つれづれなるマンガ感想文5月前半

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「つれづれなるマンガ感想文」5月後半
一気に下まで行きたい



・「ボボボーボ・ボーボボ?」 澤井啓夫(2002、集英社)
・「ボボボーボ・ボーボボ」(4) 澤井啓夫(2002、集英社)
・「ボボボーボ・ボーボボ」(5) 澤井啓夫(2002、集英社)

・「コミックビーム」6月号(2002、エンターブレイン)
・「ちゃお」 5月号(2002、小学館)
・「ちゃお」 6月号(2002、小学館)
・「プチちゃおコミック2002」 「ちゃお」6月号別冊ふろく(2002、小学館)
・オタク第一世代、第二世代、第三世代
・「週刊少年マガジン」13号(2002、講談社)
・「週刊少年マガジン」20号(2002、講談社)
・「週刊少年マガジン」21号(2002、講談社)
・「週刊少年マガジン」22号(2002、講談社)
・「週刊少年マガジン」23号(2002、講談社)
・「COMIC阿ロ云(あうん)」5月号(2002、ヒット出版社)
・「COMIC阿ロ云(あうん)」6月号(2002、ヒット出版社)
【同人誌】・「伊藤伸平『素敵なラブリーボーイ』を読む」 吉本松明(2002、みるく☆きゃらめる)
・「素敵なラブリーボーイ」 伊藤伸平(2002、少年画報社)
・「ミニモニ。やるのだぴょん!」 もりちかこ(2002、小学館)






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・「ボボボーボ・ボーボボ」(4) 澤井啓夫(2002、集英社) [bk1] [amazon]
・「ボボボーボ・ボーボボ」(5) 澤井啓夫(2002、集英社) [bk1] [amazon]

日記をやめて1週間、いろいろと思うところもある。
第一に、マンガレビューを書くときに無意識に心がけていることがあったということ。すなわち、自分の好き嫌いや個人的主張をあまり織り交ぜないで書いていた(つもりでいた)こと。……まあ好み全開で書いちゃうこともありましたが、基本的には好悪はハッキリ書かないことにしていたつもり。書いても慎重に長々書くか、逆にサラッと済ませるか。
日記の方には、勝手放題好き放題書いてた。とくにいろんなものごとに対する嫌悪感はよく書いてた。
そして気づいたのは、そういうのはまったく無視されるか、「あなたはそう思うかも知れないけど、自分は好き、嫌い」というきわめて感情的な反応だけだったということだ。私の好き嫌いがあたりまえだがけっきょく私の好悪以上に還元され得ないように、ヒトの好き嫌いもヒトの好き嫌いでしかない。「そう言われても……」って思った。そういうやりとりはどこかに共通のベースがないと、むなしい。
まあ日記のことはどうでもいいです。

マンガレビューのことに戻ると、自分の好き嫌い、及び主張と作品の出来不出来についての評価が見事に混同されたのが従軍慰安婦問題から「戦争論」にかけての「新ゴーマニズム宣言」に対する多くの人の感想だったように思う。今考えるとそれ自体が「新ゴー宣」という作品の罠だったのだな。

……というわけで、作品の出来不出来とその主張の正しさとか妥当性というものは、分けて考えたいとは思っている。書いてるうちにどうなるかはわからんけど。以上。

・「ボボボーボ・ボーボボ?」は、作者の「ボーボボ」連載以前の短編を集めたもの。実に感覚的に描かれた感のある「ボーボボ」だが、ちゃんと読みきりとかが存在していた。ただでさえ落書きっぽいのに、やっぱり新人時代の作品はかなり落書きっぽかった(でもけっこう面白い。うすた京介の初期短編より面白いかも)。
ガキの頃は当たり前だと思ってたこういう作品が掲載される事実、オトナになって考えると実に感慨深い。おそらく似たような作品がいっぱい投稿や持ち込みされてくるのだろう。そこから澤井啓夫を拾い上げるというのは編集者ってスゲエなと思った。

「ボボボーボ・ボーボボ」(4)〜(5)は、いつものボーボボと毛狩り隊が戦う話。なんで2冊まとめて紹介かというと、5巻が出たとき「あれ? 4巻買ったかな?」と思い、家に帰って確かめたりしているうちに遅くなった。ダブリ買いしちゃうともったないから。
マンガ家の諸先生には、「近い巻数の場合、まぎらわしくない表紙を!」とお願いしたい。「銀牙伝説ウィード」の表紙なんて、いつも違った角度でウィードが走ってるだけだ。ウィード関係ねえけど。

で、正直言って3巻があまりにパワーダウンしていたので驚いたんだけど、4、5巻では持ち直してきている。ギャグってシステムというかパターンが決まっていれば、毎週の出来不出来はともかくそんな何週にもわたってつまんなくなることってないと思うんだが、驚くべきことに本作はかなり不調が続いてたと思う。でも持ち直した。そういう意味でも面白いマンガだと思った。

・3巻の感想

(02.0515)



・「コミックビーム」6月号(2002、エンターブレイン)

「ボーボボ?」のレビューにも書いたが、私自身の主張というか「私は世の中こう思う」というのが出ちゃうのはご容赦いただきたい。雑誌の性質上、あんまり客観的にどうこうという製品ライクな作品群でもないと思うし。

「のもたろう」おおひなたごうは、読みきり。「1日1回、毎日善行を行う」ことを目的とした、お互い顔も知らない5人の仲間が、ふだんは見返りは求めないものの1回だけ善行比べをする。
おおひなたごうって、「風が吹けば桶屋がもうかる」みたいな不思議なものごとの連関をたまに描いたりするけど、今回もそんな感じ。昔よくあった「ちょっと気のきいた話」へのオマージュも感じる。イイ話。

「よみきり▼(←ハートマークの代用)もの」竹本泉は、よく迷う方向オンチな女の子の話。何話か読んでて正直思うが、本作ってわかりそうでわからないんだよな……。いや、この作品が好きな人がいるというのはわかる。なんだか。でも自分で読んでみるとよくわからん。

「エマ」森薫は、19世紀ロンドンを舞台にしたメイドさんと階級的にはちょっと上の人との恋愛もの(になる?)。描いてあることがどこまで考証的に正しいかはわからないんだけど、自動車に乗ってたり、本屋で立ち読みしたりというところがきちんと描いてあるところが生活感が出ていて面白い。

「少年少女」福島聡は、連作短編。今回は、ごく普通の一家にパンダ型のブキミな宇宙人がやってきて、子供の願いを3つかなえてやるという。しかし、その能力は「欲しいものを得た気になる」というだけのもの。一家はパンダ型宇宙人を持て余し気味になってくるが、車での帰り道、交通事故現場に出くわす。小学生の娘は「事故にあった人を助けて欲しい」と願おうとするが、当然パンダには「そんな気にさせる」能力しかない……という話。

この話、とてもよくできてると思うので作品的には文句ないです。だから以下は「私はこう思う」みたいな話になっちゃうんだけど。
交通事故現場でメチャクチャになった車を見て、娘だけではなくお父さんも「うわー」とか思ってる。下敷きになった人を助けてやりたいと思う。でもパンダ型宇宙人が「自分にカンケイない、自分がどうにもできないことに対して憤るのは『豚の憤り』と言って意味がない」と批判する(大意)。お父さんはそう言われて反論できず、悔しく感じる。

しかしパンダ宇宙人の言うことは本当だろうか? これは「当事者性のない同情はうわべだけのものであり、意味がない」という主張に近く、本作にかぎらず最近のマンガや小説の中で散見される考えだ。ただの偶然か、そういうアンチテーゼみたいなものが時代の要請なのかはわからない。
しかし、私が考えているのはまず第一に「軽い同情ってのはそれ自体、別に罪ではないんじゃ?」ということ。それは一種の生理反応で、それがないと逆にオカシイと思うんですよね。そういうのがないと日常生活やっていけないでしょ、かえって。
つい最近まで、そういう「表面的な同情」を排することによって、より本質的な社会変革や精神的救済に向かう、あらかじめ「こういう根本的な解決法がありますよ」というのをチラつかせた上での否定、というのはあった。しかし最近は「本質的」とされる社会変革や精神的救済はいちじるしく旗色が悪い。そもそも「本質的」とされる解決策を求めることが間違いだという主張もあるだろう。でもまあ、代案を提示していたことは確かだ。

まあ代案があるにしろないにしろ、なんでうわべだけの同情や生理反応としての同情が否定されるのか、実は私にはわからん。何か根本的というか、総合的というか、そういう思考に向かっていくときのみ、そういうのはバランスの問題として考慮されるべきものであって、重要なのは「どこでバランスをとるか」だろう。

第二に、「同情」が否定される根拠として「同情とは他人のためではなく、自分の自己満足のためにするのだ。だからよくない」という考え方がある。
本作のパンダ宇宙人の主張はそういう考えと完全に一致するかは微妙だが、まあ少しはそういう部分が入っているとは思う。……うーん、でも「少し」だから、以下は本作についての批判だとはとらないでもらいたい。あくまで昨今の「同情に対する考え」一般の話。

「同情は自分の満足、快楽のためだ」ということが、なぜ批判になるのか実は私にはわからない。広く取れば、自分の満足以外のことをする人間なんていない、と思うからだ。「いいことをすると気持ちいい」から善行をするのであり、「自分がそういう立場にならなくてよかったと安心する」から同情するのであり、「他人を下にみる快楽」があるからこそ憐憫の情が生まれる。そんなの当然ではないか。完全に他人の立場になれるんならそれはそっちの方がオカシイ。
だいいち、どのあたりで「他人の立場になった」と判断するのか。本作からどんどん話がそれて恐縮ですが、「同情は自分の満足、快楽のためだ」という批判は、一見一種の精神論を批判しているようでいて、その批判自体が実に精神的と言える。

第三に、人間うわべだけだろうが見下されようが、そういう「同情」にすがって生きていかなければならない場面がいくつもあるということ。そりゃ我慢できないくらい腹が立つときもあろうが、少なくとも完全に蔑まれたり、無視されたり、手もさしのべてもらえないよりはマシだろう。「同情するなら金をくれ」とはよく言ったモンだが、同情してくれる人は金をくれるかもしれないが、同情してくれない人はどうせ金だってくれないに決まっている。

私は山本夏彦はあんまり好きじゃないが、「募金が何に使われているかわからないからしない、と言うのはケチだ」と書いていたのには同意する。じゃあ何百万円も寄付しろというのではなくて、この人は確か必ず毎年1000円と決めて、それ以上はしないのだった。と、いつかの週刊新潮に書いてあった。
1000円あたりが、同情とか憐憫とか、あるいは同時に「どこに使われているかわからない」募金やふだん忙しくて考えられない弱者救済の社会システムに対する、バランス感覚というかケジメであり自己防衛であるだろう。

以上、話がそれて恐縮ですがそんなことを考えたのであります。

「待ち人」安永知澄は読みきり。母親の看病のため田舎から抜け出せないでいる主人公の少女は、都会に出ていってお盆に里帰りしてくる旧友たちを迎える。出ていったもの、残ったものの心が交錯する、青春もの。

主人公の少女が、好きな男の子を「試す」のがひとつのヤマ場なのだが、正直、こういうシチュエーションで目が泳がないヤツはまずいないと思う。どんなにその子が好きでもとりあえずうろたえるって。まず。

「オトナの漫画」ダークマスター、泉晴紀は短編連作。実は毎回、これもどう解釈していいかわからないことが多くて……。今回は「日本人は戦後、脳内快楽物質のドレイとなり快楽しか追い求めない人間に堕落してしまった」と主張する老人が出てくる。かれの著作を元に番組をつくりたいと申し出る若いテレビ局の人間との会話。
……これ、主張としては目新しいものではないし、展開も予想外なものではないし、いったいどう解釈したらいいのか? そういう、主張を前面に出さず淡々と語るというまったく新しいスタイルなのか、本当にただ当たり前のことを当たり前になぞっているだけなのか? ……わからん。

「驚異の旅」摩訶国彦は短編連作。不定期にやってるみたい。マンドレイクというファンタジーっぽいキャラクターの旅を通して、たぶんむかーしの(よくわからん)地図とか「どこそこにはこういう民族がいる」という伝説の混じった記録みたいのを元に、実際にそれを映像化して見せるという内容。
コレはいいですね。まとめて読みたいです。
(02.0515)



・「ちゃお」 5月号(2002、小学館)

以前、2月号あたりを読んだときには、「カッコいいけど身勝手な男の子が女の子を振り回す」話ばかり載っていてちょっとイラッとしましたが、本来少女マンガにそういうシチュエーションが多かったとはいえ、たまたまそんな描写が重なってしまっていたようだ。今月号はなかなか楽しめた。

「未来(みく)▼(←ハートマークの代用)pureボイス」 五十嵐かおる

未来pureボイス

新連載第1回。テレビ東京系子供向けバラエティ「おはスタ」とのタイアップ企画。 「おはガール」にあこがれる少女を描く。
酒井未来(みく)は、歌が大好き、「おはスタ」大好きな女の子。「おはガール」にも強いあこがれを抱いている。
ある日、番組観覧ができることになり喜びいさんで出かけたものの、当日の「おはガールシスター」オーディションにまぎれこみ、受けることになってしまう!!

……とにかく、つっこみどころ満載。その後の展開は、「ぶっとびマンガ電子版「平日の昼間と夕闇のあいだの空間2」を参照のこと。

「バーガータイムはいつも熱々(アツアツ)▼(←ハートマークの代用)」 あらいきよこ

最終回。バーガーショップでバイトする女の子・琴葉がバイト仲間の九条くんを好きになって、どーたらこーたらという話。
以前チラッと読んで、あまりにベタな展開にクラッと来たのだが、なんと最終回は九条くんがアメリカに行ってしまうという! ベタだ〜。またクラッと来た。

「恋愛世紀20×× 聖ポリスSEIKA」 飯坂友佳子

新連載第2回。地味でまじめなめがねっ娘・天野星香は、初めて会った少年にスーツを着せられ、悪と戦うことに巻き込まれてしまう……というセーラームーン風なスーパーヒロインもの。まァセーラームーンより、コスチューム的には雨宮淳のスーパーヒロインものをなんとなく思い出したが……。
またカッコいい悪人にファーストキスを奪われるというシチュエーションが(もちろん、まんざらでもないヒロイン)。カッコいいヤツは常に何をやっても許される……。死にたい……。

「すき▼すき▼だいすきっ」 中原杏

連載第2回(全3回)。もうすぐ16歳の相原つぐみが、カッコいい担任の西崎拓人先生のところにおしかけて行くという、「少女マンガで、かつおしかけ女房モノで、さらにおしかけ女房側の視点から描かれている」という点で珍しいので、SFおしかけ女房参照のこと。
(02.0511)



・「ちゃお」 6月号(2002、小学館)

「空色☆すくらんぶる」 にしむらともこは新連載。どうも「すくらんぶる−b!」という作品の続編らしい。

二ノ宮空は、スーパー元気な青琳学園中等部の生徒会長。彼氏は高等部の日生帆志(ひなせ・ほし)。二人はラブラブだったが、空のがさつぶりが気にくわない帆志の母親が学園の理事長に就任してしまったから大変! お料理・マナーテストに合格できなければ帆志と別れろと言い出すが……。

「男の子っぽい元気な女の子VS良妻賢母教育を至高のものとする旧体制ママ」という図式は昔っからあるもの。しかし2002年の現在、本作では対決の図式だけが残り、70〜80年代にはあったと思われる、女の子の新しい自己実現に対する模索や痛みといった部分はない。コレは本作が小学校低学年向きだからということではないだろう。むろん、それは作品が面白いかつまらないかとはまた別の問題なんだけどね。

「ミルモでポン!」 篠塚ひろむは最近アニメ化もされた。恋の妖精にもかかわらずヘソ曲がりのミルモたちが、そのコンビとなった女の子や男の子たちと恋愛がらみの騒動を起こすというコメディ。
最初読んだときは、「ミルモ」のあまりにも70年代サンリオパチモン的デザインに衝撃を受けあまりなじめなかったのだが、マンガそのものは肩の力を抜いて読めるものになっている。なおまだ未見だがアニメの評判が今シーズンではかなりイイ。

「未来(みく)▼(←ハートマークの代用)pureボイス」 五十嵐かおる

新連載第2回。「おはガール」を目指す主人公・未来のがんばりを描く。
……その後の展開は、「ぶっとびマンガ電子版「平日の昼間と夕闇のあいだの空間2」を参照のこと。

「ブリリアントな魔法」 宮脇ゆきのは、連載第11回。幼く見られるのがコンプレックスのヒロイン・藤川美月は、コスメの天才少年・敦希の手にかかると美少女に変身。「メイ」と名乗りモデルの仕事をすることに。
一方、大人気アイドルの真島響ともお近づきになれ、なおかつラブラブな展開に。敦希と響、二人の思いに揺れ動く美月だが、もう少しこの状態を楽しんでいたい……などとぜいたくなことを言ったりするのだった。でも、微笑ましいから許す(笑)。

「エンジェルハント」 おおばやしみゆきは連載第4回。要するに妖魔退治もの。今回は主人公の天音が魔物に身体を乗っ取られてピンチに。そして天音を助けるために真由が助けを求めた、霊が見える男がすっげーヤやなやつ。……んで、しばらくしたら「実はイイやつ」とかになるんだろー!? ふざけんな!! でも絵はとってもカワイイです。

で、少女マンガではなぜいっつもいっつも「初対面とか最初のうちはイヤなヤツなんだけど、カッコよくてそいつを無視できなくて、実はそいつは自分のことが好きで最後にはラブラブになる」という話が多いのか考えた。
女の子にとっては、比較的社会性のある場(部活、バイトなど)では、センパイとか先生にあたる人間にまだ圧倒的に男性が多いからではないかと考えてみた。つまり、女性の社会進出がなされてないからこういうパターンが流行るのだ! やっぱり緒方貞子さんにがんばってもらうしかないのか。関係ないか。また、少女の身の回りの世界が広がっていく期待と不安を「冷たいけどカッコいい男」が象徴的に表しているとも言えよう。

でも私にとっていちばん重要なのは、たぶんマジで「最初厳しく指導しておいて、後でやさしくして女の子を食ってる(まあ下品な表現)ヤツ」が現実にたくさんいるってコトだな! ねえ、なんで革命って起きねぇのかなあ?(そんな、問いかけられても……しかも「ちゃお」を題材に……)

「電GEKI的らぶロマンス」八神千歳は、読みきり。亜弥の家に突然落ちてきたのは、雷(かみなり)界の王子・雷牙だった! という、「SFおしかけダンナもの」(笑)。あまりのご都合主義的な展開にクラッときたが、まあそれは男と女、お互い様でさぁね。

「原宿バンビーナ」今井康絵は、正統派ファッションデザイナーマンガ。今回はウェディングドレス対決。

「すき▼すき▼だいすきっ」 中原杏

連載第3回で、最終回。もうすぐ16歳の相原つぐみが、カッコいい担任の西崎拓人先生のところにおしかけて結婚! というたいわいないお話ではあるんだが、「萌え」っていう言葉は安易に使いたくないんだが、すごい萌えパワーだと思うよ。だからSFおしかけ女房参照のこと。
(02.0511)



・「プチちゃおコミック2002」 「ちゃお」6月号別冊ふろく(2002、小学館)

ちゃお2月号の別冊ふろく。特集:「ミルモでポン!」篠塚ひろむ「ミニモニどんどこやるのだぴょん!」もりちかこの2本立て。

「ミルモでポン!」、前にも書いたが主人公のミルモがヘンな顔だったので色眼鏡で見ていた。これは「ピカチュウ」を最初に見たときとは正反対の感情だった。で、アニメの評判がわりといいと聞いて、マンガもキチンと読むとわりと面白い。本作は別冊ふろくだから、本編とは直接的なつながりはない番外編的な内容。けれど、恋愛がらみでない方がこの作者の本領を発揮できるのではないかと思った。

こういう、「最初あなどっていたけどわりと面白いマンガに出くわす」という感覚、なんだか自分がグルメマンガの中の審査員になったようで面白い(笑)。「なんだ、こんなものが食べられるのかね!?」、「いいから召し上がってください」、「おお、こ、この味は!?」とか思ったりした(何思ってんだ……)。

「ミルモの災難」は、「ミルモの帽子をとった姿を見たことがない」とふと思ったヒロインの南が、あの手この手を使ってミルモの帽子を脱がそうとするが、イヤがって取ってくれない。そこでガラスびんの中にチョコボールを入れ、それに夢中になったミルモを捕まえようとするが、ミルモの頭がびんにはまってとれなくなってしまう……という話。
「頭にびんがはまって取れない」というだけでえんえんと話が続く、私、こういうの大好き(笑)。ギャグマンガの基本。テイストとしてはたちいりハルコのマンガとか「赤ずきんチャチャ」とかを連想させる。
他にもミルモの弟・ムルモが桃太郎となる「ムモ太郎」などを収録。

「ミニモニ。……」の方は、ミニモニ。の面々がナースになったりスーパーヒロイン「ミニモガール」になったり、ケーキ屋さんをやったりといったたわいない内容。
しかし、本物のミニモニ。メンバーの写真やプロフィル、歌詞、ミニモニ。クイズなどの記事と合わせてのギンギラ(「鉄鍋のジャン!」に出てきた「ヌーベル・シノワ」をつくってた女の人的に言えば「コテコテ」)な感じが、暗闇の中でしか夢を見ることができない、おれたちさみしがり屋たちの伝説。
(02.0511)



・オタク第一世代、第二世代、第三世代

特定の作品の話じゃないんだけど、この間飲み会でちょっと話題になってて、その後思いついたもんで。
実はまだ東浩紀の本読んでません。すいません。それ前提。

で、単純に「第一=特撮」、「第二=アニメ」、「第三=ゲーム」とか、あるいは「萌え」を理解できるとかできないとか、いろいろな説というか分類法があるんですが、私としては、なぜ逆に「世代が分かれるのか」を考えてみたい。
たとえば、SFとかミステリのファンでも世代間でそんなに明確な違いがあるのか?
私は、話題にするほどはないのではないかと思うんですがどうでしょうか。
で、なんで「オタク」だけが世代で別れてしまうかというと、単純に言って享受してきた作品やジャンルが違うから。で、なんで違うかというと、「オタク的作品」というものが進化・変化の途上だからだと思うんですよね。進化途中のそれぞれの部分を受けて育ってくるから、感じ方もまた違ってくる。
映画、SF、ミステリがまだ変化の途上かというと議論があると思うんだけど……、やっぱりいちばん変化が激しいのが「オタク」というカテゴライズじゃないでしょうか。

でですねー、たぶんその「進化」もいつかは終わると思うんですよ。5年後か、10年後か、15年後かはわからないけれど。そして、進化が終わったとき、すべてが出そろったとき、「第一、第二」なんていう世代間の差は無効化してしまうと思う(いや、現在の世代間ギャップはおそらく死ぬまで残ると思いますが)。たとえば、さらに下の世代で「第四世代」は出てくるかもしれないけど「第五世代」まで行くと明確な変化があるかどうか。
で、「オタク文化」っていうものがアリだったのかダメだったのかの評価は、進化が止まってからでも遅くないと思うんですよね。

で、無責任に予想しますが、そんなねー、いわば「ニュータイプ」みたいな劇的な認識力の変化、みたいのは今後ない気がしますけどどうなんでしょうか。
(02.0510)



・「週刊少年マガジン」13号(2002、講談社)

「スーパープロデューサーつんく♂物語 モーニング娘。デビュー編」杉山真弓が載っているので約1年ぶりに購入。
本作に関しては、まあ可もなし不可もなし、って感じでしょうか……というか、きちんとした連載でもない読みきりの場合、芸能人やスポーツ選手の実録モノに、はっきり言って名作なし。これは「異種格闘技戦に名勝負なし」に通じるところがある。あちこち立てるところが多すぎて、けっきょく当たり障りのないものになってしまうのだろう。

「平成義民伝説 代表人」木多康昭は、連載第3回目で何がなんだかサッパリわからんが、もしかしたらこれものすごく面白いマンガなんじゃないのか!? と思わせる。
佐倉惣五郎がなぜか「餓狼伝」の「クライベイビー・サクラ」がモデルなのがすでに狂っているが、さらに惣五郎のかけているめがね、いつぞやのオリンピックで陸上選手が「空気抵抗がなくて速く走れる」とかなんとか言っていた新型サングラスである。おれもあれ、ヘンだと思ってたんだー。

「天の昴」本島幸久、原案協力/金谷多一郎。なに登場人物全員が全員、せっぱつまった顔してんだよ。みんな、追っ払われた外回りの営業マンの顔をしている。スポーツなんだから、もっと楽しくやってほしい。
「3・3・7ビョーシ!!」久保ミツロウ。過剰な独立主義には私は納得できない。なぜなら、ソレが力弱い人を苦しめ続けているからだ。大金持ちのボンボンは、親のすねをかじることに案外さばけているもの。それより問題は、すねをかじらざるを得ないのに、独立主義の煽りに苦しみ続けている人々だ。
「霊長類最強伝説 ゴリ夫」刃森尊。この人のマンガはいつ読んでいつページを開いても同じだ。打撃戦、その後ごほうびの巨乳がチラリ。もう飽きた。

「コータローまかりとおる!L」蛭田達也。私は「コータロー」が好きだ。そこにはマガジンの良心のすべてが詰まっている。真由美のキャラ造形はもはや古典的ですらあるが、それなしでは80年代を乗り切ることなんて一瞬だってできやしなかった。また映画化しないかな〜。
(02.0510)



・「週刊少年マガジン」20号(2002、講談社)

「尾崎豊物語」(前編)長尾隆也。感想は後編を読んでから。
「サッカーけるける団」島田英次郎は、いつの間にかはじまってた。私にとって、「マガジン」で実にひさびさに「食べやすい」マンガが連載開始か!?(笑)
内容はまあサッカー部を舞台にしたギャグマンガらしいんだが、いまいちな絵、ちょっとした美少女と、私の好きなパターンではある。「少年サンデー的」とも言えるが、この画力とギャグレベルではサンデーでは載らないかも……。でも好きよ。
(02.0510)



・「週刊少年マガジン」21号(2002、講談社)

巻頭グラビアはMEGUMI
月並みな言い回しだがキックまがいの空手が多い中、今どき気持ちいいほど日本人離れした巨乳だ。グラビアデビュー当時は、「いやに色の黒い酒井若菜だな……」と思って目を近づけると、この子だった記憶がある(今見るとぜんぜん似てないが)。
某ウェブサイトで「MEGUMIはかわいくないが、あの巨乳の前にはみんなそんなことは忘れるだろう」とむかし評してあって、「どうかな〜」と思っていたら本当にそのとおりになった。巨乳の力はすごい。顔がリスに似てると思ったら、初めて撮影でやったコスプレはリスだったそうである。マンガ感想サイトなのに、こんなにMEGUMIのことばっか書いてていいのかおれ。いいんです。
とにかく、今いちばん少年・青年誌的にホットな被写体だ。ただ、「グラビアの次に何をやるのか」がまったく見えてこないところがノーフューチャーで気になる。
伊集院光がラジオで「彼女はテレビに出ていてもあまり楽しそうじゃない」と言っていたが、本人は楽しいのかもしれないがそこら辺のアピールが今後の課題だろう。
ビールのCMでの「許す!」というセリフが似合っているように、本来は高飛車キャラなのだろうが、テレビ上で無口では入り込みようがない! ガンバレMEGUMI。無責任に応援。

「尾崎豊物語」(後編)長尾隆也。野外コンサート中に飛び降りて骨折、覚醒剤使用で逮捕された後、出所したときにファンの歌声で迎えられる、突然の死といった、今まで「尾崎豊の伝説」と思われていたことをあえて軽く流し、オザキの内省とそれを見つめるプロデューサー・須藤の視点に絞ったところは、まあ面白いとは思った。
コンサートで自分の歌を口ずさむ客に向かって「オレの歌なんだから歌うな!!!」と絶叫するところは(本当かどうか知らんが)なかなか興味深い。
しかしまあ「スーパープロデューサーつんく♂物語」でも思ったことだが、実在の人物の実録モノはマガジンが好んでやる(この後もサッカー選手などがラインナップに入っている)ものの、大傑作は生まれにくいようだ。
尾崎豊の現役当時の人気や伝説化については、興味のあるところもあるが、詳しいことはわからん。作中にあるように、どうにもならんことをどうにもならんと歌ったことが人気を呼んだということはあると思うが、現在似たような代弁者っているのかね?
私の知るかぎり尾崎豊の劇画化は他に「卒業まで」尾崎健一、浜田芳郎(1994、メディアックス)というのがある。筋立てはだいたい同じだが、須藤プロデューサーがそんなに出てこないところが今回との大きな差。昔は「すべてを自主性を持ってやっている」と思われないと、ミュージシャンってマズいというところがあった。
それを変えたのが小室哲哉だったわけですが、それもどうして受け手の意識がそう変わってきたのかということは私にはわかりまへん。シンデレラストーリーを夢見る女の子たちが、CDをいっぱい買うようになったからですかね。

「3・3・7ビョーシ!!」久保ミツロウ。ソンケイする先輩のホストが、すっかりキレイになった高校時代の同級生の女の子、およびその彼氏と再会。彼らは大学でキャンパスライフを満喫しているらしく、嫌味たっぷりでそのホストをさんざんコケにする。ムカついたので主人公がそいつらをボコボコにする。
まあマガジンだし、ある程度お話を単純化させなきゃいけないから仕方ないけど、「大学生=チャラチャラしてる」ってのが高校中退をコケにするなんて場面、現実にはほとんどないと思うんだけどなァ。もしあったとしても、そういう学生にかぎって三流、五流なんだよな。
それよりもっと微妙なサベツに目を向けてほしい。そしてサベツ者をボコボコにしてほしい……と思うのはたぶん私だけなんだろうね。それにしたって大学デビューの山だしの勘違い女(男もだが)にコケにされて黙ってるテはないよな。それは共感できる。

「霊長類最強伝説 ゴリ夫」刃森尊。この人のマンガは、いつ読んでいつページを開いても同じだ。打撃戦、その後ごほうびの巨乳がチラリ。ストリートファイトなら、何も打撃じゃなくてもイイんじゃないの? もう飽きた。

「平成義民伝説 代表人」木多康昭は、確信した。コレすげー面白い。今や、私の中では「クロマティ高校」より面白い。木多康昭ガンバレ。
(02.0510)



・「週刊少年マガジン」22号(2002、講談社)

「ジゴロ次五郎」加瀬あつしが新連載。目立ちたがり屋でにぎわうとあるSA(サービスエリア)、通称ナンパーキング。ドラテク、ルックス、サウンド、スピード、とにかく「車で目立という」というヤツらが集まってくる。そこにデビューしようとするモテないダメ少年・石川次五郎。「デビューする」というより、トラブルに巻き込まれて参加しなくちゃいけないようなハメになる。
いちおう話がひとまとまりするのが次号なので、感想は次号。

「スーパープロデューサーつんく♂物語 〜LOVEマシーン大ブレイク編〜」杉山真弓前編。99年の「真夏の光線」、安倍なつみの「ふるさと」などを出しながらも、当初考えていたR&B路線に宇多田ヒカルが出現(作中には当然出てこないが、たけしの娘・北野井子もハジキ飛ばされてしまった台風の目)。「ふるさと」のチャート争いでは鈴木あみに敗北。実績を認められながらも、ブレイクできないまま次号へ。

「平成義民伝説 代表人」木多康昭、最初の方を読んでいないんであらすじを説明できないのがもどかしいが、コレものすごく面白い。スゲエ。ウットリする。なんか人気ないみたいだけど。
(02.0510)



・「週刊少年マガジン」23号(2002、講談社)

巻頭グラビアは小倉優子。個人的に好きなんだが、あまりにロリロリなんで危惧を抱いていたところ、18歳だということがわかって大喜び。大人じゃん。大人じゃん大人じゃん!(昔のノリタケ風に) 表紙には「ヨシヨシ系No.1」と書いてある。「ヨシヨシ系」というキャッチフレーズは付けも付けたりだ。別の雑誌では「ぼくらのかわいいお人形さん」と書かれていた。……ということで雰囲気を察知していただければイイと思う。
でも小倉優子で忘れてはならないのは、体系的にはスレンダーなんだけど、なんか水着グラビアのポーズが妙にエッチなんだよな。逆に言えば、スレンダーだからこそエッチなポーズでカヴァーしているのか……。こういうポーズって、いちいち事務所側のチェックが入っていると思うんだけど、小倉優子はずいぶん大胆だと思った。

「ジゴロ次五郎」加瀬あつしは新連載第2回。ナンパーキングでの対決のために車探しをする次五郎は、ボロボロな廃車置き場で自分と交感できる車を発見する。前編から通して読んで、いわばクルマ自慢しか頭にないヤツらのマンガになるだろうとは思うんだけど、こういう「地元」とか「土着」な感じからの浮遊感(「クルマ」というただの鉄のカタマリに瞬間ロマンを感じてしまうような)というのは、広義のヤンキーマンガしか出せない。
それと、こういう人たちがいちばん仕事と遊びの区別がついているんじゃないかという気もする。たとえばエヴァのシンジ君的内省とは別な何かがあるよね。
それと、ダメ人間から脱却しようとする意地、それが伝わってくるんだよな〜。
まあとにかく、加瀬あつしのヤンキーものはアツいよ。

「スーパープロデューサーつんく♂物語 〜LOVEマシーン大ブレイク編〜」杉山真弓後編。「芸能人やスポーツ選手の実録モノに名作なし」って書いたけど、コレ意外に面白いよ! R&Bに対抗してディスコ路線で新機軸をはかろうとするつんく、ダンス☆マンの起用、「ふるさと」のセールスがイマイチだったことに責任を感じた安倍なつみ、彼女を励ますメンバー。そして後藤真希の加入による「LOVEマシーン」の大ブレイクと、メリハリがすごくきいているからね。
絵でメンバーの区別がほとんど付かないし、本作のキーワードであるつんく♂の言葉「庶民←→天才」の対比にはちょっと抵抗があるけど(それが「マガジン」流なんだろうけど)、意外に盛り上げる。
この大きな理由は、プロット全体が軍隊モノによくある「おちこぼれ小隊」みたいなパターンを踏んでいること。実録モノにありがちな一人の人間を追いかけるパターンではなく、「落ち組」が成長するさまをつんく♂の手さぐりのプロデュースと重ね合わせていることが一因だと思う。
「モーニング娘。」の生成過程そのものが、「おちこぼれ小隊モノ」とか「女囚モノ」とか(笑)、「網走番外地」みたいないろんなヤツが好きでもないのに集められていろいろやらされる、というモノだから、それだけ物語を多層的にできるってコトなんだよね。
ページ数の都合もあっただろうけど、ゴマキはただカワイイだけじゃなくて、やっぱり「ガンバの冒険」の「イカサマ」みたいなキャラにしてほしかった。いや、私の中で(笑)。

「3・3・7ビョーシ!!」久保ミツロウは、何週か読んでみてやっとこの作品の雰囲気を掴むことができた。なんだかんだ言って、いい作品だと思う。ある意味、今のマガジンの流儀をいちばん体現している作品なんじゃないでしょうか。やっぱり義理と人情だよね……。

「平成義民伝説 代表人」木多康昭面白い。面白すぎる。本当にすばらしい。木多康昭、化けたね!! うん。しかし、次週で最終回だって。ガーン。
(02.0510)



いつもいつも思うんだが、この「マンガつれづれ」ってどれくらい読んでいる人、いるのかね? 同じHP内に「日記」も書いていて、「マンガつれづれ」と「日記」がいちばん更新頻度が高い。毎日のアクセス数の中で、いったい「マンガつれづれ」と「日記」、読んでいる人はどっちが多いんだろう? そして、片方だけしか見ない、という人はどれくらいいるんだろう?

昔、「オバケのQ太郎」の中で、正チャンが「犯人に捕まった少年が隠れて手紙を書き、それを紙飛行機にして飛ばして助けを呼んだ」というエピソードを思い出したことを思い出した。今、書いているのはそんなような文章だ。日記だけしか読まない人は、この文章を読まないだろうから。で、何が言いたいかというと、日記の分量を減らしてこの「マンガつれづれ」にシフトさせていきたいと思っているということ。
ふだん話をしない人に会ったとき、話題のつなぎになるし、思ったことをただヅラヅラ書けるので今まで日記を便利なメディアとして利用してきた。しかし、ウチの本質はあくまで「マンガ感想サイト」だから、それ以外のことってどうでもいいんだよねハッキリ言って。
ウチの「マンガつれづれ」が、更新頻度が遅いとか、取り上げる雑誌の時期が遅いとか、紹介傾向がバラバラだとか、そりゃそういう弱点は知ってますよ。しかし、当HPの他のコンテンツを発展させていくためにはぜったい必要な要素だから、やってます。
なんでこういうことを書くかというと、まあ正直言って、急に日記書く気、なくなったから。3年も続きゃいい方でしょ。唐突な終わり方もウェブらしいしねェ。

・「COMIC阿ロ云(あうん)」5月号(2002、ヒット出版社)

成年コミック誌。
「Party Time3」師走の翁は、以前としてファンとシャイ娘。の間で乱交状態になってるワケだが、ファンたちのどよめきがすごく面白い。
「つち」と「はこ」に強制フェラしてるやつがそれぞれいて、片方がつちの頭を掴んでぐいぐい股間に押しつけながら「つちちゃんごめんね!! ごめんね!!」って言うところとか、はこにフェラさせてるやつが自分もそれやってみたいと思って、はこの顔みたらチンチンくわえたままにらんでたりとか(笑)。ああ、やっぱり「小ずるそう」なのがはこちゃんだあ!! とか思ったり。
私、テレビとか見てていちばん個人的にヤンキー的緊張感が走るのって、ゴットー(仮名)とはこ(仮名)のツーショットなんだよね。そういうこと思ったりとか。

で、矢内の過去が少しあきらかになって、物語のクライマックスである「矢内処女喪失」に突入するらしいんだけど、「俺が 矢内を犯す!!」とかね、セリフとかコマ割り、擬音とかがやっぱり劇画ですよね。阿ロ云(あうん)ってのは劇画的ダイナミズムに意識的な作品が多いですね。

「放課後セブン」村正みかどは、次号で最終回。この人の描く女の子はポヨンポヨンな中にマンガ的シャープさがあって好きですね。原因なのか結果なのか、スポーツものとか遊戯王とかをコケにした感じなのもいいね。

「萌えろ! 雪女」井上よしひさは、「ミニスカートの雪女」の話。読みきり。あ、別にパロディってわけじゃないです。まあここで「なぜ雪女なのにミニスカートなのか?」にツッコミを入れる気も起こらない人がオタク。ツッコミを入れる人は、センスのない人。
ただノーパンってのがなあ……。雪女だとやっぱりノーパンですか? 雪子姫もノーパンだから?

「BAD SLAMMERS」ジャム王子は、新キャラ、サー・ロイヤル・悟浄III世が登場。思ったとおり、連載当初から「悟空道」を下敷きにしたマンガという感じではあったが、展開やキャラ造形はきっちりオリジナル。この悟浄、ハッカイのテキトーさに比べると実にイイキャラクターに仕上がっている。
要するに、「近親相姦はタブーではないがスカトロはタブー」という天界の価値観によって地上に落とされたらしいんだけど、この辺りのセリフのやりとりは、燃えるなあ。熱血だなあ。

「Metal Adrenaline」Kaikanは、阿ロ云(あうん)新人漫画賞入選作品。謎めいた世界で、古代文明によりつくられた巨大ヒューマノイドを目覚めさせようとする美少女を描いた短編。ぜんぜん悪い意味じゃなく、80年代のレモンピープルとかが思い出される。レモンピーブルはやっぱり必要だったんだ!! ラピュタは本当にあったんだ!!
(02.0509)



・「COMIC阿ロ云(あうん)」6月号(2002、ヒット出版社)

成年コミック誌。出てから、時間が経っちまってすいやせん(時代劇風に)。次号は5月28日(火)発売予定です。

「Party Time4」師走の翁は、ついに矢内が……。ファックに至るまでの描写が、丹念でイイですねえ。ゴットーが「毛むくじゃらでイイから」というのは、後藤さんが「毛むくじゃらの男はキライ」とテレビ等で発言しているからですな。

「放課後セブン」村正みかどは、最終回。ついに魔王との最後の戦い。セブンの謎も明らかになって、キッチリ終わりましたね。勢いがあってイイマンガだった。単行本下巻、欲しいです。

「あっちのカナカ」幸田朋弘は、SFおしかけ女房参照のこと。

「名探偵マリア2 バレリーナ殺人事件」井上よしひさは、銃で撃たれ死んだバレリーナの身体になぜ銃痕がふたつあるか、を推理する。当然、世にもくだらない結論なのだが……(ホメ言葉)。ちゃんと推理編とページを分けてあるのもバカバカしくてよい。

「ひみつの箱庭」酔花ころんは、ご主人様とメイドの変態プレイだが、ラストのどんでん返しというか何というか、結末がイイです。

「BAD SLAMMERS」ジャム王子は、三蔵一行は悟浄と別れ新展開。「妊娠瓜(にんしんか)」というキモチワルイ果物を、女の子の身体を使って育成する悪人ぽいやつが登場。次号へ。
(02.0509)



【同人誌】

・「伊藤伸平『素敵なラブリーボーイ』を読む」 吉本松明(2002、みるく☆きゃらめる)

アワーズライトに連載された「素敵なラブリーボーイ」伊藤伸平についての評論。
本来なら、評論の対象である「素敵なラブリーボーイ」の感想から書くべきなのだろうが、本書でだいたい私が感じたところが言語化する前に書き尽くされてしまった感があるので、こちらについて簡単に感想を書いてから、私自身の同作についての感想を書きたいと思う。

本書では、伊藤伸平の過去の作品傾向、ラブコメやギャルゲーに対する対抗意識(?)をふまえた上での本作の現代的意味について言及されている。正直、私はここまで深く考えていなかったので、大いに勉強になった。また、伊藤伸平がアワーズライトで現在連載している「永遠のグレイス」(原作:川崎郷太)に対する私のモヤモヤ感の原因にも、ある程度光明を与えることができた。

私の「モヤモヤ感」とは、簡単に言えば本書でも指摘されているとおり、作者がわかりやすいドラマツルギーを意図的にはずそうとしていることにある。そうした描き方がきわめて現代的だと言うことはまったく否定しないが、私自身はそうした作劇法にどうもすっきりしないものを感じている。いいも悪いもなく、これはもう完全に好みの問題である。

……というわけで、私の「素敵なラブリーボーイ」に関する感想を、以下に書くことにする。
(02.0506)



・「素敵なラブリーボーイ」 伊藤伸平(2002、少年画報社)

アワーズライト連載。女の子ばかりの演劇部における唯一の男の子として、パシリを引き受ける少年・サキの高校生活と、彼の周囲の女の子たちの青春群像(?)。

連載中、断片的に読んだかぎりでは演劇部を舞台にした、恋愛模様もからめたよくできた青春物語、という印象しかなかった。が、まとめて読むとさまざまな伏線や作者のドラマ構築に対する意図がこめられており、なかなかに一筋縄ではいかない作品になっていることに気づいた。

だがまあ、正直言って最初の読後感は「あまりピンと来ない。淡泊すぎる」というものだった。
コドモは大人の見るテレビドラマを一緒に見ていて「これ、だれがいいもん? 悪モン?」と聞いたりする。物語の構造を捉える基準が勧善懲悪しかないワケであるこの場合。この間、ヒトと雑談していて大いに驚かれたが、実は私は心の奥底で、物語構造を「いいもんと悪モンの世界」としか把握していないところがある。

本作で言えば、「いいもん」は演劇部員のやや理不尽な要求にも応えてパシリまわる主人公のサキであり、「悪モン」は周囲のえーかげんな演劇部員である。こうした捉え方がいかに的はずれなものかはわかってはいるのだが、そうとしかとれないんだよ! 本書のあとがきのタイトルは「っつーかブックオフで買ってんじゃねーよ!」であるが、きちんと新刊書店で購入したことでもあるし、どのような読み方をしても勝手だろうとひとまず開き直らせていただく。

・「フニャチン=零落したマッチョイズム」
さて、その「っつーか(以下略)」というあとがきにおいて、作者は「たいした能力もないフニャチン野郎がカワイイ女の子に囲まれてヘラヘラしてるけど、決して誰とも関係を進展させず、周りの女の子たちはそれを『ヤサシサ』だとぬかして、クドかれもしないのにパンツを濡らす」ジャンルが存在するのだから、「いかに登場人物に何の関係も進展させず、1年間主人公をたんなるイイやつで逃げきらせるかが勝負!」と考えて作劇したと書いてある。そして、それに結果的に失敗してしまったとも。

しかし、そうした「たいした能力もない(以下略)」という80年代以降の少年ラブコメにおける物語構造そのものが「零落したマッチョイズム」であると言ったのは、まあその、なんつーか私です。
知性も筋肉もあるオトナの男が、騎士的存在として女の子を庇護する、という物語が古いものになってしまったからこそ、主人公の男の子は「たいした能力」を失ってしまった。しかし、男女の関係に対する幻想はまるで雨にさらされてグズグズになって電柱に貼りついたプロレス興業のポスターのごとく残ってしまったため、ある意味いびつなものとして「少年ラブコメ」という構造が残ったというのが私の考えである。

つまり、主人公のサキが後半「男気」を出すキャラクターとなったのは、悪意を持ってでさえ「少年ラブコメ的構造」をつくった以上、必然的であるとすら言える。わざと駄作にしようとする意志がないかぎり、そうしないと物語が終わらないのである。
もしもサキに関して「1年間主人公をたんなるイイやつで逃げきらせ」ようと思えば話は簡単で、「女子の意見がやや強い」程度の演劇部の力関係を、もっと徹底的に女子側にシフトさせればよかったのだ。
少年ラブコメが、どんなに薄めようと、どんなにヒネようと根底にマッチョイズム的な構造を持っているかぎり、思いきってその力関係を逆転させれば(マンガとしての面白さ云々とはまったく別に)、真のフニャチン野郎ができあがるワケだ。もしかしたら女の子向けのマンガにはすでにそういうものがあるのかもしれない。

・「いいもん・悪もん問題、そして真の悪とは?」
さてさて、最初の方に書いた「いいもん悪もん問題」で語らせてもらうと、個人的にこうした少しの悩みと、少しの打算と、少しのクールさを持って生きている人々が登場するマンガというのは私は非常に苦手だ。それは、そうした人間が悪人だからだと解釈しているからである。むろん、そういう人間が現実世界でもほとんどであり、私もそうだから、自分が悪人だと言われても仕方がないとは思っている。

本作の中でもっとも「いいもん」は、後半精神的マッチョぶりをかいまみせたサキを除けば、彼を慕いつつ最後まで素直になれなかった幼なじみのジンコであろう。むろん、本作の「通常のドラマツルギーをハズす」という「悪意」によって、サキとジンコの関係は最後まですれ違って終わってしまう。実験的な感じすらする展開である。
だから、サキとジンコの関係を通して感じるのは作者自身の悪意、すなわち本作において最大の「悪モン」は作者だということなのであった。

「悪モン」の、その悪の構造を読みとられなければ、勧善懲悪モノは完結しない(まさかとは思うが、作家にとって「悪人」と言われることはある種のホメ言葉だということがわからないヒトは、この先の文章は読まんでいい)。

で、作者の作劇の意図がぶっちゃけ「広義のオタク的ベタ」に対する異議申し立てだとして、それが成功しているかというと必ずしもそうは思えないのだ。
以前、非常に有名な、美少女を描かせれば日本のマンガ史に確実に名を残す作家がイベントで「何だあの『メガネっ娘萌え〜』とかいうの。アホじゃないの?」とこきおろしていたので驚いたことがある。だって、その人は非常にかわいいめがねの女の子を描くヒトだったから。

私は伊藤伸平の作品は、本作を除けば「モルダイバー」しか読んだことがない。確かアニメとのメディアミックス作品で、主人公の美少女が「モルダイバー」というスーパーヒロインに変身するという作品である。どうひっくり返しても、この作品のターゲットはいわゆる「オタク」意外にありえない。
絵柄からしても、私はこの作者を「オタク寄りの作家」だと思っていた。

しかし、「素敵な……」は「オタク的ドラマツルギー」をハズした物語である。別に作者の心境の変化や引き出しの多さが悪いとは言わないが、一種の自家中毒であるとは言えないこともない。

・「オタク的アイテムを使ってオタク批判は成り立つのか?」
こうした事象は、先にあげた「萌え〜」を糾弾する美少女マンガ家や本作にとどまらない。たとえば「物語が物語内で、それがフィクションだということを気づかせなければならない」(大意)とずいぶん前に言っていた押井守もそうだろうし、アニメというこれ以上インドアなものはないメディアに携わっておいて「子供は自然の中で遊びなさい」みたいなことを言っている宮崎某だってそうである。
「オタクをターゲットとした作品の中で、オタクを批判することができるか?」は、常に繰り返されてきた一種の幻魔大戦なのだ。

そして、そうした戦いは、常に送り手が敗北していったと言っていいだろう。本作に関して言えば、登場人物たちがほとんど80年代アイドルをもじった名前になっていたり、作者の過去の作品を知らなければわからない描写が出てきたりといったことそのものが、やっぱり「オタク的手法」ではないか。そのようなことで、真のタク批判などできるものだろうか?

いや、もちろん「オタク的アイテム」といっても複数あり、たとえばミリタリーマニアではあってもロリコンではない人もいるように、すべての要素を「オタク」一人ひとりが兼ね備えているわけではない。
しかし、それこそが「オタク」は「群体」の名称でありながら、個々人の趣味はいくつかのオタク的アイテムの順列組み合わせにすぎないという、「オタク」というカテゴライズ、物事の斬り方に対する本質的な矛盾でもある(作者は「オタク」という言葉をあとがきで用いていないが、「そういうのにまみれた業界にいる」作家としてトボけることはできないだろう)。

そして、「作者の読者(大衆)批判が常に作品評価にギャップを生じさせる」ことはオタクモノに限らず大衆文化全般に対する構造的なできごとで、読者にある種の求道精神のようなものを強いる文芸作品などとは決定的に違うことでもある。
そこに創作者の「あがき」を見いだし、作家的苦悩を取り出して共感するか、「同じ穴のムジナのくせにあがいてんじゃねーよ」と考えるかは、……まあこれすらも受け手の自由になってしまうのだった。

その意味で言えば、エンタテインメント作品の創作者にとっての最後の「自主性」とは、「悪人である」ということなのかもしれない。
そして悪人ゆえに、地雷の埋まった作品を世に送り出すのである。その永久運動。

いや、とりわけ伊藤伸平という作家が、表面上はオタク好みの要素を持ち合わせているだけにそう感じてしまうのだけれど。
(02.0506)



・「ミニモニ。やるのだぴょん!」 もりちかこ(2002、小学館)

「ちゃお」連載。ミニモニ。の4人が活躍するギャグマンガ。
カラーページ、クイズ、占い、クロスワードパズルなどの付いたふろく感覚が楽しい作品。カバーを取るとさらにクイズや塗り絵、カバー裏には作者のミニモニ。取材マンガが載っているなど、盛りだくさん。
ミニモニ。のマンガに関しては、学年誌に連載している「とっても! ミニモニ。」永野ゆかり、こやまゆきもあるが、どちらかというと本作の方がよりフィクションぽいというか、「ミニモニ。ハウス」というおうちに4人が住んでいるという設定の話もあり、なかなかかわいらしい内容になっている。
アニメ「ミニモニ。やるのだぴょん!」とまったく同じ話も見られるので、どちらかがどちらかを元にしたか、あるいは共同プロジェクトってヤツですか。

ど〜でもイイ話ですが、私は「モー娘。」のユニット内ユニットの中でも最もミニモニ。を高く評価している。理由はいくつかあるが、
・「矢口が勝手につくった」という、設立過程に多少の物語性がある
・歌詞にまったく意味がない
・4人のキャラクターの必然性
・強いキャラクター性にも関わらず、「別人」などの面倒な設定がない

どれもつんく、あるいはつんくブレーンの恐るべき嗅覚によるものであろうが、とくに「別人」などの面倒な設定がないのはイイ。悪魔と自称するデーモン木暮あたりまでは面白かったが、最近では「王様のブランチ」ではしのえみが「自分は女王様とは別人」という設定になっていたりして(ホントなんだよ!)はっきり言ってものすごくウザい。あと、古い話だがともさかえりとさかともえりとか。どーでもいーっつーの。
想像するに、つんくの思い描いている消費者層は、たとえばピチカートファイヴのファンなどとは対局に位置するものであり、そんな面倒なフェイクには多分付き合わない。なにしろ「選挙の日は投票行って外食する」一家だからなー。
「設立に多少の物語性がある」というのは、たとえば競争させて勝った方をデビューさせるとかそういうんではなくて、プロレスのフェイク的な意味合いの物語性のこと。コレがマンガとして独立できる理由のひとつにもなっている。たぶん「プッチモニ」や「タンポポ」では、「娘。」ストーリーの1エピソードにはなり得ても、それだけで単行本とかは出せないであろう(「蒼馬社」のアーティストコミックなら出すかもしれんが……)。

「歌詞にまったく意味がない」のは、「設立に物語性がある」ことと矛盾する。が、「設立に何の必然性もない」が、「小器用に意味のある歌を歌っていた」おニャン子なんかとはまったく逆だ。どうでもいいが秋元康が作詞など表舞台でイロイロやっていた頃は、たとえば特定のドラマやバラエティに何のカンケイもない歌をテーマ曲としてねじ込んだりするさきがけだった。映画「そろばんずく」の主題歌なんて、腹が立つほど何の関係もないよ。
まあどうとでもとれるような歌詞の小室哲哉はともかく、つんくはおそらく秋元をリスペクトしながら意識的に「投票行って外食する」ような一家が「意味を見いだせる」ような布陣を常に敷いているのだと思われる。

それは、4人のキャラクター性に強い意味があることとも関係していて、「あまりにオトナの事情」でミニモニ。に入ったミカが、野村義男的役割を積極的に担っている点に注目したい。
面白いことに、3人以上のグループは1人は「野村義男的」、すなわち地味な存在がいないとバランスが悪いようなのだ。もし3人ともが前に出るタイプの場合でも、だれかが強制的に地味役を担わされてしまうようなところがある。
で、この「野村義男的タイプ」のタレントでも、本当にただの地味で終わるか、地味なりの個性を確立するかが問題になるのだが、ミカは「アメリカ人(英語がしゃべれる)」、「いちばん当たり障りのないことが言える」、「たたずまいが4人中いちばん上品」などのグループ内バランスを保つ重要なポイントとなっている。ミカ起用には、素人考えでも一種のワークシェアリングみたいな意味合いがあったように思うが、決してソレにとどまらなかったのは彼女自身の功績だろう。

後は「ディーバ」系の歌手とは意識的にまったく逆の「カワイイ」系を目指しているとか、ミニモニ。については「コンセプト当て」みたいなことはいくらも思い浮かぶけど、もっとずっと詳しく、かつ愛情のある人がいろいろ書いてくれていると思うので半可通の私は退場することにする。
(02.0505)

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