つれづれなるマンガ感想文

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「つれづれなるマンガ感想文1999」12月後半
「つれづれなるマンガ感想文」1月後半
一気に下まで行きたい



・「ちんぽ刑事」(2)(3)(完結) 丘咲賢作(1999、講談社)
・「夜霧のファンタジー」 唐沢俊一&ソルボンヌK子:監修、中川秀幸(1998、イースト・プレス)
・「あっ! 生命線が切れている」 好美のぼる著、唐沢俊一編(1998、二見書房)
・「ヘルシング」(2) 平野耕太(2000、少年画報社)
・「大王」 黒田硫黄(1999、イースト・プレス)
・「ゆりちゃんちのキュウ」、「ゆりちゃんちのキュウツー」 富沢ひとし他(1999、ゆりちゃんちのきゅう!)
・「エイリアン9」 全3巻 富沢ひとし(1999、秋田書店)
・「野ばらの国」 明智抄(1999、ぶんか社)
・「週刊少年チャンピオン」6+7号(2000、秋田書店)
・「ヘルシング」(1) 平野耕太(1998、少年画報社)
・「OOII(ダブルオーツー)純潔の反作用」ふじいあきこ with秋山道夫(1999、ワニマガジン社)
・「Zマジンガー」(1) 永井豪(1999、講談社)
・「ディスコミニュケーション 精霊編」(1) 植芝理一(1999、講談社)
・「ディスコミニュケーション 学園編」 植芝理一(1998、講談社)



・「ちんぽ刑事」(2)(3)(完結) 丘咲賢作(1999、講談社)

ヤングマガジン アッパーズ連載。ものすご〜くちんぽのデカい刑事、「ちんぽ刑事(デカ)」の活躍を描いたギャグマンガ。
1巻では「うんこ刑事」、「肛門から何か発射するヤツ」、「うんこを盗む怪盗」、「ちんぽじゃなくてタマキンがものすご〜くデカいヤツ」などが出てきたが、2巻、3巻もだいたい同じような内容。

しかし敵がすべてシモネタキャラかというとそうでないときもあるし、よくわかんないが前・後編に引っ張る話が多いし、最終回はビルと同じくらいの大きさの「神」が現れ、「神」が射精すると地球が滅亡する、というのでちんぽ刑事やうんこ刑事などが立ち向かうという壮大な話になる。

だが最終回に出てきたうんこ刑事の伏線は活かされていないし(同じおむつを10年間はき続けたとかなんとか)、最後の最後にはちんぽ刑事が少年の頃、父親から「この世のすべてが宇宙なら人間自身も宇宙である」ということを聞かされたことを思い出してパワーアップし「神」に反撃するという、なんだか書いていて当惑を隠せない話が多い。「金8先生」っての、「タマキンが8個あるから金8先生」だって。何なんだよ。さっぱりわかんねー。後でじっくり考えないとうまく言葉が出てこない。怪作。
(00.0112、滑川)



・「夜霧のファンタジー」 唐沢俊一&ソルボンヌK子:監修、中川秀幸(1998、イースト・プレス)

新田、滑川、田中の「ふぬけ共和国」優良指定図書(我々が勝手にそんなこと言ってるだけです。すいません)。
シュールというかサイケというか、とにかく読んでもらわなければわからないような特異な絵・コマ割り・ストーリーを持つ貸本少女マンガ家・中川秀幸の作品。
背景からファッションからポーズからすべて妙で、また出版当時の流行(バレエものが流行っていたとか)を念頭に置かないとまったくすべてに仰天せざるをえない内容である。
基本的には、みなし子がいいトコに預けられてバレエをやる話なのだが……。

唐沢俊一氏の解説によると、昭和20年代にはどんなに不幸になっても最終的にはハッピー・エンドだった少女小説の世界は、30年代半ばになって日本にも余裕が出てきたため、「エンタテインメントとしての不幸」の徹底性がもとめられる(不幸なまま作品が終わっちゃったり)ようになったという。「悲劇の発表場所」が小説からマンガになったのは、そのときにマンガが人気があったから。
つまり、ハッピーエンドにこだわる中川作品は、古い体質を残したモノらしい。

カンケイないが昭和30年代半ばから「バレエマンガ」がジャンルとして成立していたというから、40年代に15〜20歳だった女の子は現在45〜50歳、娘は20〜25歳くらいかと思う。神田うの、高岡早紀などがバレエを習わされていた芸能人だが、探せばもっといるかも。彼女らの親はぜったいにバレエマンガを読んでいたに違いない。

あ、それと、本書のあとがきにある「マンガを語るときに、まず表明してほしいのは、マンガに対する愛情なのだ。どんなにバカにしてもツッコミを入れても、面白ければそれでいい。ただ、そのツッコミは、自分にとって意外であったその表現法に関する、素直な驚きと、尊敬の念の込められているものであってほしい、と思う。それでなければ、それは古いマンガに対する単なる悪口になってしまう。」P222
という言葉は、「ぶっとび」探索において常に念頭に置いておかなければならないコトとして、自戒を込めてここに引用させていただきました。
(00.0110、滑川)



・「あっ! 生命線が切れている」 好美のぼる著、唐沢俊一編(1998、二見書房)

新田、滑川、田中の「ふぬけ共和国」優良指定図書(我々が勝手にそんなこと言ってるだけです。すいません)。
昭和40年代から、本格スリラー、妖怪モノ、SFファンタジーまで貸本マンガの世界に帝王として君臨し続けたマンガ家、好美のぼる氏の傑作選。

・「あっ! 生命線が切れている」
仲良しコンビの美知留亜矢、その2人が憧れる野口が、謎の占い師の呪いで手相を書き換えられることによって操られていく怪奇モノ。
息子を死なせることになった占い師の老婆が、手相により操った美知留、亜矢、野口を「利用」することによって息子の死に関わった人間にさらなる復讐を繰り返していくという構成は、ページをめくるまで先がまったく読めず、しかもまったく非合理な「手相」がテーマになっているにも関わらずオチ的にも妙におさまるものがある。
随所に「なんじゃこりゃ!」というすっとんだ描写が見られ、本当に飽きない傑作になっていると思うんですけど、どんなもんでしょうか?

・「死のハンドバッグ」
何気なく手に入れたモノに呪いが込められていて……というパターンだがこれも構成がなんだか妙で、「オチは知っているのに話下手なお婆さんの怪談話を聞いているような妙な気持ち」になってくる短編。なお本書(「あっ! 生命線が……」のことね)の表紙を取ると、本作の表紙になっている。

・「妖怪七変化」
以前、唐沢俊一氏の本のどこかで詳細な解説を読み(「SFマガジン」だったか……?)、一度読んでみたいと思っていたのだが期待にたがわぬぶっとんだSFヒーローアクションモノ。
稲垣博士が孫娘のミチに秘密の薬品を注射すると、男になってしまい、男になってから「七変化GO!」と叫ぶと「セブンマン」というヒーローに変身する。そして博士の開発したエンジンを奪いに来る悪党をバッタバッタとなぎ倒す。
他にいくつもの姿に変化できるが、それが龍のような怪獣だったりムクムクした黒い化け物だったり。およそヒーローらしくないがその辺が「妖怪」とタイトルにつくゆえんか(もしくは怪奇モノのシリーズでタイトルを揃える必要性があったとか……? この辺文章を読んだはずなのだがみんな忘れてしまいました。すいません)。
セブンマンの頭部のヘンなツノが回転する、と当初書いてあったが、本当に最後の方で頭部のツノをドリルがわりに回転させ、地中をもぐるシーンがあったのでよかった。

敵のマッドサイエンティストのお母さんが妖術使い? なのも泣かせる。
何か、ページをめくるたびにワクワクする作品。
(00.0110、滑川)



・「ヘルシング」(2) 平野耕太(2000、少年画報社) [amazon]

あらゆる異教徒・化け物からプロテスタントを守るために英国に存在する「王立国教騎士団(ヘルシング機関)」。その最強の切り札はヘルシング家が100年かけて作り上げた「バンパイア退治のバンパイア」アーカードだった。

今回は「食屍鬼(グール)」の軍隊を率いる謎のバンパイア・バレンタイン兄弟との戦いが中心。彼らは謎の組織「ミレニアム」の刺客である。

といっても、本作でストーリーの解説をすることはあまり意味がないことと思われる。
吸血鬼伝説の荒唐無稽な部分(使い魔としてコウモリや魔犬を使うなど)を下級のバンパイアも知らぬ「奥の手」としてアーカードが備えている、ということを除けば、設定的にものすごく目新しいところがあるわけではない。謎の組織「ミレニアム」の設定も、どっかで読んだことがあるし……(オウムの行動にヒントを与えたとして再販されたトンデモ本「滅亡のシナリオ」だったかな?)。

それよりも、登場人物たちが銃を撃ったとき、剣を構えたとき、楽しそうに人を殺すとき、撃たれてもなお闘争心が消え去っていないとき、自信に満ちて相手に罵声を浴びせるとき、怒りをもって戦うとき、そのシーンのひとつひとつがワクワクにつながっていることこそ重要。
たぶんノベライズしても、この2巻までではプロットだけでは分量が少なすぎるだろうし、戦闘シーンも具体的なアイディアが目白押しに出てくる、というわけでもないので薄っぺらいものになってしまうだろう。
これはマンガ(もしくはアニメ?)でしか表せない面白さではないかと思う。

そしてどんな宗教団体(むろんその中の「秘密組織」という設定だが)もコミュニストも入り乱れていながらそれはあくまで戦闘シーンを描くための色づけにすぎない部分。徹底した無思想。皮肉とかパロディですらないような感じ。それが味。
(00.0109、滑川)



・「大王」 黒田硫黄(1999、イースト・プレス)

滑川が憧れていたスタイルは多いが、マンガにおいても細密な絵、何気ない会話、適度な長さ、それでいてセンス・オブ・ワンダーが存在するSF風味マンガというのにもずいぶん憧れた(「描いてみたかった」という意味ね)。

「何気ない会話」や「しぐさ」や「風景」は、作品全体のワンダーを表現するためのたたき台として使われるが、個人的にはもうその段階からなんだかダメだった。ギャフン。
それは私にとってちっとも何気なくなかったからである。記憶に残っているのは半同棲状態でダラダラ女とつき合っている男とか、自分のふがいなさにイライラしてなにかと人を殴って逆にボコボコにされる男とか。とにかくロック的というか若い自己表現の行き場がなくてイライラしている青年というか、そういう「よく出てくるタイプ」がぜんぜん身近に感じられず、こちらのいらだちがますますつのってきたりした。

岡崎京子の「リバーズ・エッジ」も、あんだけホメられていた作品だし自分も悪くないとは思うけど、主人公の女の子の姉、暗くてあきらかにオタク風なその姉に主人公が「ホモマンガばっかり描いてんじゃねえよ!」と罵倒するシーンが疑問で。やおいやってる人ってそんなに暗いですか? 疑問だなあ。

それとそうした作品(「そうした」ってどんなのか、と聞かれると困るんだけどまあ、そうした作品)はたいてい絵がものすごくうまく、作品の中の情報量もそんなに多くないように見える。つまり「感性」の要素が強いように見える。それがうらやましくて、読んでいて嫉妬の域に達してくるのだった。

……本書は「アフタヌーン」、「COMIC CUE」などに掲載された短編を収録したモノ。別に上記のような人間像を描いているワケではないが(じゃ今までダラダラ書いてたのは何だったんだ……)、やはり作品執筆のスタンスや、出てくる人物から「最初から自分にはカンケイがない」印象というかノリを感じてしまい、やはりまた嫉妬してみたりするのだった。

しかし、あながち私を笑ってばかりもいられませんぜ。こうした作家性を強く打ち出した、しかも大雑把に言って50年代的というかアシモフやシェクリイや藤子・F・不二雄的では「ない」SF短編というのは、多くの若者が憧れ、そして描き、カッチリとフォーマットに乗っ取った娯楽作品やパロディには訴求力としてはおよびもつかぬ、読後「うーん……」としかいいようのない作品が生み出される。
そして大学漫研の会誌あたりにヒッソリと載るコトになるのだ。……っていうか現在でも載っているに違いない。

んで同じ漫研の女の子(やっぱりCOMIC CUEとか南Q太とか安野モヨ子とかが好きでサブカルっぽい雑誌買ってて、でもものすごくのめりこんでいるわけでもなくて、音楽もどういうのかわかんないけどオシャレなの聞いてる。カジヒデキとか)が
「男の子たちはみんなダレソレの『スーパー美少女ピニオンギヤー』が面白いと言ってるけど、あんなのダメだわ。既存のパターンをなぞっているだけ。資本家のイヌだわ(そんなことは言わねーか)。私はあなたの繊細な感覚ってとてもいいと思う」
とか言ってくっついちゃってな。二人ともちゃんと就職して、卒業して3、4年で結婚すんだよ絶対。

……というような私の架空の人間に対する嫉妬はおいといて、「面白さの構築」ということにおいては当たればデカいがハズすと見向きもされないというマンガにおける表現形式について言っているのだ。ホントに。
そうした困難をすべてくぐり抜けてきたんだから、まあ黒田硫黄はホンモノだ。ホンモノってのは実に強い。

筆で描いたようなのあり、細密な描き込みの作品あり(やっと作品の話かよ)、だが共通しているのはスクリーントーンをまったく使っていないこと。カラーページは色合いがすごくいい。

個人的には「西遊記」の読書会をしている先生と女子学生が、「なぜ自分たちは西遊記を読むのか?」について会話する「西遊記を読む」と、両性具有の人造人間ミッチィが野球をするためだけに巨大ロボで街を破壊し、そしてまったくの偶然から倒されケン一が英雄となってしまうという手塚治虫「メトロポリス」(もちろん手塚の方はそんなオチじゃないとは思うが)のカヴァー「メトロポリス」が好きだ。なんというか希望と絶望を同時に描いている。オチが希望と絶望を両方提示しているのだ。これがもう少し短いと「THE WORLD CUP 1962」になるのだろう。

よしもとよしとも原作の「あさがお」は、夏休みに「狂人」と言われる青年を観察し続ける小学生の女の子の話だが、オチの意味がわからん。なぜラストシーンで成長して大人になった女の子は笑うのか。もしかして私の考えたとおりだったらオチとして単純すぎるというか理におちてやしないか。だれか教えてください。(00.0107、滑川)



・「ゆりちゃんちのキュウ」、「ゆりちゃんちのキュウツー」 富沢ひとし他(1999、ゆりちゃんちのきゅう!)

【同人誌】

作者の富沢ひとしとそのアシスタントがつくった「エイリアン9」18禁同人誌。
いつもコミケのWAIWAIスタジオのブースに来てくれる方がいて、「あそこで富沢ひとしのエイリアン9の本、売ってますよ! 冊数制限ないなら買ってきてあげますよ!」と言われたので買ってきてもらった本。ありがたやありがたや。

内容は18禁びっちりでもなくて、アシスタントから見た原作者像(「以前メイドばかり描いていた」というコメントが個人的には興味深い)とか、題字のデザイナーのエッセイ風マンガとかが載っている。Hシーンはばっちり描いてあるが、ロリな人で本作が好きな人にはたまんないんでしょうなあ。
あと、この同人誌読んでもしかしてこの作者はテーマとして採用したとかではなくて真性のロリではないかなあ、と思った。でもそれにしては「備前屋十兵衛」から絵柄変えたよねえ。というか「備前屋……」での絵柄はいったい何だったのか。
心底「コドモが好き」なら、ますます「エイリアン9」では性差に意識的だったと思うがなあ。どんなもんですかいのう。(00.0107、滑川)



・「エイリアン9」 全3巻 富沢ひとし(1999、秋田書店)

注:ネタバレアリ。

ヤングチャンピオン連載。小学六年生の大谷ゆり遠峰かすみ川村くみは「エイリアン対策係」に選ばれる。
作品世界では、どこからともなく宇宙船に乗って飛来してくる何種類ものエイリアンが存在し、人間にさまざまな攻撃をしかけてくる。それは小学校でも同じなので、子供たちに対策係をさせ、エイリアンを捕獲させるシステムになっている。
「子供たちがもっともなりたくない係」だそうで、「少々ハードな飼育係」を連想すればよいと思う。実際、飼育係的なシーン(捕獲したエイリアンに餌をやるところなど)もところどころにある。

弱虫でダメっ子のゆり、いいとこのコで何でもできるかすみ、いつも学級委員に選ばれてきたというしっかりもののくみの3人が、頭に「ボウグ」という共生型エイリアン(カエルに鳥の羽が付いてヘルメット状になったようなやつ)を付け、ソレの力を借りることによって「エイリアン」を退治していく。

SF設定、エイリアンの造形、エイリアンの戦闘シーン、次週へのヒキからスパッと時間軸にそった流れを切り落としてつなげるなど、感覚的、視覚的にもかなり面白いところがあって、そっち方面でも論じることはできるのだろうけど、ここではテーマについて書かせてください。

ネタバレすると、エイリアンを退治(捕獲)するのが目的のはずの「エイリアン対策係」は、ゆりたちの小学校においてはボウグもその一種である「ドリル族」というエイリアンと、完全に共生するにふさわしい人間を育てるためにあった。ゆり、くみ、かすみはそのために選ばれ、エイリアン対策係をすること(ボウグたちと生きること)で「共生できる人間」として育成されていたのだ。
彼女たちを管理していた担任・久川も、すでにドリル族との共生を果たした女性だった。

新田が「共生」ということで思い浮かぶのは「寄生獣」。こちらは宇宙から飛来した謎の異生物「パラサイト」が、生物としては寄生体をのっとる性質の存在なのだが、主人公の少年が偶然に右手に寄生されたため、思わぬ「共生」をすることになるという話だった。
他にも人間との共生をさまざまなレベルで考えるパラサイトが出現し、人間とパラサイトの共生はまったく未知の関係として描かれていた。

対するに、本作の「共生」は、人間にとってまったく不可避なものだ。「最初の隕石が落ちたときから」、人間は共生型エイリアンに抵抗することができなかったらしい。
「エイリアン」と人間との関係というと、映画「ID4」のような完全侵略型か、「ET」のようなとりたてて利害関係はないが「友情」のようなもので結ばれる、というのが両極端だと思うが、本作では「共生」というかたちを取っているところがある意味今日的だ。
どうやらエイリアンが共生しても人間に劇的な「害」はないらしいし、「エイリアン退治を命じる久川先生がエイリアンとの共生者だった」という事実も、そのまま久川先生が悪役ということにはなっていない。久川先生は「ドリル族」として共生できる人間を仕事で育てているにすぎないし、他にも地球に来ている共生型エイリアンとの自由競争? に勝とうとしているだけだ。

その描かれ方も、「人間とはまったく違う理屈で行動する不気味さ」もないし、逆に人間に理解を求める異邦人、というふうでもない。また「共生」テーマというと人間とまったく違う存在とが合体することによって新しい存在が過酷な地球環境を生き残っていく……的なSF作品が多いが、ここでの「共生」というのは劇的な意味は何もない(少なくとも表面上は)。

くみ「先生 共生するときって どんな感じでした?」
久川先生(顔をあからめて)「ちょっと 痛かったかな」

くみ「先生と共生しているボウグって どんな感じの人ですか?」
久川先生(顔をあからめて)「あったかくてやさしくて ちょっと冷たい……かな」

くみ「ねェ先生 共生って結婚みたいな感じですか」
久川先生(顔をあからめて)「どちらかって言うと クラブ活動みたいな感じ……かな」

ここまでいっちゃうと「共生」はセックスの暗喩としか思えない。っていうかそうした描き方が冗談だとしても、そう受け取られてもしかたがない。
かすみとくみは物語が進行するにつれてエイリアンとそれぞれの関わり方をする(ミもフタもない言い方をすると「広義の男性社会」を受け入れる?)。だがそれは「ドリル族」の共生体としてではなかった。
最後に残ったのはダメっ子のゆりだが、ドリル族の宿敵である共生エイリアン「ひまわり」が強引な共生に出たため、ゆりをめぐっての争奪戦となる。

最終的にゆりはドリル族と共生することになるのか……? はおいておいて、やはり物語全体を通してみると新田には「少女がボウグの理想の共生体として成長させられる話」、そしてそれははっきりいって「少女が社会的に都合のいいように成長させられるシステムの物語」ということになるのだろうと思う。
「成長させられる物語」ではなく「成長させられるシステムの物語」であることがポイント。
作者はおそらくそこに意識的だ。

普通は「成長物語」というと、要求される「成長」が無条件に「是」とされる場合(「巨人の星」など)、別に試練に方向性はないが、とにかくふりかかる艱難辛苦に耐えることによって成長していく場合(「ガンダム」など)、既存のシステムに反抗する、あるいは成長を制御するものを最終的に裏切ることによって主人公が成長していく場合などがあると思う(「少女革命ウテナ」など)。

ところが本作では3人の女の子は「成長を制御する」久川先生=ドリル族に反抗しようとも思わないし(する必要性もない。彼女たちに拒否したい心があるとすれば、それはいちばんオクテ風なゆりの「なんとなく気持ち悪い」という生理的嫌悪しかない)、よしんばドリル族の共生を拒否したとしても、最初にエイリアンが飛来したときから人類に選択の余地はなかったし、また共生型エイリアンも1種類ではない。
彼女たちは常に「共生の対象」として身をさらし続けなければならない。

別にキャラクターが幸福でだれもソンしないからそれでいいわけなのだが、読者には実にモヤモヤとした感じが残る。それは、通常の物語内では「自立」というのがほとんどデフォルトなテーマであり、流行りのポップスでも「自分を信じて〜」とか「ひとりでうんたらかんたら〜」というのが多い。別に必要にせまられていなくても「自立」の方向に行かなければならない、と考えるのが現代人だからだ。

ところが本作では「エイリアン」を受け入れることは彼女たちにとって避けえない現実であって、そこから逃れるすべはまったくない。くみとかすみはそれぞれのあり方でエイリアンと関わって生きる。エイリアンを生理的に嫌悪するゆりは、その生理的嫌悪と「共生」に要求されるハードルが乗り越えられないという点においてエイリアンを拒否するが、それだってくみとかすみが庇護してあげるからその拒否が持続しているにすぎないのだ。

まあこう書いちゃミもフタもないけど、「共生しても不都合もない、むしろ共生した方がいいのに何かモヤモヤとした嫌悪感を感じる。いや、これは嫌悪感なのか? それすらもはっきりわからない。だが無批判に受け入れるには何か腑に落ちないことは確かだ」というような世界を描くことに成功している。

それは、おそらく共生は男女どちらもできるはずなのに、主要登場人物がすべて女性であることでより強固になっている。

「物語内では主要キャラが女性である必要性はまったくない」ことが、システムの不透明さ(別に強制はしないけどやった方がいいよ、的な、「強制しないけど」と断り書きすることが強制的であるような感覚)を表していると思うからだ。

「共生」といっても、「共生から逃れ得ない」のであればそれは一種の不自由ではないか、ということが意識的に、しかし言外(ここ重要)に描かれていることが、本作を通常の自立テーマや侵略テーマの作品とは違う味わいのモノにしている。
たぶん、本作は「一見社会的抑圧をそうでないふうに描いている」というような批判には意識的。

ラストのチャイドル風コメントも、単なる冗談なんだろうが実に突き放した作品世界を表している。 (00.0107)



・「野ばらの国」 明智抄(1999、ぶんか社)

主に「ホラーM」掲載の読みきり集。まぁムリヤリ分類するなら「サイコホラー」ということになるのだろうが、それは「スプラッタではない」というほどの意味。

とにかく恐い。恐すぎる。近頃ホラーばやりだが、恐いもののだめな私には(読まないので)関係のないことだった。
映画「リング」でテレビの中から貞子が出てくるシーンだけでイヤ〜な気持ちになった人間である。ああ、本作も読むんじゃなかった。それほどに恐い。

「恐さ」というのは、パターンをシャッフルするというかリニューアルしないと出てこないものであると思う。たとえば以下に紹介した「ヘルシング」は、「吸血鬼」というものがパターン化されてしまった経緯をふまえてのアクションモノなわけだ。少なくともホラーではない。

ブラムストーカーの「ドラキュラ」が、発表当時、現在のホラー作品のように本当に「恐い小説」として受け入れられていたとすれば、それは「ドラキュラ」がそれまでの恐怖小説のパターンをシャッフルしたものだったのではないか。また矛盾するようだが、当時恐い恐いと人々が意識下で思っていたことをパターンとして提示して見せることができた作品なのではないかと思う。

本作品集に共通しているのは「自分が恐怖ゆえに心の中から締め出してしまったものの受容」である。
収録作では「私が世界を愛するように」、「メッキ星人の罪」、「野ばらの国」、「えみちゃんといっしょ」はすべてソレだ。
「私は……」は子供の残酷心から殺してしまったハムスターの霊、「メッキ星人……」は自分の中で育った殺意、「野ばら……」は再三にわたって「ここにはない国」へ勧誘する霊のような存在、「えみちゃん……」は楳図かずお「呪いの館」のタマミを思わせる、虫や汚いモノが大好きな妹の霊。

いったん恐くてたまらなくなり、心の外へ締め出してしまったものを再び受け入れようとするのだから、それは未知の恐怖に出会うのとはまた別の感触である。
「当たって砕けろ」より「砕けた後」に同じことをする方が、何倍もイヤな気持ちになることはあるでしょう。そんな感じだ。

これらは、つまらぬ分析をしてしまえばすべて主人公の心理状態としてとらえることができる。だが当人にとってはそれどころじゃないのもまた事実で、それこそが本当の恐怖なのである。
ヘタな客観描写などせずに実に「当事者の問題」として「心の中の恐怖」が描かれているところが恐い。

この中でもっとも恐いのは、と問われれば個人的には「メッキ星人の罪」だ。
これは、なんだか物語がヘンな構造をしている。
私がこの作者の作品を読み慣れていないせいかもしれないが、登場人物である「体面ばかり繕う家庭で育ったイイ子」と「トロいが心の優しい少女」、「霊感のある少年」の比重が妙だからだと思う。

「イイ子」は世間体のために親がついてきたウソ(メッキ)に耐えられなくなり、自殺してしまい、「トロい少女」に憑依する。「トロい少女」は常にいじめられても多少つまらないことがあっても「生の肯定」を無条件に受け入れてきており、憑依した「イイ子」の霊も受け入れる。

だがゆいいつそうした霊現象を説明できるはずの「霊感のある少年」は、憑依を許した少女の行為に難色を示す(霊的にはあまりほめられた行為ではないらしい)。
たとえば「トロい子」に比重が置かれれば普通の「少女の優しさによって居場所を見つけた霊」という話になるだろうし、「霊感少年」の視点で語れば諸星大二郎の「妖怪ハンター」みたいになる。あるいは彼に「憑依させてやるしかなかった」というセリフを吐かせれば座りのいい物語になっただろう。
だが本編はそのどこにも着地点はなく、「トロい子」の「自殺した少女」の霊の受容も、単なるその子の決心に過ぎないように描かれる。まあ最後の最後に結論めいた描写は出てくるのだが、この作品のみが3人を突き放して描いているのでなんだか読後もよりどころがなく、読んでいる方は自分自身の「生の肯定」のキモチにすがりつくしかない。

なお、自作のマンガのためなら殺人まで子供にさせる女流マンガ家を描いた「わたしのママは漫画家です▽(▽はハートマークの代用)」だけが、単純な狂気と先の読めるオチで凡作だと感じた。

絵はあまりうまいとはいえない。構成としては私の乏しいホラー知識で言えば山岸涼子に近い。
(00.0106、滑川)



・「ヘルシング」(1) 平野耕太(1998、少年画報社) [amazon]

あらゆる異教徒・化け物からプロテスタントを守るために英国に存在する「王立国教騎士団」、通称「ヘルシング機関」。その女性当主・インテグラに忠実に使えるバンパイアにしてバンパイア退治のエキスパート・アーカードの戦いを描く。

アーカードが吸血鬼だってコトは、第1話のネタバレになるんだけど、まあ「アーカード」って名前が「ドラキュラ」のアナグラムだって知ってれば問題なし! ……なんて知ったかぶってる私も、「アーカード」がどんな作品で最初に使われたかなんてことは知りませーん。
それにしてもキメポーズや戦闘シーン、ここぞというところでのセリフなど、まったくもってものすご〜くカッコいい。やっぱり青年(少年)アクションマンガはこうでなきゃいかんです。

全体的にミリタリー調なのはむか〜し同作者が描いてたレジスタンスを題材としたHマンガ「コヨーテ」を思い出しますが、爽快感という点では本作の方が断然上だと思いました。生意気言ってすみません。
(00.0106、滑川)



・「週刊少年チャンピオン」6+7号(2000、秋田書店)

・「BM ネクタール」 藤澤勇希

逃げ出したB・M(バイオ・ミート)により包囲される学校。
いよいよ学園パニックマンガの始まりか……!? 手に汗握る、以下次号。

・「ルーンマスターゆうき!」 雄雛愛覚

「高貴なる女王蜂の誓い」前編。算数や理科が得意な小学生の女の子・ゆうきとルーンモンスターとの戦いも、早くも第5回。
「黄燐はこすると燃える」というのが伏線らしい。そして「刺さると何でも溶かしてしまう」蜂を操るルーンモンスター登場。どんどんジョジョっぽくなっていくう〜(もしくは「バロン・ゴング・バトル」)。
でも好き! 次週が待ち遠しい。

・「バキ」 板垣恵介

予想どおり、倒されちゃったヒトが出て、いや、いちおう一矢報いた戦いだったけど、次週また別のヒトが戦って……愚地独歩と死刑囚は戦うのか!?

・「がんばれ酢めし疑獄!!」 施川ユウキ

4コマギャグ。「彼氏と彼女の事情」という話が異常なまでに面白いので、みんな読もう。
(00.0106、滑川)



・「OOII(ダブルオーツー)純潔の反作用」ふじいあきこ with秋山道夫(1999、ワニマガジン社)

成年コミック。主にヤングHIP掲載の読みきり集。
義姉弟、若社長と秘書、課長と部下の不倫、男っぽい女性格闘家と女の子みたいな男の子、OLと覗き屋、淫乱女医と患者、義理の母と息子。

絵柄は、なんつーんですかね……レディース風なんだけど平面的ではなくて、柔らかそうな肉感を表現できるというか。んで全般的に熟女ですね。成熟した女性。ロリコン美少女系ではない。
ストーリーは、こんだけの短いページにHなシーンと物語とオチと、きちんと入っている。オチも蛇足的ではなくて本当にちゃんとしたオチ。
そもそも劇画ではない熟女モノって最近のHマンガに少ないような気がするんスけど。
その数少ない作家の一人、と認識いたします。このヒトの場合、とくに若奥様モノとかイイよね。

ひとつだけ、学校のクラブ活動風の「女性格闘家」がどんな格闘技やっているのかわかんなかった。ユニフォームの胸には「VALE TUDE(ヴァーリ トゥード)」の文字があるんだけど……。
(00.0103、滑川)



・「Zマジンガー」(1) 永井豪(1999、講談社)

マガジンSPECIAL連載。ギリシャ神話の元となった、メカニックな身体を持ち超能力を駆使する宇宙人たち。 彼らは人間にとって神にも匹敵する力を備えていた。
その中に、地球人を守り一人戦ったZ神(ゼウス)がいた。
かれは大神ウラノスに一人刃向かい戦いを続ける。

時は過ぎ、現代。弓さやか兜甲児は背臼山で発見されたギリシャ神殿を見に行くが、そのときに甲児は長い間傷つき眠り続けていたZ神と合体する。
Z神の頭脳は滅んだが、甲児は地球人を救いたいという気持ちを受け継ぎ、脳波とDNAを認識され一体化したのだ。
その後数々の改造をほどこされたZは「Zマジンガー」として生まれ変わり、甲児は「ブレーン・ホーク」(パイルダーみたいなやつ)に搭乗。マジンガーの頭部に乗り込むことによって操縦する。

ギリシャ神話とからんでくるところが往年の永井豪という感じでステキ。兜甲児はZマジンガーに乗って戦うために、政府かなんかと3年契約を結んで契約金が10億円、ってところが面白い。
「タダで戦ってんのか?」という読者の無言のオタク的ツッコミを「んじゃ契約金10億円」とデカい話で返すのがウレシイ。
(00.0103、滑川)



  ・「ディスコミニュケーション 精霊編」(1) 植芝理一(1999、講談社)

アフタヌーン連載。奇妙な力を持つ松笛とその彼女? 戸川安里香がまたもや摩訶不思議な事件に巻き込まれる。
三島塔子・燐子姉妹との出会いがソレ。

燐子はロリコン美少女だが火を「カレ(彼)」と呼ぶ、火の精霊を操る少女。
塔子は大酒飲みの女子高生で、左目で「視る」ことによって精霊を使う。
そして難事件を解決……っていうとなんか京極堂みたいですね。
彼女たちは眠り続け、夢遊状態にあっては巫女神を名乗る吉本麗珠(よしもと・つぐみ)を治すため、彼女の家を訪れる。なぜかそこに戸川もつき合わされるが、それはどうやら麗珠には松笛が関係しているかららしいのだった。

前半部分は燐子が黒い下着とガーターベルトでウロチョロしている間に「精霊」の概念を説明することに費やされている。
本作「ディスコミニュケーション」の魅力は、ゴチャゴチャと細密に書き込まれた背景やYMOの曲名などが無関係に書き込まれているのとは裏腹に、松笛の使う能力や世界観が既存の神話や伝説、オカルティズムなどとはつかず離れずで非常に不明瞭なところにある、と個人的には思っている。
それが幸いして、幻想的な「あちら側の世界」も実に奔放に描くことができるわけだ。

今回、三島姉妹の使う「術」は心理学の箱庭療法だったり民俗学や文化人類学的な知識の応用だったりして比較的ストレートなのだが、料理の仕方がとてもうまい。
彼女たちのライバル、「帝都物語」の加藤保憲や京極堂に負けず劣らずの幻術の使い方である(こういうのほどハズすとイタイものはないしね〜)。

このように幻術師(作中では「夢使い」)としてはかなりロジカルな三島姉妹だが、ここに松笛やら何やらが絡んでくるとどうなるかが、今後楽しみなところ。
(00.0102、滑川)



  ・「ディスコミニュケーション 学園編」(植芝理一(1998、講談社)

アフタヌーン連載。高校2年生の松笛(下の名前漢字出ないぞ……)戸川安里香は奇妙な恋愛関係を続けている。なにしろ松笛は不思議な力を持ち、この世でない者と交信し、何より人間かどうかもわからないからだ。
そして、戸川は「どうしてこの人を好きなのだろう。人はどうして誰かを好きになるのだろう」という、とうてい答えの出そうにない疑問、普通の恋愛をするには必要のないかもしれない疑問にとことんつきあい続ける。
そんな2人には次々と不思議な事件が起こり、ときには生命の危機にすらさらされるが、それでも何とかかんとかきり抜けてはまた摩訶不思議な恋愛関係に戻っていく。

「学園編」と銘打たれたこの単行本では、彼らの通う高校を舞台にした話が2編収められている。

「ウナギとウメボシが人間を天国に近づける日」は、女装が好きで男の子が好きな美少年・神無月くんが北高の生徒にさらわれる。それは北高の生徒にして同じく女装美少年の桃祭(ももまつり)が彼に惚れてしまったため、3日間だけ一緒にいてほしい、という希望を満たすためだった。
戸川たちの南高は生徒会実動隊を召集、神無月奪還作戦を敢行するが、その動きを予想していた北高生徒会長・海豚崎夕映(いるかさき・ゆえ)は生徒会自治軍を発動。お話は混迷していく……という内容。

生徒会実動隊と生徒会自治軍の戦いが「頭に付けた風船を先に割ったら負け」というゲームだったり、混沌のうちに本当に愛し合う者同士がオノレの気持ちに気づくという展開は本当にすばらしい。
要するに終わらない学園祭気分爆発、である。

本作全編に流れる雰囲気は、やはり高校というより大学のそれだろう。
部室の入り口が極端なくらいの落書きで埋め尽くされていたり、部室の内部に変なガラクタが散乱していたりというのも、作者のデティール趣味もあるのだろうが大学の汚い部室のイメージだ。
また勝手気ままに個性を主張する変わり者たちも、大学にはよくいたような気がする。

本作「ディスコミニュケーション」のある種(たとえば今回のような)の話は、そうした気分を思い出させてくれる。
そして、それが単なる郷愁とか「箱庭の中の自由」的な空々しさを与えないのは、登場人物たちの個性とか心情とかの抜け道が必ずしも実社会に直結してはおらず、謎の少年・松笛の背後にあるイメージの世界に連関しているからだ。
他作者の凡百の作品の中には、そうしたイメージすらもありきたりで「少年の心→閉塞したイメージの世界」という実にお寒いモノもあるけれど、本作のイメージはそんじょそこらのモノとは質が違う。
そしてそれは、おそらく筆者がオカルトとか心理学とか文化人類学に造詣が深い、というようなこととはまったく別のことなのだ。それを人は才能と呼ぶ。

「墜落する夢をしばらく見ない」は、ふだんは内気で真面目な学級委員だが子供服を着ると大胆で無邪気なコドモになってしまう二重人格者・詩水梓(しみず・あずさ)を、子供服が似合う戸川とともに放送部部長の六本松巡(ろっぽんまつ・めぐる)がアイドルユニットとしてプロデュースするという話。

そのアイドルというのが「子供服しか着用せず子供のように振る舞う女子高生」というコンセプト。その変態度の高さは相当なものだと思うが(単なるロリコンよりタチ悪くない?(笑))、このヒトの絵でやるとけっこうマッチするから面白い。っていうかすばらしい(笑)。

もともと戸川安里香というヒロイン自体が、「どうということはないんだけどすごくセックスアピールのある女の子」として描かれていて、その感じというのが絶妙であった。
なんというか……(勝手な想像ですが)派手なナンパ野郎なんかには見過ごされてしまうんだけど、シャイな文系少年には絶大な人気となってしまうようなイメージ。それはロリコンというのともちょっと違ってて。
んでまあ彼女が松笛のような少年に惚れちゃうというのもなんかわかるんだよな。そして何百という「シャイな文系少年」が、失恋して泣くのだ。

……というか本作読んで泣く人は泣いてください。まさしく戸川安里香こそダメ少年の夢見る青春の幻影なのだ。(00.0102、滑川)

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