つれづれなるマンガ感想文10月前半

「つれづれなるマンガ感想文2004」もくじに戻る
「つれづれなるマンガ感想文」9月後半
「つれづれなるマンガ感想文」10月後半
一気に下まで行きたい



【映画】・「DEVILMAN デビルマン」 監督:那須博之、脚本:那須真知子(2004、東映)
【映画】・「ヘルボーイ」 監督:ギルレモ・デル・トロ(2004、米)
・「鉄腕アトム」(3) 手塚治虫(1999、秋田書店)
・「PLUTO(プルートウ)」(1) 手塚治虫、浦沢直樹(2004、小学館)
【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2004、テレビ東京)
【書籍】・「封印作品の謎」 安藤健二(2004、太田出版)
・「血だるま剣法 おのれらに告ぐ」 平田弘史(2004、青林工藝舎)
・「バジリスク 甲賀忍法帖」全5巻 山田風太郎、せがわまさき(2003〜04、講談社)
【雑誌】・「増刊 劇漫デラックス スペシャル」 近代麻雀11/5日増刊号(2004、竹書房)
【雑誌】・「週刊少年ジャンプ」45号(2004、集英社)
【映画】・「特捜戦隊デカレンジャーTHE MOVIE フルブラスト・アクション」 監督:渡辺勝也、脚本:荒川稔久(2004、東映)
【映画】・「劇場版 仮面ライダー剣 MISSING ACE」 監督:石田秀範、脚本:井上敏樹(2004、東映)
【書籍】・「二次元美少女論―オタクの女神創造史」 吉田正高(2004、二見書房)
【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2004、テレビ東京)
【映画】・「頭脳戦隊クビレンジャーVS頭角戦隊アタマイザー5」 監督・脚本・編集・撮影:酒徳ごうわく(2004、日本)
【特撮】・「超星神グランセイザー」最終回「復活の日」(2004、テレビ東京)
【特撮】・「美少女戦士セーラームーン」最終回(を見るのを忘れた)(2004、TBS)






【映画】・「DEVILMAN デビルマン」 監督:那須博之、脚本:那須真知子(2004、東映)

公式ページ(ウチのパソコンじゃ見れない)。

ストーリーは、原作をほぼ踏襲しているので省略。
すごいネット上で批判が巻き起こっているようですが、実際見た結論。

みんなけなしすぎ! いったい何を期待していたんだ?

私の事前の期待値が低すぎたせいかもしれないが……。「ま、こんなもんだろ」というのが私の感想です。

ネット上に限り、ここまで非難の声があがっている理由としては、やっぱり神格化された原作の存在があるんだろうな。

確かに、けなしたらキリがない面もある。ひとつだけあげるとすれば、「世界中が大パニックになる」描写がうまくできなかったことだ。
だからこそ、こぢんまりとまとめることで「世界のパニック」を描いた仮面ライダー555の映画(→感想)をしつこく誉めたりする私である(テレビシリーズの555は、決して好きな番組ではなかったが)。

実際はどうかわからないが、見ているぶんには3カ所くらいの場所の撮影で済ませている印象がある。これはマズい。
ただし、キャストが先に決まっていたと勘ぐれるがアナウンサーをボブ・サップにしたのは良かったと思う(ここでなぜかどこかから「ええーっ」の声が聞こえる……(笑))。
邦画で「世界中がパニックになる」のを描くときの最大のヤバい点は、ガイジンの役者が大根だったり出てくるシーンがいかにもおざなりだったりすることにあるが、サップなら「ああ、サップじゃん」で済まされるから、それも誤魔化し方のひとつだと思うんですよ(まあ、そのうえKONISHIKIをデーモン役にしたりするから反感を買うんだろうけど)。
パックンマックンでも良かったと思いますけどね。

アイドルである酒井彩名が映画内でお人形さんであるのは仕方ない。もうちょっと冒険して欲しかった気もするが……、結果的に、ミーコ役の渋谷飛鳥が酒井彩名を食ってしまっている。

ミーコをサブヒロインにしたのは、いい着眼。永井豪以外の描いたデビルマンはあまり読んでませんが、江川達也も確かミーコ視点でのデビルマンを描いてますよね。 原作での不動明とアモンとの合体が、当初から神話的必然性を見せていたのに対し、同じ「悪魔人間」であるミーコは背負うものもないし、人間とデーモンとの戦いという大状況も知らないし、完全には人間体に戻れないのでフリーク性も高い。つまり、より普通の人間に近い。

だから、デーモンが全面戦争を仕掛けて後の牧村家以外の人間キャラをすべてそぎ落としても、ミーコを残したのは正解だと思うんです。
で、このミーコもまた、クライマックスでよくわかんない妖精みたいな感じに変身してしまってまた非難囂々でしょう。
しかし、これも下司の勘繰りですが、おそらく渋谷飛鳥のイメージづくりということがなかったとしても、原作どおりにしてしまうと皮膚に障害を持った人に対するサベツだと思われかねないという自粛があったのではないかと考えます。

実際、ミーコが左腕から出していたのも原作と違ってビームみたいなものでしたしね。
あのミーコのクライマックスシーンで、もし服の前をバッとはだけ、あのタコみたいな身体を晒し、そこから原作どおりの濃硫酸みたいな気持ち悪い液を射出し、人間どもを皆殺しにしてたら、たぶんそのシーンだけで私はこの映画を許してたと思いますよ。
でもたぶんできないんだろうね。いろんな問題があって……。

人間VSデーモンではなく、早めに人間同士のパニックに移行したことに不満の人も多いでしょうが、明らかにイラク戦争がらみの世相の影響でしょう。「日本がデーモンの国と認定されて攻撃される」というセリフもありましたし。
このあたりは、「キャシャーン」を見てから予測できたので驚きもしませんでした。

とにかくネットを見るかぎり、みんな怒りすぎ。その怒りをなぜ「RED SHADOW赤影」や窪塚版「魔界転生」に向けなかったんだ!? そっちの方が不思議です。
(04.1015)


【映画】・「ヘルボーイ」 監督:ギルレモ・デル・トロ(2004、米)

公式ページ(ウチのパソコンじゃ見れない)。

第二次世界大戦中、ナチスは怪僧ラスプーチンの手によって地獄(魔界? わからん)の扉を開け、なんだかすごいバケモノを呼び出そうとしていた。
その試みは失敗に終わるが、真っ赤なサルっぽい赤ん坊がこっちの世界に取り残される。超常現象研究家のヒトが、彼を「ヘルボーイ」と名付けて育てることになる。
あれから60年、ヘルボーイは人間年齢で二十代前半の青年に成長、魔物退治を仕事とするようになった。

しかし、復活したラスプーチンは60年前に呼び出そうとした怪物を再び現世に召還しようとしていた……。

うーん、こういうことを書くと怒られてしまうかもしれないが、私としてはデビルマンよりこっちの方が「あれれ」でした。
まず「ヘルボーイ」っていうのが何なのかわからないんですよね。得意技とか、どうやると死ぬのかとか。「どうせ地獄から来たんだから、ちょっとやそっとでは死なないんだろう」とか思って見ていると、戦ってても緊張感がいまいち感じられない。

あと、このお話の世界観って、「魔界と人間界」という対立構造じゃなくて、それ以外の超常現象も混入しているらしくてそれがわかりにくい。超常現象研究所みたいなところにいる半魚人やものを発火できる能力を持った少女、他の敵キャラも、なんだかヘルボーイとはまた違う体系の世界の能力を持っているみたいなんで、よくわかんなかったです。

ただし、キャラの練り込みはけっこうしてあったと思う。ヘルボーイを育てた博士、半魚人、発火できる能力を持った少女、ヘルボーイを嫌っている上司のおっさん、彼らの仕事を手伝わされることになった普通の若者、わりときちんと描けていました。

そして、何と言ってもぬとぬとベトベトの敵化け物軍。この監督は本当にぬとぬとが好きなんですな。もうこれ以上ないっていうくらいぬとぬとなやつが出てきて、味方側でも半魚人はぬとぬとしてますから、ぬとぬとしっぱなしの展開となりました。

ぬとぬとな怪物を見たい人には、確実にオススメです。
(04.1015)


・「鉄腕アトム」(3) 手塚治虫(1999、秋田書店) [amazon]

浦沢直樹のリメイク「PLUTO(プルートウ)」(→感想)の原作「地上最大のロボット」(1965)と、「マッド・マシーン」(1958)というエピソード収録。

実は、「PLUTO(プルートウ)」の豪華版にオリジナル版「地上最大のロボット」が付いているなんて知らず、この巻を探し回る結果になってしまった。「鉄腕アトム」は数種が各出版社から出ているが、大きめの書店では軒並み「地上最大のロボット」収録の巻が無く、しなくてもいい苦労をしてしまった。
ま、手塚の現在の書店における在庫状況を見られたということはあるかもしれないが。

で、この「地上最大のロボット」というエピソード、実は初見だった。作品冒頭の手塚治虫のマンガによる解説によれば、連載当時かなり人気があったということだが、一般的に語られる「アトムの魅力」とも少々かけ離れている気がする。
お話は、プルートウをつくったどこかの大金持ちが、プルートウを地上最大のロボットにしようと、各国で最強と呼ばれる7人のロボットを倒して回させるというものである。

簡単に言ってしまうと、「伊賀の影丸」などのバトルに重きを置いた作品に限りなく近づいていて、コレはアトム本来の魅力とはいいがたいと思う。
「ロボット同士の戦い」が各国の兵器競争のたとえだとか、「基本的に戦いは好きじゃない」手塚治虫の志向が現れてはいるとも読めるが、どうもエクスキューズにしかとれないんだよな。

「鉄腕アトム」には以前から疑問があった。たとえば「ロボット三原則」にのっとっているはずなのにアトムが「ええいこのわからずやめっ」とか言って悪人をぶんなぐるシーンがクライマックスになっていたり、悪人側でも「ロボット三原則があるからロボットが人間を襲えないのなら、狂ったロボットを使えばいい」とかやたらと言うんですよ。この辺の、あまりにいいかげんなやり方の原則クリヤも好きじゃなかった。
あとクダラナイ理由だが、アトムがねんじゅうハダカでいるのも子供の頃にヘンだと思ってたなあ。

「PLUTO(プルートウ)」を読む前に本作を読んだのだが、「もし力の強いだけがえらいのならプロレスの選手がいちばんえらいことになる……だが実際はそんなことはない」(p19)とお茶の水博士が言う部分に梶原一騎との違いを見て思いをはせたりした。

もう少し踏み込むなら、たぶん手塚治虫は格闘技も野蛮だと思っていた人で、そういう西洋風良識人みたいな雰囲気をまとっていたくせに、マンガにおいて合法的(?)に肉体変容にまつわるあらゆる変態的表現はやって見せていた。
そんなところは「近頃のアニメは美少女を書くことにばかり血道をあげている」とか言いつつ、しっかり美少女を描きまくっていた宮崎駿と同じように「言ってることとやってることが違うじゃん!」と、実は昔っから思っていました。すいません。

まあ、こういう単純なプロットだからこそ浦沢直樹のリメイクが生きたということは確実にあると思う。「PLUTO(プルートウ)」は単なる浦沢直樹や担当編集者の「熱意」だけで実現した企画ではないと思うな。「アトム」のエピソードのチョイスにも計算もあると思ったことですよ。
(04.1014)



・「PLUTO(プルートウ)」(1) 手塚治虫、浦沢直樹(2004、小学館) [amazon]

ビッグコミックオリジナル連載。次々とロボットが破壊される事件を、刑事ゲジヒトが追う。

「アトムではなく、ゲジヒト(しかも地味な刑事っぽいデザイン)が物語の案内役」というだけで、実は胡散臭い目で見てました。すいません。
だって、「主人公がなかなか登場しないという趣向」は、リメイクの方法としてもマイナーなものにとどまると思ってましたからね。

それと、私事で恐縮だが十数年前、「パイナップル・アーミー」全巻と「プラモ狂四郎」全巻が古本屋においてあって、ヒトのススメでパイナップル・アーミーを選んだらその後数年間にわたって後悔したという経験もありました。今でも「パイナップル・アーミー」は好きじゃないマンガのひとつです。好きな人には申し訳ないですが。
「パイナップル・アーミー」が嫌いな大きな理由は、「リアリティ」の軸の合わせ方にありました。時期的には小池一夫的なハッタリが飽きられ、内藤陳の冒険小説案内本「読まずに死ねるか!」の評価が定着していた頃だったと思うんでああいうふうになったのかなと思うんですが、もう見事なまでに私の好きな部分が入ってないんですよ。

でも本作には入ってました。
まず、ロボットの形態が不定形。ロボロボしたヤツもいるし、ヒューマノイドタイプもいる。人間にどう受け入れられているか、の描き方も1巻の次点では絶妙です。 もちろんアシモフと、レプリカントの概念を浸透させた「ブレードランナー」と、製作時期から直接の関係はないでしょうが、アメリカ人のロボットイメージを顕在化させた「アイ,ロボット」を通過させて日本人的な現在の人権感覚、ロボット感を総合すると、こういう世界観になるんじゃないでしょうかね。

人間/ロボットという対立項が成立している「アイ,ロボット」と比較すると、実に対照的。ロビーの死を知らされる妻ロボットのシーン、モンブランの死に涙する人々のシーンなんて、日本人のロボット感でしか描けないんじゃないか? と思います。
ノース2号のエピソードも実によくできているんですが、何となく西洋人にも描けそうな感じと「老人とロボット」というモチーフとしては江口寿史の読みきりで、一人暮らしのおじいさんが一緒に暮らしていた美少女ロボットのバッテリーを買いに行く話が好きだったのでちょっと割り引いて考えてます。

本作の面白さの要因は他にもいくつかありますが、基本的にバトルものであった原作を「動機不明の連続殺人事件」のプロットに組み替えているところが大きいとは思っています。

冒頭の「パイナップル・アーミー」の話に戻ると、浦沢直樹は私の考える「嫌リアリズム」の人ではいつの間にかなくなってたんで、嬉しいかぎりでした。
(04.1014)



【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2004、テレビ東京)

10月10日放送分。

公式ページ

まず、最初に七期オーディションの前に、現メンバーに心境を聞くというコーナーが数週前から入っている。
今回は藤本も含めた六期がいろいろ聞かれてた。しかしミキティに関し「ソロでの活躍が認められ、加入」っていう表現は、世の中そういうものだとわかっていてもいくらなんでも言葉遊びが過ぎるだろう。

ハロモニ。体苦祭

体育の日なので、運動会的なことを。今回もわりと面白かったですよ。

・帰ってきた伝説のぶ〜らぶらゲーム
目隠しをして、上から吊されたモノを顔だけで触れて当てるゲーム。女の子がキャーキャー言うのを楽しむ、嗜虐的なゲームであることよ。
紺野、泣いてたよね絶対? あと飯田さんのあまりに過剰ないやがり方もエロかったです。司会なっちの無邪気サディズムが今週も全開でした。
「みっちげさんに、ピンクネタをふっといてわざと無視」っていうのは、かなり高度な笑いテクだと思うのですがどうでしょうか。

・コント「公園通り三丁目」
私が好きじゃないマキエルは早送り。
紙芝居屋さん「小川まこ次郎」の、「紙芝居だと思ったら同じ絵の繰り返し」というネタは、きちんとやればもっと笑いがとれると思った。
あと、モンロー石川とジョン・トラブルタが出てた。

また変態じみたことを書きますが、幼稚園児メンバーでいちばんエロいのは、園児服を着ていないのに園児っぽい演技をしていた藤本美貴ティーだ! 次点・太股をより露出させていた亀井。

・ガチンコぶら下がりイントロ
「ぶら下がり健康器具」にぶら下がりながら、イントロを答える。これは普通のゲームとして面白いですね。こういうときに弱っている石川梨華さんは天下一品ですね。
いろいろ考えた結果、石川梨華って「総受け」だと思うんですがいかがでしょうか。

・スタジオライブ
後浦なつみ「恋愛戦隊シツレンジャー」。すいません、好きな人には申し訳ないが、良さがまったくわからない。テキストサイトを巡回すると、「なっちはやりきれてるかやりきてれないか」の評価の違いがあるくらいかな私の興味は。
いちばん、何のてらいもなくやっている後藤真希は偉い。松浦は、照れがあると思いますよ。なんか「どういう顔してやったらいいかわからない」感じですもん。
安倍さんは、歌っているときはともかくあの衣装でコメントをしているときは、「自分がこの状況にいるのが面白くてしょうがない」という印象。

っつーか、ハロプロって「なんじゃこりゃ!?」っていう最初のインパクトが肝心、という部分もあるんだけど、……うーん、今回は裏目に出た感じだなあ。

ただ、唯一フォローをするとすれば、三人とも新曲の次の打ち出しが微妙な時期だったのかな、という感じはします。

・開脚柔軟クイズ
各チームの代表者が、クイズに不正解の場合じょじょに足を広げていくという、こうして書くと「イヤハヤ南友」を連想させるゲーム(そんなにエッチなものではありません)。
開脚する役が、ガキさん、みっちげ、石川梨華、よっすぃ〜。みんなすげー足開くよ、さすがダンスやってる人たちだぁ、と素直に感心した。
ここでもなっちの「SEに合わせてやろうよ」的な指導っていうの? それが面白かった。何となくツッコミが藤井隆っぽいかな。藤井隆ちょいキツめ。

・HPH
ムラ田さんみたいなタイプの女の子は、三十歳に近くなるとどんどんキレイになっていくと思います。いいよなあ。
キャメイのゲストは後浦なつみ。大先輩三人で、キャメイちょっとテンパってたか? しかし「キャメレンジャー!」とかやったり、後藤真希がにらめっこ対決でやった「素の顔」をテレビの前でやらせたりと五期メンにはない堂々としたところは相変わらずでした。

珍しく番組の総評をします。
私、「ハロモニ。」って一時期、高橋愛を推していたって気づかなくて見てたんだよね(ハロプロワイドに「ラブリー高橋」で出てた頃)。最近は、辻・加護が抜けて、飯田・石川の卒業が決定しているということで明確に番組は六期いじりに走ってますね。
辻・加護や五期とのバランスで見ると、物怖じしない六期もかわいくまとまっていることがわかります(まあ辻が破天荒すぎたというのはあるんだが……)。
「ハロモニ。」という番組において、七期を未知数として勘定に入れない場合、バランス感覚で重要になってくるのはむしろ五期だと思うんですよね。
藤本のツッコミも、むしろ自分の先輩に対しての方が効力を発揮する気がしていて、今後上が抜けちゃうとむずかしいかなと私は思ってますし。

五期に関しては、自身がモーヲタであるという部分をガキさんはおおやけにアピールした方がいい。小川は痩せた方がいい。紺野は……まああのままかなあ。写真集で実績を出したのはハロモニ。とは関係ないけど面白い現象でした。
そして問題は高橋。今回も、「クイズにタメなしであっさり回答、そして間違う」という典型的な高橋っぷりを見せてもらったし……ってそんなの本当にわかる人しかわからないよ!

前回の放送

(04.1011)


【書籍】・「封印作品の謎」 安藤健二(2004、太田出版) [amazon]

確かに放送されたのに、何度か見たことがあるのに、いつの間にか見られなくなってしまう……そんな封印作品の「封印」の理由にせまったルポルタージュ。
とりあげられているのは「ウルトラセブン12話」、「怪奇大作戦 第24話『狂鬼人間』」、映画「ノストラダムスの大予言」、「ブラック・ジャック」の数話、「O-157予防ゲーム」。

私も熱心な特撮マニアというわけではないので、ウルトラセブン12話は見たことがない。それにしても、「映画宝島 怪獣学・入門!」での12話を扱った記事まで、再販では差し替えになっているとは知らなかった。
他にも、実にこまごまと調べてあって、安易に「だれが悪い」と結論を出さず、その封印の構造のようなものに目を向けているのが好感が持てる。

「狂鬼人間」は、高校の時に見た。すっかり今でも見られるものと思い込んでいたのだが、いつの間にか封印されたらしい。「ブラック・ジャック」のロボトミー問題も覚えている。ここら辺も、学園紛争の知識などない私には興味深かった(なにやら関係してくるのである)。
「O-157予防ゲーム」は、本書に取り上げられている唯一の「萌えモノ」。本書を書くきっかけになったという事件で、ニュースサイトなどで「手を洗おー!」のあずまんが大王ポスターを見た記憶のある人も多いと思うが、そこら辺に関連してきている。

このテの封印作品には都市伝説化、あるいは思いこみによって事実が明確なようで曖昧なものも多く、それを丹念に追っていくさまはなかなかスリリング。「『ノストラダムスの大予言』のドラマCDを出したのはだれか?」とかね。

巻末には「戦後の主な封印作品リスト」が載っている。この中の、三分の一も実際見ていないが(「江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間」などの、映画館にはかかるがソフト化はされないものも「封印作品」に入っている)、考えさせられるのは、「いくら何でもこりゃまずいだろ」という作品なら封印されてもそんなに問題にならないと思うのである。
たとえば「狂鬼人間」、決して問題が皆無とは思わないが、それを見たとき、「封印されている」というタブーを侵犯する以上に何か考えさせられるものがある人は多いのではないかと思う。
だからこそ、「なぜ封印されたのか?」が、真相はわからないまでもファンの間で語り継がれるのだ。
(逆に言えば、「封印されているから」という理由で、内容がわからないまま価値が一人歩きしてしまう場合もあるのだが。)

まあ簡単に「復刻させろ」というのもムリだろうが、「規制」というのは思いのほか、後から考えると「現在が締め付けられていること」にショックを与えるものであるし、また、「マズさ」も含めないと、とくに差別問題などは浮かび上がってこないという矛盾もある。

その辺、何とかならないもんだろうか、などと安易な結びで終わらせてはダメだろうか。
(04.1011)



・「血だるま剣法 おのれらに告ぐ」 平田弘史(2004、青林工藝舎) [amazon]

1962年、大阪日の丸文庫から貸本店向け描き下しマンガ単行本として発行された「血だるま剣法」は、ある理由で封印された。本作をできるだけ正確に復刊するとともに、マンガ史・出版史における本作の意味をマンガ評論家の呉智英の監修・解説で再検証する。リメイク版「おのれらに告ぐ」(1968)併録。

・復讐する、戦うだるまの怨念
剣で身を立てようと努力する猪子幻之助は、その出自によって差別され続け、家族も殺されてしまっている。このため彼の剣に対する執着は凄まじく、他の門弟も敬遠するほどの血みどろの剣技であった。
しかし、そんな彼が慕う師・朽木一伝斎すらも彼を裏切った。怒りに狂乱した幻之助は師を殺し、関係者全員を皆殺しにすることを宣言する。

幻之助の技によって目をつぶされた者、腕を切り落とされた者、そして殺された者が続出。しかし彼自身も復讐の中で手足を失い、ついにはだるま状態になってしまう。しかし彼には復讐の悲願があった。彼は10年の修行の末、恐るべき技をもって再び復讐を再開した!
しかし、彼によって不具にされた侍たちも、ムダに10年を費やしていたわけではなかった……。

「封印作品の謎」を紹介したところで、最近まで封印されていた本作を紹介する。解説を担当している呉智英の著作「現代マンガの全体像」において、きわめて奥歯にものの挟まった描写しかなされていなかった本作、実際読んでみたところ、あまりの内容にビックリしてしまった。これは××問題関連で話題になっていなければ、「ぶっとび」に指定していいくらいの作品である。

本作における、刊行主旨である問題提議は実際読んで考えていただくこととして、私が気になっているのは平田弘史が山田風太郎の「甲賀忍法帖」を読んでいたかどうかである。
私も貸本マンガの解説本を読みまくったわけではないが、どうも同時代の映画や小説との関連について言及したものが少ない気がする(たくさんあったらすいません)。
しかし、少なくとも80年代末までに、白土三平と山田風太郎の関係すらアイマイになっていた感がある。
パクリだとか言われれば不愉快なのはわかるが、映画がシーンの引用などについて元ネタに対してわりと慣用に思えるのに対し、マンガは厳しくてよくわからない。

単純に年代だけで言っても、「血だるま剣法」が1962年、「甲賀忍法帖」が初単行本化されたのが1959年だから、読まれている可能性は十分にある。
「だからパクリだ」と言いたいのではない。エンターテインメントにおいて、そうした関連性があることは(偶然であることも含めて)知られるべきだと思うからだ。

・明るいだるま戦士・地虫十兵衛
本書の解説では、山上たつひこが「血だるま剣法」のパロディを書いていることをもってその影響力を示唆しているが、若い読者には「バジリスク 甲賀忍法帖」における手足のない忍者・地虫十兵衛の方を先に連想するだろう。
もともと、山田風太郎作品でも差別問題や復讐がテーマになったものはいくつかあるとは思うが、先行作品である「甲賀忍法帖」における地虫十兵衛の方が陽性で、よりファンタジックな設定になっている。
だからこそ、怨念の塊となって生きた猪子幻之助の存在は大きい。それに、もしも「甲賀忍法帖」にヒントを得ていたとしても、幻之助の技にはマンガ(劇画)としてのアレンジがなされている点も、単なるドラマとして読みとるなら評価されるべきだろう。

・だるまは復讐する
最後に、関連性があるようなないような作品を紹介する。楳図かずお「復讐鬼人」(1967、少年マガジン)である。
本作は、主人に恨みを買い、両手を失って強制労働させられていた武士が、息子が殺されたことをきっかけに復讐を決意するという話である。実はずいぶん前に読んだのだが、その展開は強く印象に残っている。
以下は記憶を頼りに書くが、両腕を失った主人公は、両足のすじも切られてしまう。しかし、強制労働時に目をかけていた青年(頭はよくなさそう)が、「おれが足になってやる」とか何とかいい、主人公を背負い、主人公は口に日本刀を縦にくわえて馬に乗った主人の胸をつくのである(口に日本刀を縦にくわえるのは、「血だるま剣法」にも出てくる)。
ところが、殺した男は影武者であった。主人公も殺された。主人公が死んだ悲しみのあまり、彼を乗せて走った青年はわけもわからずに町中を走った。そうしたら、彼がたまたま伝染病のキャリアーで、主人もだれもかれもが全員死んだ、とかいう結末だったと思う。
ラストの伝染病云々は「神州纐纈城」なのかな?

「復讐鬼人」 楳図かずお(1967、少年マガジン20〜22号)(「楳図かずお『こわい本』Vol.1 影」、2003、朝日ソノラマ)収録

また、同時期には完全に「だるま」ではないにしろ手塚治虫が「どろろ」をやってますね。

肉体欠損者が、それゆえに特殊能力を身に着けて差別者と戦う、というパターンは現在の娯楽作品にも見られるが、さすがに「だるま」という設定はない。せいぜい変態性欲の妄想に使われているだけである(妄想の中だけなら、それだって別に悪いとは言わないが)。
諸事情があることはじゅうぶん考えられるが、どこかで受け手も送り手も「あきらめちゃって」いるような気がしてならない。「手も足も出なかったら終わり」、って。 現在、最も有名な「だるま」は江戸川乱歩の「芋虫」(1929)だろう。あの「ユルス」といって死んでいった芋虫。みんな、その行為のどこかに安心感を感じているんじゃないの? と意地悪く思ってしまう。

手足をもがれてそんなにニコニコヘラヘラしてられないっていうの。昔の話、大山倍達は「手がやられたら足で蹴りなさい、足もやられたら這って攻撃しなさい、それで殺されたら幽霊になってとり殺しなさい」と言ったとか言わないとか聞いたが、それだけの怨念を昔の人はやっぱり持っていたと思うよ。少なくとも60年代末までは。

「血だるま剣法」の猪子幻之助のように、持っていたと思うよ。
(04.1011)



・「バジリスク 甲賀忍法帖」全5巻 山田風太郎、せがわまさき(2003〜04、講談社) [amazon]

アッパーズ連載。徳川家康の跡取りを決めるため戦うこととなった、伊賀・甲賀の人間ばなれした忍者たち。しかし甲賀の弦之介と伊賀の朧は、両陣営の和解のシンボルとして祝言をあげることになっていた。ロミオとジュリエット状態になってしまった二人の運命は……。

むしろ昨年に話題になっていた作品で、とりあげるのも今さらな気はしたが「血だるま剣法」と関連させて取り上げてみた。山田風太郎の、ときには不気味、ときにはユーモラスでさえある超人忍者、あるいは個性豊かな女性忍者を描きわけ、迫力ある戦闘シーンで魅了した作品。
原作を読んでから読んだが、「おお、こういうキャラデザか」とか思いながらすごく楽しく読めた。

本作の後、山田風太郎のコミカライズがなにげに増えた印象である。

さらに私が考えることは、貸本マンガ文化と忍法帖との関連、さらにさかのぼるとこの「甲賀忍法帖」の元ネタとなる作品は何だったのかということである。が、まあだれかが研究してるんでしょうな。出してくれないだけで。
(04.1011)



【雑誌】・「増刊 劇漫デラックス スペシャル」 近代麻雀11/5日増刊号(2004、竹書房)

マンガ評論界みたいのがあるとするなら、倉科遼をどう位置づけるのかぜひ聞いてみたい。
倉科遼は、ここ数年水商売関連のマンガ原作をやたらとやっている人で、まるまるひとつの雑誌を監修したこともある。70〜80年代にバンカラマンガを描きまくった司敬の変名らしい(ビジネスジャンプのHPに載ってるんだから間違いないだろう)。
倉科遼(かつての司敬)は、もともと70年代バンカラ系の中でも叙情的というか、意外にケンカしない方向にお話を持っていったりする人であった。それが人情を主体とする水商売ものにシフトしていってもおかしくはないが、正直、昨今のあまりに多い彼の原作に関して、私はどうこう言う方法論を持っておりません。

たいてい、ブルーカラー系のマンガというのは(ビジネスジャンプはブルーカラー向けとは言えないが)、一般的に地に足の着いた義理人情に訴える作品が多く載っていると読んでない人には考えられている。しかし、ところが昨今そうでもないのである。
いや、むかしもムチャクチャな作品はあったとは思うのだが、マンガ界全体が拡張し、注目度も高まっているためにその落差が目立つということなのか。わからん。
本誌では2本を倉科遼が担当している。

ちなみに本誌は「現代の悪を斬る!」、「最後に正義が勝つ! 世直しマガジン誕生」となっているので買った。

沖圭一郎「炎の怒りん坊」。まず最初に、いちばんムチャクチャなマンガをあげておく。表向きは喫茶店のマスターだが、実は怒りによって勃起する巨マラの持ち主が、交通事故を起こしたのに警察へ行こうともせず、死んだ男の兄にもひどい態度をとった東大路うの(どう考えても神田うのがモデル)を懲らしめる。

どうやって懲らしめるかというと、その巨根で女性器を裂いちゃうという乱暴な方法。まあプロットは単純で、「レイプマン系」とも言える、先行作品がないわけではない話ではあるんだが、最後の1ページが怖かった。

ふつうないだろ、こんなネームだらけのラストページ。書いてあることも怖いんだよな……ちなみに男が手に持っているのが自分のナニ。

中澤浩史、土山しげる「NARAKU〜奈落〜」は、旅芝居の役者が実は仕置き人、という設定の現代ドラマ。

倉科遼、左近士諒「裏交渉人 竜」は、政治家の汚職を知った会計の男の身を守るために、裏の交渉人が動き出す、という話。

ケン月影「破戒坊 鎮念」は、名刀を試し斬りしてみたいと思ったバカ侍を破戒僧が懲らしめる話。それにしてもケン月影の尻フェチはあいかわらずですな。

なかにし弘「鉄火肌ナース 千鶴七分咲き!」は、文字どおり鉄火肌のナースの話。ずいぶん落ち着き払ったきっぷのいいねえちゃんが主役だが、「七分咲き」の21歳という若さがおっさん読者の願望を表現していて泣かせる。

滝上峻、勘崎順次「〜外道刑事〜野獣狩り」は、まあ「ダーティハリー」みたいな話です。

穂高アキラ「セクハラ斬りッ」がおかしいんだよなあ。
社内でセクハラの相談を受けた秘書課の小夜子が、上司に相談するがそのトラブル解決をいったん断られる。しかし、社長の決断によりセクハラ退治のプロジェクトが発足。小夜子も含めた秘書課のメンバーがコトにあたるが、それは自己責任で会社は一切関知しない……って発端からおかしいだろコレ!?

もちろん、マンガなんでセクハラおやじはやりすぎなほど懲らしめられるんだが、それを会社が関知しないというリアリティを持たせるにしろ、「社長がセクハラは許せないからあえて犯罪すれすれの報復を許している」くらいの設定は欲しいよなあ。

倉科遼、杉浦要之介「俥屋甚八 暴れ太鼓」は、現代の下町を走る俥屋・甚八が、スケバンを懲らしめる話なんだが、「女に暴力はふるえない」っつって抱え上げてお尻ペンペンするシーン、二十年ぶりくらいに見た(笑)(昔は、なぜかバンカラマンガにスケバンが出てくるとそういうシチュエーションが多かった)。

ミスター梅介の法律相談。とにかくムチャクチャ。漫談なら笑えるんだろうが、文字にされたら「ええっ!?」って思っちゃったよ。

原作:溝口敦、脚色:笠井和弘、劇画:ももなり高「血と抗争! 菱の男たち」は暴力団抗争もの。第七十六話。

(04.1009)



【雑誌】・「週刊少年ジャンプ」45号(2004、集英社)

読みきり、岩代俊明「みえるひと」
霊の見える青年と、霊現象に巻き込まれる少女。これは面白い、と思っていたらすでに読みきりとしての実績はあるらしいですね。でも最初のツカミから中盤のサプライズまでと持って行き方がうまい。また、作品内の倫理観もしっかりしている。

大場つぐみ、小畑健「DEATHNOTE」。かなりバカバカしい松田の失策だが、コレが少年マンガだ、と思う。

和月和宏「武装錬金」。話が横道にそれて、ちょっと心配になってきた。「DEATHNOTE」もそうだけど、なんかごまかされている気分になるな。黒の核金のエピソードは。

(04.1009)


【映画】・「特捜戦隊デカレンジャーTHE MOVIE フルブラスト・アクション」 監督:渡辺勝也、脚本:荒川稔久(2004、東映)

公式ページ

テレビと同様に、悪い宇宙人と戦うデカレンジャーの活躍を描く。宇宙人ポリスとして新山千春が出演。

悪く言えば顔見せ興業的なバタバタした展開で、荒川稔久も得意の「お姫様もの」をテレビ本編で使ってしまったせいか、プロットにそれほど面白みはない。
しかし、次から次へと飽きさせないアクションの連続で、一気に見てしまえる。映画館でどこかの子供が「面白かったーっ!」って言っていたから、それでOKなんではないですかね。

アクションは人間やバイクをワイヤーで吊ったり(してるんだろう、たぶん)、デカマスターが本物のヘリコプターに乗って現れたりと、実際はどうか知らないがわりと肉弾的なものが多く、何か懐かしい感じがした。

それにしても新山千春は老けたなあ、と思って今調べたらまだ23歳くらいではないですか。あの撮られ方はちょっとかわいそうだな。ライティングかなんかの問題でしょあれは。

・参考
【映画】・「爆龍戦隊アバレンジャー DELUXE アバレサマーはキンキン中!」(2003、東映)感想

(04.1005)


【映画】・「劇場版 仮面ライダー剣 MISSING ACE」 監督:石田秀範、脚本:井上敏樹(2004、東映)

公式ページ

すべてのアンデッドを封印してから4年後。なんだかんだあって再びアンデッドが暴れ出した。それぞれ別々の生活を送っていた剣崎たちだったが、アンデッドの出現に驚いていると、見たこともないライダーが3人登場した。
彼らは、橘の元で新世代のライダーとしてアンデッドを封印していたのだ。
剣崎たち、旧世代ライダーたちに露骨な敵意を燃やす新ライダーたち。
彼らが反目している間にも、アンデッドは強大な力を使うべく恐ろしい計画を立てていた。

もともとが一本道の、非常に番外編のつくりにくいドラマの映画化という点では、よくできているとは思う。ただ、全体の印象としてはパラレルワールドでのデビルマン後期的総力戦を描いた昨年の555の映画(→感想)の方が迫力はあるかもしれない。

それにしても、最近の井上敏樹の脚本はどうしても好きになれない。あるいはその料理の仕方が悪いのか。とにかく出てくる人物が全員イヤなやつなのだ。
とくに本作に出てくる新世代ライダーに関しては、なぜ旧世代の剣崎たちに敵意を燃やしているのかわからない、純粋にイヤなやつとなった(この役は、三津谷葉子は損なだけでしょう。関係ないけど顔パンパンになってたな)。

相川と天音の悲恋物語という側面もあって、なかなか泣かせる部分もあるが、全体が悪い冗談のようで見ていて小馬鹿にされている気分になってくる。
「シャンゼリオン」の無軌道ぶりがちょっと方向が変わるとこうなるということなのか。

とびとびに見て思うが、私は井上敏樹脚本の平成ライダーは「ヒーローもの」としては見ていない。
「仮面ライダーに変身できる」という立場を与えられた人間の物語だと思っている。
「人間の物語」などと書くとニュアンスがイイ感じになるが、そういうことではない。
ヒーローものとしてのカタルシスが、あまりにもないのだ。

変身しても、それは戦闘服を着たり銃を持ったりすることと同じで、中身は変わらないわけだから、どんなにCG技術が発達してもアンチクライマックスなわけなのである。

人間ドラマの面白さが、平成ライダーの面白さの一部だと思うが、だからといってそれが「ヒーローもの」として面白いかどうかは別の問題だ。

まあ送り手はそれなりのポリシーでやっているのだろうが、こと平成ライダーほど「ヒーローものの終焉」を個人的に感じさせるものはない。

というか、どんなにドラマとして面白い場合であっても、私はとくに龍騎と555はヒーローモノではないんじゃないかとすら思っている(ちゃんと見ていないので確かなことは言えないが)。

そもそもが、私はヒーローものというのは偏執狂的なものだと思っている。
誤解を恐れずに言えば、「悩めるヒーロー」というのは自己矛盾なのだ。たとえばギャグマンガで主人公がハチャメチャな、常識的にはひどいことをして笑いをとる。
ヒーローもそれと同じだと、私は思っている。

でも、平成ライダーのスタッフはそう思っていないようなので、もういいです(白倉伸一郎という人が、龍騎、555、実写版セーラームーンのプロデューサーだというが、トータルで結局私と肌の合わない作品ばかりで、なんかそういうのが合わないのかも。あ、「剣」はプロデューサーじゃないらしいですけどね)。
(04.1005)


【書籍】・「二次元美少女論―オタクの女神創造史」 吉田正高(2004、二見書房) [amazon]

オタク文化を中心に、「二次元美少女」について語った本。章立てとしては、「甲冑・パワードスーツ・触手」、「メカ美少女」、「美少女パイロット」、「格闘美少女」、「ヴァーチャル・アイドル」、「ゲーセンの美少女」の六章から成る。二次元美少女というテーマとしては、三十項目にカテゴライズしたそうだが、その中の六つを取り上げたということらしい。
アンダーグラウンドとオーヴァーグラウンドの両方に目配りし、さまざまな属性の「二次元美少女」の正史構築に挑んだ点は買いたい。とくに「ゲーセンの美少女」は、アーケードゲームにおける美少女史を、ドット絵のみでキャラクターを表現していたごく初期のゲームから見ていったもので、ゲームの知識が皆無に近い私にはとても面白かった。
そうそう、ニセ鮎川まどかやニセナウシカが負けると脱いでいく「麻雀刺客」ってやったよなあ……。

また、80年代前半の同人誌文化について、具体的にサークル名や誌名をあげて語られているところが今までの類書になかった点だろう。まさにその「場」にいないと書けない部分である。私もほとんど知らなかった。
白状すれば、私は80年代前半はコミケやSF大会の動向などまったく知らない。あくまでも商業誌に載ったものだけを享受していたのだ(「ファンロード」や「アニメック」などね)。したがって、ここで取り上げられている同人誌を見ることは「その当時のコミケに行ったことがないのに行ったように思えてくる」不思議な感覚を味合わせてくれるものであった。

それでですね、こういうオタク文化を扱ったものに対する感想は、感想を書く側が自分の知っている分野にだけ揚げ足をとるような文章になってしまいがちでイヤなのだが、やっぱり気になるので書いておくことにする。

まず、オタク文化の評で必ずといっていいほど問題になるのが「どこに補助線を引くのか」と「その線が補助線となる理由」である。

具体的には、以下の2点。
・どこからをオタク文化とするか、なぜオタク文化を強調するか
・物語が先か、キャラクターが先かという点

・どこからをオタク文化とするか、なぜオタク文化を強調するか
最初の点は、他の類書でも、あるいはネット上でも、まあぶちまけてしまうと私がこうして書いているテキストでも問題になってくるのだが、本書でもそこら辺がなかなかむずかしい。
たとえば「二次元美少女」の歴史は、ほぼ70年代後半のオタク文化発祥(と、オタクを語るときに一般的に言われている時期)から現在までとほぼ重なっている。
これは、最近オタク=萌えととらえられることが多いため当然のことと一見思われるが、「マンガ・アニメ表現」における女性描写の歴史を考えたときに、本当に完璧に一致しているのか、という疑問をまず投げかけることができる。

以前にも書いたが、マンガだけに絞ると「マンガに出てくる女の子に性的興奮をしてもいいんだ」と少年たちにポジティブに考えさせたのが70年代中盤頃からだと私は考えている。
そういう動きこそがオタク誕生と重なっているとは言えるが、ではそれ以前に「少年読者がかわいいと思う女の子」や「性的妄想を抱かせる女性キャラクター」がいなかったかと言えばいたし、オタク文化が出てきた80年代にも、少年の性妄想との関連で言えばオタク文化とはほぼ無縁な「少年ラブコメブーム」がからんでくるはずである。

確かに、「オタクにおける美少女史」をたどっていくと、現在あるギャルゲーや美少女アニメ、「萌え」概念などを説明することはできるのだが、オタク史はアニメやマンガそのもののエロス表現の発展史と重なっているため、オタク的な衝動が100パーセント、アニメやマンガやゲームの性表現を発展させる原動力になったかというと、それは素朴にむずかしい問題だと思う。
(本書は、それ以外の部分にも目配りが届いている方だとは思うが。)

・物語が先か、キャラクターが先かという点
これもむずかしい。「キャラ萌え」という言葉はプロット重視に対抗するために出てきた言葉だと思うが、こういう言葉が出てきたこと自体、どちらの成立が先かを語ることがむずかしいということを表しているように思える。
どういうことかというと、本書P156「格闘美少女と中国娘の関係」で、アニメやマンガに登場する「中国娘」という属性において「撃殺! 宇宙拳」→「魔拳! カンフーチェン」→「らんま」→「ストIIの春麗」という流れを強調しているが、やはり「中国拳法」が格闘もので注目されないかぎり、そもそも「カンフーを使う少女」も出て来ようがないのではないか、と思ってしまう。
たぶん作者は「中国娘」、「カンフー美少女」に思い入れがあるのだろうしそれはわかるんだが、むしろ「春麗」の誕生は他のストIIのキャラクターに中国拳法を使う者がいること、そしてそれはやっぱり「ブルース・リー」→「ジャッキー・チェン」→「魁! 男塾」→「北斗の拳」という命脈が保たれていないと成立しなかったと思うのだ。

「甲冑・パワードスーツ・触手」の項では80年代オタク美少女文化における甲冑とパワードスーツを身に着けた少女についての歴史が語られている。
確かに私にも美少女が大胆に肌を露出させた甲冑やパワードスーツが80年代に流行った記憶があり、今は必ずしもそうではないという感覚もある。そして、それはアンダーグラウンドの世界での一時的流行だったようにも思うのだが、それでも「甲冑とパワードスーツ」というカテゴライズ、見方でいいのだろうかという疑問が残る。
それは、1940年代、50年代からあるアメリカのパルプマガジンの表紙などに見られる半裸の美女とどう違うのかという疑問だ。49年の活字SF「発狂する宇宙」では、「なぜスペースオペラに出てくる美女は半裸なのか」とすでに言及されている。
甲冑ではないにせよ、80年代以前でも海外のファンタジーものでなぜか女性キャラが大胆に肌を露出させることは、珍しいことではなかった。

「日本のオタク文化史」の変遷ということで言えば確かに「甲冑」と「パワードスーツ」というカテゴライズには意味がある。が、そうすると今度は「なぜ二次元美少女において、オタク文化のみにこだわる必要があるのか」という疑問につながってしまうのだ。

ヴァーチャル・アイドルの項
「ヴァーチャル・アイドル」の項は、項目立てとしても「アニメやゲームとアイドルとの関係」を正史として描いたという点では画期的だと思う。

そこでやや重箱の隅になってしまうが、「同級生2」(1997)におけるアイドルキャラが、アイドルとしてではなくアイドルの仮面を脱ぎ捨てた時点で主人公とコトに及ぶ、という点が重視されている点はどうだろうか。
この「ヴァーチャル・アイドル」の項では、アニメ「さすらいの太陽」から続く「アイドルもの」を、スポ根ものと近似したジャンルとしてとらえた流れの中で、この「同級生2」におけるアイドル描写を重視している。
そのこと自体に異議はないが、作品としての代表作はないものの「忙しく、自分を偽る芸能生活に嫌気がさしたアイドルが普通の男の子と知り合いになる」というシチュエーションはそれ以前からも見られた。
これは、「お姫様」とか「お嬢様」が、日々の生活に嫌気がさして逃げてくるというパターンのヴァリエーションで、「アイドルもの」というジャンルを考えたときには傍流ではあるが見過ごしにできないサブジャンルではある。

「ヴァーチャル・アイドル」について「画期的」と前述したが、若干見解の相違はある。コレはわりと今後のアイドル論で意見が分かれる(っていうか私の意見の方が少ないのかな?)と思うので、微力ながら書いておく。

この項での作者の見解としては、狭義の「アイドル」は85年の小泉今日子「なんてったってアイドル」リリース、同年「おニャン子クラブ」結成、86年の岡田有希子自殺、そして89年の森高千里「非・実力派宣言」で段階的に自覚化・メタ化して消滅し、その後、地下アイドル、ネットアイドルといった細分化、縮小化に向かうということになっている。そして最後のアイドルは「水野あおい」。
この流れは他のアイドル論でも見たことがあり、すでに半ば正史となっている感すらある。

ここで松浦亜弥に関しては註で「注目していきたい。」とのみ記され、モーニング娘。に関しては本文で「楽屋裏まで暴露している」ためにアイドルとしてカテゴライズされていない。
それはどっちが正しいとかではなくて本当に見解の相違としか言いようがないが、現時点で商業出版されているオタク論で、私の知るかぎり無視されたり除外されたりしているのがハロープロジェクト関連であると思う。

「ASAYAN」時代の娘。は確かに従来のアイドルとは違っていた。アイドルがまとっていなければならない聖性がまったくなかった。逆に言えば、それを払拭することで人気を出した。
しかし、四期加入以降は大幅にアイドル路線にシフトし、ドキュメンタリーとして盛り上げた五期オーディションにしても、「楽屋裏を見せられる」というエゲツなさを感じた人は少なかったのではないかと思う。

ここで「アイドル路線にシフトしたといったって、それはメタアイドル的展開だろう」と言う人がいると思うのでいちおう書いておくと、たとえば「野猿」はメタアイドルだったかもしれない。「シロウトを集めてCDを出す」という点においても、80年代のおニャン子的方法論の繰り返しだからである。そもそも、「とんねるず」がCDを出すということ自体、彼らがミュージシャンを演じているという自覚があるためにメタ的であった。

では娘。はどうかというと、実は80年代総括的なヴァーチャル論では説明しきれない、一筋縄ではいかないしたたかさを持っている。
たとえば、お互いしのぎあって反目し合ったりする(それを、悪い言い方だと見世物にする)ところから始まったが、いつの間にか安倍なつみや後藤真希は、少なくともファンの間ではアイドル的聖性を獲得している。自己言及的な歌など歌わないし、プロ意識も植え付けられている。
では完全に虚構的な、いわばWWE的な「演じている」風があるかというと、そうでもない。完全にマジである。

この辺は松浦亜弥も、藤本美貴もメロン記念日もおおざっぱにくくって同様のコンセプトである。
とくに「ミニモニ。」は、突出して虚構性が高いユニットであったにも関わらず、別にだれかが何かを演じているわけでも何でもなかったところが面白い。矢口は矢口、加護は加護なのである。
あるいはメタアイドル、ヴァーチャルアイドルという観点では「ミニハムず」がいた。「ミニハムず」は、従来のヴァーチャルアイドル論では語れない。
あまりに普通に受け入れられてしまって、「芳賀ゆい」のようなカルト性がないからかもしれない。

では、宇多田ヒカルなどのいわゆるディーバ(最近はこういう言い方しないか)とハロプロメンバーはどこが違うかというと、たぶん結婚したら続けられないというところである。
ディーバ系の歌手は「自身がクリエイターである」という建前を持っているため、結婚したり恋人が発覚しても、致命的なマイナスにはならない。
ハロプロでは、そっち関係は命取りになりかねない。要するに、いまだにアイドルとしての疑似恋愛ファンタジーが成立しているのである。

モノの本には「娘。」をメタ・メタ・アイドルとしていたが、確かにそんな感じではある。だから、オタク論の中にアイドル論が含まれた場合、おさまりが悪いので語られないのではないか。
90年代初頭あたりまでの「アイドル冬の時代」までは感傷的に語られるが、それ以降の動向としての「ハロプロ」が無視されているように思えてならない。
いくらCDが売れてないといったって、毎回オリコン10位以内に入るならそれは視野にいれざるを得ないだろうになあ、などと思う。

・最後に
最後に、本書は「二次元美少女」の創出パワーが現在弱まっていることを憂えていることを前提に書かれている。が、この辺も今後どうなるかはわからない話ではある。
現在が、「マンガ、アニメ、ゲームにおける、恋愛やエロス対象としての女の子の描き方」が完成した時代だともとれるからだ。
そういったものがどのくらいの期間で完成するものかはわからないが、80年代の時点で、一般化という意味では未熟すぎたことは事実だろう。
では、一見停滞と思える事象はアイディアの枯渇や進化の停滞ということではなく、規定のカリキュラムを修了したというだけのことではないか、とも考えられる。

もうひとつあるのは、少年・青年の消費者が二次元美少女を必要としなくなった(今後必要としなくなる)、という考え。
相関関係を証明することはむずかしいが、たとえばアイドルの衰退はアダルトビデオの充実と関係があると思う。ではだれもが完璧にセックスに不自由しなくなれば、ヴァーチャルな存在はまったく必要とされなくなることも考えられる。

ダラダラ書きすぎた。いろいろ書いたが、各所に目配りのきいた本ではあると思う。
(04.1005)



【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2004、テレビ東京)

10月3日放送分。

公式ページ

運命のシャッフルファイトDX

「他メンバーにやらせることを前提として、出されたお題について何か考えて書く。その後、ルーレットで他メンバーを当ててやらせる。」という企画。司会の安倍さんは「テレフォンGOAL」リリース時よりも、少し痩せましたかね。病欠してたミキティが復帰。

この企画は前もやったんだけど、前にも同じこと書いたんだけどこの企画ってメンバーの実現されないネタが多いっていうか、オンエアされない部分が視聴者にもわかっちゃうのが難と言えば難だと思う。

見どころはいくつかあって、飯田さんのあいかわらず面白い動きとか、その動きがぜんぜんできてないどころかやり出すとたんに笑い出してしまってグダグダな高橋愛、美貴ティの天真爛漫サディズム、亀井の考えた寒いギャグをやらされて怒る矢口など(まあ、この辺はぜんぶスタッフの狙いが当たった感じでしょう)。

しかし、個人的にいちばん面白かったのはやはり紺野の「ジャンジャカジャンジャカジャン USA」だ。
これ本当に面白いよ。いやもちろんその場の雰囲気コミの話だけど、ヘタなダジャレよりよっぽど面白い(まあ、こういうものを私が賞賛し続けてきたために、私自身の冷や飯食わされている現状があるということははっきりと言えるんだけど)。

で、ギャグの説明のときも「マジメな顔して言わなきゃいけないんです」とかって紺野が説明してて、ちゃんとわかってる。ギャグを自分のものにしてる。そのことに対し、他メンバーが「やる気マンマンだ」とか「目がマジだった」とかツッコミを入れていたが、それは違うんだって! そこはつっこむところじゃないんだー! ってテレビの前で叫んでみたけどどうにもならなかった。
まあ「そっち方面」に行くと、だれも戻って来れなくなるのでこの芸はハイストレンジネスな存在として封印された方がいいのかもしれない。

「石川梨華に犬のマネをさせる」というのは、何かよっすぃ〜によこしまな気持ちがあったのかと勘ぐってしまったが、吉澤本人がやったら意図が実にきちんとくみ取れたというか。
っていうか、石川梨華が犬のマネするとそれだけでヤバいんだよ。ネコはいいけど犬はヤバい。まあ、そう思っているのが私だけなら人類、その方がいい。

「地球戦士W」。防災を学ぼうという企画。地震を体感できる部屋での二人の小芝居がコンパクトで面白かった。なんでママ役の加護さんは鼻の下を伸ばしてるの? とか、息子役の辻が微妙にダミ声だったりとか、もうね、やってることが斜め上行ってんだよね。こんなわずかな瞬間にも。

スタジオライブはW(ダブルユー)の新曲「ロボキッス」[amazon]。ひさしぶりにヤッター! という感じの曲。これは素晴らしい。振り付けとの総合評価だけど、ちょっとこれはいい意味でヤバいんじゃないですかね。総合評価ではハロプロ楽曲の中で、今年に入っていちばん好み。
振り付けだと加護ちゃんはゼンマイ、辻ちゃんは空気で動いているらしいですよ! っていうことは、辻ちゃんは学天則だということなんですよ! BY帝都物語。

しかし、本当にこの振り付けすごいよ。だれが考えたんだろう。二人の表現力もあるんだけど。

「HPH」。写真集発売の話題でキャメイと新垣。この二人は本当に仲がいいいんだか悪いんだかわからない。たぶんあんまり仲はよくないんだろうな。いや、ケンカしてるとかじゃなくて、あんまり話しなさそうな感じ。お弁当を一緒に食べるグループが違う感じ。

だから、二人が並ぶと「クラスの、なんかの係りをやらされてる二人」みたいに見える。しかも掲示係とかそんなつまんないやつ。ホームルームで「掲示板の画鋲をはがすのはやめてください!」、「掲示板の画鋲をはがして、牛乳のキャップにくっつけてダーツにして遊ぶのはやめてください!」とか言うのね。

しかもガキさんの方が。キャメイはあんまりマジメにやってないの。なんか違うこと考えてんだよ。前髪をいじったりとか。もちろんそのときは、れいなは肉のこと、道重は帰って王子様を探しに行くことしか考えてないよ。

前回の放送

(04.1003)


【映画】・「頭脳戦隊クビレンジャーVS頭角戦隊アタマイザー5」 監督・脚本・編集・撮影:酒徳ごうわく(2004、日本)

2001年に発表された、 5体の首マネキンが戦隊ヒーローとして大活躍する自主制作映画「頭脳戦隊クビレンジャー」と、その姉妹編「頭角戦隊アタマイザー5」(2003)、それと「クビレンジャーVSアタマイザー5」(2004)を収録したDVD。

「クビレンジャー」は基本的に一発ネタなんだけど、自主映画上映でコレがかかると必ずウケてた。だからオチがわかっていても、初見の人の反応、ウケ方も楽しめる作品だった。関根勤のバカ映画&映像紹介番組「ウラ関根TV」でも紹介されていた。
「アタマイザー5」は「クビレンジャー」でやったギャグを繰り返すことで、さらに笑いが増幅。最近よく聞くお笑い用語で「天丼」っていうのがあるんだけどこういうのも「天丼」って言っていいのかな?
自主制作映画というと玉石混淆で、さらに非常に面白いものでもセリフが聞き取れないとか録音が悪いとか、まあ上映会で見ると面白いけど商品として買うのはちょっと……というのも少なくないんだが、酒徳監督の作品はすべてが基本的に見やすく、またわかりやすい。つくりが丁寧な気がします。

DVDとしての体裁もとてもよくできていて、オマケに立体メガネまで付いている。

思えば酒徳監督の映画を最初に見たのは「オタクアミーゴス」で上映された「戦火を逃れた幻の百フィート」。これ、もう9年前の作品かあ。コミケの映像に戦後の混乱期を描写するナレーションを入れるというスゴイ映画だった。
「ビバ8ミリ!〜フィルムのひみつ4〜」も印象に残っている。マジメな「映像のとり方教室」風の展開で、やっていることは大バカという作品。
「バカ映画110番」も、NHK教育テレビ風なんだけどやってることはナンセンス。「マジメを装ったバカバカしい作品」が、作風的にも合っている気がします。 「侵略美少女ミリ」主題歌カラオケビデオ、「侵略美少女ミリ」カルタCMも上映会で見ました。
「侵略美少女ミリ」は、ビデオを全部持ってますが、いずれきちんと感想を書かないといけない自分的には重要な作品です。

マンガでも一発ネタやヒーローギャグはありますが、映画の場合はすぐに思いついて描きとばすというわけにはいかない。その一発のギャグを暖め続けないといけないし、つくるとなったらいろいろなことをしなければならない。さらにDVD化するとなれば、一回見てオワリ、というふうにならないようにしないといけない。
さらに、自分の作風、手の内を知っている人も、いちげんさんも相手にしないといけない。
そういういろんな条件の中で苦心してつくられた作品だと思います。

バカ映画が評価されないと日本は滅びると思っていますので、売れてほしいです。

クビレンジャーDVD化けいかく

(04.1002)



【特撮】・「超星神グランセイザー」最終回「復活の日」(2004、テレビ東京)

テレビ東京ページ。

いちおう、たぶんシリーズ折り返しであったであろう第24話まで感想を書いた。で、その後も見たり見なかったりしていたのだけれど、グランセイザー12人が揃うまでの面白さに追いつくエピソードは後半に入って正直、なかったように思う。
ロギアの復活とか、ありゃないでしょ、っていうのもあったし、何より12人もいるのに本編とは直接関係ない、各人主役のエピソードが弱すぎた。戦隊シリーズの強みは、とつじょ浦沢義雄や井上敏樹がゲストで書いたりして番外編的なエピソードを引き締めるところにあったと思うのだが、それに匹敵するような魅力ある番外編がなかった。

ウォフマナフの、超越存在のくせにいかにも身勝手な態度、行き届かない感じ、そして話し合いによって理解して去っていってくれるところなどは、現アメーリカの現状とそれに対する願望を一緒に表していると思うのは深読みであろうか? まあ「宇宙の超越存在を『説得』して帰っていってもらう」っていうエピソードは活字SFでもなんかあったと思うけどね。

ラストの結婚シーンにはビックリ。そんな伏線あったっけ?

何にしろ、ところどころ惜しい感じの作品でした。後半ちょっと弱かったけど……。

第24話の感想

(04.1002)


【特撮】・「美少女戦士セーラームーン」最終回(を見るのを忘れた)(2004、TBS)

公式ページ

こちらは朝早いので、すっかり見るのを忘れてしまった。痛恨です。あらすじなどを読むかぎり、最終回としては面白いことをやっているなと思ったけど、とにかく後半はダラけていた印象が否めなくて……。

当HPの感想をたどると、17話まで感想を書いている。私はこの17話までは相当に面白いと思っていて、「これはすごいことになるのでは」と感じていたのだ。原作、アニメファンがいかに文句を言おうとこの実写版はすばらしいと思っていた。
ところが、亜美ちゃんが敵に洗脳されるあたりから、個人的印象としてダラけ始めた。奇しくも、「グランセイザー」と同じく仲間が全員揃ったあたりからつまらなくなっているのだ。
具体的に書くと、亜美が敵側に回った葛藤が、それまであれだけ丹念に描いてきた亜美の友達に対する思いとあまり関連してなかったことが大きい。

「敵」との戦いを、少なくとも24話あたりの折り返し地点でカタルシスを持って1話1話描けなかったのも、アクションものとしては辛かった。後はとびとびにしか見ていないが、後半テコ入れの、ルナが変身した後の女の子の顔が昭和すぎてあまりかわいくなかったり、転校してきた、表面上とりつくろって裏でいじわるする人間の女の子も単なる「ムカつく伏線」になってしまっていて愛嬌がなかった。
これはクインベリルが少なくとも前半は、不思議に「いい上司」として描かれていた面白さとは対極的である。

まあストーリー展開にだれのどの程度の意志が入っていたのかは知らないが、「セーラームーン」の1解釈として、登場する女の子たちを必ずしも視聴者の理想像(たとえば、アニメのせらむんが流行った頃の男性視聴者が理想として思い描いていたような)として描かなかったのは面白いかなあ、とは思う。
が、とびとびで見ているだけで申し訳ないがどうしても「牡丹と薔薇」みたいなエピソードの積み重ねといった印象があるのは否定できない。

セーラー戦士役の女の子たちがとてもかわいかっただけに、う〜ん、小林靖子脚本としては「迷走」だったんじゃないでしょうか。「タイムレンジャー」が比較的きっちりしてたからなあ。

第17話の感想

(04.1002)

「つれづれなるマンガ感想文2004」もくじに戻る
「つれづれなるマンガ感想文」9月後半
「つれづれなるマンガ感想文」10月後半
ここがいちばん下です
トップに戻る