つれづれなるマンガ感想文11月前半

「つれづれなるマンガ感想文1999」もくじに戻る
「つれづれなるマンガ感想文」10月後半
「つれづれなるマンガ感想文」11月後半
一気に下まで行きたい



・「僕を幻惑した少女達」あびゅうきょ(1998、あびゅうきょ)
・「くまちゃん国家社会主義」あびゅうきょ(1999、あびゅうきょ)
・「飢狼伝」(6) 板垣恵介(1999、講談社)
・「グラップラー刃牙 外伝」板垣恵介(1999、秋田書店)
・「OS99」(1999、expo)
・「タイムパトロールユカちゃん(前編)」木持隆司(1999、木持アート出版)
・「隣星1.3パーセク」粟岳高弘(1999、あわたけ)
・「学園SM研究部」荒井海鑑(1999、松文館)
・「戦争論」(1998、幻冬舎)と「最前線」(1)(1968、少年画報社)と「墨攻」(全11巻)(1992〜96、小学館)
・「いけない関係」 阿宮美亜(1986、一水社)
・「BOYS AND GIRLS」、「INFINITY」(枩埜めぐみ)(1999、枩埜めぐみ個人サークルMystery Clock)



【同人誌】

・「僕を幻惑した少女達」あびゅうきょ(1998、あびゅうきょ)

「自分のお気に入りのアニメ・マンガの美少女キャラクターについてのイラスト&エッセイ集」。
とにかく、二次元美少女への思い入れがハンパじゃない。読んでいて過去の自分のいろんな妄想を思い出し「ぐああ」となってしまった。
登場するのは赤毛のアン、ラナ、ヒルダなど。「青い空を白い雲がかけてった」の「ヨシベエ」についてのコメントには、こうある。

「結局は、選び抜かれた優秀な男女の恋物語なのさ。ヨシベエのような女の子が僕にとって次元の違う存在であることを思い知らされるのは、本当の恋に破れた後だった。
彼女は優秀なのであり、所詮、男性として劣位にある者には、縁の無い存在なのだ。」

他にも「どうせ優秀な男女がくっつく」的な呪詛がコメントに溢れており、また「コナンとラナ」や「ホルスの大冒険の結婚式のシーン」を理想とする、言うなれば「旧来の男女の理想型」に固執する。そして最終的にはすべてを取り込んでしまう感のある「綾波レイ」に帰結してしまうところはちょっと笑えない。鬼気迫るモノがある。

ヤボを承知で言えば私はこの作者と完全に考えを同じくする者ではないが、こうした「オタクの暗黒面」的な部分はどこかで言語化されなければならないと思っているし、またソレを作品として昇華してしまう力量はたいしたものだと思う。
(99.1113、滑川)



【同人誌】

・「くまちゃん国家社会主義」あびゅうきょ(1999、あびゅうきょ)

美少女イラストに詩のようなコメントが付いた本。
とにかくコメントがすごい。

僕は黄色いサルのロンリー・ボーイ/人間扱いされない日本男子。/生きてる意味さえ何もなし。/絶望、絶望、ああ絶望。/誰が僕らをこんなにしたの?/僕から希望を奪った奴が、/きっとこの世界のどこかにいるはずなんだ。/僕らの花嫁を奪い去り、/我が民族を滅ぼそうとする奴等。/こうなったらフィギュアと一緒に心中さ。/ワンフェスで買った限定100個の/ルリルリ抱いて/JR中央線に飛びこもう。/それが唯一の幸せへの道。/辛くて涙も出やしない。

美少女への思いとそれを手に入れられない絶望とが書き連ねられていて、迫力を感じる。うーん、ここまでストレートに、こういうことを書くことは、私にはできんなあ。自分がチキンにすら感じますよ。

「あびゅうきょ」氏の単行本も、同人誌もたびたび買っているが、絵が常に変化し続けていてとどまることがない。私より10歳くらい上だと思いますが、変化し続けているから絵が古びない。いつまでも「現在」であり続けている。
今回描かれる女の子は、どっしりとした量感を持ちつつはかなげな感じがするところはまさ〜に二次コンの理想だと思うがでどうでしょうか。「ペンとうす墨で描いた原稿をスキャナーで取りこんでアミ点処理をした」ということで、暖かみのある絵になっている。
(99.1113、滑川)



・「飢狼伝」(6) 板垣恵介(1999、講談社)

レスラーに挑んだ空手家・丹波文七が関節技をも学び、格闘技界をかき回していくことでさまざまな人間が動き出していく。そうした動きとともに、個人戦の面白さをも当然描いた夢枕獏の小説のコミカライズ……のはずだったが、小説版発表当時の時代のズレを充分に考慮し大胆に改変。「板垣恵介の飢狼伝の解釈」という意味をも持つ本作は、「エキサイティングなコミカライズ(原作との比較の面白さを含んだ作品)」としても見逃せない側面を持つ。
今回、第6巻に入ってグレート巽(あきらかにアントニオ猪木がモデル)が、アメリカの地下フリーファイトにおいて「リングで人を殺した」過去が描かれる。
原作では「1回だけそれに参加し、対戦相手を殺し、巨万の富を得た」ことになっているが、マンガ版では異常なほどねちっこく描かれる。松尾象山(大山倍達がモデル)の過去以上に。とにかくグレート巽は何人もの相手とフリーファイトを行う。
そしてついに原作にもない濃すぎるキャラクター・「泣き虫サクラ」の登場。
15歳で視力を失って以来、涙を流すこともなくなった初老の男。
視力以外のあらゆる感覚をつかって、常人以上にものごとを把握する男……。
この男との戦いが始まるところまでが6巻。原作からどんどん離れていっているが、面白いことには間違いない。どうなる。
(99.1112、滑川)



・「グラップラー刃牙 外伝」板垣恵介(1999、秋田書店)

アントニオ猪木がモデルの猪狩と、ジャイアント馬場がモデルの斗羽が、「夢の対決」を行う。
本編での「地下闘技場トーナメント」が終わった流れで両者が「やろう」という気持ちになるところや、観客がだんだんと集まってくるところなどは自然で、しかも面白い。
こういう「だれかとだれかが戦う」シチュエーションは非常にむずかしいとは思うが、本作はウマイと思う。「猪狩VS斗羽(猪木VS馬場)」の決着も、馬場が逝ってしまった現在だからこそ描ける。泣けてくる。

対するに「バキ」で死刑囚が集まってくるシチュエーションはあまりに不自然(だって理由が「シンクロニシティ」だもんなぁ……)。
まぁ「裏のプロモーターが集めてきた」なんて展開は陳腐すぎてイヤだったんだろうが……。
考えさせられる。
(99.1112、滑川)



【同人誌】

・「OS99」(1999、expo)

1年半前に解散した創作マンガ同人サークルが、この本において復活。
ギャグありほのぼのあり、ラブストーリー(……とそうはっきりカテゴライズできるものではないとは思うが)ありと、バラエティに富んでいるし、こんなこと言うの口幅ったいんですけどメンバー全員の作品レベルも高い。

滑川がコミティアに参加し始めた5年くらい前、「expo」はすでに同即売会で一定の評価を得ていたと記憶している。
オリジナルマンガ好きの(同人誌は現在、マンガに「オリジナル」とか「創作」とか付けなければ判別がつきにくいほど良くも悪くも「アニパロ」の勢力が強い)メンバーが集まって、定期的に同人誌を出す。そしてそれが一定の訴求力を持つ。

コレは個人的に滑川が理想としつつ挫折してきた発表形態で、同サークルは憧れのひとつでした。現在でもそう。
滑川がコミティアに参加しはじめて5、6年が経ち、その間苦闘してきたつもりなんだけど、未だにexpo的なモノには追いつけない。一生追いつけないだろうと思う。
またココのサークルが解散? してからすでに1年半が経過しようとしている。
その間にも、さらに滑川の心境は変化しつつある。

まぁマンガレビューをダシにして私が現在の心境なんか語ったってどうしようもないのだけれど、そういうある種の感慨にふけったことは事実。
現在も答えの簡単に出そうにない状況の中、苦闘してますよ私はホントに。タハ。
(99.1111、滑川)



【同人誌】

・「タイムパトロールユカちゃん(前編)」木持隆司(1999、木持アート出版)

古代ギリシャとアマゾネスと未来世界を合体させたような一種の理想社会を営む「マリン星」。そこには宇宙パトロールがあり、それに所属しているのがユカちゃんである。
宇宙パトロールはマリン星出身の稀代の悪女、リサリンが地球のあらゆる時代で歴史上の美女となって権力者や指導者を操っていることを知る。
そして、リサリンの
「コロンブスの愛人となってアメリカ大陸を独り占めする」
……という野望をうち砕くため、タイムパトロール隊はタイムマシンで出動するのであった。

本作は、ムリヤリカテゴライズしようとするならば、
「ムキムキに近い豊満な肉体を持つ美女が、肉弾戦を繰り広げる」というジャンルである。
前回のコミティアでは導入部分だけでまとめていたが、今回は70ページ以上描き足して「前編」としてまとめられている(「後編」は95ページあるそうだ)。

「コロンブスの愛人になってもアメリカは征服できないと思うが……」という素朴な疑問は今回も解消されていないが、とにかく、
下着姿で15世紀のヨーロッパをウロウロするリサリン、コロンブスに「引き返して」と説得するタイムパトロール隊(歴史変わっちゃうぞ!?)、「人間はなぜ争うのか」等について主人公たちがフキダシからはみ出るほどの長ゼリフで話し合ったりなど、見どころ満載であった。

以前「ぶっとびマンガ」の章でも書いたと思うが、本作はコミティアで一般的に「名作」とされる基準からは大きく逸脱している。こうした作品を持ち上げることをスノッブであるとか、本来のマンガの進化から目をそらしている、という批判があるかもしれないが、私はそういう見解は取らない。

いわゆる「名作」とか「佳作」がおきざりにしていったものを、本作は確実に持っていると信じて疑わない。
(99.1111、滑川)



【同人誌】

・「隣星1.3パーセク」粟岳高弘(1999、あわたけ)

カラフル萬福星(ビブロス)連載。
「ロガロエンテ」という両生類形態? の宇宙人と共存する多元宇宙?の日本の地方都市?、浜岡県路奇島市に住む少女・留利子。彼女はロガロエンテ人の営巣地でバイトすることになる。一方、「鼻頭」と呼ばれる異星人? も地球に居留しており、ソレとのゴタゴタが描かれつつ、留利子の住む世界そのもののありようが次第に明らかになってゆく。

「カラフル萬福星」は基本的にはHマンガ誌。コレに連載されたということで、毎回留利子のハダカが入る。濡れ場は「ロガロエンテは人間の女性の乳にのみ執着を示す(やたらと乳をもみたがる)」という設定で処理されている。あらすじ説明にやたらと「?」を付けたのは、展開でわざと説明不足にしている部分があるのではっきりとそう言いきれないからだが、難解でオモシロクナイとかそういうことはない。田舎町が舞台になりつつハードなSF的展開になること、必ず美少女が登場すること、独特な異星人の造形などで作品世界が確立されている。
個人的にはキモチ説明してほしかった気もするが、この辺のさじかげんはむずかしいところだとは思う。

こういうある意味ストイックなタイプの作品(ナゼかサービスシーン満載なのだけどそういう印象を受ける。悪い印象ではない)、最近では商業誌であまり見ることがないので(私が知らないだけかもしれないが)、今後も描いていってほしいと思います。
(99.1111、滑川)



・「学園SM研究部」荒井海鑑(1999、松文館)

「脱力系ギャグHマンガ家」(いま勝手に命名)、荒井海鑑の短編集。
小学校の女教師・八木沢利奈と教え子のSMプレイを描いた「聖獣教室」が連作としてメイン。まぁ利奈センセイと少年たちがあんなことやこんなことをするという展開なのだが、たとえば「『バカモン』が始まる時間だ」と急に子供たちがアニメを見始めてしまうとか、脱力オチがついたりする(「バカモン」とはバカモンスターの略だ。このネーミングも2秒で考えたようでステキだ)。

また同書収録の「キン玉マン」町野変丸のパロディ。欄外に「町野さんのマンガの作風を少し取り入れてます」って書いてあるんだけど「取り入れてます」って……(笑)。なんかサブカル周りで町野変丸ばかり取り上げられるので、「ギャグなら他に荒井海鑑がいるじゃないか!」と思っていた私は「キン玉マン」の屈託のなさに「やられたー」と思いました。荒井海鑑、そのスタンスなんだかスゲエよ。

同書収録の「ルパン三千世」はむろん「ルパン三世」のパロなのだが、ラストのコマの「アライカイカン▽」(▽はハートマークの代用)というサインがモンキー・パンチのマネだったことに最高に笑った。(99.1109、滑川)



・「新ゴーマニズム宣言 戦争論」 小林よしのり(ナナメ読み)(1998、幻冬舎)と「最前線」(1) 望月三起也(1968、少年画報社)と「墨攻」全11巻(1992〜96、小学館)

「戦争論」については賛否両論、さまざまな議論があって、購入はしたもののその後の評判を聞いたら読む気が失せてしまった。読んだらなんらかの感想を求められたとき、それこそ「戦争肯定か、反対か」のようなシビアな選択をせまられるような気がしたからだ。

むろん、そこまで読者を「追い込む」ことが「戦争論」のテクニックではあるのだが、ここでは置く。
ナナメ読みである。だが「新ゴー宣」関連の場合、ナナメ読みの方がガサッとテーマを掴みやすい。「戦争論」に対する多くの知識人の反応は、「戦争論」のディティールや主張している「論」に固執している感がある。

便乗本の引用問題についても、朝日新聞の見出しに「漫画と活字 壁崩す一歩」とあったのは、おそらく「新ゴーマニズム宣言」が「他のマンガと違った」社会評論的なものだと解釈され、その内容的な議論と著作権問題とがゴッチャに論じられていることにひきずられたものだろうが、それは「新ゴー宣」という作品の特殊事情にすぎない。著作権云々とはあまり関係ないことなのだ。
つまり「新ゴー宣」というマンガの性質を、モロに表している見出しと言える。

全編ザッと読んだかぎり、本作は「戦争論」というより「戦争物語」という方が正しいだろう。
作中でも、「大きな物語がないためにみな自由であることにすら苦しんでいる。今、我々は突然ここにいるのではない。祖先がいるから我々がいる。だから祖先のやってきた戦争を『物語』として位置づける(ものすごく大雑把な要約)」と言っている。

ここで重要なのは、この「物語」に使用された「史実」なのだが、私は戦史マニアではないので本書に載っているさまざまなエピソードが史実かどうかは、まったくわからない。ただ、本作中の「史実」について議論があることは明記しておきたい。

さて、「戦争論」をめぐって起こる議論のよじれは、ガサッと受け取った「物語の有効性」と土台の「史実」確認とのズレ、が多いように思う。私がナナメ読みして得た本作のもっとも雑駁なテーマは「束縛のない自由などありはしない」ということだ。
だがそれだけでは論争など起きない。その「束縛」が「国」であり「公」という概念であり、「戦争」であるからこそ、イロイロと議論が起こったのだ。

私は「束縛のない自由などありはしない」こと、他にも作中にあった「関係性の中で人は人になる」といった主張には同意するが、本作において大東亜戦争を「物語化」する過程には、納得しがたいものがあると言わざるをえない(大東亜戦争を「物語化」すべきという主張には三分の理はあると思うが)。

小林よしのりのうまさ、それは「問題設定を独自のやり方で行う」ところにある。作中冒頭で、「戦後一貫して日本人はマッカーサーの行った『ウォー・ギルト・インフォメーションプログラム』という日本人に戦争の罪悪感を植え付ける洗脳計画を実行され」、その後も進歩的知識人たちによって「自分たちは悪かった」と洗脳され続けてきた、とある。これが大前提。

だが本当にそうだろうか? 
「ウォー・ギルト・インフォメーションプログラム」に関しては別の本でも目にしたことがあり、それが本当かどうかは別にしても戦後すぐの日本国民が「アメリカは素晴らしい」と思っていたことは間違いない。
それは統制のとれた政策以前に、「アメリカ文化」の凄さに魅了された部分が大きかったと思う。
だが「その後も進歩的知識人云々」は甚だ疑問が残る。作中の「残存左翼」→「うす甘い市民グループ」→「うす甘い戦後民主主義の国民」という図式も、疑問だ。これはやや飛躍がすぎ、すでに陰謀論の領域ではないだろうか?

なぜなら、67年生まれの私がそのような教育を受けた記憶がないからだ。

また、「祖父たちが罪人扱いされている」、これも個人的には疑問だ。
私の亡父は戦争に行ったが、罪人扱いなどだれもしなかった。戦争に行った人たちは性格も事情も千差万別。まぁケース・バイ・ケースというところだろう。

とにかくこれが大前提となって、「日本人が大東亜戦争を見直すため」、戦争の「物語化」をどんどん進めていく。これが最初の「ツカミ」である。

おそらく戦争教育をほとんど受けてこなかった若者(そう、「洗脳」も何も、「戦争について知らされてこなかったのが大多数の若者だろうから)は、ここでツカマレてしまうに違いない。

さらに私の疑問は続く。「それほどまでに日本人は『洗脳されっ子』(注:作中に出てくる造語)」だったのだろうか? だがやっぱり読んでみるもんだ。作者は、自分でこのことに言及しているのである。

P73「まだ少年漫画誌に『ゼロ戦はやと』や『ゼロ戦レッド』、『紫電改のタカ』が連載され……グラビアで戦艦大和の図解やカミカゼ特攻隊の絵物語が載っていた頃だった」
洗脳されてないじゃん!!

さらに、
P193「まだ20年くらい前までは『空襲や原爆で日本はひどい目にあった』と被害者の側面を語る大人はいたのだが」
やっぱり洗脳されてないじゃん!!

P207「泣きごとと悲惨な話だけではないだろう」「ほんとうは『痛快な話』があるはずだ」「誇らしい日本軍の快進撃があるはずだ」

あるよ。……ということで、日本軍ではないんだけど

・「最前線」(1)望月三起也(1968、少年画報社)
本作は、ミッキー熊本をリーダーとしたハワイ出身の二世たち……「二世部隊」を主人公としたマンガである。
クニのためというより、収容所に入れられた母親を出してもらうため、同国人として認めてもらうために戦う若者の姿に、戦後民主主義的個人主義が入っているのかどうかは知らないが(ホントは重要なんだけど)、痛快な戦争マンガであることには間違いがない。

そしてまた、「戦記モノ」マンガ家として望月三起也は一時活躍していたのだし、前述の「ゼロ戦などの戦闘機マンガ」や時代がずっと最近になっても松本零士などがおり、戦争(それも戦争の高揚感)を大きなテーマにしたマンガは決して少なくはない。

「戦争論」には、実際の軍隊経験者に「誇らしい日本軍の話」を取材して、いかにも「新しく、ナマの声を拾ってきた」かたちにして訴求力を高めているが、コレがテクニックなのであって、実は「戦争についての肯定的な言説」は、ほんの少し前までそこらじゅうにあったのだ。それをあえて「ないもの」としてリニューアルして見せるところがテなのである。

第一、「機動戦士ガンダム」は……!? ムリヤリ軍隊に組み込まれてしまう民間人を描いたこのアニメは、そこらじゅうに戦争の「イヤな感じ」を漂わせながらも、たとえばもっとも有名なジェットストリーム・アタックの「おれを踏み台に……!?」のシーンで血わき肉踊らなかった視聴者はいないのではないか。泣き言と悲惨。ひるがえって「高揚」とか「痛快」というものを、ガンダムは描いていた。

「テ」だの「テクニック」だのと描いたのは、これこそがよくも悪くも「戦争論」の骨子だからである。多くの知識人の反論は、データの事実誤認などの詳細に調べなければわからない部分だったり(でも重要)、小林よしりんのイデオロギーに対する批判だったりするわけだが(それも重要)、それだけではなく、むしろ「戦争論」というマンガの、「料理の仕方」にこそ目を向けるべきだ(もうだれか向けているかもしれないけど)。

同じ愛国的、軍国的だというなら、旧日本軍の様式をデザインや用語などに組み入れた「魁! 男塾」「覚悟のススメ」だって批判の対象になったっていいはずである。もちろんその他の戦争をテーマにしたものすべて。だが「戦争論」だけが「語りたい」欲求を識者や読者に呼び起こさせたという点、この点について考えておかないと、「戦争論」については語れないと思う。

そして「戦争論」のみが「語る」という意味で大きな反響を呼び起こしたのは、取り上げたテーマが「大東亜戦争」であり、「我々の祖父」であり、「我々が戦争に行くか、否か」という個別のところにまで突き詰めた点はひとつ、あるだろう。

さて、
・「墨攻」全11巻、森秀樹、酒見賢一(1992〜96、小学館)
は、「城を守る」というところにのみ焦点を絞った、中国を舞台にした戦乱のドラマだが、これを読んで「この物語の状況で、一般人が戦争に参加すること」に強烈な否定意識を持つ人間は、あまりいないのじゃないかと思う。
単純に「かかる火の粉ははらわにゃならぬ」からみな戦う。前述の「ガンダム」も映画「七人の侍」も同じである。

ここでたやすくシンクロできてしまう「戦争」が、いざごく最近の固有名詞を入れてしまうと(「戦争論」)、とたんに読者に激しい葛藤を呼び起こす。
「自分が戦争に行くこと」と、「ドラマを読んで『この場合は仕方ないだろう』と思う」ことの距離、「戦争論」が「売れた」としたら、その「距離」に作者(小林よしりん)が意識的だったということに理由のひとつがあるのだろう。
この距離は、案外遠いしあまり正視したくないものだから。
(99.1107、滑川)



・「いけない関係」 阿宮美亜(1986、一水社)

成年コミック。ギャグというか確信的アホらしさを特徴とする阿宮美亜としては、珍しくギャグが少なめの短編集。けっこうマジな展開が多い。
(99.1105、滑川)



【同人誌】

・「BOYS AND GIRLS」、「INFINITY」(枩埜めぐみ)(1999、枩埜めぐみ個人サークルMystery Clock)

「爆走兄弟レッツ&ゴー!! MAX」の大神マリナ本
「BOYS AND GIRLS」は軽くエッチな感じ、「INFINITY」は「成人向」と明記してある。

「大神マリナ」は、「レッツ&ゴー」に出てきた悪のミニ四駆研究者・大神博士の娘で、アニメのみのキャラクター。なんだかわかんないけど(おい)、いろんなモノに復讐を誓っている。火の噴き出るミニ四駆・ファイヤースティンガーを駆る。

「BOYS AND GIRLS」は、マリナとミニ四駆勝負で負けた一文字豪樹(主人公)が「約束どおり勃起しているところを見せてくれ」と、マリナともう一人の女の子(名前忘れた(笑))に頼まれるというたいへんに呑気なマンガ(タイトル:勝利の確認)が気に入った。
あとは成年向のものも含め、マリナがあんなコトやこんなコトをされてしまうご想像どおりの展開。

ところでコロコロ・ボンボン系のマンガの、それより少し上の読者年齢を想定してある少年マンガとの最大の相違点はといえば、「かわいい女の子が出ることが必須条件ではない」というところ。だからかどうか、大神マリナもアニメのみのキャラクターとなっていて、アニメをテキトーに見ていた私にとって設定がいまだにくわしくわからない(ビデオ出てるんだろうから見直せばいいんだけど)。

しかしいろんなものに復讐を誓いつつ父を思い、一見気が強そうだが実はかなりの孤独感を抱いているいまどき珍しい薄幸のヒロインであった。
かっこうはヘソ出しTシャツにふともものところでちょんぎったGパンと、アニメ「ポケモン」のカスミに酷似しているが、現実世界で冬に突入したときも服装をころころ替えるのがマズいと思われたのか、寒そうなそんままのコスチュームの上にパーカーをはおっていたのがかわいかった。どうでもいいですね。

はっきり言って、アニメ版はマリナ以外見るとこほとんどなかった。
(99.1104、滑川)

「つれづれなるマンガ感想文1999」もくじに戻る
「つれづれなるマンガ感想文」10月後半
「つれづれなるマンガ感想文」11月後半
ここがいちばん下です
トップに戻る