つれづれなるマンガ感想文5月前半

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一気に下まで行きたい



・「超絶プラモ道」 はぬまあん著、スタジオ・ハード編(2000、竹書房)
・「週刊少年ジャンプ」24号(2000、集英社)
くそっ! ヘタうったなぁ(下の補足)
・「映画秘宝 ガンダム・エイジ」(1999、洋泉社)
・「ゲノム2」 古賀亮一(2000、ビブロス)
・「いけ! いけ! 清田」 newどおくまんプロ(2000、週刊アサヒ芸能)
・「別冊畸人研究 特集『SF』」 (1999、畸人研究学会)
・「剃毛看護婦」 荒井海鑑(2000、松文館)
・「斬鬼(ざんき)」 オール読切時代劇(2000、少年画報社)
・「女子アナ 今井良子の世界」 柳沢きみお(2000、別冊アサヒ芸能、徳間書店)





・「超絶プラモ道 〜懐かしのオリジナルSFプラモ大全〜」 はぬまあん著、スタジオ・ハード編(2000、竹書房) [amazon]

ガンプラやヤマトプラモ、自動車やミリタリーものなどとは違った、「オリジナルSFプラモ」の解説&紹介&評論。むろんマンガではないが、アオシマが出していた合体プラモのコミカライズ「アオシマコミックス」や、アリイの出していたガンプラのパチモノ(本書での「贋プラ」というネーミングはスバラシイ)「ザ・アニメージ」の中に封入されていた「アニメミニマンガ」の紹介があったりと、マンガとの関連も強い本なのである。

全体の構成としては、アリイのザ・アニメージ、その他の贋プラ、アオシマの合体シリーズ、その他のオリジナルSFプラモ(万能メカや未来カー、未来戦車、ドリルモグラみたいなヤツ等々)の紹介などから成っている。

子供の頃にこれらのプラモをひとつでも買っていた人なら思わず感嘆の声をあげずにはいられない内容である。プラモ紹介ページはオールカラーだし、キチンとつくられた合体巨艦ヤマトなど、子供の頃にバラバラに集めたり(4個でひとつのメカに合体するため)、遊び倒して壊してしまったりした人々には感動ものだと思う。っていうか、これに感動しないで何に感動すんだ! とか思ったけど、知り合い約2名に勧めたが「物好きだなぁ」ってな顔をされてしまった。悪かったな! 物好きだよ!

巻末には著者はぬまあん氏とオタキング岡田斗司夫氏との対談が載っているがこの中で著者は「おもちゃ模型の民俗学を残すべき」と言っている。カタログ的なもの、分類学的な資料はあるだろうが、そのおもちゃで当時の人々が「どのように遊んだのか」を記録し残すべきだと。これにはドキリとしたなぁ。「小説ガンダムのHシーンをみんなで読んでた」とか、そういうことを記録しておくことに近い考えがあると思う。確かにそういったことはカタログだけでは残っていかない。

知り合いに本書の話をしたら、単なるパチモノを珍しがったり笑いものにしたりするだけの本だとカン違いされて、悔しい思いをしたなあ。でもこういう本ってホントにわかる人、感動する人は確実にいるけれどもわかんないヤツは永久にわかんないんだよな。もうわかんなくていいよ。ちくしょう。っていうか逆にいうとわかんないのおかしいと思うんだよな。マジで。
内容を聞いて「絶対に買う!!」と思ったけど探し回ったもん。探し回る状況自体がおかしい。だって本書の視点や方法論は90年代、その他のジャンル(映画、マンガ、音楽など)で用い続けられてきたモノでしょ。それをさあ、題材がオモチャだからって何だかバカにするってのはないと思うんだ(←私の知り合いのコトね)。まあ当時これらのプラモをひとつでも手にしていないと入りにくいってのはあるかもしれないけど。

……というわけで、ぶっとび魂のある人は絶対に買いだ。

【書籍】・「超絶プラモ道2 アオシマプラモの世界」感想

(00.0515)



・「週刊少年ジャンプ」24号(2000、集英社)

実にひさしぶりに購入。全体的にアッサリ目の絵柄の作品が目立ち、個人的にあんまし好みじゃなくなってきていたから、しばらく買っていなかった。あらためて読むと、なんだか桂正和、荒木飛呂彦、秋本治などの古株作家の絵が浮いてみえてしまう。

それと、途中から読んでも何がなんだかわからない作品が非常に多い。「両さん」と「JOJO」と「ぬ〜べ〜」の人の釣りマンガはとりあえず説明不要なので、もう1、2本、1話完結モノのマンガを入れてほしいと個人的に思った。

「ノルマンディーひみつ倶楽部」 いとうみきお

今週から新連載。「すごいマンガを描きたい」という夢を持った主人公の少年。しかし「マンガを描いているなんて暗い、オタク」という理由で女の子からふられてしまう。同級生からも白い目で見られ、バカにされた主人公は「マンガを描くのをやめよう」と思うが、エキセントリックな漫画研究会部長に誘われ、漫研の部室へ……。個性的な部員たちに振り回されつつ感化され、マンガを描き続ける決心をする少年であった。

「漫研のマンガだぁ!!」と知って思わず手にとってしまった。「マンガ家を目指す」マンガというと、商業誌ではどうしても手前ミソというか楽屋オチ的になりがちだし、「夢を持って邁進する」図もそらぞらしいモノになる危険性がある。……というわけでなかなかむずかしいのではないかと思うし、「マンガ家志望が減ってきたから始めたんじゃないのか?」と意地悪な印象も持った。しかし、「マンガを描くなんてどうせこんなヤツだ」ということで出てきた「典型的なオタク像」の少年2人が、「実体を持った人物」として登場してきたり、そうすると「典型的なオタク」が血肉を持ってキャラ立ちしてくるあたりは面白かった。また、「はじめてペンネームを使う」、「はじめて作品を見せる」ときの気恥ずかしさが描いてあったのも微笑ましい。
少年ジャンプで、「マンガを描く」少年たちをどう描くのかってのには非常に興味がある。「オタクとマンガ」についてもどういう切り口でいくのか楽しみだ。

難を言えば、キャラクターやギャグのノリがあまりに「マサルさん」的。ヒロインの女の子もあまりにモエモエ的だし……。でもしばらく追っかけるよ。漫研のマンガだから。(00.0515、滑川)



くそっ! ヘタうったなぁ(下の補足)

下の「映画秘宝 ガンダム・エイジ」の補足。
うまくマンガに結びつけばいいと思って書いたんだけど、自分の書いた文章がどうしても気に食わず、こっそり直したりしたんだけど微調整ではどうにもならんので、補足を書きます。
なんかこういうことが多いなあ最近。

>>それでもまだ80年代前半までは、同人誌(アニパロ等ではない旧来の意味での
>>「同人」)から出版社が作品集を出したり、小学館が同人誌に賞を設けるなどしてい
>>たが、アニパロやエロパロの爆発的な隆盛から「アマチュアまんが」は「シーン」と
>>してはまったくマスコミとは無縁の存在になってしまう。

ここんとこ、やはりキメウチしすぎたね。個々の作家については、コミティアなどの同人誌即売会に出つつ商業誌でも活躍されている方々は大勢いるので、「マスコミと無縁」というのはあまりに乱暴だった。
ただし、ここ十五年くらい、創作マンガ同人誌が「現象」として無視されてきた部分があるのは否めない。けっこう名が知られている同人といったら「作画グループ」くらいしか思いつかないし。「コミケ」と聞いて、マンガよりも「コスプレ」とか「エロ同人誌で儲けているらしい」といったイメージのみが先行していったことは否定できないと思う。

インディーズのレコード会社「ナゴム」についてのルポ「ナゴムの話」(太田出版)の中のいろいろなインタビューやエピソードでもあるように、「シーン」とか「ムーヴメント」としてモノを見る必要があるかどうかという問題はあるだろう。ナゴムレコードはインディーズでは相当有名な方で、「筋肉少女帯」や「たま」みたいなバンドが多くいる、という固定イメージもついているけれど、それらとはまったく違った毛色のバンドも多くレコードを出していた。それらが、十把一絡げで見られることは迷惑な場合もあったと思う。

マンガに関して言えば、コミケはある独特な「ノリ」というか「スタイル」を自然に形成していったが、創作系の即売会で、もちろん即売会の「色」はあるにしろ、作品スタイルを大きく規定するような枷はいい意味で「ない」と思う。ぶっちゃけて言えば「作家次第」ということになる。だがけっきょく「個別の作家次第」であるために、「即売会」であるとか「同人サークル(お互いに作品を批評し合うような旧来の意味でのサークル)」であるとかを、「場」とか現象としてマンガ史の中に位置づけようとする試みはあまりなされてこなかったと言わざるをえない。

……これで言葉足らずは解消できただろうか。
ちなみに「くそっ! へたうったなぁ」は「くそっ! なんてこった」という本のタイトルから取りました。なんなんだよ一体。(00.0514、滑川)



・「映画秘宝 ガンダム・エイジ」(1999、洋泉社)

昨年のガンダム二十周年記念のきっかけで出たガンダム本。講談社の「ガンプラ・ジェネレーション」がタイトルどおりガンプラ中心で、解説に徹したややお行儀のよい本だったのに対し、こちらも基本的にはガンプラ中心だが「ザク」「ガンダム」「グフ」「ドム」とひとつのモビルスーツに1コラムを設け、それご贔屓のヒトに熱く語ってもらう企画のほか、「ポケット百科」から「MSV(プラモオリジナルのモビルスーツ)」まで、幅広くガンダムという作品の周辺領域を扱っている。

スタッフの重複など細かいことは知らないが、文中のツボの部分をゴシック体にしたり、図版のキャプションがユニークだったりといった「秘宝節」は変わらず。ガンキャノンとガンダムの写真に「きょだいな〜 敵を撃てよ! 撃てよ!! 撃てよ!!!」と書いてあったりするのは燃えるよね。

本書の基本コンセプトを端的に表しているのが「ガンダムはスーパーロボットか?」というコラム。ガンダムという作品のさまざまな部分について、「テレビまんがサイド」と「リアルアニメサイド」の両極端に分けてグラフ表示したものだ。
「ガンダムはそれまでのロボットアニメと比べてリアル」というのは常套句だけれど、そこかしこにいわゆる「テレビまんが」的な部分がある。その両極端の要素がからみあっているからこそ、おかしのオマケから小説まで、さまざまなアプローチが可能だったのである。

マニアックな解説もイイが、「当時のガキ」の生態を活写したものとして最高なのは伊集院光チックな自虐性に満ちたエッセイマンガ「スウィート・メモリーズ」(ウエダハジメ)と、小説版ガンダムの2巻にエロいシーンがあるというので友達と本屋で毎日そこを立ち読みしたという「小説版『機動戦士ガンダム』と俺」(アミーゴ永野)。そういやオレらも学校に持ってきて朗読してたよ。セイラとアムロのHシーン。

ココはマンガの感想文を描くところなので、マンガについて書くと「宿命の出会い ガンダムまんが大行進」では「プラモ狂四郎」をはじめさまざまなガンダムマンガを解説(ここでも章の最初に「マンガだよ、マンガ! いっそのこと敵さんをここへお迎えしてパーティでも開きますか。ねぇー!」ってカイのセリフが書いてあるのは最高だった)。

また、ガンダム放映開始直前直後のファンジン等の様子を描いた「ガンダム・ブームへの道」(霜月たかなか)は、知っている人は知っていることなのだろうけれど、「COM休刊(73年)→花の24年組評価→マンガファンが少女マンガへ→マンガ評論同人サークル拡大→コミックマーケット開催(75年)」という流れが描かれていて興味深い。同時期には「宇宙戦艦ヤマト」(74年)、「スター・ウォーズ」(77年)、「未来少年コナン」と「未知との遭遇」(78年)、「機動戦士ガンダム」(79年)とアニメやSF映画の話題作が相次いで発表され、77年から79年の2年間でアニメ雑誌が次々と創刊される。
78年に「スターログ」、80年に「宇宙船」が創刊されていることとも合わせると、「戦後を前期と後期に分けるとすれば73年が境」という説が面白いように裏付けられることにもなる。73年から80年頃までは、あるはっきりした変化がサブカルチャーでは起こっていたのである(すなわち「オタク」の誕生)。
そして、百花繚乱の感があるマンガ、アニメ、SF映画とそれに対するファン活動の隆盛=コミケの拡大に合わせて、本来主流になるはずだった「アマチュアによるオリジナルまんが作品」はみごとに周辺に追いやられる。

話がガンダムからそれるが、「COM」というか「漫画家残酷物語」的なスタイルを失った「アマチュアマンガ」は、現在に至るまでオタク文化では「ないこと」になっているという、経済学における●●経済学や総合格闘技における○○のような自体になってしまっている。「創作同人誌はダメだ」とバッサリ斬り捨てる人もいるし、「裾野が広いからマンガ文化に幅がある」としながらも、アニパロ・エロパロ同人誌評やレビューはありえても、アマチュア創作マンガの具体的なシーンの変化やレビューなどはあまり見かけないことは事実。

それでもまだ80年代前半までは、同人誌(アニパロ等ではない旧来の意味での「同人」)から出版社が作品集を出したり、小学館が同人誌に賞を設けるなどしていたが、アニパロやエロパロの爆発的な隆盛から「アマチュアまんが」は「シーン」としてはまったくマスコミとは無縁の存在になってしまう。理由はいろいろあるだろうが、「スタージョンの法則」なんぞで片づけずに、ぜひその辺をだれかプロのライターに追ってもらいたいもんである。アマチュアマンガ同人の歴史はオタクにおける黒歴史なんだよね(あくまで「オタク」から見ればって話ね)。
むりやりガンダムに結びつけて言えば、オリジナルアマチュアまんがの「衰退」はアニメーションのような集団作業、及び企業主導の「作品」が、作家主義というか「作家主導だと解釈されうる作品」に代わって主流になっていくことと無関係ではない。
むろん本当に「衰退」したかどうかというややこしい問題もあるのだが、いや「衰退」の前に隆盛があったかという問題もあるのだが、それは次回の講釈で(次回っていつだ?)。

くそっ! ヘタうったなぁに補足あり)
(00.0512、滑川)



・「ゲノム2」 古賀亮一(2000、ビブロス)

カラフルBee連載。異世界からの留学生・エルフのエルエルとロボットのパクマン、生物研究所の所長コバヤシが、毎回昆虫の生態を解説する、というのが表面上の設定だが、実際は毎回まいかいエルエルにテーマとなった昆虫のコスプレをさせてパクマンがセクハラしたりバカ騒ぎしたりするというギャグマンガ、の第2弾。最近すっかり「カラフルBee」からご無沙汰していたのだが、しっかり連載が続いていたようで嬉しい。
ちなみにパクマンってのは、昔あった「パックマン」(ゲームにあらず)っていうロボット型貯金箱をパロったロボで、所長はめがねを取ると美少女、巨乳

個人的な話で申し訳ないが(ってこのHP自体個人的なもの以外のなんだっていうんだ)、ギャグと美少女はおれさまの中で切っても切れないモノであった。
「ギャグ」について話すとき、お笑い芸人やテレビのバラエティ、コメディ映画などの話になるがイマイチピンと来ないのは、美少女不在だからである。

マンガを見よ。藤子不二雄からはじまり、吾妻ひでお、高橋留美子、島本和彦、そして江口寿史のように美少女だけでも食える作家もいる。とり・みきも描く女の子がかわいい。あと思い浮かばないけど、美少女がまったく出ないと妙に単行本買うのが遅いのだ私は。スイマセン。
しかしここで「美少女とギャグ」なんてくだらないことを論じる気はない
これらはまったく別物、そりゃ深く考えれば何か出てくるかもしれないが、表面的にはクリームパンとチョコレートパンくらい違う。
いわば「美少女の出るギャグマンガ」は「二色パン」にたとえられよう。
アクション映画に美女が出るのは必然だが、ギャグには取り立てて必要はないのだから、それらは表面的には分離しているのである。
……って、ここまで書いた文章、腐ってますな。なんだかわからない。こむずかしいこと並べ立てやがっておれ。

しかしだ。こうした「二色パン的あり方」は、同じ作品をまったく別の角度から見るという現象の、もっとも原初的なパターンである。
一方の人間がゲラゲラ笑っているそばで、別の人間は美少女を見てオギオギしているかもしれないのだ。

……というわけで、あくまでも「受」でいやがりながらも昆虫のコスプレ(これが「ノミ」、「ナマコ」、「カイコ」、「シロアリ」などなんだがちゃんとかわいっぽくデザインされているところがニクイ)をするエルエルにセクハラするパクマンを、所長がどついたりするのが典型パターンとなる。
美少女成年コミック誌に連載されている以上、エルエルの比重は大きい。つまり、本来なら1エピソードにすぎないパクマンの中途半端なセクハラが毎回繰り返されることによって、読者は「今二色パンを食っているのだ」ということを突きつけられるのだ。これがかなりのセンまでHなことをするのだったらまだ「これはHなマンガである」と言い訳もできよう。
しかしあくまでもこれは「学習マンガを擬態としたギャグ作品」なのである。
読者にもはや言い訳はきかない。読者はギャグを楽しんでいるようでいて、実はエルエルに珍妙なコスプレをさせてイビイビするのが大好きな、まるでH小説に違う本のカバーをかけて楽しむがごとき隠微なヘンタイであることをみずからが認識させられるのである。
……書いてて「そおかあ!?」と思ったが、そうに決まった。
だからなんだ!? とも思ったが、ギャグマンガのセクシュアリティには目をそらされがちなので書いてみたのだよ。これでキミも立派な中途半端エッチマンだ!!

またアニメやマンガのセリフをつなぎ合わせたようなネームも秀逸(……って急に話飛ぶよな……)。「モテモテ王国」のファーザーを連想させるが、本作の方がわかりやすい。1巻より洗練されてきていて面白い。
(00.0511、滑川)



・「いけ! いけ! 清田」 newどおくまんプロ(2000、週刊アサヒ芸能)

「読捨巨珍軍」の選手、清田の活躍を描くプロ野球マンガ。実在の選手がモデル。
とにかくネーミングのテキトーっぷりがすさまじい。清原は清田、これはまあいいとして、長嶋は嶋長、王は玉、江藤は屁藤、松井(ゴジラ)は井松(モスラ)、高橋は低橋、カープはプーカ、中日ドラゴンズは日中ドラポンズ、星野仙一は星山百一、原は腹、元木は木元、木元のカミさんは大紙さん、上原は原上、桑田は田桑。

お話は、「第2戦 幻のマル秘打法の巻」では、さっぱり打てない清田が、嶋長監督から「金玉を股にはさみこんで練習すれば内股が締まって打てるようになる」と言われ猛特訓してホームランを打つが衝撃でタマが潰れてしまうという話。
「第5戦 イメージ大作戦の巻」は、「V旅行はデズレーランド、とイメージしろ」というイメージトレーニングで連勝するドラポンズのマネをして、嶋長監督がイメージしろといったのがアフリカ旅行で、当惑した選手たちが全員マイナス思考におちいってますます連敗が重なる、というもの。清田は原住民に捕らえられてゆでられることに恐怖し……(書いてて気づいたけど、この話サベツネタでちょっとマズいのでは。いや、その、「ジャングル黒べえ」的に。しかしあまりのバカバカしさはソレを超越している)。

そのお話のいい意味でのバカバカしさは感動的、野球をよく知らないから野球ネタ4コマのわからない私も、これはなんだか笑える。
掲載誌「アサヒ芸能」の巨人や清原関連の記事と合わせて読むとますます味わい深いという仕組み。
清原の婚約者が元セブンティーンクラブだとか、そういうことも含めて。
(00.0505、滑川)



・「別冊畸人研究 特集『SF』」 (1999、畸人研究学会)

毎回、巷に生きる変わった主張のある人々、すなわち畸人に取材しレポートするミニコミ誌の別冊。ふだんはマンガとは関係がないが、今回はSF特集であり、中の記事に「大脳中心主義マンガの歴史と未来」というのが入っていた。これはなかなかに興味深い。

「大脳中心主義マンガ」とは、「大脳があれば人間なんだ」とラジカルに? 主張するマンガのことらしい。「大脳中心主義」的作品は、「キカイダー」におけるハカイダー、「プリンプリン物語」のルチ将軍、キャプテン・フューチャーのサイモン教授、「銀河鉄道999」の「機械の身体」、大脳改造を行う「アキラ」と「風の谷のナウシカ」、サイバーパンク、「攻殻機動隊」、「銃夢」、と続いていく。
本稿で、「大脳中心主義」とは西洋的自我中心主義と呼応しており、「記憶」と「合理的思考」は文明発達において不可欠であり、人間の究極の機能はそれである、という考え方であるとする。

本稿では作品として「大脳中心主義」に対応する「人間とは全体である」と主張する作品がどのようなものか挙げられていないので、読み違えになったらすいません。しかしおそらく「人間とは全体である」という考えを掲げている作品があるとすれば、ありがちではあるが、小説「魍魎の匣」(京極夏彦)がある。脳を部品として取り扱った人間の悲劇が描かれている。
あるいは脳の外的な改造ではなく精神の改造(脳の「ソフト面」の変革)ということにまで話を広げてみれば、精神←→身体、とフィードバックさせることで無意識的に「人間の全体性」を主張するのが、数多のスポーツマンガや格闘技マンガということになるだろう。
だが「無意識」であるというのはコンセプトが甘いということでもあるわけで、「大脳へのウエート」に無頓着な作品は、脳の外的な改造をタブー視し精神変革で肉体自体が大幅に改善できる、あるいは世界自体を改変できるというカン違いを起こしてしまう。これは脳をチップとして考える「大脳中心主義」が同時に肉体を限界性のある道具として考えることとは逆で、肉体へのオーバーワークをひたすらに是としたり、社会そのものに過剰な負荷をかけるという暴挙に至る(マンガ内では、凶悪な敵がそういう思想の持ち主だったりすることも多い)。

その意味で、脳を「アイテム」として考える「大脳中心主義」は精神←→肉体、脳←→肉体という自明とされた関係に疑問を投げかけることはできるだろう。
しかし、「脳」と「身体」に二元的に分けることも非常にムリがあるように個人的にはしていて、肉体とのバランスが描かれていないと、なんだかピンと来ないのである。うむむ。何か言いたいことがうまく言えませんね。

サイバーパンクもちょっとピンと来なかった覚えがあるが、脳をチップとして考えても部品たる肉体との関係性をうまく描くというのはむずかしい。そもそもそういうものは現実化していないのだから。
ミもフタもないが、「ガンダム」でアムロの動きにガンダムがついていけなくなったため、電気を流して動きをよくするようなシーンがあったと記憶しているが実際はそんなものかもしれない。

で、唐突だが「大脳中心主義」と「身体性」のバランスをとったのが映画「マトリックス」ではないかと思う。ここでは無自覚な「気力でなんとかなる」みたいな主張は却下され、「気力でなんとかなるのは気力が通じる世界だけ」というルールのもとに話が展開されている。ヴァーチャル世界を作品化したものは多いと思うが、「脳」と「身体」をバランスよく描いているのが全体的にスッキリした印象を与える原因だろう。
そこに東洋神秘主義みたいなものが取り入れられているのは、バランスのためのエッセンスとして当然と言える。

……話題を特化したはいいが、わたし話それっぱなし。スイマセン。とにかく、本書「特集『SF』」は、ディック特集や永瀬唯のインタビューなどとともに、科学的なことを主張する畸人のレポートも合わせて掲載されており、やっぱりやるヒトがやると違うんだなァ、という編集のバランス感覚と文章の面白さがある。買うべし。
(00.0504、滑川)



・「剃毛看護婦」 荒井海鑑(2000、松文館)

エロギャグを得意とする荒井海鑑の新刊。といっても、中身は97年に出た単行本「歌おう愛の歌を 奏でよう愛のメロディー」とほとんど同じなんだが……。

収録作:
・「歌おう愛の歌を 奏でよう愛のメロディー」
・「華麗凌辱」
・「BYE BYE C−BOY」
・「お○んこナース」
・「同級生は宇宙人?」
・「XXXファンタジー」
・「XXXファンタジー2」
・「XXXファンタジー3」
・「走れメロスマン2号」
・「赤い靴」

最後の「赤い靴」のみが、「歌おう……」未収録のようだ。綾波レイみたいな無口でおとなしくてHな? 女の子が男の子と教室でセックスする話。いつものエロギャグとはちょっと違う、しんみりしたテイストの短編。
(00.0501、滑川)



・「斬鬼(ざんき)」 オール読切時代劇(2000、少年画報社)

小池一夫原作・神田たけ志作画の傑作時代劇画・御用牙を100ページ再録した「ヤングキングSPECIAL増刊号」。
他に、かわぐちかいじ、大島やすいち、上村一夫、篠原とおる、木村栄治、望月三起也、甲良幹二郎、ケン月影、緑川ヒロユキの作品が掲載されている。どれが再録でどれが新作かはわかるようなわからないような(かわぐちかいじと大島やすいちは多分新作、上村一夫作品は再録と明記、絵柄的には木村栄治もそうか?)。

「御用牙」とは、70年代に長期連載された時代劇画で、あらゆる権力機構にコネクションを持ち、拷問術とセックスの達人にして空手のような打撃系格闘技を使う同心「かみそり半蔵」が江戸の町で事件を解決していくというもの。読み出したらやめられない魅力を持つ。
「かみそり半蔵」のキャラクターは、おそらく小池一夫が江戸時代の警察機構を調べていくうち、その縄張りに縛られた不自由さを知り、それを逆手にとって自由闊達に悪を退治するにはどうしたらよいかを考えて創造されたと思われる。つまり本作には横紙破りな人物を江戸の町に置くことによって、周囲がどう動いていくかをシミュレーションする面白さがあるが、悪い意味のゲーム的な感じはほとんどしない。なんというか要するに「キャラが立ってる」ということなんだろう。
飛躍した設定も、うまく世界観にマッチしていておかしくない。

この雑誌が売れれば、「御用牙」が再販されるのだろうか。だとしたら嬉しい。

望月三起也「丹下以前」は、「丹下左膳」がヒーローとなる前の出来事を描くという番外編的な内容。私はオリジナルの「丹下左膳」を知らないんだけれど、望月三起也節全開で楽しめる。「道場での剣法はからきしダメだが、斬り合いになると強さを発揮する」丹下左膳のカッコよさ。偽悪的な人物を描くと天下一品ですねやっぱり。
(00.0501、滑川)



・「女子アナ 今井良子の世界」 柳沢きみお(2000、別冊アサヒ芸能、徳間書店)

柳沢みきおは私にとってフシギなマンガ家だ……。現在、初老を迎えつつある男の独白、なんかを描くとうまいなあ、と思うが、それとは別に、こういうのも描いている。

内容は、新人アナ・今井良子の日常を描く、という非常にシンプルなもの。
ニュースキャスターを目指すが「女子アナは30歳までが華」というおおかたの意見にくじけそうになっている。兄の友人に身体を許そうとするが、コイツは他に女がいて、理解を示してくれそうだったアナウンス部長も単なるスケベオヤジ。この部長に食われそうになるところ寸前で自分をいじめぬいてきたお局さまに助けられるという、一貫したストーリーがあるようでないような読み切りである(新連載第1回ならわかるが、読み切りなのだ……)。
登場人物全員顔見せ程度しか出てこないし、女子アナの世界を詳細に取材したような、内幕モノの面白さもない。主人公・今井良子のスリーサイズが明記されているのも意図不明である(もちろん入浴シーンなどのサービスカットは出てくる)。

だがつまらないかというと、面白いんである!! でもこれはいわゆる面白さとは違うような気もするが……。もともと奇妙な作劇法のヒト(うまく言えない)だと思うが、何か実にホンワカしたような気持ちになる。「別冊アサ芸」という雑誌の性質を考えれば、最適作品と言えるだろう。

なお主人公・今井良子は、木佐アナか、大橋マキアナウンサーをモデルにしていると思われるが、どうでしょうか。良子が「巨乳」という設定は、「女子アナが巨乳だったらなあ」という実にストレートな願望の体現で、私はこれを支持するものである。
(00.0501、滑川)

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