて、何でも「いろいろあるよね」っつって済ませて、社会のメンドクサイことも覚えたような気になって、でもその先に何があるかっていうと、けっきょくさあ、浜ちゃんの「明日がある〜♪」とかのベタなサラリーマン的な何かか、「未知との遭遇」くらいしかないよ? 私、極端なこと言ってるかな?
でも「1周する」と、「やっぱりコレだよな」とか思う気がするんだよ。「コレ」っていうのは、本作とか「スパイダーマン」とか「座頭市物語」とか。

「勧善懲悪」とか「努力・友情・勝利」とか、「愛が勝つ」でもいいけど、それがキマってれば、「1周した状態」ではそれらがとても気持ちよく感じてくる気がする。
で、ぶっちゃけた話、本作には細かいことを感じさせない勢いがある。分別臭く「いいんじゃない?」とか言う感じじゃなくて、「楽しまなくてどうすんだ」というような。最近のディズニーかなんかにありがちな、「ものすごく脚本叩いたんですけど、破綻はないんですけど、イマイチでした」みたいな小賢しい感じもない。そこが気持ちがいい。

余談になるが、もしかして映画ファンの間では常識かもしれないけど、たぶんこれから(もうなってるか?)CGって、「デッド オア アライブ」(映画の方)とか「アメリ」とか、本作みたいに、むしろいかに「本物らしくするか」よりも「過剰さの演出」として使われるようになると思う。それは映画の中にマンガが入り込んできたということ。
アニメの好きな人は「アニメが入り込んできた」というだろうけど、私は「マンガ(または劇画)」だと思う。そこには劇画の登場人物がフキダシでしゃべってる奇妙さ、という意味もあるし、あるいは小池一夫的バカバカしさをより強い打ち出しを持って映像として具現化できるツールというか……。
そういう意味では、今こそ「ドカベン」「ルパン三世念力珍作戦」はつくられるべきなのかもしれん。そして「ミスタールーキー」はそういう表現面では完全に出遅れていたということだ。あんな設定にリアルな野球シーン追求してどうすんだ。
……まあ他の作品のことはいい。半可通で申し訳ないが、「(バートンの)猿の惑星」とか「ハムナプトラ2」あたりまでで「『らしさ』としてのCGが過剰になった」のが行くとこまで行って、後は確信犯的になるんじゃないかな、と思う。

確信犯になってからの飽和状態はあんがい早く来る気もするけど、今は本作を思う存分楽しんでいればいいと思う。これは本当に楽しい映画。

・「少林サッカー公式サイト」

(02.0605)



・「碁娘伝」 諸星大二郎(2001、潮出版社) [bk1] [amazon]

唐の天宝の頃を舞台とした、碁を打つごとく剣をふるい、剣をうつごとく碁を打つ美しき侠女、碁娘の物語。
間隔を置いて、16年にわたって描かれてきたという4編を収録。いずれも謎めいた美女・碁娘に翻弄される悪人や武人、碁打ちの立場から、彼女の神秘的な強さを描くという構成になっている。

何か一芸に秀でた人が、人生や宇宙そのものを理解するための何かを会得する、という話は少なくない。だが、本作のポイントは碁娘というキャラクターが、「碁」と「剣」を同時に操り、そのことによって碁の達人にも、剣の達人にも到達できない何かに近づいているというふうに描かれている点にある。
剣の達人と碁の達人のコンビが出てくるのだが、2人はどちらの方法論からアプローチしても、碁娘の作戦を見破れないことを知る。それは単なる戦術の問題だけではなく、人間の生きざまとか容量の問題でもあるのだった。
(02.0604)



・「麻雀探偵ジュン」 岩田文夫、上田しんご(2002、ノアール出版)

V麻雀掲載。雀荘でバイトをしているジュン(男)が、次々に事件に巻き込まれるが、麻雀の知識を活かしてそれを解決していく。3つの事件と、「井出洋介物語」(原作:極 楽雀)を同時収録。

ありがちと言えばあまりにありがちだけど、私はけっこう楽しめた。2時間ドラマ的ではあるが、きっちり意外性のある展開だし。ミステリっぽいマンガは、多少強引な方がいいと私は思っているし。
あ、すれっからしのミステリ読みの人はどう思うか知らないけども。
(02.0604)



・「バサラ 〜破天の男〜」(3) さいふうめい、ミナミ新平(2002、講談社) [bk1] [amazon]

ヤングマガジンアッパーズ連載。原作者は少年マガジンで「哲也」をやっている人。 終戦後、中国で戦犯として処刑されそうになった日本人の男・バサラは、復讐のために立ち上がるのだった。天運をもとに、麻雀で戦う男の物語。

……などと1巻、2巻とまじめに感想を書いてきたが、終わってみれば「なんじゃこりゃ!?」な作品。「天運」ったって、「運」じゃん完全に。「ラッキー!」とか「ついてねぇなぁ」というときの「運」。ギャンブルで「運命」について考察する作品は多いが、これだけぞんざいなのもめずらしい。いちおう「哲也」という麻雀マンガのヒット作を持っている人が原作だとは思えないなあ。

でも嫌いかって言うと、実はそうでもないんだな(笑)。
いずれ「ぶっとびマンガ」でも紹介するかも。
(02.0604)

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