ある意味、逆に、
・・・カンだけど。(BYとんねるず←何故?)

一気に下まで行きたい

1999年

2000年1月9日(日)

なんとさらなるどんでん返し! 年を越してからもまだここに続きを書こうって寸法だ。
11月30日のポエムをまた改訂。なんか気にくわなかったから。おれって芸術家肌だから。

12月7日(火)

さあ、すでに11月が終わっているのにここを見ている人はいるのかな?
下のポエム、アップしてから描き直したりしてみたんだけど、芸術家(モデル的には「天才バカボン」に出てきそうな自称芸術家)の私としてはあまりにもデキが気にくわない。消したいんだけど、一度アップしたものはよほどじゃないけど消さない主義なので、そのまま。
しかし11月の日記に12月になってからもつけくわえるという、驚天動地の大トリックであった(他人事)。

ちなみに、ヤボを承知で元ネタを言えば(わ、なんかごたいそうなモノ書いてそうでカッコいい(笑))、
「チョコレートの好きな人は情熱家……コーヒーは詩人……」は、昔、まるいクッキーの中にチョコレートかコーヒークリームが入っているお菓子が森永だかロッテだかから発売されており、それのしゃれたCM(きれいな女の人が「さあこれから優雅なお茶にしましょうか〜的なCM)の中で、このセリフを言っていたという次第。
「激しい雨がオレを襲う 激しいビートがオレに叫ぶ……」は、「激しい雨が」という歌ですよね確か。「アメリカ〜ンドリィ〜ムそいつは〜ものがた〜り〜 ガキの頃 描いた〜 永遠の 夢は〜 オイルの臭いと一緒に いっちまった……」という内容。 そういう庶民のささやかな夢が瓦解していく過程は、実にしみじみするものがあります今日この頃Day。

11月30日(月)

雨が降ろうが槍が降ろうが 朝から晩までおみこしかついで・降ろして・かついで・降ろして
(セリフ)
「チョコレートの好きな人は情熱家……コーヒーは詩人……」

激しい雨がオレを襲う 激しいビートがオレに叫ぶ

(セリフ)
「もしかしてこれは酸性雨?」
「この経験を利殖に活かせ!」
「家に帰って冷蔵庫の前で正座!」

「死のうと思っても死ねないので 考えるのをやめた」

(by ジョジョの奇妙な冒険)

11月29日(日)

エンクミ続報。
「ベルファーレでゲリラライブ」だそうだ。これは本当。
がんばれエンクミ!!

新宿の紀伊国屋へ行ったら、地下のトイレのところで「肩が触れたの触れないの」で口論していた。
「肩が触れたのにあやまらない」とスゴんでいたのが、チーマーとかヤーさん風ならまだ納得が行くのだが、推定身長160センチ以下の、小太りの青年。服装はオタク風か。声は白木みのる。年齢は不詳。
つまり、全体的に「恐い白木みのる」風だった。
こういうのは「どんな人物か」判別が不可能なだけに恐いもんだ。
……っていうより何より、最近「肩が触れたの触れないの」「ぶつかったのぶつからないの」で口論になるケースをよく見かける。
それだけのことで「世の中がすさんできた」なんて言うつもりは毛頭ないが、みんな仲良くしようよ。人類みな兄弟どころか、人類みなウルトラ兄弟。
それが真実。

某アイドル雑誌を買う。
いつも思うんだけど、自分とこの雑誌に縁のなさそうなアイドルを、記事の中であしざまに言うのはやめて欲しいな〜。
でも、ものすごく態度の悪いアイドルもいると思うから、常にそうやってホメ言葉ばかりでなくしておいて、イヤなヤツへの本当の意味での皮肉も混じっているのかもしれん。
なんて寛容になっちまったんだオレ様。もうすぐ今年も終わるというのに……。

プロバイダかなんかのCMで、レンタルビデオ屋の店員が(頼まれてもいなさそうなのに)ペラペラと客に映画蘊蓄を傾けるのがある。
あれ、サイテーじゃない?
もしくは、嫌悪感をもよおさせることが狙いなのか。
「映画に失礼だ」じゃねーよ、オマエが失礼だっての。
よほど親しくなっているならともかく、逆にもっとも客にしてはいけない行為ではないのか。
私だったらそういうところへは二度と行かないだろう。

11月27日(土)

「踊る手なが猿」とエンクミ
力学(ちから・まなぶ)と池袋で飲む。
お互い旧交を温めあい……って先週も飲んだのだが、そんなことはともかく。

最近私がいちばん感動した小説として島田荘司「踊る手なが猿」をあげたら、力学(ちから・まなぶ)が
「ええっ? 新田さん、冗談で言っているんじゃないですよね? ホントに面白いと思っているんですよね!?」
と言ってきた。
そのあまりの念の押され方に当惑したが、一点の曇りもなく私は「踊る手なが猿」はすごい、と思っているので、押し通した。

この「踊る手なが猿」というミステリは、新書にして70ページほどの短編だ。
まあ島田荘司のパターンをある程度掴んでいれば、それほど驚くシロモノではないかもしれないが、とにかく「新宿の地下街を舞台にした殺人事件」と「踊る手なが猿」との関係、手なが猿の生態、とってつけたようなハッピーエンド、これらが渾然一体となって得も言われぬ突飛さを現出させた、スバラシイ作品なのだ。

あまりに「冗談ではないか」と言われたのでちゃんと説明しておくと、私はとくにミステリマニアというわけではないので、トリックはシンプルなものほどいいと思っている。
長々とアリバイの表が出てきたり、トリックを隠蔽するために長編になってしまう、なんてのはチョット、と思ってしまう。ややこしくて頭がこんぐらがってくるのだ。

その点、島田荘司はきわめてシンプルなトリックをシンプルなままに投げ出すような作品を、昔は書いていた(島田荘司が自作の映像化をこばみ続けているのも、「タネを明かしたらオシマイ」な作品が多いからだと思う。それほどにトリックのインパクトが強いものが多い)。これはプロットがシンプルだという意味ではない。それなりの技巧は凝らしているのだが、頭にスルリと入ってくるような感じなのだ。
「踊る手なが猿」は、その真骨頂だと、私は思う。

あまりに力学(ちから・まなぶ)に突飛な目で見られたのでビビりつつ酒を飲んでいたら、隣のテーブルの若者たちが演劇論を始めた。大学の劇団か? と思いつつ彼らの会話を聞くともなしに聞いていると、携帯電話をかけている。
その後しばらくして女の子が2人、やってきた。
どうも劇団の後輩らしく、非常に遠慮深い2人であった。

店を出たときに、いいかげん酔っぱらっていた私は、
「あの女の子2人、なんだかつまらなそうだったよな!? 電話で女の子呼び出して、楽しませられないってのはダメだな。なんつーか、にぎやかしに女の子呼んだだけ、っておれは悪意に解釈したね(酔ったあげくのビッグマウス)。
オレらの方がさあ、彼女らを会話でよほど楽しませることができると思うんだ!(ビッグマウス)」
「いや……そんなことはないと思いますけど……」
「だってアレだろ。劇団に入っているということは、そこらの女の子よりはまだオレら寄りってことじゃん(なんだ「オレら寄り」って……)。だからさー、オレらの話に興味を示すと思うんだ」
「たとえばどんな?」
「遠藤久美子と岡江久美子が組んで『サッパリ系』っていう名前のバンドを組んだら面白いだろうな、とか、遠藤久美子が小渕総理大臣の愛人になったらすごいな、とか」
「なんで遠藤久美子の話題ばかり……」
「今、遠藤久美子、どういう方向性で行こうか悩んでいると思うから」
……我ながらメチャクチャ言ってんな、と思ったが酔っぱらっているので気にならない。
冷静に考えたら劇団の女の子が遠藤久美子の行く末について、1ミリでも興味があるとは思えないのだが、酒のイキオイとは恐ろしいものであった。

いざホントに会話することになったら、しょっぱなから「芝居」を「劇」って言っちゃって「わかってなさ」を醸し出してオワリだと思う。

11月26日(金)

ふと思いついて、清涼院流水の本を2冊買う。
いちおうニューウェイヴミステリの新鋭、つー感じで出たデビュー作「コズミック」は読んでいた。これが読んで当惑を禁じ得ないシロモノで、「トンデモ」的扱いで複数の書評が雑誌などで出ていたのを思い出す。
私の周囲では評判が悪く、まっとうなミステリとしても、あるいはトンデモとしても評価しにくい、座りの悪い小説であった。

その後同作家は何冊もの小説をリリースし、たいして多読でもない私はすべて見過ごしてきたのだが、某知り合いが笠井潔の探偵小説論を読んだらしく、その論旨でもって何かと清涼院流水をケナすのである。
笠井潔曰く、ミステリのコードを破壊する云々は綾辻行人京極夏彦であって、決して清涼院流水(とはっきり名指しではなかったらしいが)ではない、と書いているらしい。
私は「コズミック」に対しては「長い」という理由でトンデモとしてもあまり購読はオススメできないが、笠井潔的文脈で斬って捨てることにはどうにもこうにも異議がある。
笠井潔は作家としても評論家としても好きだけれど、ソレの主張の尻馬に乗って、某知り合いに生半可な論旨で清涼院流水を云々言われたら、黙っているわけにはいかないのだ。
ところが半可通の哀しさで、私は笠井潔の探偵小説論も、その後の清涼院流水も読んでいなかったので、勉強しようと思った次第。

現時点で言えることはひとつで、笠井潔が好きそうな「アンチ・ミステリ」とか「ミステリのコードを破壊するミステリ」という言い方を使えば、「コズミック」はミステリのコードを破壊していると言えば言えるんじゃないの。
それを「破壊の仕方が気にくわない」というのは、まず自分の主張が先にあって、そ れに合わないから切り捨てるってことではないかと思ってしまう。

たとえるなら、「バナナですべって転ぶ」というギャグを新しくしろと言われて、「バナナですべって転ぶ」という構造自体の見直しをしたのが京極夏彦(バナナの例でそれがどんなものになるかは知らないけど)。
「ものすごくたくさんのバナナで転べば面白いんじゃないか」と考えたのが「コズミック」である。
(まあこの「たとえ」を読んで、「ぜったい読みたくない」と思う人も出てくるとは思うが、それはまあ、正解だとは思う)

すなわち「コズミック」は、いわば新本格だのニューウェイヴだのと言われているものの「見てはいけない面」だ。

たとえばの話、「コズミック」がダメで「迷路館の殺人」がいいとしたら、そりゃ「ああっ女神さまっ」はいいけど「ふたりエッチ」はダメ、って言ってるようなもんだしな。

でも読んでつまんなかったらつまんないって言うけどね。

11月23日(火)

江戸川乱歩 少年探偵 「空飛ぶ二十面相」
「空飛ぶ二十面相」、「天空の魔人」収録。
「空飛ぶ……」は、カニ型の宇宙人が現れてカニカニしながら仏像を盗もうとする話。ネタバレ承知で、以下引用。

「それから、きみが消された。それをたしかめるために、またカニじいさんがあらわれて、子どもたちをよんだ。その子どもたちは、みんなカニじいさんの味方だったのさ。みんなにカニをやるからという約束で、おしばいをさせたんだよ。
(中略)カニじいさんは、子どもの心をよくつかんでいたのだよ。」(P103)
「カニをやるから」という理由でかなり手の込んだ芝居をした子どもたち。二十面相、すげえぜ。

「世界の人がそれを読んで、あっとおどろきましたが、なんともいえないおかしさに、ゲラゲラわらいだしてしまいました。しかし、わらうだけわらってしまうと、こんどは、なんだか、うすきみ悪くなってくるのでした。」(P118)
これは、「二十面相がカニ宇宙人だった」ことがわかってからの一般人の反応。「ゲラゲラ笑い出した」っていうのが、なんか「少年探偵」全体のことを作者が自嘲しているような感じ。
まあそんな調子で、ぽんら度はいちじるしく高い。ぽんらファン必読。

「天空の魔人」は、小林少年たちが温泉旅行したときに起きた事件を描いた、いわば少年探偵の番外編。トリックは海外もののパクリだというが、それだけに乱歩の「少年探偵」のプロットの立て方が見える話。別に読まなくてもいいとは思うが。

江戸川乱歩 少年探偵 「黄金の怪獣」
少年探偵シリーズ最終巻である本作は、どういうわけかいちじるしくテンションが低い。なんだか文に精彩を欠く。
前半に出てくる「光子さん」は、ホームレスのカッコをさせられて町中を歩かされるという、私が読んだ中ではもっとも二十面相にヒドい目に遭わされた人だ。
二十面相の少年たちへの攻撃は、ほとんどが子供の冒険心を満足させるタグイのものだし、子供たちもある程度のことは承知でやっているのだが、この「光子さん」だけは別に冒険もしたくなければヒドい目にも遭いたくないはず。
単なるストーリー進行上のなりゆきか。それとも少年には優しく少女には冷たいか乱歩。

展開もお約束はお約束だが、なんだか「ああ、もうやめたい。こんなものもう書きたくない」っていう雰囲気が全体を漂っている。やる気がないというか。
ただ最後に「マッドサイエンティスト」(「基地外みたい」ではなく、真性の基地外)が出てきたところだけ1点プラス。

ぐああ、コスチュームカフェって23日だったのか!!!
「どうせ休みじゃないから行けないや」と思って忘れていたのだ。実は時間は空いていたのに。一生後悔。

11月22日(月)

川村ひかるの正体
「あえて調べていない」と書いた川村ひかるの身長だが、やはり気になって調べてしまった。
これで謎は謎でなくなり、我々はまたつまらん現実世界に引き戻される……と思ったら公式身長は「153センチ」であった。
やはり小さい。まさか身長を低く偽ることはないだろうから、「川村ひかるはかなり小さい」、しかも「ミクロマン的に、縮尺が小さい」ということが判明した。

謎は解け、我々はまたあらたな謎を提示される、というアンチ・ミステリーのようなオチとなり、万感の思いを込めて鐘が鳴り999が宇宙を走って行って、オワリ。

先週の「救急戦隊ゴーゴーV」
「無限連鎖カード」という、ゴーゴーVの武器の能力を記憶し、効かなくしてしまう災魔のアイテムにどう対抗するか、ってネタは素朴に面白かったが、それよりも、宮村優子が「やったー!」と言ったときのガッツポーズ、両腕を胸の前あたりで交差させ、腰に戻すという、「空手の押忍のポーズ」だったことにお気づきだろうか。さすがカラテウーマン。

昼間食べたカツカレーが劇的にマズかった。しかも胸焼けが続いて涙が一粒ホロリと。

11月21日(日)

・「わらいのじかん」
吉本中心のお笑い番組。「松本がゴールデンタイムをやる不自然さ(今ではめっきり不自然になっていると思う)」も消えてきた。
何で入るのかまったくわからない「影の声」みたいなナレーション、「吉本所属のタレントのギャグを名画みたいなタッチで紹介する」、どこが面白いのかまったくわからない「ヨシモト・ギャグギャラリー」などが減ってきて、体裁が整いつつあるといった印象。

ところで、特別企画で「トモノなんとか」というものすごく弱そうな若手芸人(昔のMr.オクレ的キャラクター)が、先輩タレントのところへ行ってズボンを奪ってくる、という企画があった。
これが理解に苦しむくらい面白くなかった。
東野とか木村の楽屋に押しかけるのだが、東野も木村も「笑いをとろう」という気がまったくないかのような感じ。とくに最初の東野はフリだから普通でいいとしても、最後の木村は見ていてダークになるくらい妙だった。つまりトモノなんとかに対する怒り方がリアルなのだ。
「トモノなんとか」はその怒りに面白いリアクションをすることもできないので、これではただの説教である。
さらにその映像を見てヤイヤイ文句を言うのが立川宣子やYURIMARI、パイレーツなのが辛すぎる。
だれだってYURIMARIやパイレーツにお笑いのことで批評されればムカつくだろう。私は状況全体に強い不快感を覚えた。

とくに立川宣子は、以前別の退屈な番組の中で「しゃれたメガネを集めるのが趣味」、「オフの日には自由が丘をうろつく」などの唾棄すべき性癖を自らが暴露している。私はコイツの天狗の鼻がへしおれるときを待っている。

いやそんなことは問題ではない。問題なのは、彼女の鼻のアナが三角だということだろう。

話を戻す。エセドキュメントの中で、とくに「怒っている演技」はむずかしいと思う。まあ最近の視聴者は「怒っている人」「キレている人」を見ると喜ぶようだから、悪趣味としか言いようがないが、お笑い芸人が「本当に怒っている」ように見えてしかも笑いがとれないんじゃオシマイなんじゃないかと思う。

それで連想したのが、「親の権威は絶対。だから自分は息子に『父上』と呼ばせている」と得意がっていた円楽さん。もう十数年前だが、これも「面白がらせよう」という意識がこれっぽっちもなかった。
落語家ってのはあれなの? 素のしゃべりでは面白いこと言わなくてもいいことになってるの? もしそういう慣習なら少し考え直すけど。でもやっぱり、いばりくさっていることを得意がるのは、人を笑わせるときに不利になるんじゃないかと思います老婆心ながら。

同じように自分を「お父様」と呼ばせている、といばっていたのがやはり十数年前のなべおさみで、これは「なべやかん」としてオチが着いたのでまだしもでした。

個人的にはお笑い目的以外で客に「お笑い芸人が怒るところを見せる」「コワモテのところを見せる」のは「ここ一番」というときではないかと思う。「泣く」のも同様。でなければ楽屋の中身を見せることになり単なる露悪趣味のような気がする。

番組全体のことに戻れば、「ユルい『ごっつええ感じ』」みたい。テレビ朝日って何をやってもこうなのか。

それで同じようにムカついたのが、ずーっと前、日本のフランス料理店の紹介で、そこのシェフの一番偉いヤツが厨房の中ですごい勢いで怒鳴ったり、キッチンを蹴ったりするシーンが映ったこと。
若手とか、青い顔しながら作業してんだよ。
このシェフは「こんなに気合い入れてつくってます」ってところを見せたかったんだろうが、なんかそれ見ているだけで食欲がなくなった。
そこらのラーメン屋で、そこんちの子供が泣きわめいたりするだけでもイヤでしょ。 フランス料理店ならなおさらだと思う。
店の裏側(しかも恥ずかしい部分)なんか見たくない。メシがまずくなるわい。

「バカだなあ」と思っていたら、一部には「あの人はバカだ」ということになっているらしく、それが「自分がいばっているところを見せる」という面でのバカさかげんではないだろうけれど、まあ一事が万事ということで溜飲を勝手に下げさせてもらった。

その後「タケシムケン」をひさしぶりに見たら、「日本一まずいラーメン決定戦」というのをやっていた。
対決するラーメン屋が2人ともジジイなのがよかった。何か風が心を吹き抜けていくようだった。
若くてマズイラーメンつくってりゃそりゃただの無能の人かもしれないが、「このまずいラーメンを30年間つくってきました」だとしたら(途中から見たからこのジジイたちが何年ラーメンをつくってきたかは知らん)、それは「このラーメンで生きてきました」という立派な既成事実が後ろ盾になる。
そしたらもう「まずいがどうした」って感じじゃない? もう経っちゃったんだから。まずいままで30年。
なんかこじゃれたもの食ったり飲んだりしているくされグルメどもに、叩きつけてやりたいワンコーナーでした。

あと「ガブリンチョ」とかいう番組で「勝負で負けたらレギュラー降りてもらいます」とかって流行りの路線でやってたが、そんなに重要か「ガブリンチョ」って番組は。
だいたい必要か、そうした勝負がこの番組に。もう何も言わん。

11月18日(木)

ビデオに録っておいた「未知との遭遇」を激視聴(今まで見たことなかったのだ)。
感想:え? これで終わり?
もちろん、公開当時の状況などを考え合わせなければいけないんだろうけど、現在見るとなんかヤだ。
だって、UFOがイイモンかワルモンか、主人公も含め、登場人物たちはぜんぜん検証していないように見える。ヤツらがものすごい極悪宇宙人だったらどうするつもりなんだ? すべてが罠だったら?
まぁその返答が(だれの?)「インディペンデンス・ディ」なのかもしれんがな。
イイモンかワルモンか検証不能なのは「E.T」も同じだが、あっちはけっこう感動したんだけど。2年くらい前に見て(笑)。
とにかく、UFO系カルトを思い出してイヤ〜な気持ちに。

その後、久しぶりに放送していたスター・トレックを見るが、「人生あのときやり直せたら?」という非常に説教臭い内容で、見ていてダークになった。
なんだかんだ言ってよう、アメリカはいいよなあ。勝てば官軍で。

・「川村ひかるは本当に身長150センチなのか!?」
テレビ東京「ゲームWave」のアシスタント、川村ひかるは実に興味深い。
やる気があるのかないのかまったくわからないこと、司会の伊集院光のボケやツッコミに脅えているような感じが見られること、など(テレビで見るかぎり、伊集院 は川村ひかるをあまり気に入っているようには見えない)。
だがいちばんの謎は、以前どこかの雑誌で見た「川村ひかるは身長150セン チ」という事実だ。

まあ真偽は調べればすぐわかるんだが、あえて調べていない。
川村ひかるはいわゆるセクシー巨乳タレントだが、150センチとすれば非常 に背が小さい。
意外に小さかった坂木優子より小さいのではないか。
かといって、いわゆるトランジスタグラマー的なアンバランスさがないのだ。
……ということは、ミクロマンみたいにそのまま縮尺が小さいということなの か。
それとも単に160センチの誤植か。

これが、「ゲームWave」を見ていると、そばにいる伊集院があまりにデカ いので、ますます川村ひかるの本当の身長がわからないというシステムになっ ている。
何のシステムかはわからないが。
つまり「ゲームWave」は「ビデオドラッグの一種」だということだ。
ちなみに「優香」が身長157センチ、「釈由美子」が164センチだそう だ。これらは「納得のいく身長」と言えるのだが……。
「だが……。」じゃねーよオレ。

11月16日(火)

略語のダサさなど。
最近、頭が割れるほど悩んでいるというのはウソだが、気になるのは「ダサいか、ダサくないか」ということだね。
みんな、あまりにも検証なしで使ってないか、この基準。
ネットウロウロ(注:ネットサーフィンに変わる新しい言葉。99年流行語大賞受賞予定語)していたら、「こういう(ネットにおける)略語はダサい」とわざわざ表にしている人がいた。
「ホムペ」とか「テレホ」とか「カキコ」とかね。

確かに、略語っていうのはモノによって妙に気恥ずかしい場合がある。
「セクハラ」なんて、最初聞いたときには「なんじゃそりゃ?」と思った。
「セクハラってのはねえよなあ」なんて話し合ったのも覚えている。
しかし今じゃすっかり定着。
「ミニスカ」ってのも小馬鹿にした言い方だ、と思ったが今は市民権を得ている。

……このように、「ダサいかダサくないか」の基準は実にアイマイだ。
ヘンにいいがかりつけたら、こっちが少数派ってことになりかねん。

略語の場合、「利便性」がダサさを駆逐してしまうんだろう。

また、別の場合でも、ずいぶん簡単に「ダサいダサくない」が勝手に決定されていて、そういうの見てるとなんだかイライラしてくる。

ここで私も勝手なこと書くと、とりあえず「Eメール」という言い方は私も使うがやはり気恥ずかしいという意味でダサいと思うんだけどどうでしょうか。
「電子メール」っていう方がよほどカッコいいと思うが。
「電子頭脳」「電子戦隊」「電子レンジ」などはあっても、かつて「E頭脳」なんて言ってたか!?
2000年を迎えようという現時点において、来るべき未来社会を象徴するのはズバリ「電子」であって、「イーメール」なんて気の抜けたような言葉では断じてない。

「イーメール」っていうと、なんかノートパソコンみたいので、中山美穂か原田知代みたいのがインターネットで無農薬野菜を通販しているところが想像され、非常にムカつくのである。
ムカついたので、中山美穂に対しては「毎度おさわがせします」のコミカライズを熟読、
原田知代に対しては「むかしウッチャンナンチャンとコントやっていたが、お笑いの才能がゼロだった」ということを思い出すことによって、私は霊的防衛を果たすのであった。

11月15日(月)

最近、マンガ読者として非常に悩んでいる部分があって、それは「自分にとって不快なモノを果たして読めるのか」ということである。

結論から言うと、読めません。

「自分が何を、どの程度、不快に感じるかを探る」という意味では、数年前までいろいろ模索していたが、現在ではかなりきっちりと自分の中の「快・不快」の基準を自覚しているつもり。
別にだれに頼まれているわけでもないのでどうでもいいっちゃいいんだが、マンガ読みの中には「快楽だけをもたらすのがマンガを含む広義の表現形態」だと自然に思い込んでいる人が意外に多い。それを私は気にしている。
単純な「快」のみを提示するだけのつもりなら、あまりにもアウトプットされた作品は単純化してしまう。
「不快」をあえて表現することで、何かが見えてくる場合がある(もちろん、何も見えてこない場合もある)。
これは案外タブーになっているところで、過剰に「不快表現」に固執するのは倒錯ではあるが、だからといってまったく「ないもの」にしてしまったときのマンガ読書は、ものごとの一方しか見ていないと感じる。

だが私の場合、「不愉快」の限界点が、おそらくかなり低い方ではないかと思う。
ホラー全般がダメだし、ある種の肉体的苦痛を伴う描写や、幼児虐待、スカトロ表現などほとんどがダメである。
だからそちら方面で優れた作品があるとしても、読みません。

もう一歩くだって、一見とりたてて不快な表現がなさそうな穏当な作品だとしても、「なんとなくダメ」というのがある。
個人的には、「ペリカンロード」の主人公のいじめられ方が、読んでてすごくイライラした(バイクマンガとして佳作だと思ってはいても)。
あのマンガの作者は、ぜったい女の子に適度にいじめられるのを喜ぶタイプだと思う。そうでなければ憲一くんの、かな子さんへの傾倒は説明できない(と思うけど???)。
かなり緩和されてはいるが、富樫義博もそのタイプであろう(決めつけ)。女の子に振り回されたいタイプ。
ちょっと私、そういうのダメなんで。

話それたか。とにかく、苦痛を伴ってまでも本やマンガを読んだり映画などを見ることは、もうできないだろうと思う。
だが、そうした「苦痛表現」でしか表せられないものもある。
そうしたことがどの程度エンタテインメントとして成立しつつ、「何か」を表現できるのかや、そういった通常の快楽原則からは「はずれた」「壊れた」物語とは、いったい何なのか、ということをときどき考える。
また、ある人には快楽でもまた別の人には苦痛でしかない表現や、それを読むことによる評価の違いについてなど。けれど、どうもそれは私には荷が重すぎたようだと思う。

伊集院光のラジオの録音を忘れる。ションボリ。

11月14日(日)

コミケに受かったよ〜ん。

私は一生懸命ヤル気あるんですよ。

ええ、ありますとも! 今から新刊の2冊や3冊、出す気概はあるね、はっきり言って!(まあ気概はね)

だが、サークル内での調整、はっきり言ってメンバーの「コミケ教育」がメンドクサイ。コミケって他の即売会と違ってタイトだから、テレンコテレンコやられるとコッチが困るんですよね。
でも、ニーチェの入門書みたいのを読んでいたら、ニーチェ的にはこういうのは「甘い」んだそうで、「ヒトにいろいろするのがメンドクサイ」というのはウソで、自分がやりたいからやっているのだから前向きに考えなくてはダメなんだそうだ。

まぁニーチェが言おうがパラソルへんべえが言おうがそんなこと知ったこっちゃないのだが、どうも「マンガに対して興味のない人間」と同人誌をつくっていかなければならないのが私の業らしい。
業っていうか、私の人心把握能力とか人づきあいとかの問題なのか。

だれか、そうしたことをうまくやる方法を教えてください。
あ、「教えてください」なんて書くと、「それは甘えだ」とか言われそうだから、やっぱり教えてくれなくてイイです。
自分で考えます。
「炎の転校生」の主題歌を歌いながら……(元気が出る歌だから)。

などと書いた後に、吉田等に「コミケ当選」を連絡する。
彼もやはり何か出したいようなので(考えてみりゃ吉田等自体は前回のコミティアでも何も出していないわけだし)、コミケ発行予定の「楽しい午後の過ごし方」について、新宿で会って打ち合わせ。
しかし、最初の数時間は何を話したか忘れるくらい無駄話をしてしまい、その後突貫でいろいろ考える。

まぁ何といっても私はやる気ありますから。病気・事故・天変地異とかにならないかぎり。
あ、そういうのが起こってもやり通すというのがホントのがんばりなのか。
とりあえずアウトラインだけ決めて、解散。

自分を叱咤した後、弁当買いに外に出たら、家のカギをドアノブにさしっぱなしにしたまま外出していたことに気づく。
いったん自殺し、また生き返る。

ネットをウロウロしていたら、以前日記で悪口書いたサイトの管理者が、知り合いの知り合いの知り合いくらいのヒトだったことが判明、ことなかれ主義の私は速攻で以前の悪口を削除した。

11月13日(土)

モンティ・パイソンのビデオが欲しいよーん。

ビデオ「カリキュラマシーン・ベストギャグコレクション」を見る。
「ゲバゲバ90分」のスタッフがつくったという、日本テレビで1975年頃やっていた子供番組。
15分間で、文字や数について勉強しようというものだが、それをすべて歌やショートコントでつないでいる。出演者は宍戸錠、藤村俊二、吉田日出子、常田富士男、渡辺篤史など。
当時、私は8歳。24年ぶりに見るにあたり、「当時ほど面白く感じないのでは……」と思っていたが、あらためて見てけっこう面白いので衝撃を受けた。

ひらがなやひとケタの数字を題材とする本作は、幼稚園から小学1年生を対象につくられており、当時2年生の私はすでに視聴対象からはずれていた。しかし、見ていた私。当時のインパクトはかなり強かった。

はっきり言って、私にとってかなり長い間「宍戸錠」は「カリキュラマシーンの宍戸錠」であり、渡辺篤史は「カリキュラマシーンの渡辺篤史」であった。その後、渡辺篤史は「おもいっきり探偵団 覇悪怒組」のシャーロクおじさんとして記憶にとどまるので、ほとんど「カリキュラマシーン〜覇悪怒組」という記憶のつながりである。

篤史にとってはイイ迷惑だろう。

常田富士男が「まんが日本むかし話」のナレーションをやっているときも、私の脳裏には「カリキュラ……」で不労者の役ばかりやっている彼の姿があった(哀愁のあるキタナイ系の役をやらせたら、私の中で常田富士男か及川ヒロオだ)。

しかし「見た」とはいっても今回のビデオのコントはほとんどが初見だった。ので、今回のビデオに入ってない私が記憶に残っているコントは……といえば(もちろんうろおぼえ)、

「仲間あ〜つめ〜」と、常田富士男や吉田日出子が歌を歌いながら、「赤いもの」とか「丸いもの」などのさまざまなカテゴリーでモノを集める。そのときに、経緯は忘れたが常田富士男がおむすびを口に詰め込み、アガアガ言っているところに吉田日出子がなおもおむすびを詰め込む。そのときに勢いあまってか、常田富士男の口からはみ出ているおむすびを吉田日出子が少し食う。

・宍戸錠とだれかが、ボクサーか何かに扮して一生懸命特訓する。彼らの名前は「さ」と「ち」だったかな〜。彼らの人生が断片的に描かれ、最後にふたりが
「おれたちは、勝負に勝ったが人生に負けた」
と言って、首をうなだれて去っていく。

……まあそういうのはもっと詳しく覚えている人がいて、さらにその人から「ゲバゲバの方が面白かった」などと言われてショボンとしたりするのが世の常だが、とにかく「ツッコミのないショートコントをえんえんとつなぎ合わせる」、ここまではゲバゲバと同じだろうが「そこには『文字』や『数』を覚えさせるというテーマがある」というところが違う。
「文字」や「数」はそれ自体非常に抽象的なもので、本来日常とつながりようがない(しかも足し算や引き算などでなく、「5のカタマリ〜ッ!」「5のカタマリが2つで、じゅう!!」とか延々やらなければならないのだからこりゃ意味を付与させろっていう方がムリだ)。
そのため、無意味度がパワーアップしているのではないかと、思う。

……ってなことはビデオの解説にも書いてあるんだけど。
よく子供番組で「ここまでやって子供はわかるのかなぁ?」「製作者の自己満足なのでは?」と思うことはよくあるが、「カリキュラマシーン」に関しては自信を持って言える。
「少なくない子供が、理解している」と。
だって当時、私も子供だったから。

江戸川乱歩 少年探偵 「塔上の奇術師」
良い。乱歩の「乱歩性」と「ぽんら性」が合致した名作である。これなら「孤島の鬼」と「屋根裏の散歩者」しか読んだことのない同人ねーちゃんにも安心してオススメできる。「少女クラブ」に連載されていたため、 少女探偵が活躍するのでロリコンな大人の人にもオススメだ。

少々ネタバレをすると、今回中学1年の女の子の、25歳の兄に四十面相が変装する。このとき、この兄と妹の「秘密の合図」と、「会社から帰ってきた兄のカバンを部屋まで運んでいくと、ごほうびにチョコレートかキャラメルをもらえるという決まりごと」を知らなかったために、四十面相は変装がバレてしまう。
「カバンを運んでいくとごほうびがもらえる」というたいへんにかわいらしい習慣からバレてしまうわけだが、乱歩はこうした「かわいい描写」がヘンにカワイイのだ本当に。「青銅の魔人」で、男の子がロボットの着ぐるみを着せられたときに、その妹もひとまわり小さいロボットの着ぐるみを着せられたように。
この「ヘンにかわいい」ところが、愛嬌となって親しまれたのだと思う。

ところで綾辻行人の「時計館の殺人」は、巨大な時計塔のある洋館を舞台にした本作を念頭に置いているのではないかと思うのだが(置いてはいなくてもぜったいに読んではいるはず)、個人的には同じ時計塔の出てくる小説なら「塔上の奇術師」の方を断然オススメする。

それと「四十面相」は「シジュウメンソウ」と読むと今回初めて知ったよ(笑)。

乱歩ファン失格なり。

夜、力学(ちから・まなぶ)に意味もなく電話して話をして号泣。

11月11日(木)

江戸川乱歩 少年探偵 「夜光人間」
ネタの使い回しという点を覗けば、従来の意味で及第点な作品。トリックが暴かれた後もしつこく「夜光人間」が登場し、しつこく「トリックとわかっていても……」と少年たちが怖がるところに美学を感じる。
また、単なる悪趣味ではなく夜光人間の「美しさ」に描写がさかれている点、耽美派の乱歩ファンも納得、というところではないでしょうか。つまり、逆に「ぽんら」ポイントは低いということなんだが。

江戸川乱歩 少年探偵 「黄金豹」
金色の豹が美術品や宝石を盗んでまわる話。私が今まで読んだなかでは、めちゃくちゃ面白いわけでも投げやりでもない、標準的な作品だった。ラスト近くになって突然ニューキャラクター(「ネコむすめ」と「ネコ夫人」)が現れるのもナイス。そして突然終わるのもナイス。

江戸川乱歩 少年探偵 「奇面城の秘密」
二十面相の秘密基地「奇面城」に潜入するポケット小僧(すごく小さい小僧)の話。今回は、明智の作戦があまりにぞんざいなため、それにまんまとひっかかる二十面相は完全にアホに見える。本名「遠藤平吉」も本作で明らかになる。
なお、新保博久の解説では「ルパンやホームズには後に似たような作品が描かれるが少年探偵シリーズにはソレがない」となっているが、小説のことはよく知らないのでそうかもしれないが他作品では「少年探偵」のテイストをわがものにしようとする作品はいくつかある。
マンガにおいては「東京探偵団」細野不二彦(小学館)であり、映像作品では「おもいっきり探偵団 覇悪怒組」「じゃあまん探偵団 魔隣組」である。
いずれも傑作でちゅ。いろんな意味でネ。

休みなので「笑っていいとも!」を激視聴。
「テレホンショッキング」に畑野浩子(「SRS」のアシスタント)登場。
かわいいのぉ〜。もとキャンギャル&モデルで、「同性にちっとも好かれなさそうな感じ」がいいよなぁ。ところで地下鉄の構内に貼ってある「レザーマーク」のポスターのモデルは畑野浩子なのだろうか。いつも考えるがポスターに名前の表示はない。
たぶん違うんだろうけど。カッコいいポスター。

11月10日(水)

録画しておいた「サイコメトラーEIJI2」を見る。

今回も、バレバレの犯人からひとひねりあったり、まぁよく考えればムリがあるんだけど「飽きさせない」という点においてなかなか素晴らしいストーリーであった。
それにしてもテロリスト役の真木蔵人は、しばらく見ないうちになんて恐い顔になってしまったんだろう。
親父さんのマイク真木が「救急戦隊ゴーゴーV」で、正義の味方の博士をやっているのと対照的だ。

いずれ親子対決が見たいのう。っていうかゴーゴーVに出してほしい。

他にも、映児が島さん(工藤静香扮する女刑事)からの電話に「はい捜査一課」とふざけて答えると、島さんがノーリアクションで「こちら警視総監」って答えたりとか、映児の妹とその友人が島さんの噂話をしているときに「あのサーファー女?」と言っていたりとか(工藤静香は暴走族のレディースみたいなたたずまいから、最近サーファーへと劇的変貌を遂げた)、
映児のする島さんの口まねが役柄のソレではなく「単なる工藤静香のモノマネ」だったりとか、チョイ役で蔵野が出てたりとか、殺され役でルーガちゃん(ウゴウゴ・ルーガの)が出ていたりとか、加藤茶が妙に演技ヘタだったりとか、いろいろ見どころがある。

1話、2話は面白くても、3話以降とたんにつまらなくなるドラマが最近多いが、本作は珍しく続きも面白かった。

11月8日(月)

本を読むのが遅いので、もう一生本屋に行かなくてもいいだけの本は家にため込んであるのだが、ほっとくとどんどん欲しい本が絶版になってしまうことに最近気づいたので、入手しておかないと落ち着かない。
したがって、つい本屋に行ってしまう。

「ここでこれが売っているから、ここ1件でコト足りるだろう」と思って行った「まんがの森渋谷店」に目当ての本が売っていなかったので、新宿紀伊国屋や新宿の青山ブックセンターまで行かなきゃならなくなり、疲れた。

それにしても、青山ブックセンターの「欲望文化」ってカテゴライズは何なんだろう。
むか〜しの新宿紀伊国屋の「スーパー・エッセイ」というのもそうだが(「スーパー・エッセイ」という呼称があったことは知っているが、その言葉がすたれてからもかなり長い間「スーパー・エッセイ」って置き場があった)。

江戸川乱歩 少年探偵「海底の魔術師」読了。「何かあるだろう」と思ったら「けっきょく何もない」という、推理小説を読んでいるとたまに出くわすパターン。
今回の明智小五郎の、自信たっぷりにいきあたりばったりで行動し、何もかもうまく行ってしまう展開はちょっと笑える。これじゃ周到に準備している二十面相もかたなしだ。
また、二十面相の素顔について、ちゃんと「それが、ほんとうの顔かどうかわかりませんが、前の事件のとき、一度見たことのある顔でした。」と描写されているのがよかった。「怪奇四十面相」なんて、その辺のごまかし方が妙だったから。

11月7日(日)

コミティア(東京ビッグサイト)。

何かバカ売れの予感がしたが、こういう予感の日に売れたためしはなく、まぁいつもどおりだった。
しかしどうしても特定部数の壁を突破することができず(その「壁」の部数は恥ずかしすぎて教えられなーい)、狂いもだえるのだった。
(ちなみに「恥ずかしすぎて……」というムックみたいのを出していたのは「スケバン刑事」以前の南野陽子、「喜びで狂いもだえる」のは花京院のスタンド)。

「楽しい午後の過ごし方」の新刊がないので、若干の来てくださった方々にはご迷惑をおかけした。

「風邪のような風邪でないような」妙な体調は、ここ数日まともな大人とは思えないくらい怠けたことによってなんとか持ち直し、同人誌を貸してもらったり返したり、本を買ったり同人誌を売ったりといった平穏な時を過ごす。

気楽院さんが風邪による体調悪化で早退、留守電にスペースナンバーまで入れた力学(ちから・まなぶ)は来なかったので、帰りに吉田等と飯食って解散。
おそらく力学(ちから・まなぶ)は、上京してきたY本「ふたりだけの戴冠式」(意味不明)をしているのだろうと納得。

このときビールを少し飲んだが家にかえっててきめんにきいてきた。やっぱり酒弱くなってきているのかもしんない。

中華料理屋で頼んだ中ジョッキは「750円」という「ここの店のオーナーはマカロニ・ウェスタンに出てきた悪のよろず屋……!?」というぐらい法外な値段で涙が一粒。

……これでコミケに受からなければ年内の即売会参加は終わり、後の余暇は「自分探し」(大嘘)「哲学的思索」(ここ笑うとこ)に当てることにする。

ときに「自分失い」ってのを考えたがどうだろうか、と思ったが数秒後に「酒飲めばいいじゃん」と思ってこの案は泡となり、屋根まで飛んで、壊れて消えた。

11月6日(土)

風邪のような、風邪でないような中途半端な体調が続く。
午前中、力学(ちから・まなぶ)に電話したら、由美子マフィン(もうこんな本人も忘れているようなペンネーム使う義理ねぇ、とりあえずY本とでもしとくか)が上京してきているということだったが、体調がホントじゃないので会うのは遠慮させていただく。

それとカルシウムが足りないのか、わけもなくイライラが続く。
もう周囲のモノをブチ壊して回りたくなるくらいイライラしたが、じっとこらえる。
こういうふうに日記に書いておけば、天下に恥さらしたことになるので自戒するに違いない。自分よ。

江戸川乱歩 少年探偵「鉄塔王国の恐怖」読了。なんじゃこりゃ。カブトムシのぬいぐるみを着た怪人が都内をウロウロするという、目的がはっきりしないたくらみ(こういうときはたいてい「明智探偵を苦しめるため」などと理由がついているが、こんなことで明智が苦しむかどうかもわからない無意味計画)に小林少年がよせばいいのに大活躍、という話。

乱歩特有の大仕掛けも本作では完全にカラ回りしており、まだ「少年探偵」を全作読んだわけではないが「悪い意味で無意味」な作品のワーストに入るのではないか。
ぽんら度150パーセントの怪作……まぁ少年探偵なんてどれを読んでも怪作なのだが、それでもあえて怪作と言いたくなるようなシロモノ(「ぽんら」については、だれかにどこかで聞いてください)。
たとえるなら、アニメ「タイムボカン」のような内容であった(ここで「カブトムシを使っているから」なんて陳腐な符丁は関係ないよ)。ホントにノリが「タイムボカン」なのだ。ポチッとな!!

でもそれゆえに愛す。本作を。

11月5日(金)

引き続き、体調かなり悪し。これはすでにただの二日酔いではない!!
録画しっぱなしの「スター・トレック」(タイム・スリップ・エイリアン(後編))を見る。
なんと後編しか録画していなかったのだが、19世紀イギリスにエンタープライズの面々がタイムスリップして騒動を起こすという、ある意味定番的な作品でとても楽しかった。

それと鶴瓶の出ていた「古畑任三郎」(ラストの鶴瓶の顔がオモシロ)と、今頃、映画「ゴースト ニューヨークの幻」を見る。
「ゴースト」は上映当時から「カップルが感動するデート・ムービー」みたいに言われていてそれだけで嫉妬回路スイッチ・オンだったが、情報高感度人間(大嘘)の私としては仕方なく見たワケよ。
冒頭、主人公の恋人同士がロクロを回しながらベタベタするシーンに
「また他人のイチャイチャを見せられる映画かよ」と思ったんスが、それもちゃんと伏線になっていたし、いささか駆け足の感のある展開も、脚本が練れていたのであまり文句が出ないね。

前の前の仕事場の上司が「面白いけどチャチい」って言っていたんだが、確かにチャチいがこれだけのもんをポンポン日本がつくれるかといったら(ポツリポツリ、となら絶対につくれる)、なかなかむずかしい問題なわけで。まあそんなゴタクはいいんですけど、楽しめることは間違いない。

また、いくらイチャイチャ・ムービーだからといっても「あらかじめ死んだ男の物語」にはラストに別れしか用意されていないのだ。映画自体にそこまでのつきつめはないが、「欠落を引き受け、それでも強く生きていかなければならない人間たち」の話に私はテもなく感動するのだった。

11月4日(木)

二日酔いになった。大後悔。最近弱くなった。
それも、治りが遅くなった。昔は昼飯食えば治ったものだが。
夜になっても治らず、風呂に入ったらよけい気持ち悪くなった。号泣。

留守電を聞いたら力学(ちから・まなぶ)から入っていた。実は昨日、家にいたらしい。

「オリンピックは風車」は、悩んだあげく一時退会することに決定。
「続編を描こう」と思っていた数カ月前とはまったく正反対の結論が出た。
その旨手紙に書いて郵送。

「ロボットの魂」バリントン・J・ベイリー(創元SF文庫)読了。
一度人類が滅亡しかかって、ロボット工学だけが生き延び、政治体制や哲学などはかなり後退してしまった未来。「意識のあるロボット」としてつくられたジャスペロダスは、「自分は本当に意識があるのか」という哲学的命題の答えを求めて遍歴の旅をする。
その過程において、さまざまな「答え」を得るが、それはいずれも「意識のある機械は存在しない」というものだった。
ジャスペロダスはときにこの疑問を忘れようとし、ときには追求しようとしながら地球でもっとも大きい帝国の中枢部に入り込んで出世街道をばく進する。

……「ロボットの意識」についてのジャスペロダスが得るさまざまな答えは、哲学にシロウトの私から見てもかなりぞんざいだったりしてイライラする。それにラストは「哲学」というにはほど遠いいいかげんなもので、哲学者の解説にあるように全体を通して論理矛盾が見られたりもする。
つまり、「哲学」を料理したとしたらかなり強引で荒っぽいシロモノなのだが、不思議とダメな感じはしない。SFの科学仮説の飛躍は、厳密に検討すると穴だらけのものが(小説として名作でも)あったりするらしいが、門外漢の私にはその正否の検討は不可能だ。だが本作は題材が文系的なのでまだしもとっかかりがある。
そして本作においては、「いいかげんな飛躍でもなんだかおもしろいことがありうる」という結論が出た。その辺がベイリーの秘密かもね。

11月3日(水)

「コミックレヴォリューション」。
サンシャインの階段をのぼっていくと、スゴイ数の人に出会う。
近所らしいおじいさんに呼び止められ、「これは何の催しだ」と聞かれたから「マンガの即売会です」と言うと「マンガぁ!?」と、とても信じられないという感じの声と疑わしい目つきをされた。それはより詳しい説明を求めているように見えたが、
「どうせおれのことを『与し易し』と思って呼び止めたんだろ!!
あんたにいろいろ説明する義務は、おれにはない!!(涙)」

とまたひねくれた思いが頭をよぎり、「そうです。マンガです」と言っただけでおじいさんを後にする。

サンシャインから力学(ちから・まなぶ)に電話すると、「仕事からまだ帰ってきていない」ということだったので、今日は1日ひとりで店番かぁ、と思い朝30分ほど自分のスペースのあるフロアを回ってからはずっと席にいた。

ものすごい人数がひしめているはずの(エロ本ゾーンだから?)下の階には最後まで行かなかった。いまだにエロ系というと「コンビニに売っているエロマンガ雑誌を買えば500円くらいで済むのでは?」という素朴&不謹慎な考えが抜けない。これは同人誌差別ではない。娯楽費をおさえりゃいいってもんでもないことくらい、私にもわかる。
つまり私がエロ心の欠落した、リリー・フランキー言うところの「遺伝子の弱い人間」である、ということなのだろう。

……などと思いつつ「爆走兄弟レッツ&ゴー!! MAX」の大神マリナと、アニメ「ミクロマン」の水沢麻美のH本を買っていたりする。でも「水沢麻美」ってのはあまり知らない。でも買った。ナイスおれの生き様。

それとずっとスペースにへばりついていたのは、ウチみたいに断続的にお客さんが来るサークルの場合、1時間席をはずしても売り上げにひびくという理由もあった。
実際、ポツリポツリとやってくる感じだった。

けっきょく最後まで吉田等は来なかった。
連絡のとりようがないのでどうしようかと思っていたところ、スペースに遊びに来てくれたA/kodamaさんが携帯電話を貸してくれたので、それで吉田等の携帯の留守電に伝言を入れる。
イベントが終わってから、いちばん待ち合わせとしてわかりやすいし落ち着けるということで私が喫茶店「銀座茶廊」へ行くことを提案したが、実際行ってみたらサラ金に変貌していた。
ココは吉田等が、「ボインのおねーちゃんがいるから」「ボイン喫茶」と名づけていたところだが別にボインがどうとかいう以前に雰囲気が気に入っていただけに残念だ。

さらば銀座茶廊、青春の幻影……。

仕方ないのでまたサンシャイン通りへ戻り、ロッテリアの2階のキリンシティで待つ。
その後吉田等と合流、河岸を変えておでん屋みたいなところに行って飲む。
そしたら飲み過ぎた。最近酒弱くなった。

11月2日(火)

仕事が早めに終わったので、神保町へ行く。
古書市をやっていたが、とても買う金がないのでチラッと見て素通り、平凡社ライブラリーの「日本残酷物語」を買いにいったのだがその前に「アイドルステーション」というアイドルプレミアグッズの店に入ってしまう(ちなみに「日本残酷物語」は、書泉にも三省堂にも売っていなかった)。
入ってしまったら3000円くらい買い物をしていた(笑)。

それにしてもZARD(旧名:蒲池幸子)が載っていると古雑誌の値段が10倍に跳ね上がるので迷惑この上ないが、まぁこういうのはよくあること……。
それと、やたら寺尾由美立花理沙のグッズ(200円〜500円くらい)があるのが目をひいた(たまたま「た」の行を見ただけなんだけどね)。
ポスターやビデオなどはわりとあるが、ツマンナイもの(エアコンのパンフレットとか)は見たらゲットしとけ! ってのがひさしぶりに行った感想ですね。あ、森高千里とか石田ゆり子みたいにプレミアついてるなら別だけど。
石田ゆり子掲載の雑誌は総じて高かった。こういう「いつの間にか水着にならなくなる」タイプはそういうところがあるかもしんない。

それにしてもいまだに「お宝」系の雑誌で特集が組まれるZARD(蒲池幸子)。
「お宝」というとほとんど蒲池幸子の代名詞のようだ。

家に帰ったら吉田等から電話、明日のレヴォは仕事で遅れるという。大変ですな。
承知したが「たの午後」の最新号(17号)がないことに気づき、ほんの少しコピーして製本する。途中からメンドくさくなってきたのでヤケになって酒飲みながらやって、寝る。

11月1日(月)

テレビ日記

「出動!! ミニスカポリス」
新人ポリスの永井流奈が、幅跳びをし、規定のラインを越えられなかったらコスプレをするという企画で、マットの横にコスプレ衣装が置いてある。
永井流奈は、段取り通りの衣装のところに着地するのに一生懸命になっていた。

警部補「零士」という人が、ニューキャラとして以前からいる。
「カリスマホスト」らしい。
ふだんどんな年齢層の女性を相手にしているのかわからんし、顔以上に年食っているのかもしれんが、
「態度がエル」という言葉をひさしぶりに聞いた。

個人的に彼のような半シロウトをテレビで定期的に見るので、なんだか嬉しい(笑)。欽ちゃんファミリー遠くなりにけり。

「嵐のV1」
ジャニーズの子たちがゲームなどをする番組らしい。一瞬だけ見たら、田代まさしが司会だった。
ここまで鉄板で固められれば実にわかりやすい。

しかし、無防備に見ていてガクゼンとしたことも確かだ。
やれおニャン子がどーの、チェキッ娘がどーのとバカを承知で書いてきた。「こんな企画があって面白かった」とも書いたりしてきたが、この「嵐のV1」はまさにその「男の子版」だ。

たぶんネームヴアリューはチェキッ娘の比ではないんだろうけど(もちろんジャニーズの方が上)、どちらも「異性のファンを強力にとらえ、同性のファン獲得には関心がない」ことで共通している。
「モーニング娘。」や宇多田ヒカルが女性ファンを獲得していることと対照的。
また「ビジュアル系」のようにゲーム番組なんかに出ない、というスタンスでもない。むしろゲームが仕事。
これは「乙女塾」や「チェキッ子」と好対照。
なんて当たり前のことなのだろうが、目の当たりにすると呆然と立ちつくすオレ様。

ファンの女の子の黄色い声、ジャニーズの少年たちのファンにとりかこまれて適度にリラックスした感じ、例によってサングラスの奥の目が死んでる田代を見ていると、
「実は面白い企画があるのでは?」などと思い見てみる気など、瞬時にふっとんでしまう(SMAPの番組とか好んで見る男の人もいるだろうけど、私はちょっとダメだなあ)。

要するに私の感じるつまらなさを、多くの女性は「DAIBAクシン」などを見て感じているわけで、単純に物事を反転させると見えないモノが見えてくる好例でした。
まあ「何を今頃」って話だが……。
書く前は大発見のような気がしていたが、いざ書いてみると非常につまんない話になりました。
すいません。

「鶴田真由の『ショパンへの手紙』・作曲家を愛した女達」
仕事場で眺めた。鶴田真由がショパンの足跡を辿る、という旅行記みたいな番組だったが、彼女がショパンに語りかけたり、なんか「どうよ!? 合うでしょ絵的に、鶴田真由ってショパンにさあ!!」と言わんばかりの番組構成に怒りすら覚えた。
鶴田真由が本当にショパンに手紙を書き、それを映しているのもなんだかムカついた。それはどうやって届けるんですか? タイム・マシンでですか?
鶴田真由がショパンの肖像画を眺めてつまらん感想を言うシーンには悔しくて涙が出た。

別にだれがどんなこといったって肖像画の感想がテレビ的にかくべつ面白いものになるとは思えないけど、
好きでもない女の子に興味のない美術館をひっぱり回されているような感じだった。
そんでわかったようなわからないような感想にいちいちこっちが相づちうたなきゃなんなくて、気のない返事をしたら瞬時にそれを察知されてさあ……(妄想)。まあその点、鶴田の感想は明確ではあったがな。それは認めよう。鶴田よ。

同志鶴田よ。同志ではないですけれども。じゃあ同志真由。

「わらいのじかん」
テレビ朝日の、吉本が強力にバックアップしたような体裁のお笑い番組。
メーン司会が松本と今田。後は中堅と若手、ゲストみたいな感じでベテランが出る。

第1回ゲストが……すでに忘れているが島田紳介と西川きよしだったかな。
まず冒頭、「エキセントリック少年ボウイ」風のヒーロー主題歌のような曲が流れる。
これを松本と今田が歌っている。内容は「お笑いの基準は本当にむずかしい」という歌。
これ自体はけっこう面白いと思うのだが、「吉本を盛り上げよう」という主旨とはまったく別個に、松本(たぶん松本)の冷たい視線から「お笑いのむずかしさ」を視聴者に提示しているように感じる。

「芸人はゲームをやってもゲームの勝敗ではなく、笑いをとれるかどうか考えている」ことをわざと視聴者に露呈させる、ということはずいぶん前からなされてきていることだが、この曲は番組冒頭にどかーんと出てくるだけにインパクトが強い。

最近ではうっすらヒゲをはやしてキャップを目深にかぶった松本が、タバコをふかしながらお笑いについてむずかしげに語る、というようなローテンションな「絵」が定着しつつあり、なおかつやってることも「ちょっとわかる人にしかわからない領域」の笑いになっていた。その松本が、現在ハデな衣装を着てゲーム的なことをやると、すごい浮く。

第1回目は紳介がその違和感にツッコミを入れていたのでまだしもだった。
そして第2回目、「ヘッドボウリング」(頭でボウリングの玉を転がし、受け止め合う)なるゲームはゲーム自体がたいして面白くなかったり大人数出てきたりする、その中の松本は「ごっつええ感じ」のチームファイトとあまり変わらない。

変わらないのだが、冒頭に「お笑いの基準は本当にむずかしい」なんて歌われているもんだから、「松本はこうしたゲームを心底バカにしているのではないか」、「視聴者は試されているのではないか」と妙な勘ぐりをしてしまい(私だけか……?)まったく笑えなかった。

番組全体としては、あいかわらずムダな発言テロップが頻出するのと、それだけでも足りないと思ったのか本来の司会進行以外に「影の声」みたいな女性のナレーションが「あれれ、だいじょうぶなの〜!?」などとときどき入ってきたりするところがダサすぎる。
そこだけなんだか70年代的。

また、番組の間に流れる「タケシムケン」のCMで梨花(りんか・サッカーの柳沢の彼女)が出ていたのをチラッと見たが、わずか数秒で新田の神経を逆なでする女に決定。またこういうのが出てきた、って感じ。
こういう「芸能界人」みたいなスタンスをウリにする人、いろいろ出続けてきて「ロボコン」から始まって、「ロボット8ちゃん」とか「カブタック」とか「ロボタック」とかいろいろあって、一回りして「燃えろ!! ロボコン」に戻ったみたいな印象でした(あ、このシリーズは好きだけどね)。



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