「つれづれなるマンガ感想文2005」もくじに戻る
「つれづれなるマンガ感想文2005」8月前半
「つれづれなるマンガ感想文2005」9月前半
一気に下まで行きたい
チャンピオンRED連載。身長が180センチ以上あるデカ女、桃千ユーマはその外観とは裏腹に夢見る乙女であり、ゴスロリ少女でもあった。はみ出し者が流れ着く不良校・姫天下高校に転校してきた彼女は、かかる火の粉を払うために自分のシュミとは裏腹に不良たちとガチンコ勝負を繰り広げるのであった。
巻頭は矢吹春奈[amazon]。他には安藤沙耶香[amazon]など。
微妙にイラッと来る、コパがなんかたそがれてる風の写真を載せてやる。→
さて、鎌倉デートの方は中澤、加護、田中という組み合わせ。「ソーセージをつくってみる」、「ビーチサンダルを足でどこまで飛ばせるか」など、もう本当にこれ以上ない、というくらいのどうでもいい展開。あ、あとコージーの事務所の後輩というものまね芸人がたくさん出てたけど。
【雑記その7】・MIND HAPPY MIND
・「8マン インフィニティ」(1)〜(2) 平井和正、七月鏡一、鷹氏隆之、メカニカルデザイン:永田太(2005、講談社)
【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2005、テレビ東京)
・「桃魂ユーマ」(1) 井上元伸(2005、秋田書店)
【雑誌】・「週刊少年ジャンプ」39号(2005、集英社)
【雑誌】・「週刊少年チャンピオン」36+37号(2005、秋田書店)
【雑誌】・「週刊少年チャンピオン」38号(2005、秋田書店)
【雑誌】・「週刊少年チャンピオン」39号(2005、秋田書店)
【雑誌】・「週刊少年ジャンプ」36+37号(2005、集英社)
【雑誌】・「週刊少年ジャンプ」36+37号(2005、集英社)
【雑誌】・「週刊少年ジャンプ」38号(2005、集英社)
・「バキ外伝 疵面−スカーフェイス−」(1) 板垣恵介、山内雪奈生(2005、秋田書店)
【雑記その6】・無題
【雑記その5】・「オタク」とは「大衆、庶民、世間」といったものに対する座標軸である(あるいは座標軸のひとつである)
【雑記その4】・「大衆」が望む「勧善懲悪」とは彼らが望むもののワン・オブ・ゼムでしかない
【雑記その3】・amazonでDVD買って買って厨
【雑誌】・「コミックバンチ」36号(2005、新潮社)
・「週刊漫画ゴラク」9月2日号(2005、日本文芸社)
【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2005、テレビ東京)
【雑記その2】・ミニスカメイド絶対支持宣言
【雑誌】・「ウォーB組」9月号(2005、マガジンマガジン)
【アニメ映画】・「ロボッツ」 監督:クリス・ウェッジ(2005、米)
【雑記】・4〜6の合本について、など
【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2005、テレビ東京)
【雑記その7】・MIND HAPPY MIND
むかし、うのせけんいちの四コママンガのタイトル(連載のタイトルじゃなくて、1本の四コマのタイトル)で「MIND」ってのが確かあって、内容は全裸の中年男が「女子高生のウンコ食いた〜い!」とか絶叫するだけなの。
「HAPPY MIND」ってのは、その天丼(あっ、流行りのお笑い用語を使っちゃったよ、グヘグヘヘ)。
あれくらい絶叫したいときが人間あるもんだよ(ちなみに、女子高生のウンコはぜったい食いたくありませんが)。
というわけで、とりあえず絶叫的なテキストを書いてみようと思う。
まず、常に定期的に問題になる「最近のマンガはつまらない」という意見から、「本当につまらない」という観点で書きます。
以下、ジャンル別に。
・水商売マンガ
まず、私は水商売を否定する気は毛頭ないことはここにはっきりさせておく。
水商売マンガはホステス、ソープの経営者、ホストなどいろいろある。面白いのは実はわりかしあるのだが、つまらないのはとことんつまらない。ここで浮上してくるのは倉科遼問題だが、倉科遼に関しては「嬢王」が面白いとか「Dreams」が面白いとか議論百出である。しかしこのジャンル、倉科遼が一人勝ちしなきゃいけない理由に決定的なものがないのが私の心のモヤモヤの原因ではないでしょうか。
・借金取りマンガ
意図的にアンチヒューマニズムを提示していたのであろう「ナニワ金融道」や、エンターテイメント性を追及した「ミナミの帝王」以外のマンガで、イライラさせられるものが多い。
だいたい、読者は「取り立てる側なのか、取り立てられる側なのか」といういまだにわからない部分もある。
たとえば、駄作であっても格闘技マンガには梶原一騎やブルース・リーの理念が通底していたが、借金取りのマンガにはそうしたきちんとしたおとしどころがないものが多い。
・妖怪マンガ
京極夏彦などの人気によって、妖怪マンガもいくつかある。「ゲゲゲの鬼太郎」ブームなどとはあきらかに違うのは、おそらく諸星大二郎を通過して妖怪をシステマティックにとらえることが一般化していることだろう(京極も、ムリヤリ位置づければ諸星大二郎の延長線上にある)。
ところがだ。私が疑問に思うのは、妖怪の解釈でも何段階もあるのではないかということ。だれもが民俗学者や文化人類学者のわけではない。
まあ、何のことかわからない人もいると思いますが、いいです。
・システムマンガ
先の妖怪マンガと関連するが、大ざっぱに言って「世の中のシステム」を問題にするマンガが、ややインテリっぽいものの中に散見されるようになった。確か「90年代SF傑作選」の上巻に、ブルース・スターリングが「80年代サイバーパンク終結宣言」というのを書いていて、そこにおいてサイバーパンクというのがどういうものかというと、記憶だけで書いてるが「フランケンシュタインの怪物が初めて発明されるという物語ではなく、フランケンシュタインの怪物が一般化して、そこら辺で掃除のバイトでもやっているような世界で起こる物語」とか何とか書いていたと思う。
それはフランケンシュタインの怪物の制度化、システム化ということだろう(制度化とシステム化の違いはこの際無視する)。
最近のマンガに蔓延してるのはこうした物事のシステム化であって、システムの非合理性を描く作品が非常に多い。
そうしたシステムに対して抑圧と無力感を同時に持つと「セカイ系」になってしまう。そしてそうした抑圧を感じない(あるいはきわめて単純な認識しかしない)という意味でヤンキーマンガがバカにされるということになってしまう。
もうダメだ。この世はオシマイだ。
・少女マンガ
「好きならレイプされてもま、いっか」みたいな作品が多い。肉体的なレイプでなくても、「カッコいいが意地悪な男の子が、実は自分のことが好きだった」というプロットの場合、「その男の子がなぜ意地悪をしていたか、その意地悪をなぜヒロインが許すのか」が骨子のはずなのに、そこの描写がスッポリ抜け落ちていく。
みんな、そんなに仕事を早く終えて焼鳥屋で一杯やりたいか。
・ギャグマンガ
前から主張しているが「かわいい子がとつぜん毒を吐いてみんなびっくり」みたいなのが多い。昔からあるパターンだが、ストーリーマンガにおいてもよい子ちゃんが崩壊している現在、どれほどの意味があるのか。いや、どれほどの落差で笑わせることができるのか。
このパターンに初めて接して驚いた小中学生読者以外、このパターンを認めたくないのだが世の中、こういうのが大好きのようである。
こういうふうにだけ書くと、何か私が堅物の朴念仁みたいに思われるから比較対照として書いておくが、じゃあこの手のことを現状のお笑いブームでだれかやっているかというと、売れている人はだれもやってないのである(まあ、長井秀和が毒吐き系としてはいちばんそのテのマンガに近いが)。
「テレビとマンガは別」と思われるかも知れないし、お客相手だと違うと思われるかもしれないが、私は一種の勝負勘として「それは流行らない」とテレビとか舞台でお笑いやってる人たちが思っているような気がしてならない。
まあ、このことは十数年前から思っていたことだけどね。
・絵だけうまいマンガ
絵だけうまいマンガのことを批判すると、一生懸命絵を描いている人がキレるのでこわくて批判できない。
・原作付きなのに起承転結しかない
時代劇の劇画とかで、たまにある。しかも肝心の殺陣も2ページくらいしかない。
結論:
不景気。
覇気がない。
未来がない。
希望がない。
(読者が)マンガのことなんてどうでもいいと思っている。
(読者は)別にマンガを読んで元気が出なくてもいいらしい。
こむずかしいことが大好きな人が一定量いて、私のことを見てクスクス笑いながら指さしてくるので、もう何もかもダメなんだと思う。
(05.0831)
・「8マン インフィニティ」(1)〜(2) 平井和正、七月鏡一、鷹氏隆之、メカニカルデザイン:永田太(2005、講談社) [amazon]
近未来、事故で重傷を負った少年・東(ひがし)光一は、謎の少女から謎の何か「マシナリー」を受け継ぎ、8マン ネオとなった。
8マン ネオは、電脳世界で生きている東(あずま)八郎からアドバイスを受けながら、悪と戦う。
「スーパー平井&桑田大戦」だと原作者が巻末インタビューで言うとおり、超犬リープだとか虎4だとかが出てきますが、正直、他はだれがだれやらほとんどわかりませーん!!
今後、どんどん既存のキャラクターがでてきたらますますわからなくなるぞこりゃ。だいたい、私でもわからないのに十代の読者なんて何もわからんだろうたぶん。
お話は、今のところ「まあまあ」という感じかなあ……しかし何でこう何度も「8マン」がリメイクされるのかの理由はわからんな……実写映画化のときも、末松正博の「エイトマン」(→感想)のときも思ったけど。
ハッキリ言って、平井和正が思っているほど使い回しのきく設定じゃないですよ8マンって。幻魔大戦やウルフガイシリーズとかはまだ何とかなると思うけど、8マンが初登場したときの先進性、感動は、あのときだけのものという感じが強くするんだがな……。
そのときだけの輝きって、悪いことでも何でもないと思うけど、そういう一瞬の輝きと何度でも蘇るしぶとい人気というのはまた違うという気がする……。
たとえば、「009」が描かれるまでは石ノ森章太郎作品で確か最長のシリーズだった「ミュータント・サブ」[amazon]だって、あれを現在復活させようっていう人はあんまりいないわけだし。いや、とてもいい作品だと思うんだけど、どこかのある次点で設定の陳腐化が始まっていたと思うんですよ。そういうことはどんな作品にもあることだからねえ。
あ、「ヒーローもの」としては原作者はワカッテル人だと思うので、心配はしてません。
ところで「アンドロイド・ピニ」[amazon]は出るんですかね。出ないか。
(05.0830)
【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2005、テレビ東京)
8月28日放送分。
公式ページ。
スタジオライブは安倍なつみの新曲「恋の花」[amazon]。一聴、ふた昔前のEPOとかが歌っていた化粧品のCMソングという感じ。
昔話になりますが、「化粧品のCMソング」というのが本当に輝いていた時代というのがありましてね……。そういうのが嫌いなら嫌いできっちりアンダーグラウンドに走る、というスタンスがあったし。今や、いいのか悪いのかどっちもない気がする(いや、あることはあるんだろうけどね)。
でまあ、おじさん世代にとっては実に懐かしいメロディーラインなんですが、曲としては手堅くまとまりすぎている印象。本当に、去年当たりからのハロプロ関連の曲の遊びのなさにはややうんざりします。
ところで、つんくプロデュースから離れたというこの曲、「恋の花 作詞」でググるといちばん上に「安倍なつみ盗作疑惑」っていうのが出て来ちゃうのはどうしたもんだか。
メイン企画はハロモニ。見たいでSHOW!。
芸能リポーターの梨本と井上公造という人に、それぞれ面白映像のプレゼンをしてもらい、見たい方に札をあげて人数が多かった方が見れる……とかなんかそんな感じ。
「いいとも」で似たようなこと、やってましたね。
「面白映像」が、コレがまた困ってしまうくらい「日曜日の昼間の脳死状態的面白さ」であって、ハロモニ。ってアイドル番組というよりは、完全に「日曜の脳死状態番組」の方向へシフトしているように思えます。でもラーメン屋とかで「ハロモニ。」が始まるとたいていチャンネル変えられちゃうんだけどね……。
いちばん面白かったのは、石川梨華がドクロマークのタンクトップを着ていたことでした。
cuteのキャンプ。終わりの方では雨が降って来ちゃって、みんな雨合羽を着て釣った魚を焼いて食べてました。
エリック亀井の毎度ありぃ。ゲストとして新曲を出す安倍なつみ。
……で、コレだけでは面白くないので、これからウソを書きまーす。
ハロモニ。見たいでSHOW!は、梨本のプレゼン映像が「情報ソースとして『自分の娘に聞いたんですけどね』というまったくガッカリなことを平気で発言する梨本の編集映像」、井上公造の方が「松村の言ったジョークの意味がわからずにポカーンとしている和田アキ子の編集映像」。
和田アキ子に異常に気を遣い出す石川、「あえて」的スタンスで「アッコさんが見たい」と言う吉澤などの駆け引きがあったものの、けっきょく「『ごきんげんよう』でオチのない話をした人特集」の映像が1時間半にわたって流れ、その後の「ヤーヤーヤー」は放映中止になり、ジャニーズファンから(とくに二十代後半のジャニーズファンから)抗議の電話が殺到したということです。
キャンプ風景は、子供たちが「エサに恐くてさわれな〜い」とフニャけたことを言ったのに対し、怒った釣りの先生が「おまえら、いつまでもそんなことを言っているとおまえらのお母さんに欲情してやるぞ!!」と脅したために、番組はとんでもない展開に!!(釣りの先生が服の上からブラジャーを着けてフラダンスを踊るなど)
エリック亀井では、私が個人的に前々から気にくわないと思っていた「ガチンコラーメン道」のオヤジをゲストに、このオヤジのつくったラーメンを道重、亀井、中澤が食べて「まず〜い」、「やっぱりタレント人気におんぶに抱っこよね」などと言い、ガチンコラーメン道のオヤジの怒りが頂点に達したところで「ドッキリカメラ」の看板を持ったなっち登場。
本気で嬉しそうに「キャハハ、ウソですよー、キャハハハ」と無邪気に笑い、オヤジの肩を馴れ馴れしくポンポンと叩いた後、
「じゃあ、なっちも食べてみていいですかー?」と言って道重のラーメンをひとすすり。
一瞬間があいた後、複雑な表情になり、画面には「微妙。」というテロップが。
道重が「あんまりおいしそうじゃないですね、安倍さん」と言うと、スタッフから「ギャハハハ」という笑い声、苦笑いする中澤のアップ。次になっちは気を取り直したように、
「あのね、おいしくないわけじゃないの! ね、おいしくないわけじゃないです○○さん! でもね、なっちね、インスタントラーメンの方が……(カメラ目線で)好きかなっ」と言う。
そこにすかさず中澤、
「ちっともフォローになってへんやんかー! アハハハハ!」とかぶせ、
道重も亀井も大笑い。
その後、ずっと顔をひきつらせているガチンコラーメン道のオヤジ。
道重「なんかひと言ありますか? 田中さん」
何かしゃべろうとガチンコラーメン道のオヤジが口を開けた瞬間になっち、道重を指さして、
「この子名前間違えてるー!!」
スタッフ大爆笑。
一連の流れを断ち切るように中澤、
「それじゃあ、また来週〜!!」
来週予告「ハロモニ。裁判」
被告はたいせー。理由は、キュービッククロスのことなどにはいっさい触れず「ただ、何となく。」
しかし、司会の石川が笑いをこらえながら、
「今日の裁判ではシャ乱Qだったことは忘れてもらいます。」と言う。
新コーナー、「ガチンコラーメン道オヤジ、ハロプロの写真集を買いに行く。」
ガチンコラーメン道のオヤジに、何とかしてハロプロの写真集を領収書なしで買いに行かせるという企画。
スタッフが頼みに行っても一蹴するガチンコラーメン道オヤジ、アヤカに頼まれてまんざらでもないふうになり、ゴマキの写真集を新宿紀伊国屋店に買いに行く。
完。
前回の放送
(05.0830)
・「桃魂ユーマ」(1) 井上元伸(2005、秋田書店) [amazon]
yama-gatさんから存在を聞いて購読。面白かったです。
「いたがきぐみ出身者」による「バキテイスト満載」の美少女格闘バトル、ってオビに書いてあって、板垣恵介本人からも推薦文をもらってる。本作を知らない人に説明する際、「バキテイストでゴスロリ女が主人公の格闘マンガ」と説明するしかないんだけど、なんかちょっとかわいそうな気もしていて、やっぱりこの作者がこの作者としての個性出してるマンガだとは思うんですよね。
「ゾンビ屋れい子」[amazon]のオビに「ジョジョテイスト」って書いて荒木飛呂彦の推薦文をもらってきちゃうような妙な推し方になってて。まあ、私が担当編集者でも同じ推し方はすると思いますけどね。何しろいたがきぐみ出身なんだからそういう勧め方はしやすい。
もうひとつ思うのは、確か「刃牙」の担当編集者でもあったチャンピオンREDの編集長の手から、「バキテイスト」というか「刃牙」のパロディ的要素を持った本作が放たれるというのは、どういうことかということ。
コレは本家がパロディというかオマージュ作品を出しているということであり、でもたとえばGAINAXがエヴァのパロディ的商品をリリースするのとも少し違ってる。本作は本作として自律していると感じるし。
簡単に言ってしまうと、「やる方もわかっててやってる、ってことを読者側に提示している」ということで、一見劇画の系譜の延長線上にある「バキ」も、時代の子であるということだ。
ついでに書いておくと、「エヴァンゲリオン」が大人気だったときの「論争」における結末論争とは別に、問題視されたのは「アニメのリアリティって何なんだ」ということだったと思う。むろん、「リアリティ」そのものの問題と「アニメというジャンルでどこまで大人向けな題材を扱い、表現するか」は別問題だが、とりあえずそれが同じベクトルを向いていることであるとして、そういう「リアル、ニアイコール大人向け」とはどういうことかという問題が、提示されていたと思う(本当は「子供向け作品」という文脈からは「鳥人戦隊ジェットマン」あたりから、もっと言えば「ウルトラセブン」あたりからあった問題ではないかとも思うが)。
その点、マンガは実にそこら辺を曖昧にして来た経緯というのがあると私は思っていて、「リアル」の表現として「劇画」が出てきたときに「劇画はマンガ的なアソビがなくて面白くない、マンガの方がいい(大意)」と手塚御大が言っていたりもしたんだけど、小池一夫原作劇画のいい意味でのバカバカしさを考えると果たして読者が「リアルだから」劇画を選択したとは必ずしも思えない部分もある。
で、今さらながら「マンガのリアルって何だ」ってずっと考えているんだけど、本作を読むととりあえずアナクロニズムではないカタチで「いい意味でのマンガ的バカバカしさ」はマンガに残っているなあ、とは思う。
マンガの場合は、少なくとも80年代以降はアニメほど「何がリアルで何がリアルじゃないか」っていう問題は浮上して来なかった。何か何となく違和感はあるけど同居してるような感じで。
それは劇画が「ハイ、ここで劇画は死にました」っていう基点がなかったこととも関係してる。80年代に小池一夫も梶原一騎も(まあ、梶原は83年に暴力事件を起こしてしまうんだけど)、池上遼一もみんな生き残ったからね。でもどこかで問題にすべきなんじゃないかとも思うんだよな。
まあ話はそれたけど、このマンガは私は好きですね。
(05.0829)
【雑誌】・「週刊少年ジャンプ」39号(2005、集英社)
大石浩二「バカ in the CITY!!」は21ページのギャグ読みきり。四コママンガ。バラつきがあるように感じたが、総じて面白い(偉そうですいません)。
バカな人間がバカなことをやるパターンが面白い。バカ会社とか。逆に、かわいい女の子がズバッと毒を吐くパターンはつまらない。っていうか、トシをとってくるとそういうのが面白いと思えなくなってくるんだよな〜個人的に。
(05.0829)
【雑誌】・「週刊少年チャンピオン」36+37号(2005、秋田書店)
矢立肇、吉野弘幸+樋口達人、佐藤健悦「舞乙HiME」が新連載。
浜岡賢次「浦安鉄筋家族」は、167固め★不滅として橋友が登場。もちろん、レスラーの橋本が亡くなったことに対する作者なりの追悼の意の表明なんだろうね。
少しもホロリとさせず、徹頭徹尾ギャグに終始しているところが逆に泣ける。
(05.0827)
【雑誌】・「週刊少年チャンピオン」38号(2005、秋田書店)
手塚治虫、山本賢治「ブラックジャック 〜黒い医師〜」。名声のために手術をする医師に対抗意識を燃やし、いったん断った手術を承諾するブラックジャック。
いつも思うんだけど、ブラックジャックって悪人とは言わないまでも単なる気まぐれ野郎だよね。原作が1話完結で、その都度ブラックジャックの描き方が違うとは言え、こうした「何かのプロフェッショナルで職業に徹することを唯一の倫理観とする」主人公というのが、もう30年来私には疑問だ。ゴルゴ13もそうだし、ミナミの帝王もそうなんだけど、その辺ツッこむ人って少ないよねえ。
職業倫理と、もっと大きな「義」は合致するのか、それともまったく関係ないのかは普通の生活している人にとっても大きな問題だろうに。まあ、ゴルゴは一種のマシーンだからまたちょっと別だけどね。ミナ帝も、最近は若い頃の話で銀次郎の金貸し哲学を従来のものにはないヒューマニスティックなものとしてゴリゴリの金融屋と対立させたりしているけれども。
掘雅人、三三「フリオチ」が最終回。全19話か。これがショックでねえ……単行本が出たら同じ「お笑い」を扱ったマンガでも「リンガフランカ」[amazon]との違いなんかを書こうと思っていたところだったんだけど。
「フリオチ」について説明すると、ケツを出したり身体を張ったギャグしかできない元気少年・フリオチが、「男はオモロNIGHT」という人気ハガキ投稿ラジオ番組を知って投稿職人を目指すというマンガ。
実際に読者からハガキも募集していて、なんかそういうメディアミックスというか読者を巻き込んだ企画にしようという意図はあったみたい。
ライバルの美少年・ユウは、ゆるいバラエティにしか関わらなくなった放送作家の父と対立していて、フリオチもまた伝説のお笑い芸人の息子だった……とかの因縁話も面白いし、毎回まいかい実にいい意味でバカバカしく勢いだけでつっ走る感じが大好きだったんだけどねえ。
本作が昨今のお笑いブーム、ネタ番組ブームの流れで企画されたのは容易に想像できるけど、注目すべきは芸人そのものよりも放送作家を題材とした点。まあ原作者が放送作家だから当然と言えば当然だけど、ハガキ職人って何かとフィジカルなものを要求されるお笑い芸人と違ってどこか内向的な趣がある(だからこそ、主人公のフリオチは少年マンガの常道として最もフィジカルな存在として描かれているわけだけど)。
たとえば「自分の人生そのもの」にまで「お笑い」をつなげて語っていく、アドリブ=身体性重視の「リンガフランカ」とは対照的な、中高生のその場だけの盛り上がり的な部分に焦点を当てているという意味で、本作はとても面白いと思ってたんだけどな……。
たぶん単行本にはならないんだろうなこりゃ。残念だ。
(05.0827)
【雑誌】・「週刊少年チャンピオン」39号(2005、秋田書店)
所十三、"Show"大谷泰顕、ドリームステージエンターテインメント「パウンド フォー パウンド」が新連載。高田延彦も出てくる総合格闘技マンガになると思う。
私が今、実は個人的にいちばんすばらしいと思っているマンガ藤井良樹、旭凛太郎「ガキ警察」。毎週楽しみにしているが、次週から新展開ということで心配している(「電車男」ネタだっていうもんだから)。
それにしても今週までで本当に言うことないくらいすばらしい。いちおう断っておくが、これが私基準であることは私もじゅうぶん自覚しているが、こういう作品が連載されていること自体、奇跡に近いんですよ。
板垣恵介「バキ」は、「ケガ人に襲いかかっても勝ちは勝ち」ってことにいつの間にかなっていて、ひでえ話だと思った。
すると何か。刃牙が戦いが終わるたびに巨木のところまで行って瞑想にふけるのは、仕返しから逃れてケガが癒えるまで身を隠してたってこと? そんなのヤダ。「死刑囚編」ではそれがアリでも、地下闘技場ルールならそれは違う気がする。
兵藤一歩、ひのき一志「ガン×ソード」も最終回。ひのき一志の良さが最大限に出たイイ作品でした。単行本出たら買おう。
おおひなたごうと施川ユウキのマンガは、前作よりも難解だなあ。素直に笑えないぞ。
(05.0827)
【雑誌】・「週刊少年ジャンプ」36+37号(2005、集英社)
45ページ読みきり天野洋一「ウサギとカメとストライク」。イヤミなやつのバッティングピッチャー代わりになっている冴えない野球少年が、才能を見いだしていく話。
クライマックスの「どうやって勝負に勝つか」は面白かったが、やられたイヤミなやつのやられ具合が甘すぎる。みんなこれくらいでカタルシス得られるのかなあ。
「じゃんぷる」のダークサイドネタSPECIALが、異常に面白かった。
(05.0827)
【雑誌】・「週刊少年ジャンプ」38号(2005、集英社)
45ページ読みきり大竹利明「スマッシングショーネン!」は、バドミントンマンガ。頭が天然アフロヘアで、それを巣と間違えられいつも鳥に追いかけ回されている少年が、鳥を追い払うさまを「これならバドミントンでもいいスイングができる」と、バドミントン部の少女に認められて入部……というような話。
う〜ん、ギャグとしてもスポーツものとしても微妙! 個人的好みで言えばヒロインがドライすぎてグッと来ない(ま、イマドキの女の子はみんなこんな感じか)。
そろそろ面白さのピークは過ぎているか? と個人的には思っている大場つぐみ、小畑健「DEATH NOTE」だが、今回は松田のセリフが良かった。こういうのをわざわざ入れるところを見ると、やはり現代の善悪の混乱を作者は意識していると思う。
もちろん、殺人ゲーム的な展開の単なるエクスキューズと見ることもできるけど、入れると入れないとでは大違いなんだよこういうセリフは。
連載当初、期待の大きかった大亜門「太臓もて王サーガ」は、個人的には早くも「う〜ん」な感じかなあ……まともなヒロインが一人も出てこないのがえらく座りが悪い。ツッパリ少年がツッコミ役だけど、もう一人くらい普通の少女を入れてみてもいいと思うのだが……。予想どおり、「Sキャラ」というあいすもツッコミ役としてはうまく機能しているとは思えないし……。
(05.0827)
・「バキ外伝 疵面−スカーフェイス−」(1) 板垣恵介、山内雪奈生(2005、秋田書店) [amazon]
「バキ」に登場する最強の喧嘩ヤクザ、花山薫を主人公にした外伝。
う〜ん、絵は迫力があるんだけど、先の展開がぜんぶ読めてしまうのがなあ……。要するに「バキ」のハッタリ部分を抽出して固めたような作品だから。
「バキ」というお話の出発点は、「自分の持っているものを最大限に利用して戦う、敵の得意技や弱点をすべて研究し尽くして地下闘技場に臨む」という刃牙のリアリティにこそあった(同時に、当時の平直行の技と体格で、ありえない強敵と戦うのがまたファンタジーだったんだけど)。
また、「空手バカ一代」の続編かとも思えるような、それまで総合格闘技という概念も持っていなかった読者に、異種格闘技幻想を与え続けていた「ケンカ空手」の愚地独歩にあった。
それが逆にわかってしまうという印象。「死刑囚編と同時期に起こっている裏話」みたいな趣向もあるんだけど、そういうの関係なしにオリキャラどんどんつくって独自の話を展開させた方がよくはないかなぁ。師匠の板垣恵介は「餓狼伝」であれだけオリジナルなことやってんだし。
(05.0826)
【雑記その6】・無題
【雑記その5】の続きのようなそうでないような。「水戸黄門 天下の副将軍」っていう映画を観たんですよ。1959年、東映。
まあ、実際に見れば一発で分かるんだけど、この頃の東映の時代劇って、たぶんぜんぶこんななんだと思うんですよ。
で、何て言うのかな、逆に言うとこの頃の東映の時代劇に「あれがない、これがない」って言ってもしょうがないんだよね。泣いてもわめいても。
それは日活のアクションものとか、マカロニウェスタンとか、一時代を築いたジャンルっていうのはぜんぶそうで。
そういうのが当たってるとなると、量産されて、やがて飽きられて、何かパラダイム変換が起こって違うものに移っていく。
まあ、正確に言うと「こういうのだけではダメなんだ」みたいなムーヴメントが起きたりもするし、同時代に違う映画会社や違うメディアでは別のことが行われているかもしれないけど。
私自身があまりに悲観的な人間なんで、この「雑記その5」は同意してもらえなくても仕方ないとは思うけど、でもねえ……私個人は「たやすく娯楽作品は変わらない」と思ってしまう。
70年代の邦画が好きで、たまにビデオ借りて見たりしてるんだけど、「何で今、こういうのが少ないんだろう」とか思ってても、それは当然なんだよね。何か「70年代色」みたいのがあって、それは時代状況のいろんな要素の合成でできあがっていて、時代が終わるとともに構成要素が変わってしまうから自然に変わっていってしまう。
そして、「今、あの70年代テイストを」ってことになると、それは「21世紀になってから70年代的なものを人工的に(?)つくり上げた」ということになってしまって、70年代に時代の要請でつくられた映画とは外見は同じでも意味は違うものになってしまう。
繰り返すけど、私は悲観的なんだと思うけどね。
なんかねえ、某サブカル誌で、何ひとつ見てきた映画を誉めない映画評があるの。どんな映画でもほとんど誉めない。それで、「こんなのってあるか」と思ってそのコラム読まなくなっちゃったんだけど、気持ちはわかるんだ。
たぶん、そのコラム書いている人にはいつの時代か、どこの国かで理想の映画がかつてあって、それと同じものがない、と嘆いていると思うんだよね。
でも昔の映画とかマンガとか読んでると、その時代その時代のいちばん懐かしいところとかいいところを再現するのはいかにむずかしいかということを痛感してしまう。
で、「雑記その4」でも書いたけど、しかもそれをかたちづくっているのは「大衆」とか「世間一般」という目に見えない存在であり、そういうのに向かって文句を言っても仕方ない気がしてきてしまう。
まあ、その裏には、「現状の日本人だったら、人間どこかでバランスを取るだろう」っていう楽観的な見方が自分にはあるんだろうね。楽観して結果的に悲観的になるというのもおかしな話だけど。
一般大衆に何か決定的なゆがみが生じて、それが娯楽作品にまで表れるという事態が起こったとしたら、それは日本滅亡のときだと思う。もうそんな状態が娯楽作品にまで出てくるときは、日本人が根っこまで腐っているときでしょう。
だから娯楽作品に「批判」って加えられるのか? ということを、ずっと考えてきている。そりゃあ、私もヘドが出るくらい嫌いな娯楽作品は山ほどあるけど、「なんでそういうものが出てきたか」を考えると、ショボーンってなるしかない(それは西尾維新とかでもそう)。そういうものが出てくることには、それなりの理由がどうしてもあると思う。
今まで、「コレはイヤだなー、こういう作品は嫌いだな」と思ったことは何度もあるけど、「これはマズいだろう。これは存在自体がちょっとマズいのではないか」って思ってしまう作品って……なんだろなあ。見てないけど、AVで女の子を騙して暴力ふるってるようなやつ、あれはマズいと思ったけどそれは作品云々以前に犯罪だからなあ。
ああそうだ、いわゆる「セカイ系」はやっぱり嫌いですね。嫌いだけど、それが生成される理由が何となくわかってしまうというか、わかった気になってしまって「じゃあ、そういう理由でそうなるなら仕方ないかな……」とかになる。
急に思い出したけど「最終兵器彼女」が私はかなり嫌いなんだよな。何度も何度も書いてるけど、「DEATH NOTE」や「ネウロ」というのは、ものすごくぶっちゃけるとああいうものは前からあるわけですよ。
それこそ「土曜ワイド劇場」の明智小五郎シリーズとか。娯楽小説でもけっこうあるわけで。「ジャンプ内でどうか」ということになると、実は「アウターゾーン」とかね。「違うよー」とか言われそうだけど「世にも奇妙な物語」的な作品って過去にもあったことはあったから。
でも「最終兵器彼女」みたいな作品は過去なかったよ。過去なかったというのはすごいことかもしれないけど、私はあれは自信を持って(笑)「嫌い」とは言えるな。
でも、繰り返しになるけどあれが出てきて人気がある理由は、わかる気がする。
それと、自分が問題にしているのはむしろ、何のへんてつもない普通の読みきり作品とか、ドラマとか、定型パターンがあるのに定型になってないのがある、ということ。
「DEATH NOTE」と「ネウロ」はネームがキチンとできている。「なんでこのキャラクターはここでこういうふうに行動するの」っていうのはない。だから、作品内の整合性という点での違和感はない。「ここでは怖がるだろう」とか「ここでキレるだろう」とかがわかるから。
でも、たとえばアニメやドラマの脚本ならぜったいこうはならないだろう、この手のパターンって何千回も書かれてきたじゃん、っていうモノで、悪い意味でそうなっていってないのがある。私は、それは問題視している。でも理由がわからない。読者の読解力が落ちているのか、マンガ家の技術力が落ちているのか。
十数年前に、夢枕爆とか現在のライトノベルの前身的な少女小説とかで「一行に一文」っていうのが出てきた。詩みたいに、一行に一文しか書かないでお話が進んでいく。文学好きな人はそれをものすごく嫌がった記憶がある。
確かに、それまでの小説と比べると怠慢な印象はあったけど、あれが日本人の読解力が落ちた結果かどうかというのは、いまだにわからない。
そういう過去の件があるから、「どうしてこうなっちゃうの?」っていう展開であっても、そうだからといって、すぐに原因をあげることが私にはできないっていうこと。
あ、「天下の副将軍」は面白いですよ。面白いっていうか、楽しい映画。
(05.0826)
【雑記その5】・「オタク」とは「大衆、庶民、世間」といったものに対する座標軸である(あるいは座標軸のひとつである)
【雑記その4】への続きのようなそうでないような。
エンターテインメント作品の傾向は、その都度その都度の大衆が決める。むろん、ターゲットとなる年齢層や性別によってそれは変わってくるが、ものすごく大ざっぱに言えば一般大衆が決めます。
それに対して、果たしてどの程度倫理的な批判ができるかはむずかしいところ。
たとえば自分が強固な倫理的・道徳的な基準を持ち、それに従って人間は生きるべきだ、と強く思っているならその基準に従った批判が可能だろうけど。
しかもエンターテインメント作品は妄想の産物で、実際の行動ではないわけだからそれに対して多くの場合「批判」は加えられないことになる。「好き嫌い」っていうことは言えるけど。「好き嫌い」と「いい悪い」は、似てるようで違うから。
(そういう理屈でないと、逆に「娯楽作品に影響されて犯罪に走る人間がいるから規制すべき」という理屈が通ることになってしまう。いやそれはちょっと飛躍のしすぎか……。)
(まずあらゆる人が見てどうしようもない、という場合もあるけどね。たとえば「障害者にはだれかれかまわず暴力をふるっていいんだ」と本気で主張してるとか。でもそういうのはたいてい、いろんな人から批判が出るんで、このテキストの場合、もう少しこみ入った場合について書いてます。)
……とくに、ネット評などはほとんどが広義のサブカルチャーに対しての批評・批判になるわけで、サブカルチャーというのは反道徳・反倫理的な側面を本質的に持ち合わせているもの。だから、もともと反道徳的なものに「道徳的でない」という批判をすると「ロックは不良の音楽(だから良くない)」みたいな短絡的なものになってしまいかねない。
で、かなりそういう「いい、悪いの判断基準でものごとを斬る」ということを、広義のサブカルチャーに対して自信を持ってやっている人たちもいたわけ。
そういう人たちは、一般人を啓蒙してやろうという気持ちがよくも悪くも強いし、その立場でいる。
そういう立場を表明しているなら、まあそれはそれでいいけど。
シュミの世界というのは、一般人というか、大衆というか、庶民というか、そういうのの趣向とは違ってもっとコアなものなんだ、というのがまず前提としてあって、それ以外のものは「オンナコドモの好むもの」と言ったりしてた時代もあった。
でも現状の広義のサブカルチャーって、まさしく「オンナコドモ」の文化だったりする。
道徳的、倫理的基準というのは持っていてもいいが、それによって作品評価をすることは一面的なものでしかない。
もちろん、マニア的、オタク的評価もそうだけど。
どのくらい前までさかのぼれるかはわからないけど、昔の青年というのはそういう「大衆、庶民、一般人、世間」というものが自分以外に存在するとわかって、それに対して自分を分けていく作業の中には自分をインテリだとか知識人だとか(あ、同じ意味か?)、エリートであるとか、そういう人たちを先導してあげるんだという気持ちとか価値基準があって、それであれこれ批評していたフシがある。
「思春期」とか「青年期」ということに焦点を合わせると、それはけっきょくは「大衆、庶民、一般人、世間」とどう折り合いをつけていくかという問題になっていくと思うわけです。
一高→東大→大蔵官僚なんていう道を歩んだ人には、逆にその屈折はないわけね。自分がエリートなわけだから。いろんなものは斬って捨てていっていい人生。
「新人類は都内私立高校生的感性」ってキッパリ言った宮台真司も、「変なシュミを持ってる」っていう屈折はないんじゃないかと思う。逆に言えば「オタク」って自覚している人はその屈折がある。
三宅ナントカいう政治評論家がいて、徹子の部屋に出たときに「新聞社に入ったときに、文化部を希望したら『おまえ、入った早々そんなことでどうすんだ』とか言われて政治部に入って鍛えられた」とか自慢げに言ってた。
で、この三宅ナントカっていう人の「文化」に対する認識って他のコメントでもぜんぶこの程度で、だからこの人、個人的には「バカじゃねえの」と思っているけど、でもあの世代の「男子」ってああいう認識の人多いんだよね。「オンナコドモ」認識なんだよな。
で、官僚になれない人は革命家だとか、教育者だとか(コレも言い方は悪いが「でもしか教師」と言われていた、教師の口がたくさんあった時代には「インテリな自分」を保持する装置として教師や塾講師が機能していた時代というのがあったわけで)、知識人であることの自覚だとかで「大衆、庶民、一般人、世間」に抗していくということができた。
だけど、そういうのの価値が一気に下落してしまったときに、「オタク」っていう価値基準が持ち出されてきたという側面は、オタクの一面にすぎないにしろあったと思う。
だから、これはだれかも言っていたけど「オタク論」というのは対「大衆、庶民、一般人、世間」ということを抜きにはできないと思います。
逆に言えば、常に「オタク論」が議論百出で定まらないのはそれの対象物が「大衆、庶民、一般人、世間」という、とらえどころのない鵺みたいな存在だからで、逆にそこのターゲットを絞ると話がわりと単純に転がっていったりするわけ(たとえば「そういうシュミのない異性」と規定してしまうとか。モテ/非モテとか「電車男」とかね)。
今まで「大衆」っていう言葉を使ってもどうも理解されなかったことが多いので、大ざっぱに「大衆、庶民、一般人、世間」っていうふうにしてみたけども。
要はネットでも何でもいいけど評者の立場、自分の座標軸をどこに定めるかということで、それは逆に言えば対象としているものがだれをターゲットにしているかということを定めるということでもある。
そうでないと、すべてを単純な価値基準に分けてしまって終わり、ということになってしまう。そういう評もあるけど、それならそれで自覚とか覚悟が必要だということ。
(05.0825)
【雑記その4】・「大衆」が望む「勧善懲悪」とは彼らが望むもののワン・オブ・ゼムでしかない
やさぐれ日記暫定版の「魔人探偵脳噛ネウロ 1 (1)」評を読んで、いろいろ思い悩んだけど自分の思うところを書いておきます。
別に、ガルシアの首さんのテキストを批判したいとかそういうんではなくて、自分の考えていることを書くと長くなっちゃうんで、ヒトのコメント欄でえんえんと私見を述べるというのもなんだか「ヒトの家に遊びに行って弁舌をふるう」みたいになっちゃうので、自分のところで書こうというわけです。
まず「ネウロ」が「善悪の観念が壊れてしまっている」ということに関してだけど、この部分に関しては自分はとくに何も思わないです。もともと、ミステリというのは「善と思ったら悪」、「悪と思ったら善」みたいな意外性、通常生活している上での常識を覆す面白さがあるのだから、おそらく戦前から見ていっても「正義感溢れる熱血探偵」ばかりとはかぎらんでしょう。
(指摘されてますが、洋装になる前の明智小五郎なんかはその典型ですね。)
さらに、「常識人の女の子」にネウロが取り憑いているという設定が重要で、「登場人物全員が狂っているっぽい」西尾維新にあるイヤ感はネウロにはないですね。私にとっては。
ただし、ネウロだとか西尾維新だとかを語る際、「善悪の価値基準が壊れた現代を反映している」というふうに考えることもできる。それならば、なぜそれが過去の他の作者の他の作品と同じ構造を持っているのに、違う環境から生まれ受け止められているかを、立証はむずかしいとしてもある程度のところまで、説得力のある差別化を図らなければいけないと思います。
そうでないと、リリースされた作品はどんなものでも現代を反映しているのだから、過去の似た作品との比較がないと常に「現代を反映している」という言い回しだけで終わってしまう危険性が、テキストを書いている側としてはあります。
まだるっこしい書き方になりましたが、要するに「作品」というのは時系列のつながりと、その都度その都度の「時代の影響」というのが交錯しているところにあるということです。
また、ミステリと親和性の高いジャンルに「ホラー」があります。ホラーこそ、勧善懲悪という観念にとらわれていないジャンルです。私は恐いのが苦手なので、ホラーの歴史が知識としてスッポリ抜け落ちているのが難だけど、「勧善懲悪もの」とは実に対照的なジャンルで、これをおさえておかないと大衆の好みを大幅に読み誤ることになると思う。
そして、大衆の好みを読み誤るとどうしてまずいのかというと、マンガやライトノベルは基本的に大衆のものだからです。
もうひとつ隣接ジャンルはブラック・コメディがある。「ネウロ」でも人の死をギャグっぽく扱うところが出てくるけど、これは「コメディ」−「ブラックコメディ」−「ホラー」−「ミステリ」−「勧善懲悪」もの、というふうにジャンルが連関(まあ、もっと細かく考えれば複雑に交錯している)しているからで、そういうふうに複眼的にとらえていかないと、けっきょく「これは勧善懲悪だから正しい、これは正しくない」ということになってしまう。
で、そういった意味で「ネウロ」の「新しさ」とは何かを考えると、現時点では以下のようになる。
その1 「少年ジャンプ」という少年誌において、勧善懲悪とは言いきれないキャラクター、展開になっている
その2 「機械トリックなどを駆使した(ネウロの魔人という設定は除いて)推理もの」という体裁で始まったが、敵にも化け物じみたやつが出てきて、その設定が壊れていて、なおかつ批判もされず人気も落ちずに続いている
その1に関しては、まあ「友情、努力、勝利」の少年ジャンプだから目新しい、ということは言える。あくまでも「ジャンプ内新しさ」なのだ。
その2は、作品の構成というか物語に関わる部分だが、ここに目を向けないでテーマだけで語るのはまずい。ただし、「超自然的な設定が出てくる推理もの」としては、これはジャンプというジャンル以外に広げてもいいが大先達に「ジョジョ」がある。
西尾維新だってジョジョ・チルドレンだということは、言える。
以上のようなわけで、結論から言うと私は「ネウロ」は面白いとは思うけど、現時点で「ものすごく新しい作品か」と言われればそうではないと思うし、また勧善懲悪を求める作品でもない。あ、そうそう、前にも書いたかもしれないけど「羊たちの沈黙」とかもそうだったよね。むしろ、「勧善懲悪」というのは娯楽のワン・オブ・ゼムでしかないのだ。
さて、では現時点で「西尾維新とネウロの違い」だけを指摘しておきたい。
といっても、西尾維新を2、3冊しか読んだことがないんだけど、
いちばん大きいのは西尾維新は登場人物に語らせている「壊れた道徳観念」を、もしかして本気で訴えたいのか? ということ。で、それがものすごく青い。前にも書いたかな。青春の青さってだれにでもあるけど、何か論理的に語られるだけ余計にイタイ。
「ネウロ」は、今のところネウロって水木しげるの妖怪と変わらない。何かを人間に訴えたいわけではないから。この違いはけっこう大きいよ。
で、そんな私がなぜ西尾維新を何冊か読んで、しかもある程度認めているかというと、テーマとか訴えたいこととかはメチャクチャだけど、そうとう壊れたかたちではあるがミステリ的なプロットを採用しているために、不思議なカタルシスがあるということなんだよ。
これは、最近テレビで観るテーブルマジックで「結末がわからない状態でマジックを見せられ、予想外のことが起こる」というのに似ている。
たとえば、「帽子の中から何かを出す」というのは、もう「何かが出てくる」というのがわかっている。
だけども、たぶんマジックの専門家にとっては当たり前の手法なんだろうけど、「トランプのカードを当てます」じゃなくて、「トランプのカードを当てる、と言っておいて、当たらなかったけどカードの裏面がぜんぶ赤から青に変わってます」とかね、そのたぐいのマジックっていうのは、「先に何が起こるかわからない」というミスリードが大きな驚きにつながってる。
西尾維新とか佐藤友哉にはその方法があまりにも顕著。それが、反則的な印象をもたらす。で、この方法はけっこう使えるので、人気があるのだと思う。
要するに何が言いたいかというと、テーマが陳腐でも結末のどんでん返しで読ませてしまう、という、他のジャンルではぜったいできないことがミステリ(正確には「ミステリ的な要素を取り入れた作品」)にはできるという構造的な面白さは、マンガ感想サイトである当サイトでは指摘する価値があると思ったわけ。
で、タイトルからどんどん離れていっちゃったけど、よく「水戸黄門」とか「寅さん」とかが大衆の代弁者のように語られ、「勧善懲悪」、あるいは「涙あり、笑いあり」みたいなのがいちばん一般大衆に好まれるジャンルだと思われてるけど実はそうじゃない。
みんな、本当は気持ち悪い話とかあんまりな話とか、スカムな話とかが大好きなわけ。そこに方向性はない。
「本来、勧善懲悪的なジャンルであるべきもの」が「勧善懲悪ではない」のは、受け手が望んでいない料理を出しているわけだから批判されてしかるべきだが、ミステリとかホラーというのはそういうものではないんだよねえ。だから「DEATH NOTE」にしても「ネウロ」にしても、それらが勧善懲悪でないからといってそれだけで批判することはできない。
それと、「ジャンプ的倫理観」みたいなものとどこまで折り合いを付けられるか、という問題なんだけど、これは「武装錬金」と「ワークワーク」がぐじゃぐじゃになってしまったという点で、明らかにジャンプ的倫理観が「時代」と乖離しつつあるということなのではないかとも思う。もっとも、「ジャンプ的倫理観」のおかげで、胸くそわるい失敗作を読まないで済んでるわけだけどね。私も。
で、60年代から80年代くらいまでは「そういうアホな大衆を先導してやろう」とか、あるいは「大衆ってのはしたたかだから、そうそう道をはずれることはない」という正反対の観点で送り手がモノをつくっていたようなフシがあるけど、今はどっちもうまくいってない、というのもあるね。それもまた別の話……なのかなあ?
どうもうまくまとまらなかったけど、こんなとこです。
・【雑記その5】
(05.0824)
【雑記】・amazonでDVD買って買って厨
急にアフィリエイト欲しい欲しい厨になったので、興味のあるものにリンクを貼ってみた。
・東映監督シリーズDVD-BOX 石井輝男編[amazon]
発売日: 2005/10/21 近日発売 予約可
・ローレライ プレミアム・エディション(初回限定生産)[amazon]
・装甲騎兵ボトムズ DVDメモリアルボックス[amazon]
だいぶ前に出たやつでお値段も少々はりますが、TVシリーズ全52話の他に、
●OVAシリーズ「ザ・ラストレッドショルダー」(1985年)
●OVAシリーズ「ビッグバトル」(1986年)
●OVAシリーズ「レッドショルダードキュメント野望のルーツ」(1988年)
●OVAシリーズ「装甲騎兵ボトムズ 赫奕たる異端」(全5話・1994年)
……が入ってるんですね。
・美少女仮面ポワトリン VOL.1[amazon]
発売日: 2005/09/21 近日発売 予約可
・まいっちんぐマチコ!ビギンズ[amazon]
発売日: 2005/11/02 近日発売 予約可
磯山さやか主演。タレントのランク的に、たいしたHシーンは望めないが単に私がいそっち好きだから。
・超星神グランセイザースーパーバトルメモリー[amazon]
発売日: 2005/10/28 近日発売 予約可
単に私がいそっち好きだから。っていうか、これにどの程度出ているのかはわかりませんが。
・セーラー服反逆同盟 DVD-BOX[amazon]
かわいい仙道敦子が鉄拳で戦うという大・ジャンクロマン。
・浅草橋ヤング用品店 魂の在庫一掃大セールDVD-BOX[amazon]
・発熱!猿人ショー[amazon]
発売日:2005/09/28 近日発売 予約可
見たことはないんですが、関西方面では話題になっていたコント番組のDVD化だそうです。
・sakusaku Ver.1.0[amazon]
見たことはないんですが、あちこちでハマっている人がいる番組ですね。
・ビートたけしのお笑いウルトラクイズ[amazon]
発売日:2005/12/07 近日発売 予約可
当然見たことありますが、もはや伝説と化してます。
・笑!X-KING 厳選素材食べ放題![amazon]
2005年1月13日に行なわれた、サンミュージック所属の若手お笑いタレント「飛石連休」「どーよ」「三拍子」「さくらんぼブービー」4組によるイベントライブ
私がひたすらに「さくらんぼブービー」が好きだという理由で押します。
これで好評なようなら続けます。不評ならやめます。
(05.0823)
【雑誌】・「コミックバンチ」36号(2005、新潮社)
すいません。ずいぶん前に出たんですが、永井豪「新バイオレンス・ジャック」が「へ? これで終わり?」というカタチで連載が中断してしまい、ガッカリしすぎて放置してしまっていました。それにしても自分から陣頭指揮をとるジャックってヘンだなあ。単行本1巻は、今秋発売だそう。
坂本タクマ「屈辱er大河原上」が最終回。まあ、なんだかんだ屈辱、屈辱と言いながら庶民的な幸福に耽溺していきそうな大河原上。人生なんてこんなものなのだな。
ペ・ジュンゴル「ホテルココナッツ」も最終回。
木暮峰「もず日和」は、16P読みきり。廓を舞台にした悲恋もの。この人、なんだかすごく「バキ」っぽいと思うんだけど元アシスタントか何かでしょうか?
(05.0823)
・「週刊漫画ゴラク」9月2日号(2005、日本文芸社)
・「喰いしん坊!」土山しげる
名古屋にて、カレーうどん勝負になりそう。
・「酒のほそ道」ラズウェル細木
・「鳳−おおとり−」神尾龍、渡辺みちお
・「月見草の咲く頃に」やまさき拓味
集中連載第2回。戦国の世、軍馬を調教する少年の話。
・「女帝花舞」倉科遼、和気一作
・「銀牙伝説ウィード」高橋よしひろ
ウィードに恋人が。ロシアから新たなる敵(の犬)が来たっぽい?
・「江戸前の旬」九十九森、さとう輝
・「フィーバー課長」神保あつし
・「二人ぼっち」南ひろこ
・「今日からヒットマン」むとうひろし
シリーズ連載。ヒットマンの後継者としてムリヤリ指名されたサラリーマンが裏社会で戦うという展開をややコメディタッチで。この回を読んだかぎり、わりと面白いが主人公の妻が「美沙子」で、ホントに安田美沙子のグラビアを見ながら描いたっぽかった。
・「弱虫(チンピラ)」立原あゆみ
・「仕抹屋・萬」狩野梓、地引かずや
・「天牌」来賀友志、嶺岸信明
・「ミナミの帝王」天王寺大、郷力也
すべてを失った若き日の銀次郎を、彼を不幸のどん底に陥れた阿久津天勝に対抗できる人物にするため、各分野からドロップアウトしてしまった専門家チームが組まれる。この辺は同じ作者の「男・天を突く」で、魔羅達郎がルンペンみたいなじいさんから教えを乞う展開を思い出しますね。
(05.0823)
【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2005、テレビ東京)
8月21日放送分。
公式ページ。
Dr.コパの風水企画、まだ引っ張ってた。それと、マジシャンのピエールにマジックをやってもらい「この後、どうなるでしょう?」というクイズ、エリックの総集編と言いつつ実は中澤のリアクションの総集編という内容。
あとあれね、cuteがキャンプする企画。
あ、あとコントもあったか。
マジッククイズのご褒美はスープカレー、食ってる道重はともかく高橋愛は予想どおり中途半端なリアクション。
久住は「ミラクル」と呼ばれたのはほんの数週だけで、いつの間にか溶け込んでしまいもはや背景の一部におさまってしまっているし、
現場が盛り上がっているっぽいフットサル情報はゼロ。
ほんっとに最近の、「テレビでのハロプロ」って盛り上がりがねえよなあ〜。とくにこのハロモニ。は企画に事務所側のやる気が感じられないっつーか……いくらファンが固定化しているといっても、このプロモーション効果の狙ってなさはヒドい。
(05.0822)
【雑記】・ミニスカメイド絶対支持宣言
前々からおかしいおかしいと思ってたのだが、「メイドさん萌え」の場合、「ホントのメイドさんはこうだ」とか「メイドさん萌えなら中年のメイドさんにも萌えろ」とか、そんな話ばっかり最近聞く。
そりゃ私も「エマ」とか読んでますけど、それとこれとはぜんぜん別の話。
「ミニスカのメイドはホントのミニスカではない」に至っては、いやそれはそうなんだけどさ、ちょっと納得行かないというか……。
嗚呼、やっぱりこの辺が私が最終的に「萌え」が理解できない地点だということだと思いますね。
だいたい、もともと制服っていうのはそれそのものや、それを着ている人に付随する背景こそがあくまでもファンタジーに従属するのであって、リアルな背景がファンタジーを主導するのではない。
そもそも、こういう議論は(笑)確かフレドリック・ブラウンの「発狂した宇宙」でも出てきていて、アレは多元宇宙の存在を認めたうえでさまざまな世界のバリエーションを見せる。
で、「スペース・オペラに出てくる露出度の高い女の子の宇宙服、あんなのあるわけない」みたいなことをだれかが言うと、「そういう宇宙服」だけがその世界で合理性がある世界というのができちゃう。
これだろ!!(親指を立てて)
あるいはガンダムのSF考証の問題とかね(戦車で膝を狙えば一発で使えなくなるモビルスーツは未来兵器としても存在しないとか何とか)。
他の制服ものというかある種のフェチもぜんぶそうで、いちいちリアルなこと考えてたら私は面白くも何ともないですな。
逆ベクトルのものを考えてみたらいい。
たとえばアンドロイド美少女なんて、まあガチガチにハードSF的設定にしようとしたら何かとっかかりがあるのかもしれないけど、そこら辺のマンガに出てくるとしたら「リアル」のとっかかりなんてほとんどないわけですよ。
せいぜい、「手足の関節にネジは今さらダサいからやめよう」程度のことでしょ。
そうするとまあ、実にみんな勝手気ままにアンドロイド美少女を構築していったわけですよね。
それでいいと思います。
なんか最近「SFおしかけ女房」まるで更新する気がないなあ、と自分で思っていたら、なんだかそういう「萌え」のリアル方向に何かを削ぎ落としていくというか、そういうのに疑問を持っているからなのだった。
絵のうまい人に、冒涜的(?)なメイドさんを描いてほしい……エナメルのミニスカートで首輪とか(首輪はパンクロッカー風に、前面にバックルが来るのがいいでしょう)、リボンにオーバーニーソックスとか。
背中にロケット背負ってるとかね。
宇宙から来たとか。
未来から来たとか。
あと、悪い宇宙人に地球が侵略されそうになって、戦えるのは十代の美少女しかいなくて、いい宇宙人から支給されるのがメイド服そっくりの戦闘服だとかね。
まあ、そういうのは80年代には馬に食わせるほどあったけど。ハハハハハ。
(05.0821)
【雑誌】・「ウォーB組」9月号(2005、マガジンマガジン)
公式ページ。
超ブーム! アキバ系萌えエロAVなる特集が組まれております。かつて新婚さんが電化製品を揃えるために必ず訪れたという秋葉原……それが「アキバ系」という言葉に使われ、いろんな意味でこんなにもいかがわしいことになるなんてだれが想像したでしょうか。一見「私たち従業員はアキバ系のことなんて何も知りません」といった風情の「秋葉原でんきまつり」のCMは、その最後の抵抗かもしれない……(ウソ)。
「ぼくとすずなのいた夏」野田ゆうじは、第38話「女スパイのレクイエム」。最初は「全裸に首輪と尻尾を付けた謎の女の子が陵辱されまくる」という話だったのが、いつの間にかロシアのなんかがからむ伝奇アクションものになっている(最初からそのつもりだったんだろうけど)。
ビンタをするだけでどんな男でも自由に操ることができる謎の女(主人公の姉)。どうも「文明の影に潜む魔女」らしい。彼女はやくざに捕まってゴーモンされる。
一方、いにしえより伝わる謎の秘具「スフィア・エッグ」は起動キーとなるサイクロプス・スフィアによって女をイカせまくる性具へと変形する……という自分であらすじを書いていてもわけのわからない展開になっているが、大変に面白いので単行本[amazon]の続きを出してほしいです。
他にはマンガとしては尾山泰永、杉友カヅヒロ、児島未生。
次号は9月9日発売。
・先月号の感想
(05.0820)
【アニメ映画】・「ロボッツ」 監督:クリス・ウェッジ(2005、米)
公式ページ。
個性的なロボットたちの住むロボットの街に、発明家になる夢を実現させようと田舎からやってきたロボット、ロドニーの冒険。
実は観る前にけっこうバカにしてたんだよね。映画館で予告編を何度も観て……「夢をあきらめるな」みたいなさー。アメ〜リカンな「どうだすごいだろこれがおれたちの力だバーカバーカ(バーカとは言ってない)」的な、すごいCGにも食傷気味だったし。
でも、なんだか観た後にすごく感動してしまった。
プロット自体は、何か確固たる元ネタがあるのか、漠然としたものなのかはわからないけど1940〜50年代のアメリカ映画の感じ。貧乏で田舎モノのロドニーが、知恵と勇気で腐敗した都会で頑張ってやっていこう、という。まあ、とてもこのままでは人間を使った現代の映画にはならない。
でも、そこを「ロボットたちの世界」ということに全部置き換えて見せていく。そこがうまい。ロボットの世界では、貧乏人は「部品が買えない」。そうすると能力も劣ってきて寿命も短くなってしまう。「部品」はカネであったり、知識であったり、あるいは薬であったり、そういったことのたとえになっている。それが徹底していてブレがないから、世界観がいい意味で見えやすい。
それと、小ワザが実に効いている。冒頭、ロドニーの父親が、「おれに息子が生まれるんだ!」みたいなことを町中の人々に言って回る(こういうシチュエーション自体、実に古くさいわけだが。わざとやってんだけど)。
で、家に帰ってくると、奥さんがいて「もう届いちゃったわ」と、赤ん坊のキットが入った箱を差し出す。でも含みのある顔で、「でも『つくる』のが楽しいんだから。」
そして、それが単なるジョークで終わらない。ロドニーの部品を組み立てていく過程で、お父さんはなんかコケンに関わるみたいな感じでわざと説明書を読まないで、奥さんの観ているところをこっそり盗み観たりする。奥さんは「しょうがないわねえ」みたいな表情をするけど黙ってる。ジョークなんだけど、もうそこでロドニーのお父さん世代の夫婦関係の仲睦まじさみたいなものを表している。
ホントの小ワザもある。ロボットの中に「オズの魔法使い」のブリキの男が混ざっていたりとかね。
で、冒頭がロドニーの両親の話から始まるんだが、本作ってオトナをわりときっちり書いているというか、子供連れで行ったおとうさんにも深読みできるようになってる。
ロドニーの父親は音楽家への夢をあきらめて、皿洗いロボットとして働いている。
都会の象徴である成功者、ビッグウェルド博士は新世代に追い落とされようとしてる。
ファンおばさんは……何だかわからないけど古きよきタイプの世話焼きおばさん。
敵役のマダム・ガスケットは、裏社会のドンだがおそらくビッグウェルドの成功に凄まじいルサンチマンを抱いていることが想像できる(想像できるだけで、ことさらに掘り下げていないところが子供の映画としてはイイんじゃないかと)。
……そんな中で、ロドニーを始め若い世代が活躍する。
これもアメリカのパターンかどうかはわからないけど、ビッグウェルドが第一線でいた時代は、本当に理想の時代だったことになっている(まあ、そこに何を逆恨みしているかわからないマダム・ガスケットがいる、というのは「王道」として理解できる)。
そういうところがなんかすごいアメリカ的だなあと思うし、「アイアン・ジャイアント」なんかとはまた違ったノスタルジーの描き方である気はする。要するに、観客のおとうさん世代にとっては本作の世界が古き良き世界=ビッグウェルドの君臨していた世界だということ。
ラスト、ロドニーは両親のいる故郷に戻ってくる。この辺のお茶の濁し方というか、ギャグがとても気に入った。ネタバレになるから書かないけど。これだけは言えるのは、この映画はロドニーのお父さんのシーンから始まってお父さんで終わる。
だから本作って、夢を追いかけて実現させたロドニーの物語である裏に、皿洗いマシンとして生きたお父さんの一生がある。確か成功者であるビッグウェルドとロドニーのお父さんが直接出会うシーンがあったと思うけど、そんなふうに「オトナ」の、青春時代を終えた大人の人生を(あくまでも本編の裏側というカタチだけど)プライドをもって描いている。
それがなかなか侮れないな、とね。
おんなじようなアニメでよくできてる、とすると「モンスターズ・インク」とかもそうで、あれもまた「ロボット」ではなく「モンスター」の設定がよくできていたわけだけど、あっちはまだまだ前途のあるモンスターの物語だったから(笑)、「ふ〜ん」と思っただけだったけど、本作はなんかいちいちグッと来るんだよね。
あ、あと「貧乏人や企業論理からは無能なヤツらが、権力者をギタギタにする」という私好みの話だったというのも、もちろん評価にゲタをはかせている理由ではあるね。
(05.0819)
【雑記】・4〜6の合本について、など
「いいとも」で定期的に素人の年齢当てコンテストというのをやっていて、たまにものすごくイタイ人が出てきて、観客が爆笑している。
……さて、気持ち悪く、なおかつ意味のない導入部を書いたところで、どうしてもやらなければならないと思っているのがコピー誌だった「ぶっとびマンガ大作戦」Vol.4〜6のオフセット合本化である。
これが長らく放置されていたのには、理由がある。
図版を大きく取りすぎているのだ。
ちょっとさすがにマズいだろうというくらい、多く取っている。
それともうひとつは、すでにかなりのネタをと学会誌などに流用してしまっている。
この辺は、たぶん合本化してもぜんぶ削除になると思う。正確には同じ文章ではないが、と学会誌に書いた方が「改稿」に当たるので、その前のものを復刻してもしかたないだろう。
最初、使えるテキストだけぜんぶ打ち直しにしようと思ったが、早くも挫折。
なんだか、自分の昔の文章って読むと腹が立ってくるのである。
かといって、ぜんぶ書き直してしまっては「合本」の意味がない。
今からジグゾーパズルでもやるみたいにぼちぼちやるつもりではあるが、まったく、自分としても年月に耐えられるものがもうちょっと書けないものかとは思う。
この項、長々書こうかとも思ったけど急にやる気がなくなったので、やめる。
(05.0819)
【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2005、テレビ東京)
8月14日放送分。
公式ページ。
先週のDr.コパを迎えたスタジオ収録の風水企画と、コージー冨田がエスコートする鎌倉デートを半々。それとキッズ(cuteでいいの?)がキャンプをするっていう「おはスタ」の夏休みみたいなコーナーもあった。
ここんところ毎週書いている気がするが、この番組では「他の番組では出せないようなメンバーのキャラを発掘する」といった役割はほぼ完全に終えていて、どうもそっち方面でのツッコミがいが最近、ない。
また、新入りの久住ちゃんがビックリするほどあぶなげない、ソツのない子であるということも手伝い、正直、番組的には久住が入る前と後でほとんど違いがないという結果になっていることも新味のなさの原因ではある。
もう一方で、私はモーニング娘。の、簡単に言ってしまえば萌え路線シフトを全面否定するわけではないのだが、六期のバラエティ能力のポテンシャルがあまりにも世間的に評価されなさすぎるという状況も、いちいち六期がなにをした、と書くことへの虚しさにつながっている。
というわけで、もはや感想を書くとしたら「ネタ化」しかないのだが、まずコパの風水!
「豚肉にはパワーがあるので夏に運気が上がる」だと? 豚肉を食ったら、だれでもパワーが出るんだよ!!
また「1年通してのラッキーフードは?」と聞かれ「カレーライス」。カレーなんて普通にだれでも食っとるわ!!(カンニング竹山)
あと、「夏に運気があがる帽子」は、
「つばの広いもの」って、あんたねえ!! 夏にはみんな自然につばの広い帽子を選ぶんだよ!!!!!
さて、Dr.コパにソックリ、と言えば俳優の酒井敏也である。そう思ってるのは私だけだろうか。
何となく、「リプレイJ」で「人生失敗した」方が酒井敏也で、「やり直して成功した」方がDr.コパみたいである。まあ、酒井敏也もじゅうぶん成功していると思いますがキャラ的にね。
あの「トシちゃんそっくり」という人は買えるな。しかも後期トシちゃんなんだよね。
エリック亀井の毎度ありぃ。道重がうさぎの耳をつけて「ニャンニャン!」とか言ってた。亀井がセーラー服着てた。美勇伝はあいかわらず変な空気だった。
・前回の放送
(05.0816)
「つれづれなるマンガ感想文2005」8月前半
「つれづれなるマンガ感想文2005」9月前半
ここがいちばん下です
トップに戻る