つれづれなるマンガ感想文4月後半

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一気に下まで行きたい



・「ガンプラ・ジェネレーション」 五十嵐浩司・編(1999、講談社)
【同人誌】・「みるく・きゃらめる 4号」 石川ひでゆき、吉本松明(1999、「みるく・きゃらめる」)
【同人誌】・「みるく・きゃらめる 1号」 石川ひでゆき、吉本松明(1998?、「みるく・きゃらめる」)
・「フリンジ・カルチャー」 宇田川岳夫(1998、水声社)
・「(マンガ関係雑誌としての)クイックジャパン30号」(2000、太田出版)
・「あしたの女王」 ぐれいす(2000、エンジェル出版)
【同人誌】・「みるく・きゃらめる 2号」 石川ひでゆき、吉本松明(1998?、「みるく・きゃらめる」)
・「ミニコミ魂」 串間努編、南陀楼綾繁ほか著(1999、晶文社)
・「闘奴ルーザ」全2巻 かきざき和美(1989、日本出版社)
・「とても変なまんが」 唐沢俊一(2000、早川書房)
・「丹波哲郎の漫画大霊界」 丹波哲郎、かきざき和美(1988、大洋図書)
・「丹波哲郎の大霊界2」 丹波哲郎、岩村俊哉(1990、小学館)





・「ガンプラ・ジェネレーション」 五十嵐浩司・編(1999、講談社)

これもマンガではなく、ガンダムプラモ、すなわちガンプラについて書かれたムック。しかし、マンガ「プラモ狂四郎」の特集が組まれているのでこちらに書きます。
最近こういうパターンが多いな私。

ガンプラ発売の経緯、アニメと直接関係のない「MSV(モビルスーツ・バリエーション)」発売の経緯、およびガンプラ販促に重要な役割を果たしたコミックボンボン、およびそこに連載されていたマンガ「プラモ狂四郎」についての特集記事、などから構成。

プラモ狂四郎は当時100万部を超えるヒットとなり、講談社漫画賞の候補にもなっていたという。作家主義のような立場からのマンガ評論から無視されていたことはもちろん、エンタテインメントという視点からも、当時爆発的な部数で新聞・雑誌をにぎわせていた少年ジャンプとは比較にならないほど着目されなかったことを考えると、こういった作品は子供時代に影響を受けた世代が大人になって発言権を持ってこないと、考察されないのか世の常か、と思いました(「ガンプラ」そのものは社会現象として、当時新聞等でも取り上げられた)。

マスコミで評価されたかどうかはともかく、「プラモ狂四郎」は、当時の少年マンガの主力であった若い作家よりは一世代くらい前のやまと紅一が描いていたこと、展開に梶原一騎の影響が見られること、ガンダムのアニメではなくアニメから派生した「プラモ」を主役としたこと、プラモデルの改造をマンガの骨子としたこと、コミックボンボンの巻頭グラビアと連動してガンプラ販促につなげたこと、など興味深い位置にあると思われるし、何より「アニメのプラモに子供自身が搭乗する」という、「アニメの主人公に自分を重ね合わせる」こととは似て非なる妄想をマンガ化したものとしての意味は大きいと感じた。

ムック全体のトーンは、筆者の独自見解などは極力抑えた資料本的意味合いが強い。
アニメ「ガンダム」シリーズにも、簡潔な解説がなされている。本放映時、キー局の名古屋では視聴率20〜25パーセントは取っていたというのは 意外。しかし、その前の時間帯にやっていた「マゴベエ探偵団」の影響ではないか、という意見もさらに意外だった。
「マゴベエ探偵団」とは、東京でもやっていた「推理ドラマを見て解答者が推理する」という面白いタイプのクイズ番組。

プラモ狂四郎の新作「狂四郎1999」も掲載されている。
(00.0430、滑川)



【同人誌】・「みるく・きゃらめる 4号」 石川ひでゆき、吉本松明(1999、「みるく・きゃらめる」)

マンガと文章による評論、という構成。評論の特集は「ショタ」
80年代後半から現在に至るまでの、女性向け・男性向けショタマンガ双方の変遷を追っている、大力作。
私自身がショタ&ふたなり系にまったくと言っていいほど興味がなく(「現象」としての興味は多少あるけど)、知識もないので、その概略や解説には「はあー」と感心するしかないのだった。

ひとつだけ気になったのは「ショタの今後」。「ショタものアンソロジー」の発行は98年をピークに激減しており、これを筆者は「ショタの浸透と拡散」と考えている。
本書とはまったく別のところで、「もともとのマーケットが小さすぎたため、一過性のブームで終わってしまった」という意見も読んだことがある。その検証はむろん私にはできない。しかし、本当にただのブームだったのか、それともオタクのジェンダー意識に何か決定的な変化が訪れたのかは、興味のあるところではある。

(それより以前に、オタクの性的嗜好の変化が一般人とどうリンクしているかの考察が必要だとは思うが……これは自戒。)

石川ひでゆきのマンガは「改造人間の夜4」。評論に合わせてかかわいい男の子のちんちんが頻出するお話でした。
(00.0428、滑川)



【同人誌】

【同人誌】・「みるく・きゃらめる 1号」 石川ひでゆき、吉本松明(1998?、「みるく・きゃらめる」)

マンガと文章による評論、という構成。評論方面では吉本松明氏の「馬鹿漫画を礼賛する!」。「馬鹿漫画」とは、「馬鹿馬鹿しくもくだらない漫画」とする。ニュアンス的には「バカバカしいことに誇りをもって積極的に取り組んでいるマンガ」とでも言えばいいか。
竹本泉、上連雀三平/小野敏弘、「いけない! ルナ先生」、「オヤマ! 菊之介」、そして「唐沢なおき」を同じ流れで論じるという力業を成し遂げている。う〜ん、私にはぜったいマネのできない展開だ……。

かつて「マニア人気の竹本泉」とか「ギャグの唐沢なおき」というカテゴライズはあったとしても、これらを(いい意味の)「バカバカしさ」という同じ観点で論じるというのはかなりラジカルであると私などは考える。

ただし、各作家の特徴が均されてしまうような気もする(論旨全体としては面白いと思ってます)。 たとえば竹本泉のほわんとした魅力と唐沢なおきの攻撃的ですらある作風とは「バカバカしさ」という1点だけで括っていいのかとも思うし、「いけない! ルナ先生」や「オヤマ! 菊之介」については、本書ではある種のレベル維持と作者の積極性を評価点にしているところがあるが、「少年エロコメ」は「企画色」の強さがとにかく印象に残る分野である。そしてそれだけ、「意図せぬバカバカしさ」が出てしまうことも確かなのだ。その辺りをどう評価するか、という問題? もある。
たとえば川原正敏の「パラダイス学園」は通常の少年エロコメへのフォローである「健康的なお色気」とか「バカバカしい楽しさ」とか「マンネリに挑戦する職人性」といういかなる言葉も当てはまりにくい作品だ。
ヒロインの脱がされ方(いじめられ方)は悲惨だし、学園モノに必須の「終わらない学園祭的雰囲気」もあまりない(ひたすらにヒロインがいじめ抜かれるような印象)。また作者がやる気まんまんかというと、読んだ印象のみだがそれもおぼつかない。

だが「少年エロコメ」の中で特別にすばらしいとも言えないこの作品、「意図せざるしょーもなさ」、「えも言われぬくだらなさ」が醸し出されていることには間違いがない。すなわち、こうした企画色の強いマンガの場合、そのバカバカしさを賛美するときの基準は、非常に微妙だ。微妙過ぎる。このため、スノッブに流れる危険性をまぬがれない(本書の筆者はそれを自覚しているが)。

それと、「こうした魅力を持った文化的産物は現在ほかでは見られなくなっている。」というのもどうだろうか。ここで筆者はマンガ家の「作家性」と「バカバカしさ」を強く結びつけていると推察されるが(むろん唐沢なおきは相当に意識的であろうとは思うが)、日常的に「バカバカしさ」が量産されているところがある。それはテレビ
「いけない! ルナ先生」的なマンネリズムのバカバカしさなどは、テレビでかなり意図的になされているのではないかと思うが、どうか。本書で解説される「日常から飛躍するのではなく、ずらす」ギャグであれば、ダウンタウンがいるし。
もしかして、私が相当ズレたこと書いてたらすいません。

石川ひでゆきのマンガは「改造人間の夜」。マッドサイエンティストと巨乳美少女のかけあいが楽しいスラップスティック。うまいなあ。このヒト、プロなのかなあ???
(00.0428、滑川)



・「フリンジ・カルチャー」 宇田川岳夫(1998、水声社)

「周辺的オタク文化の誕生と展開」という副題のついた評論集。「フリンジ・カルチャーとは、既存の『サブカルチャー』の周辺に位置する、埋没した文化である。」という冒頭の説明どおり、サブカルチャーを「商品」として精製する道筋が付けられる以前のモノを多く扱っている。
全体の構成は「フリンジ・コミックス」、「フリンジ・アート」、「フリンジ・オカルト」に分かれるが、まあ「マンガ関連について」の本の感想を収める場所なので、マンガ−おたく論中心に書きます。

本書で扱われているのは「ふくしま政美」、「宮谷一彦」、「榊まさる」、「小森一也」、あるいは平田弘史フォロワーなどのマンガ史からは消えていった人々(そのうちの何人かは近年復刻・再評価されているが)。「肉弾マンガ」、「スカム劇画」とカテゴライズされるそれらは、「手塚−石森ライン」の映画的手法から逸脱する傾向を持ったマンガ・劇画群である。
筆者はそれらを、「偽史」的想像力の産物とする。「偽史」とは、「ありうべき過去や未来を捏造するためにつくられる物語」、「正史の史実の狭間に入り込んで正史そのものを相対化し、正史の中に潜む虚構性を無限に増殖していく。」「正史からこぼれおちたもう一つの可能性、もう一つの物語であると同時に、何度も何度も新しく作り出されて正史を攻撃する物語である。」とする。

だから、直接的な関わりはないとされる「聖マッスル」とリチャード・コーベンの作品にシンクロニシティとか並行進化を読みとったり、梶原一騎作品に漂白民とか「まつろわぬ者」のモチーフを感じたり、ゲーム「超兄貴」とコーベンの作品とを関連づけてみたりと、どの程度本気なのかわからないややムリヤリな文章も散見されるのだが、本書そのものが「偽史」としての意味合いを持つのだとしたら、その飛躍もまた意識的なものなのかもしれない。

上記の要約からもわかるとおり、本書は全編にわたって情念に満ちている。それは80年代中期以降から「資本の側のおたく文化接収」という、この筆者の考える文化的停滞−そうは表現されていないが言ってみればそういうこと−から来るのだと考えられる。

筆者が冒頭で簡単に概観している批判的な「おたく史」は、まあ半ば「通説」とされていることだ。ここで私が素朴に疑問なのは、繰り返される「おたく批判」の場合、批判者は「おたく的クリエイター」を批判しているのか、「おたく的受け手」を批判しているのかという点。別におたく論を展開する本ではないのでそこの説明が簡便なのは仕方ないのだが、批判の先が「受け手」であるのだとしたら、個人的には、受け手は超歴史的にあらゆる意味で凡庸なのだと言わざるをえない(いいか悪いかは別にして)。
本書が「偽史的」であることを考え、どのような歴史上での「もしも」を夢想したとしても、「サブカルチャーの資本への接収」は行われていただろう。大多数の消費者は「フリンジ」なものを生み出しにくい状況(逆に言うと平均的なものが一定量出回る状況)を望むからである。すなわちここで幻視される「偽史的状況」は、「接収のされ方」ではなく、「接収されないこと」を前提とする以上、かなりありえないことのように思える。それだからこそのロマンなのかもしれないが。

もうひとつ思ったのは、「資本に回収されない」ことと必ずしもイコールではないが、作品の「完成度」についての評価の問題が、「オタク」と「オタク批判者」の間に根本的にあるということ。
「エヴァンゲリオン」の評価の分かれ方は、物語中の謎解き云々以前に、「壊れている」ということへのスタンスの違いにあると思う(本書の筆者は、エヴァンゲリオンを評価している)。製品としての完成度(いわば「お約束的展開」)を受容したうえで、そこに物語とは別個の読みとりをするのがオタクの特徴のひとつであって、それは「壊れた」、「壊れたい」作品、過剰に意味を読みとられようとする作品を根本的に拒絶する(ように思える)。
そうした見方と、「フリンジ・カルチャー評価」という見方は、ある作品をファインアートとして見るか大衆芸術として見るか、という対峙の仕方では容易にすれ違ってしまうが、「エヴァンゲリオン」のような商業的にも成功した作品の場合、見方はどうあれ大衆に評価されたモノであることに変わりはない。エヴァ現象についてはあれこれ論じられたが、「オタク」そのものが大衆的側面と、「フリンジなものを求める」という側面双方を持ち合わせている以上、「大衆的なものの中にもイイもの、芸術的なものはある」という、「イイもの」の部分を不問にした旧態依然の評価基準による議論とは少々異なる、メンドクサイものになるような気がする。というか、現になっている。

その辺をいつかガチに議論してほしいなあ、と外野ながら感じたのでありました。
(00.0427、滑川)



・「(マンガ関係雑誌としての)クイックジャパン30号」(2000、太田出版)

現在、さまざまな作品(「女犯坊」や「ゲームセンターあらし」など)復刻を手がける太田出版の雑誌であるため、ヘタをするとマンガ専門誌以上にマンガ関連に影響力を持つ雑誌と言えなくもない(ホントに影響を与えているかどうかは知らない)。ので、マンガ関係に絞って感想。

・「箱船」(最終回) しりあがり寿
断片的にしか読んでいなかったのでなんとも言えないのだが……会社をやめてからのしりあがり寿は、私が目にするかぎりあまりストレートなギャグを描かなくなった。 社会時評的な4コマや1コマもの(週刊プレイボーイの「時事おやじ」やTVブロスの「はなくそ時評」)は、個人的には通俗的な社会風刺の域を出ていない、何もしりあがり寿がやらなくても……というようなものであるし。

で、彼のストーリーマンガ……を読むと、何か物足りない。それは、「はなくそ時評」同様、たぶん根っこで彼が非常にマジメだからなのではないかと思う。
としか言えない。

・「本 秀康の描く4ページ」 本 秀康
すっごい面白いと思う。ヘタウマ(って言い方もうしないのか……)ギャグマンガなんだけど、ギャグも素直に笑えるものだし(しかしギャグの説明ってむずかしいな……)、オススメ。

・「エイリアン9とは何か?」 作者インタビューなど
自分の解釈がまったくの見当違いではないかとビクビクさせた作品だったが、そう違ってもいないと思ってホッ(笑)。
ところで、なぜ「エイリアン9」の世界が異様なのか。
それは、また見当違いを覚悟して書くと、抑圧がそうと感じられない、本当の意味で自由のない世界だからだ。そして、人間は自由がなくても幸福に生きていけるということを描いているから、読んだ人間はそれがちょっと信じられなくてとまどうのである。
そういう意味では、終末モノとしての「アキラ」や「エヴァ」と比較することにくわえ、必ず強大な敵に弱点が存在していた(つまり世界が敵対するものとして、敵として活き活きと立ち上がってきた)あらゆる少年マンガと比較して、なお新しいものと言うことはできるだろう。

・「すがやみつるインタビュー」
「あらしとビッグコンピューターを対決させたい」というすがや氏の意見に、編集者が「山田正紀ですね」と答えたという(山田正紀「襲撃のメロディ」)。そしてそのとおり、すがや氏は「襲撃のメロディ」をヒントにしていたというのだ。
「ゲームセンターあらし」と「山田正紀」の関連性!! ああっ、ワクワクする。たまらん。
(00.0426、滑川)



・「あしたの女王」 ぐれいす(2000、エンジェル出版)

「アクションヤング」連載。経営不振の幼稚園を救うため、風俗の世界に飛び込んだ三岡ひろは、秘密結社「マラの穴」のインストラクター? 男平にその才能を見抜かれる。「風俗界の女王」と言われる「お超夫人」にも早くからライバル視されるひろの運命は? という、「あしたのジョー」、「エースをねらえ!」、「ガラスの仮面」などへのオマージュに満ちた成年コミック。

ぐれいすの描く女の子は表情がイイっスね。
(00.0426、滑川)









【同人誌】

【同人誌】・「みるく・きゃらめる 2号」 石川ひでゆき、吉本松明(1998?、「みるく・きゃらめる」)

創作マンガと評論という、めずらしいカップリングの本。特集・ロリ。
石川ひでゆき氏のマンガはロリ顔&巨乳で、絵にも特徴があり(いわゆるアニメ絵ではない)すばらしい。内容もいい意味でくだらなく、すばらしい。

文章は吉本松明氏。「幼女漫画の星座〜漫画家達が作り出す位相〜」は、現在十把一絡げに語られがちな「ロリコン漫画家」を分類し、マトリクスにした力作。
筆者は、ロリコン漫画を「ホンモノか、ニセモノか」、「観念的か、即物的か」、「セクシュアリティのあり方が暴力的(=サディスティック)か、非暴力的か」の3つの軸線と、作風を「ロリコン漫画家」、「美少女漫画家」、「ハイエンド系」、「アウトサイダー」の分類により立体図にしている。

ただ、便宜的な作風分類はいいとしても、軸線の設定はどうであろうか、という気はちょっとする。「ホンモノか、ニセモノか」は、確かに読者側には「こりゃキテるな」という了解として成立はするものの、実際の作者がホンモノかどうかは本人に聞いてみてもわからないことであろう。もちろん、「そう見なす」ことから出発することに異議はないし、ブンガク寄りというか論者の恣意的な分類を必ずしも否定しないものではあるが。「観念的/即物的」も、もう少し詳しく説明してほしかった(ちょっと私にはむずかしいので……)。あ、あと奥付に発行年度が欲しい!(後の号には入っているようだ)

また、旧来の「ロリコン漫画家」(吾妻ひでお、内山亜紀、あさりよしとお)とそれ以降のマンガ家について、時間的隔たりの面で語ってほしかったところはある。旧来のロリコンマンガから現在のいわゆるロリコンマンガへの変化は、「時間」的要素が深く関わっていると思うので。

もっとも、同人誌における評論は全般的に妙にお説教臭かったり(それがなぜなのかは興味深いとしても)、方法論も一律にすぎるきらいがあったので、こうしたクールな分類(最終的には8つの象限に分けられる)はどんどんやってほしいところではあります。従来の同人誌における評論のマジメくさった論調ではなく、いい意味で突き抜けたところがあると思う。

作家論の「町田ひらく」については、対象となっている作品を読んだことがないのでそちらを読んでからにしたい。

なお、オマケフロッピーが付いてました。こういうのも楽しいですね。
(00.0426、滑川)




・「ミニコミ魂」 串間努編、南陀楼綾繁ほか著(1999、晶文社)

マンガではないが、私はミニコミはマンガに関係あると思っているのでここに感想を書きたいです。

古今東西のミニコミを約200誌紹介、またミニコミの歴史、つくり方、売り方、どこで買えるか、インターネットとの関係、ミニコミがらみの? 著名人へのインタビューなど、さまざまな角度からミニコミを考えるつくりになっている。ミニコミや同人誌をつくっている、あるいはつくってみたい人にはオススメ。

私自身も同人誌を細々とつくっている立場でハッとさせられたのは、コミケなどの同人誌即売会などにばかり目が向いていて、「アマチュアがつくった少部数の出版物の頒布」ということを考えた場合、即売会以外の流通に目が向いていなかったこと。
本書では、地方小出版流通センターや、ミニコミを置いてくれる書店(「模索舎」や「タコシェ」など)の成立の経緯などが描かれている。当然書店への直接営業も。これらがコミックマーケットと併行しながら、あるいは横断しながら(実はほとんど棲み分けされてしまっているようだが)存在していることは、「アマチュア出版」を考えた場合絶対に見過ごしにできない点だ。
それは同時に、「何か」をつくっても、コミケに出ようと考える者、模索舎に置いてもらおうと考える者、その他イロイロというふうにつくり手側が発表方法を選別していった経緯でもあるわけで、この辺の棲み分けというかダンゼツというか、その辺りも広義の「同人誌史」という点で重要なところだろう。

ミニコミ製作者のポリシーの違いも面白い。「商業誌に劣らない外観を」という人もいるし、「読めればいい」という人もいる。部数にはこだわらない人もいるし、部数拡大を望む人もいる。「1ページでも定期刊行を」という人もいるし、「ネタがないならつくっても仕方がない」という人もいる。友達となんとなく、という人もいるし、かなりキッチリ取材や原稿依頼などをしている人もいる。
フリーペーパー、フライヤーの話が出てくるが、有料にするかどうかも考えどころだろう。
これらはみな、商業誌では自明のラインがあることを再確認しつつ皆が本づくりをしているわけで、それだけでも深読みすれば発行者の文化論というところにまで辿りつけるのではないかと思う。

コラムやインタビューもそれぞれ非常に興味深いモノがあるが、個人的にとくに面白かったのは「リアルガーリーの泉−−女のコがつくるミニコミ−−(近代ナリコ)」と、「私の個人メディア半生紀」(串間努)」
前者は、「フェミニズム系の書店に本を持ち込んだら断られ、女の子の好きそうな雑貨屋さんに行ったら置いてもらえた」という経験から、「両者にはどうしようもない断絶がある」と感じたことが書いてある。「フェミニズム」に関しては無知に近い私ですが、従来の「フェミニズム」と、いかにも「女の子らしいもの、女の子らしいノリ」とを結びつけて新たな問題意識を探り出そうとする文章は、正直初めて読んだ。
もちろん、ポップなものをフェミニズム的な視点で論じたものは読んだことがある。しかし、これはフェミニズムに限らないことだが、思想は文章のオチではないし、ツカミでもない。その点、この文章は何かすごく新しい「柔軟性」のようなものを感じた。
後者は、「日曜研究家」の発行者である氏の子供の頃からの雑誌発行歴を綴ったものだが、自伝的部分も面白いし、アマチュア発行物の印刷や頒布形態の変遷なども興味深い。「1パーセント単位で拡大縮小できるコピー機」が全国のコンビニに揃ったのはかなり最近のことだったんだなあ、とか。

とても読み応えがあった1冊。ちょうどミニコミとインターネットとの関連が過渡期に入っている時期だと思うんで、そちらが一段落した後にもう1冊くらい続編を出してほしいような気もしました。
(00.0423、滑川)



・「闘奴ルーザ」全2巻 かきざき和美(1989、日本出版社)

格闘ものは私にとって2種類ある。ひとつは「肉体は政治を超えられない」という前提のもの、もうひとつは「肉体が政治を凌駕している」もの。
……なんて書くとなんだか60年代なレビューになってしまいそうだが、とくに後者の方が優れているなどとは言い出さないのでご安心ください。

本作は、いつ、どことも知れぬファンタジー世界、賭けの対象としてスタジアムで死闘を行う「闘奴」の中でも最強と言われた女・ルーザの物語。闘奴は奴隷の中でも特別自由がきく階級ではあるが(どういうわけか全員女)、当然行動の制限はあり、負ければ対戦相手に殺される。ルーザはかつての友人を殺して生き延び、また別の友人を救おうと奮闘する。
敵の闘奴には、対戦相手を必ず嬲り殺しにするシャウラ、求道的なまでに剣技をつきつめ一瞬のうちに敵を倒すターニャなどが出てくる。
細密でガイジンぽい身体つきの(実際ガイジンだが)女性がいっぱい出てきて肉弾相打つので、そのテが好きな人はたまらんと思います。

ルーザは友人リサ救出の過程で政争に巻き込まれ、死闘を繰り広げ、「ドラゴン怒りの鉄拳」みたいな(あるいは映画「忘八武士道」みたいな……こうしたラストのオリジナルって何なんだろう?)ラストを迎える。ルーザやターニャの戦闘能力は奇跡的だが、それは周囲も、自分自身も変えるには至らない。すなわち、「肉体は政治を超えられない」ことを前提とした格闘ものとして、本作は現実そのものを描いている。
そういえば「タイガーマスク」もそんな物語だった。そこがかなり切ない。

対するに、「肉体が政治を凌駕する」作品には「キン肉マン」や「空手バカ一代」や「グラップラー刃牙」があるが、これらは格闘技や人並みはずれた肉体をそれそのものとしてはとらえない。だから話が神話的になる。このテの作品が常に「珍奇」と紙一重にあるのはそのためだ。そして、あと一歩踏み込めば、そこはオカルトの世界。人間のイメージ中心に動いていく作品世界は、意識が世界を動かすのだと錯覚させる(まあ半分は本当のことなんだが。半分はね)。

話を戻すと、「ハード・ファンタジー」と銘打たれている本作、ファンタジー色は意外に薄い。「蛇を使う一族」というのが出てくるが、時代ものの忍者か幻術師に近く、栗本薫がヒロイック・ファンタジーに必須だと言っている「昏さ」、この世界で神や妖怪がどのようにとらえられているのかがはっきり描かれていないことが(私の考える)ファンタジー色の薄さの原因だろう。
……にしても、コナン直系のヒロイック・ファンタジーが日本のマンガに少ない中、本作はその雰囲気を直接継承したものになっている(作者が意識しているかどうかは知らない)。山本貴嗣の「剣の国のアーニス」ともども、ヒロイック・ファンタジー色が強いマンガの主人公が女性なのは不思議だ(逆に「当然」という気もするが。半裸の男の戦いなんてわざわざ凝った設定をつくってまで見たくないのが人情)。もっとも、作者はオトコが主人公のものも描いているらしい。

ドラクエ大ブーム以降、ファンタジー的なマンガ作品は山ほど出たが、「ヒロイック・ファンタジー」的なものは皆無に近い。それはゲームファンにとって「肉弾描写と『昏い』世界」が好まれなかったことに多く起因するのだろう。
それの代わりを(と言っていいのかどうかわからないが)果たしているのが夢枕獏か京極夏彦などの伝奇ものだと思われる。

ちなみに「S&Mスナイパー」連載。知らなかった。
(00.0423、滑川)



・「とても変なまんが」 唐沢俊一(2000、早川書房)

S-Fマガジン(実はハイフンが入ることを知らなかったウスい者です私は)に連載されていた記事を、加筆・修正しての評論集。

毎回まいかい、かなりのマンガ読みでも知らない「変なマンガ」を紹介する企画で、連載当時も楽しみに読んでいた。1冊にまとまり、本全体の流れのようなものができて通読してみると、「こんなマンガがあったのか!」という驚きや楽しみを味わうと同時に、作中で言われている「非・手塚的流れ」とか、あるいは「忘れられがちだが確実にあった(あるいは現在もある)、マンガの中の楽しみの要素」とか、そういったものが見えてくる仕組みになっている。

私はそんなにたくさんマンガ評論を読んだわけではないが、読むたびに、「マンガの歴史」とかいうとすぐ手塚治虫の「宝島」から一気に「鳥獣戯画」までタイムスリップしてしまったり(最近はさすがにそんなことないと思うが、20年くらい前まではそういうのが多かった)、「貸本劇画」が一部の有名作家を覗いてぜんぶ十把一絡げだったりしたことに不満を感じていたし(だから膨大な貸本マンガは私の「お勉強」的には、群体としてしかイメージできなかった)、その他のマンガにしても、マンガブームになった昭和四十年代以前の作品は見ることがむずかしいので非常に把握しにくいと感じていた。ので、「手塚〜トキワ荘〜24年組〜(それとは別にガロ)」といった流れを自然に信じていると、マンガの思いもしなかった可能性とか多様性を見せつけられてガツンと来る本だ。

……といっても取り上げられる作品は年代的には多岐にわたる。昭和三十年代の貸本から、七十年代のコミカライズ、有名作家のマイナー作品、現役バリバリだが「非・手塚的なもの」を持った作家など、さまざま。
毎回、冒頭のツカミの文章の面白さに引き込まれて、後はそのままテーマとなる作品の面白さの解説を堪能し、そしてその面白さがマンガ史にどう位置づけられるのか(あるいは位置づけられないのか)を見せられる、そんな1冊。
けれども、マンガの裏歴史を構築しようとか、あるいは「認められなかった作品」だけで架空史をつくろうとかいったオドロな雰囲気や判官びいき、「栄光なき作家」といった「泣き」の要素はあまりないと思う。作中の表現で言うと「ヘソ曲がり」の感覚、それと矛盾するようだが手塚一辺倒のマンガ観に対する「こういうのもあるよ」的なバランス感覚。それらが、クールというか突き放した感じさえするトーンで表れていると思う。バランス感覚については、繰り返し「手塚否定をするつもりはない」と出てくることで充分説明できるだろう。

それと、本書で重要なのは「マンガのリアリズム」の問題(「キャプテン・ハーロック」の例はスゴイ)、「様式性」の問題(意味合いは氷川竜介氏の用いる「王道」に近い?)、それに合わせて「ノスタルジア」の問題などがあるが、それは本書を読んで確かめてください。オススメ。

なお私が本書の中でぜひとも読んでみたいと思った作品は、「半骨ギャルマン」、「0テスター」(実は中学生くらいのときにやたら古書店で売っていたような記憶が……惜しい)、「KARATE GIRL」(笑)、「百鬼坂には未亡人と狼男がいるよ」、「宇宙時代」、「若様の宇宙探検」、「赤ん坊帝国」でした。この中でも何作かは復刻されんことを(「KARATE GIRL」はどっかで売ってるらしいけど……)。

あ、蛇足。「ドラえもん」に出てくる常に盛り上がっていなければならないマンガ「ライオン仮面」のモデルは、本書に出てくる「白虎仮面」なんだろうか……? (00.0420、滑川)



・「丹波哲郎の漫画大霊界」 丹波哲郎、かきざき和美(1988、大洋図書)

丹波哲郎の霊界感というか、丹波哲郎の考える霊界を描いた作品。
丹波哲郎の描く霊界物語は、つねづね言われているように「彼が霊界を説く」というインパクト以上のものはないが、「霊界へ行くとみんな20歳前後の姿になる」、「でもそれがイヤなら30代にも40代にもなれる」、「20歳前に死んだ者も成長して20歳くらいになる」、「しかし姿が変わってもお互い会えばすぐわかる」など、いわばこの世の不幸を霊界ですべてチャラにしようという意識が強い。まあ宗教やオカルトなんて全部そうだけど。

で、お約束で「今生で善行を積みましょう」ってな話になるのだが、本作は「闘奴ルーザ」などの、ファンタジー世界で筋肉女が大剣振り回す作品を多く描く、かきざき和美の細密な絵で霊界の神秘的側面を描こうという傾向が強い。なお映画との関連は調べてません。

丹波哲郎の霊界物語がだれに支持されているかはよく知らないのだが、死を身近に感じているお年寄りたちだとしたら、「ババァ」「ジジィ」と罵倒しながら絶大な支持を受けている毒蝮三太夫同様、丹波の特異なキャラがお年寄りたちにとって霊界の無根拠な説得力を与えていることは考察の必要が……ないか別に。人間って、信じるときは何でも信じるし。
なお「自分は霊界を見たことはない」、と自分の神秘体験を否定していながらも、ちっとも学術的ではないところも丹波のキャラといえばキャラか。
(00.0417、滑川)



・「丹波哲郎の大霊界2」 丹波哲郎、岩村俊哉(1990、小学館)

映画「大霊界2」公開に合わせてのコミカライズ。
内容は丹波の霊界物語を案内役が説明していくというもので、「漫画大霊界」と大差ない。というか、同じ世界を舞台にしているのだから違っちゃ困るだろう。ただこちらは、丹波自身が主役を演じている(マンガの主人公も丹波自身)、映画のスチールが多数使用されていることなどから、今読んでの、違った意味でのおもしろ度はそれなりにあるかもしれない。なにしろ天使が山瀬まみだ。人間、死んだら山瀬まみに案内されるのだ。

しかし「カルマがどーの」など、「漫画大霊界」より少々説教臭い。まあ宗教やオカルトなんて全部そうだけど。

この単行本は小学館メディア・ライフ・シリーズの1冊らしい。巻末の広告を見ると、第1弾が「小熊物語」、第2弾が「百人一首」、第3弾が本作、第4弾が「公園通りの猫たち」だった模様。マンガ史的には非常にスタティックなシリーズだったようだ。
(00.0417、滑川)

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