つれづれなるマンガ感想文1月後半

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「つれづれなるマンガ感想文」2月前半
一気に下まで行きたい



・「板垣恵介の格闘士列伝」 板垣恵介(1999、徳間書店)
・「新・河原崎超一郎」(2) おおひなたごう(1999、秋田書店)
・「天呆銭」(壱) 神田たけ志(1985、廣済堂)
・「天呆銭」(2) 怒濤編 神田たけ志(1978、桃園書房)
・「天呆銭」(3) 雷鳴編 神田たけ志(1978、桃園書房)

・「クロノクルセイド」(1) 森山大輔(1999、角川書店)
・「楽しい課外授業」 毛野楊太郎(2000、コスミックインターナショナル)
・「バキ」(1) 板垣恵介(1999、秋田書店)
・「湯けむりスナイパー」(1)(2) 松森正、ひじかた憂峰(1999、2000、実業之日本社)
・「公権力横領捜査官 中坊林太郎」総集編(1) 原哲夫(1999、集英社)
・「TOKYO TRIBE2」(1)〜(3) 井上三太(1998〜99、祥伝社)
・「ランポ」(1) 上田徹郎(1997、小学館)
・「爆末伝」全3巻 石川賢(1994〜95、リイド社)
・「神戸在住」(1) 木村紺(1999、講談社)
・「週刊少年チャンピオン」8号(2000、秋田書店)
・「Zマジンガー」(2) 永井豪(1999、講談社)
・「小さな巨人 ミクロマン」全3巻 松本久志(1999〜2000、講談社)
・「純愛(ロマンス)」 田中ユタカ(1999、雄出版)




・「板垣恵介の格闘士列伝」 板垣恵介(1999、徳間書店)

これはマンガではないが、関連しているのでこちらに。「グラップラー刃牙」「餓狼伝」(夢枕獏原作)などの格闘技マンガを描いている板垣恵介が、自分の格闘技観を経験をまじえて語った本。

マンガ作品では個々の格闘技や団体のあり方については、黙して語らずというか読者に想像の余地を持たせていた作者が、ここでは特定の格闘家を名指しで非難したりと、大胆な発言をしている。また、少林寺拳法やボクシング、中国拳法や合気道などを実践したり実践者の目で見学したときの様子を生々しく書いている点、単純に「刃牙」、「餓狼伝」の元ネタ披露という感じで面白い。

もうひとつの側面は、「格闘技実践者であり、格闘技マンガを描いている」人間・板垣氏が実際の格闘技をどう見ているか、という「視点」の面白さ。2大格闘技マンガ「修羅の門」(川原正敏)「グラップラー刃牙」夢枕獏の小説「餓狼伝」の影響下にあることは否定できない事実である。だが夢枕獏は、格闘技実践者ではない。だからプロレスファン→UWF運動という流れで総合格闘技にハマっていったらしいが、実践者の板垣恵介にとって、UWFはフェイクにしか見えなかった、失望だったという点が興味深い。
夢枕獏にとっての始まりは、板垣恵介にとっては袋小路でしかなかったのかもしれない(板垣氏はかつてプロレスファンであったことは明言してはいるが)。

また格闘技を語るうえで「やる側」「見る側」という峻別に無関心なのも面白い。これが「見る側」でしかいられない読者へのサービスなのか何なのかはわからないが、「やる側」「見る側」という実践者からの区別に、見るだけの私のようなミーハーはビビってしまうのだけれど、実践者である板垣氏の視点は揺らぐことはない。

フルコンタクト空手も、UWFも、かたや「競技的側面」、かたや「プロレスというイベント」から越境することによってアピールしていった感がある。この越境や行き来の「運動」を否定的にとらえるか否かで観戦者のスタンスは変わってくるが、板垣氏は本書を読むかぎり、基本的にはプロレスと総合格闘技の区別を明確にすべき、という考えのようだ。この辺も、何でもありの「刃牙」などを読んでいるだけではわからない部分だ。

最後に、のらりくらりとしたヒトにはマジな部分を、一生懸命なヒトには逆にフッと力を抜く瞬間をとらえたい滑川としては、自衛隊の空挺部隊にいたという不屈の根性を持つ板垣氏が、何をどのように「あきらめて」いったのかに興味があった。なにしろ「いくら身体を鍛えても文句を言われない職場はどこだ」と考えて自衛隊に入ったというヒトである。文章もベンチャー企業の社長のようにイケイケでも不思議はないのだ。本当にどこまでもイケイケドンドンなのか。

しかし、その文面には体育会系な説教臭さは感じなかった。もともとの作風がそのようなタイプだということもあるが、半自伝的な要素も持つ本書では、板垣氏の格闘技体験は「これはとうてい勝てない」と思うようなスゴイ人との対戦が多かったようだ。

実践者がだれでもそのような経験を持つのかはわからないが、ギリギリまで自分を鍛え上げていった人間が、自分よりずっと上の人間と戦ったときのヒサンな心境、それを「バランス」として保っていること。そしてそれをふまえたうえで、「強さとは何か」を普遍的なものとして他人に伝えようとしていること。それが板垣氏の心の「あり方」なのではないかと、思ったのでした。
(00.0130、滑川)



・「新・河原崎超一郎」(2) おおひなたごう(1999、秋田書店)

月刊少年チャンピオン連載。旧作の「河原崎超一郎」など存在しないのに「新」が付いたタイトルが表すとおり、ミもフタもない言い方をすれば「不条理ギャグマンガ」なのだが、1巻に比べると格段に面白くなっている。油が乗りきっているというか。「第46話 にぎり」なんて、地下鉄のホームで読んでいて思わず声を出して笑ってしまった。
そんな本作も2巻で終わり。ちょっとここんとこ月チャン読んでないんでわからないけど、また別の作品での登場を願う。
(00.0130、滑川)



・「天呆銭」(壱) 神田たけ志(1985、廣済堂)
・「天呆銭」(2) 怒濤編 神田たけ志(1978、桃園書房)
・「天呆銭」(3) 雷鳴編 神田たけ志(1978、桃園書房)

幕臣・藤堂平九郎は、五稜郭の敗残兵として官軍に捕まり、死罪を言い渡される。
だが13人を殺害、逃亡。人力車夫「天呆銭」として生活するが、再び逮捕される。
また死罪になるところを陸軍省の山県有朋に救い出され、新政府に反発する者を暗殺する「陸軍省認定第1号」の暗殺者として生きることになる。
かつて死を賭してまで幕府を守り抜こうとした天呆銭が、今度は新政府への反逆者=幕臣を殺す立場となったのだ。だがそれには理由があった。
彼のあだ名となっている天呆銭……大量に流通しているこの銭の中に、新政府を転覆させる秘密を隠したものがある。平九郎はその秘密を持った天呆銭を探すため、そのことだけが幕府再興の唯一の道だと信じるがために、志を同じくする反逆者たちを、「自分の計画を邪魔する者」とみなし斬り捨てていくのだった。

かつてまっとうで有能な人間が、何かのきっかけで裏街道に足を踏み入れてしまう話は多いが、転向ではなく、「自分の大望のために」、「志を曲げないまま」同志を殺していく話は、個人的にははじめて読んだ。
だから全体のトーンは重く、暗い。
作品発表時期としてはおそらく学生運動が失速する頃であり、時代の変化についてゆけず、大局に目を向けることができず、「恨み」や「こだわり」から抜け出せない人々の孤独を描いているという点で、なんともいえない寂寥感漂う作品。
(00.0129、滑川)



・「クロノクルセイド」(1) 森山大輔(1999、角川書店)

月刊コミックドラゴン連載。1920年代のアメリカで活躍するエクソシスツ、ロゼット(少女)とクロノ(少年)の悪魔との戦いを描く。

あの〜……第1話で、植民地化の際に強引に奪われてきた「インドかネパール辺りの守護神像」が悪魔の正体っていうことになってて、そりゃ何人も人を殺しまくってる悪いヤツなんですけどね、モロに「インドかネパール辺り」の像の顔をしているんですよ。こうした「妖魔退治モノ」でときどき疑問なのは、いにしえの民族が崇めていた神々が妖魔として登場する、という話がときどきあることで、ソレって何かちゃんとした理由がないとマズいと思うんですわ。まあ実際にある地では神として祀られていたのが、別の地では「魔」として扱われる、ということもあるんでしょうが、そこら辺の背景を形式上だけでも描いておいた方が、物語に深みが出ると思うんスよね。

怪獣映画でよくあるのは「ある民族の守護神だった怪獣が、環境破壊などをきっかけに暴れ回る」というヤツですが、これはこれでスジ通っていると思う。「怪獣」がある民族にとっては神であり、開発を推進する側にとっては悪魔になるという展開。ですが「神そのもの」ってことになるとどうかな、と。私、地雷ふんじゃってますかね(汗)。
まあ本作では「マグダラ修道会のロゼット」という「神側」の設定も、あるいはキリスト教的な「神」「悪魔」の概念もきわめてアイマイなので、「サクラ大戦」みたいな疑似歴史モノみたいにとらえるのが常道なんでしょうけどね。言うだけヤボというか。
絵もアクションシーンも怪物のデザインもめちゃめちゃウマイし、作品全体のクォリティは高いんだし。

個人的には「教義のためなら教祖をも殺す」というくらい極端化した「ヘルシング」とかの方が好みだな、ってくらいで。以上、まさに個人的感想文でした。
(00.0127、滑川)



・「楽しい課外授業」 毛野楊太郎(2000、コスミックインターナショナル)

楽しい

成年コミック。 昨年出た「正しい課外授業」の続編。
子供時代にレイプされかかって以来、セックス恐怖症となってしまった高校教師、武内久美。彼女はアブナイ系の生徒・倉田の奸計にはまり、彼の仲間である望月土門の3人に課外授業中レイプされてしまう。
その後レイプされた事実を隠すために、延々と犯されまくる久美。用務員の朽木(イカニモ危なそうな、暗くて恐い顔をしている男・SM趣味がある)にまで秘密を知られてしまった彼女は、4人のされるがままになるしかないのだった。

……というところまでが前回。全編通して、Hマンガでお約束とされていることどもがいかに現実のセックスと違うかの「講義」が挿入されるという趣向だった。

今回は、久美の生徒・池原みづきが久美の調教シーンを目撃してしまい、秘密を知られた倉田たちのグループに犯されるところからはじまる。
しかし、なんとみづきは「犯されても動じないコギャル」であった。「心と体は別よ」と言いきる彼女は、逆に倉田たちをおどさんばかりの勢いである。
彼女は、本当は「犯されても動じないフリをできる女性」で、レイプされたことでも 傷ついたが、性奴隷にされてしまった久美先生を救出するために土門を誘惑する。

レイプしか知らなかった土門は、みづきの媚態や「愛のある(と思わせる)セックス」にハマってしまい、脅迫の材料であるデジタルカメラのデータとビデオテープの在処を吐いてしまうが……という展開。

「恥じらいがない」「ずうずうしい」「セックスに慣れている」等々のイメージがあるいわゆる「コギャル」・みづきを登場させたことで、Hマンガ内における「男は何に興奮するのか」を抽出し、相対化。これは作者の毛野楊太郎がやたら追及しているテーマだ。
もうひとつ、久美先生は調教され続けるが、混乱して濡れたりはしているけれども、一般的なSMマンガのように「どんどん調教されて性の奴隷に」みたいなプロセスはふまない。倉田たちの責めと久美の快楽は少しも合致せず、責めはそのまま苦痛に転化している描写が圧倒的に多い。

これらは何を意味するか。前作「正しい課外授業」以上に「男はHマンガの何に興奮するのか」の抽出と相対化が進み、一種のメタHマンガになっているのだ。随所にエロいシーンは出てくるから、パラパラッと読むぶんには完全なるHマンガだが、ストーリーを読んでいくと読者を興奮と逆のベクトルに導こうとしているとしか思えない(心底、本当の意味で女性にいやがらせしたい読者の場合は別だろうが)。なにしろ「恥じらいのない女の子」と「責めを責めとしか受け止めない女性」しか出ないのだから。

「正しい……」に思わせぶりに出てきた「調教慣れしていそうな」用務員・朽木も、いちおう手順はふんでいるようだが久美はちゃんと調教されたとはいいがたいし、みづきもまた……なのだった。その関係は完全なるディスコミニュケーション。毛野楊太郎のHマンガを読むとき、「コレって読んでてヌケねえって怒っちゃう読者もいるんだろうなぁ」と思うときがあるが、今回もそう。「ヌケない(ことを意図した)Hマンガは是か非か」で、意見はわかれるだろう。(00.0125、滑川)



・「バキ」(1) 板垣恵介(1999、秋田書店)

地下闘技場トーナメント編が終了したので、新シリーズ開始にあたりタイトルも変えて仕切りなおしをした格闘技マンガ第1巻。
「敗北を知りたい」と熱望する死刑囚5人が、世界中の刑務所から脱獄して刃牙のところへ向かっていた……というプロローグ。
この死刑囚たちがあまりにも強すぎるので(なにしろ首を吊られても電気椅子でも死なないのだ)、「強さのインフレ」を気にする読者の意見もチラホラ目にしたし私もそう思っていたけど、だんだん回を重ねるごとに気にならなくなってきました。ファンのひいき目かなあ。
それに、「シンクロニシティで」死刑囚たちが集まってくる、というのにも面食らった。しかし考えてみれば、「刃牙」がいちばん最初に始まったときも、「東京ドームの地下に秘密の闘技場がある」という設定には「そういう場をつくりたい」という意図しか感じられなかったし、それでよかった気もする。今後シンクロニシティが気になるもならないも、どれだけ面白くなるかにかかっていると思う。

ただし、ページ合わせのために掲載されたシンクロニシティについてのコラムは完全に蛇足。「100匹目の猿」とか、かなりマユツバに思われているむきもあるようだし、あまりに神秘ネタに傾くのもどうかなあと個人的に思った。
(00.0122、滑川)



・「湯けむりスナイパー」(1)(2) 松森正、ひじかた憂峰(1999、2000、実業之日本社)

漫画サンデー連載。山奥の温泉宿に、わけありな中年男・源さんが従業員として入ってくる。彼は殺し屋だったが、引退して素性を隠し、温泉宿で生きていくことに決めたのだ。毎回、正体がバレそうになって「今日もバレなかった……」とか言って汗をふいたりして終わる。あるいはタチの悪いチンピラをその卓抜した戦闘能力で追っ払ったりとか。美人女将にホレられたり、近くのスナックのフリィピーナにもモテモテだったりする。でも源さんは彼女たちにホレてはいけない。だって元殺し屋だから。

お話は毎回実に単純だが、松森正の絵があまりにウマイのでとてもホンワカした気分になれる。
たぶん読者対象であるオジサンの、「山奥の温泉宿で美人の女将と一緒に暮らしたい」、「殺し屋としてカッコよく生きてみたい」という相反する欲望を同時に満足させようという意図なのだろう。そこらのマンガ家が描いたらたいへんにダラリとした作品になるか、珍作になってしまっただろうが、絵のウマイ松森正が描いたのでやっぱりそれなりに奇作になってしまったフシギなマンガ。カテゴライズとしては「ぶっとびマンガ」に引っ越してもいい。検討中。
イマドキのチャラチャラした若者向けマンガも、いかにもホワイトカラー向けな中年読者向けマンガにも、ガテン系のイケイケマンガにも疲れた人にオススメ。
(00.0122、滑川)



・「公権力横領捜査官 中坊林太郎」総集編(1) 原哲夫(1999、集英社)

Bert連載。アメリカの外圧によって、政財界の汚職を厳しく取り締まる「公権力横領罪法」が制定された。もちろん、対外的なカタチだけの法律で、「公権力横領取締室」にはロクな予算も人材も割り当てられなかったが、公権力をほしいままにしてきた彼らには誤算があった。それは無責任なトップは絶対に許さない、中坊林太郎が捜査官になったことだった!

……というわけで、現代に舞い降りてきたケンシロウ風の男・中坊林太郎が政財界を相手に暴れ回る痛快マンガ。
なんか銀行のもめ事で実際に自殺しちゃう人とかいるけど、そういう人の命を救ってやり仲間にするのが林太郎のやり方。すると彼らは自分が死んだことになってから、だれがどんな対応をするかを目の当たりにして絶望したり復讐を誓ったりする。

こういう「巨悪粉砕マンガ」みたいのは、中途半端な人が描くと「赤ちょうちんでのヨタ話」に堕してしまう場合が多いが、描くのが原哲夫だからそこはとことんまでやりまっせ、というイケイケなノリ。登場人物がいちいち実在の政治家や俳優だったりするのも面白い。小渕首相に微妙に似てるような似てないような小橋首相、筋肉ムキムキっぽい米国大統領ジョン・クリムトンなどは完全なる原哲夫節。

ただーし……「総集編」なのでオマケ記事がついているが、設定へのセルフツッコミなどは蛇足だろう。原哲夫作品の歴代主人公身長比較とか。スタッフがノリノリなのはわかるが、こういうのは仕掛けも大マジメじゃないと……。
(00.0122、滑川)



・「TOKYO TRIBE2」(1)〜(3) 井上三太(1998〜99、祥伝社)

BOON(ストリートファッション雑誌)連載。「東京」とは少し違う「トーキョー」。そこには少年たちが「族(トライブ)」として街に巣くっていた。
ブクロにはWU-RONZ、シンヂュクにはシンヂュクHANDS、ムサシノクニには、ムサシノSARUという「トライブ」があった。
ムサシノSARUはその中でも比較的平和的な集団だったが、暴力団をバックに持つブクロのWU-RONZが他地域に侵攻してきたためしだいに抗争状態になっていく。
ムサシノSARUのメンバー・海(カイ)は、ブクロのWU-RONZのボス・メラとかつては親友同士だったが、ささいなことで誤解が誤解を生み、メラは海に対して激しい復讐心を抱いている。そんな関係をも含め、少年たちは抗争を繰り広げてゆく……。

「ヤンキーマンガ」がどんどんリアリティを失い……って、もともと番長モノとかヤンキーものっていうのは戦国武将か「仁義なき戦い」をベースにしたような、実際の不良とはあまり関係のないものが多いが、とにかく東京からツッパリが減ってしまったこともあってマンガとして「冷え冷えとした恐さ」はあまりない。
ホントの不良とかヤクザって「腹がずーんと重くなるような」恐さがあるもんね。

で、実際に渋谷をブラつく方が最近ではよほど恐くて、チーマーとかいうのも非常に恐いです。チーマーのマンガってのがあるかどうかは浅学にして知らないが、少なくとも本作はそうした不良の「何するかわからない」恐さがとてもよく出ているマンガになっている。
「ストリート」とか「オシャレっぽい」という意味で食わず嫌いになっている人は、井上三太作品をぜひ読んでほしい。とくに本作は良質の「ヤンキーマンガ」だと言えないこともないのだ。そう考えれば入りやすいでしょ。

「絵」的にはSARUやHANDSの揃いのファッションや登場する音楽、本当の東京と微妙に違う「トーキョー」という街、「試着室でさらわれてダルマにされる」などの都市伝説を組み込んだりといった設定、などの新味はすごくある。だけどその反面、構成自体は「かつての親友が敵同士に」とか「昔の恋人にソックリな謎めいた少女が……」とか意外とオーソドックスだし、マンガチックな登場人物や建物のデザインなども頻出する。
作者は、「BOON」読者をとても意識していると思う。掲載誌なんだから当たり前だけど、なんというか、本作は外面は目新しいけれども、中身は友情だったり、恋愛だったり憎しみだったり、といたって浪花節的。
それってすごく納得できる気がする。そういうのが案外いまどきのワカモノの本質なんじゃないかなあ、と思ったりもするから。それが心地いいマンガ。

単行本1巻の、作中の細かいネタ解説は実にいい。とくに「WARP(雑誌名)の黒田美礼は、スポーツイラストレイテッド誌のスイム・スーツ・イシューみたいなノリで、マジ、ドープ!」という意見(本編登場人物ハシームの意見)には全面的に賛同する(あ、作中に黒田美礼風のポスターが出てくるのだ。まあ「ドープ」って意味は知らないけど)。
(00.0122、滑川)



・「ランポ」(1) 上田徹郎(1997、小学館)

コロコロコミック連載。漁に精を出す元気少年・ランポは、海でナゾのメカに運ばれてきた美少女を発見する。彼女は「ジェファン神国」から逃げてきた巫女・ヨシノだった。ジェファン神国は、1億の国民を擁し全人類の消費電力の90パーセントを供給している。しかしその繁栄は「フガク」という「神」によっており、その声を聞けるのは巫女だけだという重大機密がある。

ランポはヨシノを取り返しに来る、人間よりちょっと大きいくらいのロボット(衛士)に追われる。衛士にはタイホウ、キリンジ、マスラオなどの名が付けられている。
1巻ではたいした話の進展はないが、「ジェファン神国」はネーミングがすべて和風のものであり、技術大国であり、ランポたちの国ではいばりちらしていて非常に嫌われている、という「高度成長期後の日本のイメージ」に近いところが面白い。
(00.0121、滑川)



・「爆末伝」全3巻 石川賢(1994〜95、リイド社)

ジャックポット連載。時は幕末。佐幕派の小栗藩は周囲を勤王派に囲まれていたが、官軍と戦って討ち死にする覚悟を決めている。しかし近代兵器と戦術に決定的に欠けていた。そこで、勝海舟に武器の調達の仕方を学ぼうとした。
勝は、海洋塾に学び、西洋学・兵学、西洋兵器については日本で右に出るものはいない浪人・馬並平九郎に小栗藩への武器運搬を命じる。だが勝や平九郎の思惑は小栗藩を官軍と戦わせて玉砕させるようなところにはなかった。列強が日本を侵略する前に、国力を疲弊させないようパワーバランスを整えていくことにあったのだ。
そしてさらに、国の思惑を越えた(!)侵略・虐殺願望に取り憑かれた武器商人との戦いに備え、壮大な計画を立てていた……。

ストーリーは、銃器の扱いに長け並みの兵法家では予想もできないことをやらかす馬並平九郎と、武士の世界にしか生きられない堅物の田村新八郎、平九郎と同じ海洋塾で学びながら、師を殺し、竜馬を暗殺し、暗殺学の天才にして日本を、世界をのっとろうとする宿敵・伊藤梅乱などが入り乱れてのアクション、アクション、アクションの連続で進む。

黒船を使っての海戦からグライダーのような兵器「竜飛鳥」、イギリスの兵器商人が開発した「B−12」という巨大な空飛ぶ要塞との空中戦、ガトリング砲などでの銃撃戦、日本刀とフェンシングの剣とのチャンバラ、砲台を備えた巨大木製バイクでの疾走、そして「最終兵器」と呼ばれる、回転しながら人々を皆殺しにしていく奇怪な兵器の起動といったふうに、歴史のワクから大きくはみだした戦いの連続で息もつかせない。

ラスト、打ち切り風なのが残念なのだが、他作品でも似たような結末があり、これでいいのかどうかはちょっとわからんのだけど。まったく疲れを感じさせない石川賢節に酔う。オススメ。
(00.0121、滑川)



・「神戸在住」(1) 木村紺(1999、講談社)

アフタヌーン連載。関東から神戸に来て、大学の美術科に通う女の子・辰木桂(たつき・かつら)の日常をたんたんと描く。

「たまにはふだん読みそうにないものを」と手にとって、ページ開いて。神戸の町並みとか名所とかちょっとしたお店とか、大学でのとりとめもない生活をほんわかした絵柄で描いた作品だということがわかって、「参ったなあ……」と思った。
なぜなら自分の学生時代のことを思い出すし(私は生まれも育ちも関東ですが)、最近なんかこういうのがニガテなのだ。「このマンガ描いてる人とは話合わないだろうなあ」という感覚というか。マンガ描いている人と実際に話が合おうが合わなかろうがカンケイないが(だいたい話す機会なんかねーし)、正確に言えば「話が合わなくてとても寂しい思いをするだろうなあ」というような感覚だ。

自分にとってはたいしてディープでもない話をしたら「うわ〜マニアックなんですねえ〜」と畏怖と物珍しさの入り交じった目で見られるときの感覚に似ている(笑)。だって出てくるの、同じ大学にいてもつき合いそうにない人物ばかりだし。寂しい(笑)。

だが桂が大学で知り合った和歌子の阪神大震災の経験を描いた「第7話 震災。」「第8話 震災から」は、……作者と主人公・桂がどの程度重なっているのかはわからないが、関東人が神戸で聞いた震災体験をマンガにしたものだとしたら(私も関東人なので)かなりシンクロできるデキだった。

和歌子の家は地震でつぶれてしまい、旅行に行った両親を心細く待つ。「面会です」と呼ばれて行くと、両親ではなく当時つきあっていた彼氏がいた。
この「心配して来たけど、やっぱり他人事」ってな感じの彼氏と、それに対して

「こういう人やってんや」
「この人とうちはもうあかんな」と思ったらしい(←「らしい」は桂が聞いた話だから)

……って和歌子がつきものが落ちたように彼氏に対する気持ちが冷えていくくだり、すっげえわかる気がする(むろん和歌子の気持ちの方にシンクロ)。

……なんというか、「自分がたいへんだと思っているようには、他人は思ってくれない」ことと、「悪気はないけど同情できない『他人』」と、しかし悪気はないからといって許されるもんでもない、呆れというかあきらめのような気持ち。それらがよく出ている。
そして、体験者ではない人間が阪神大震災をどう描くか、ということのひとつの答え、という気がする。
(00.0121、滑川)



・「週刊少年チャンピオン」8号(2000、秋田書店)

・「ルーンマスターゆうき!」
 雄雛愛覚(完)

なぜ終わってしまったのか!?(涙)
しかもまったくお話がたたまれていない。
これでは完璧な「打ち切り」ではないか!!
もうだれも愛せない。

・「フジケン」 小沢としお

今回はなんといっても、巻頭カラーを利用したトモトモのヤマンバメイクでしょう。
トモって、コギャルのグロテスクな部分を増大しつつ、「マンガに出てくるしつこいブス役」ではないところが深いよなぁ。イイやつなんだよね。
そして今回はカラーならでは。爆笑。

・「バキ」 板垣恵介

なるほど、こういうわけね。「敗北を知りたい」などと言っておいて、けっこうコソクなドリアン。まあコソクをコソクと思わない「思想」で生きてるんだろうな。
真の強者ってそういうとこあるもんね。
しかしこうやってまた一人ひとりの死刑囚の因縁を描いていくのかなあ。どうなるのかなあ。
(00.0115、滑川)



・「Zマジンガー」(2) 永井豪(1999、講談社)

マガジンSPECIAL連載。古代、人々から神と思われていた身体を機械化し超文明を持った宇宙人がいた。彼らは地球を侵略しようとしたが、ただ一人立ち向かった「神」がいた。それがZ神(ゼウス)
時を経て彼の頭脳は死んでしまったが、兜甲児が操縦する「Zマジンガー」として生まれ変わったのだった。

2巻では、弓博士がZマジンガーをパワーアップ。そして美の女神アフロディアが登場。ギリシャ神話的ドラマが展開されそうな気配。
凶悪な機械獣とZマジンガーの戦いは激しさを増していく。70年代の豪ちゃん作品に見られるドロドロさ加減は大幅に薄まったものの、よい意味での「ロボットプロレス」は変わらず堪能できる。
リニューアルした新マジンガーは、ブレーン・ホーク(パイルダーみたいなやつ)が頭部に収納されるときたたまれた翼が、そのままツノのように突き出ているところがカッコいいと思う。
(00.0115、滑川)



・「小さな巨人 ミクロマン」全3巻 松本久志(1999〜2000、講談社)

コミックボンボン連載。久磁耕平、その弟祐太、友達の水沢麻美は、御倉山で小さな宇宙人に出くわす。それがミクロマン・アーサーだった。
アーサーは、故郷の星を悪の化身・アクロイヤーに滅ぼされ、彼らの次の標的が地球だと知って追ってきたのである。やがてアーサーの仲間たち、イザム、エジソン、ウォルト、オーディーン等々が勢揃いし、アクロイヤーとの凄絶な戦いに挑んでいく……。

「ミクロマンは小さい」ことを活かしたエピソードがうまくまとめられており、おもちゃ商戦でどんどん出てくるミクロマン&アクロイヤーもだれがだれだかわからないようなことはない(アクロイヤー側にもう少し表情が欲しかったけど、なにせメカ顔だから……)。
2巻、Memory7「ドミノ倒しを死守せよ!!」は耕平の学校での「ドミノ倒し」のイベント用ドミノが毎晩少しずつ倒れていることから、アクロイヤーが地下に基地をつくっていることがばれる話。
3巻、Memory11「ブルートレイン『死のゲーム』」は、子供たちを乗せたブルートレインにしかけられた爆弾をミクロマンたちが探す話。
Memory12「アクロイヤーの魔女 アーデンパープル」は、前回の戦いでアクロイヤーのあまりの残虐さに自信を失ったアーサーが、石になってしまう話。

このあたりの展開は子供マンガ的センス・オブ・ワンダーがあってとくにいかす。
そして最終話「『シャドウ作戦』始動!!」では「人工太陽で南極の氷を溶かす」というアクロイヤーの作戦を阻止するために(この古典的な作戦も本作では実に良い)、技も知恵も機転も何もなしに、ただひたすらに満身創痍になりながらミクロマンたちが肉弾戦を繰り広げるというすさまじい展開に……。

アニメやおもちゃリリースとの兼ね合い、月刊誌というペースの遅さにもどかしさもあったかもしれないが(とくに水沢麻美ちゃんはあまり活躍しないし)、単なるプログラムコミックで終わらせたくない熱意が伝わってくる作品。熱いぜ。
(00.0113、滑川)



・「純愛(ロマンス)」 田中ユタカ(1999、雄出版)

成年コミック。以前出した単行本からの再録+初収録の傑作集。この作者がどんな作風なのかほとんどわからなかったため、初買いとしてはいい買い物だったかもしれない。
「ぼく」の一人称で展開される物語は、仲良しカップルの1エピソードだったり、年齢差のあるカップルの少し屈託のあるセックスだったり。シチュエーションとしては、高校生カップルや年上の彼女(男が浪人してて女はすでに大学生だったりとか)。同い年の場合でも女の子は意外と積極的。男の子がリードする場合は女の子は受けっぽい性格だけど年上、って感じか。
全体通して、男の子の、女の子を「好きだ〜!」という気持ちが溢れんばかりのセツナ系Hマンガ、とでも言えばいいのかな。

絵はゴリゴリのロリでもなく、CGテカテカのアニメ絵でもなく、細密でキレイ。ミもフタもないが「二人の関係性そのものがすでに前戯」なので、短編でもカッチリとまとまりつつドラマもある。H描写も案外激しい(と思うがHマンガを読み慣れてないのでよくわからん)。

少年ラブコメが「Hを剥奪されたHマンガ」であることは周知の事実で、それを補完すべくH同人誌やHなギャルゲーが存在するとすれば、まさしく本作も「少年ラブコメの果てにカップルになった少年少女たちのH」を描いている。
それは単に「Hをする」というだけでなく、2人の会話とか男女の機微が、「たぶんラブコメ的展開を経て来たんだろうなぁ」と思わせる。そういう意味で言えば男子中高生(や、元男子中高生)にとってはたまらなくせつなくて、それでいてギンギンな展開かもしれない。
「BOYS BE...」なんか読んでる場合じゃないスよ。なんてな、そっちはそっちでみんな個別に楽しんでいるんだろうと思うけどね。
(00.0113、滑川)

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