SFおしかけ女房 はじめに



一気に下まで行きたい

・はじめに(あるいはおわりに)(「SFおしかけ女房」とは何か?)2009年5月7日執筆)
・はじめに(「SFおしかけ女房」とは何か?)99年2月23日執筆)
・はじめに(「SFおしかけ女房」とは何か?(改訂版))99年2月23日執筆、2002年9月30日リニューアル)





・はじめに(あるいはおわりに)(「SFおしかけ女房」とは何か?)2009年5月7日執筆)

この「SFおしかけ女房」のコンテンツだが、
そのジャンルのあまりの多さに、データベース的な役割を担うことはほとんど不可能になってしまった。
なにしろ、もう最初にコンテンツとして立ち上げてから10年経ってしまったのである。

「はじめに(99年版)」「はじめに(2002年版)」との間にも、だいぶ変化があった。
そして、現在は2002年版から7年(正確には6年半くらいか?)も経っている。
その間にも、このジャンルにはまた変化が起こったように感じる。

現在までの流れをざっと書いてみたい。
なお、発祥の年代特定などはだれか学者さんがやってください。
論文を書く際、このサイトを参考文献として記してくれれば、私も悪い気はしません。

・「ハーレムラブコメ」の確立
「はじめに(2002年版)」当時には「ラブひな」の連載はすでに終了している。そして「魔法先生ネギま!」が2003年より連載開始。この流れはもう止められない、という印象があった。
「はじめに(2002年版)」でも触れたように、「SFおしかけ」の男女の人数比率は1対1、あるいは1対3、程度のものだったのが、次第に女の子たちの人数が増え、「ネギま!」では30人もの大所帯となる(それまでにも12人もの妹が登場する「シスター・プリンセス」(アニメは2001年)なんてものもあったが)。

・「あずまんが大王」的、「男の子不在の柔らかい世界」の登場
「SFおしかけ女房」ジャンルと直接関係は無いが重要要素のひとつに、「女の子ばかりがキャッキャ言うマンガ、アニメ」の流行がある。
1999〜2002年にマンガ「あずまんが大王」が連載、その後アニメ化もされ今でも人気がある。「あずまんが大王」は、女の子を中心とした女の子の世界だった。もちろん、それは共学か女子校かは関係がない。
後に似たような作品がどんどん続いた。「らき☆すた」や「けいおん!」などは典型的な例だろう。
これはマンガ史全体でも重要なポイントである気がする。というのは、男性向けで「かわいい女の子を登場させる」場合、「あずまんが大王」以前は、ラブコメ風味にするか美少女そのものを主人公にするか、SFおしかけパターンにするかくらいの選択肢しかなかったからだ。
「美少女そのものを主人公」に関しても、主人公が女の子であるというだけで当然、男性も登場する。
とくに80年代のそれは、中心となる美少女がいて後はオマケ、みたいな布陣だったから、美少女同士の関係性を楽しむ「あずまんが大王」以降のマンガとはかなり違うのである。

ツンデレ、もしくは「猟奇的な彼女」の大量投入
ライトノベル「涼宮ハルヒの憂鬱」が2003年刊行。アニメは2006年。
自分勝手で変人のハルヒが周囲を巻き込んであーだこーだという話。ハルヒが厳密に「ツンデレ」かどうかは私にはよくわからんのだが、少なくとも「主人公の男の子に対して非常に暴力的に接するヒロイン」の、それ以前にもあったかもしれないがメルクマール的な存在であることは間違いないだろう。

「ハルヒ」は「SFおしかけ女房」パターンにおいていくつかの重要な変化を示唆している。
ひとつは、中心(あるいは本命?)ヒロインであるハルヒが、それまでのラブコメパターンとは相当異質な性格設定がなされ、なおかつそれが受け入れられたこと。
もうひとつは、長門やみくるなどの設定に「SFおしかけ女房」パターンが一周回った感が感じられることである。
「ハルヒ」自体は、SFおしかけ女房だとかハーレムラブコメだとかに区分される作品ではないと思うのだが、その設定や展開はそれらを踏まえていることは間違いないだろう。

もうひとつ、ハルヒで思い出されるのは「長門は俺の嫁」というようなオタクによる「俺の嫁」発言である。
「俺の嫁」という言い方がなぜ流行ったのかは、ネットで検索してもはっきりした答えは出てこないようである。しかし、オタクの高齢化や結婚願望とはあまり関係がないであろうと思う。

ここ10年で男女平等化が進み、男性側からは女性が強くなったと感じられた(いちおう書いておくが、いまだ達成されない女性差別の撤廃等の諸問題はここでは置く)。
恋愛の主導権は女性側(正確に言えば「勝ち組候補」の女性たちか?)が握ることになる。

そうなってくると、男性側の選択肢はいちじるしく狭くなり、「翻弄されること」に喜びを見出すしかなくなってくる。
あるいは、「自分は振り回されているようで振り回しているのだ」というややめんどくさい思考過程を経て、「男」としてのアイデンティティを保持する。

「ツンデレ」に関しても、ツンツンしたというかそっけない女性たちが、「自分にだけは愛嬌を見せてくれる」という幻想であり、「そっけない状態」ありきになっている。
80年代、90年代初頭までと比較して、女性が「女は愛嬌」と言われてだれかれかまわず愛想を振りまくような時代は終わったということだろう(女性間で人気のない、反感を買う女性が、男性に八方美人的に愛想をふりまくタイプだということに呼応している)。

・世間への認知としての「電車男」
書籍化が2004年、ドラマ、映画化が2005年のこの作品も「SFおしかけ女房モノ」との関連で取り上げておきたい。
この2004年〜2005年にオタク周辺で起こったことというのは、少なくとも宮崎勤事件直後と比べると格段にオタクの扱いが認知されたということである。「電車男」のヒットはそういう意味で象徴的であった。

・恋愛至上主義批判問題
そして「電波男」も2005年の刊行。
このあたりで「SFおしかけ女房」や「ハーレムラブコメ」の享受者にはある種の開き直りが見られるようになり、ほんの少しだけ、ギリギリ、指が「リアル」にひっかかっていた妄想度高めなラブコメジャンルは、それ自体の背徳的な意味あいが曖昧になってしまったと感じる。
もちろんそれは電車男のせいでも電波男のせいでもなく、現実世界で核家族化や少子化問題などに拍車がかかり、地縁・血縁関係の解体に歯止めがかからないということが影響しているだろう。
なぜなら、旧来の「SFおしかけ女房もの」の行き着く果ては「幸せな結婚生活」であると設定されることが多かったからで(それが実際に描かれなかったとしても)、そのお手本は祖父・祖母との同居経験のある世代の、ニューファミリー構築者たちだったはずだからだ。
しかし、熟年離婚だなんだで、そうした幻想も崩壊しつつある。
またそれは、(異論もあろうが)女性の生き方が多様化していることとも関係しているはずである。
いいも悪いもなく、それは「現象」として顕現する。

・女装少年の出現
「女装少年が、男子禁制の女子寮に女の子として入学する」なんてストーリーも、決して少なくない量、出てくるようになった。これらは男のショタ好きやら何やらと関係してきて考察するのが面倒なんだが、とにかく、「SFおしかけ女房もの」が90年代初頭くらいまでよくも悪くも残していた、「70年代的マッチョイズムの残滓」はこの辺で完全に払拭されることになった。
もはや少年はフィクションの世界ではマッチョでなくていいし、女の子をリードしなくていいし、逆にリードしようなどと思ったら「口より先に手が出る」ような血気盛んな美少女にボコにされないともかぎらない。

彼らはそれでじゅうぶん幸せで、そこにも不満があったら「自分は踊らされているのではない。踊っているのだ」と思えばよい。
これが2000年以降、不可避的に進行してきた流れであり、実は強固に現実と対応しているので容易には崩れないもののように思えるのであった。

・「私、ドMなんです」
さらに現在、女性タレントが平気で自分の嗜好として「S」か「M」かを公言する時代となった。まあ血液型占いのような、単純な性格自己評価の新基準にすぎないと思うが、「キャンパスナイトフジ」という番組で女子大生十数人に「自分のことをSだと思う人、Mだと思う人」と手を上げさせて、みんな普通に上げていたのには驚いてしまった。

男性もふざけてそういうことは言うが、とくに女性タレントが「ドM」を気取っているのが注目すべきところである。実は、テレビという媒体においてはまだ旧来の性役割にこだわっている世代も視聴者であり、そういう層には「Mである」ということは「従順」を意味する。
しかし、若い世代にとっては「私、ドMです」が、「私って、わがままです」とほとんど同義なのは理解されよう。
ちょっと前、監禁王子が「SはサービスのSだ」と言って話題になったが、実際にSM系の実践、妄想サイト双方で似たようなことは以前から言われていた。

何が言いたいかというと、「ドSか、ドMか」を簡単に語りうるということは、性役割が現実世界でも少なくともセックスにおいては交替可能だということの表れなのではないかということである。

・かくて……
以上、簡単にここ7年くらいの流れを大急ぎで見てきた。
確実に言えるのは、2000年代に入ってからパロディやライトな分野でも「少年いかに生きるべきか」の方向性が変わってきているということである。簡単に言えばマッチョイズムの大幅な、ほとんど消滅に近い後退である。

統計を取ったわけではないが、「本命キャラ」はたとえばベルダンディーのようなおっとりタイプから、「ツンデレ」だとか「やたらと暴力的な少女」に取って代わってきている印象がある。

同時期に並行して起こったのは「オタクの浸透と拡散」である。このため「SFおしかけ女房パターン」も、80年代から90年代にかけてよりも量産されるようになった。

そして、「オタクが浸透して拡散」する一方で、ますます、自分には異常と思えるほどコミニュケーションスキルが生き抜くための重要な要素となってきた。
オタクはもともと群れる存在なのでコミニュケーションは不可欠だし、日常生活においても仕事、恋愛、結婚とどんどん自己責任比率が高くなっているということは、それだけコミニュケーションスキルの重要性が個々人に重くのしかかってくるということである。

80年代はまだ良かった。「SFおしかけ女房もの」は、能天気な願望充足モノで済んでいたから。そこに潜む欲望の源泉も、私にとってはたやすく抽出できた。

しかし、2000年代に入ってからは、正直もうよくわからない。

妄想の世界では、オタク男性は女性に同化したいと思っている、としか思えなくなった。
ときおり、オタク妄想の中では男は「劣った女性」でしかない場合すら、ある。
しかし、それはもう80〜90年代とはまったく違った物語構造である。

男性が女性になることは、ぜったいにできない。オカマというかニューハーフみたいになれる人もいるかもしれないが、それはごく一部の話しだし、多くの男性たちは、どうもセックスにおいては男性の快感を保持しつつ、かわいい女の子になりたいと願っているらしい。

自分にとっては、それはあまりにもピンと来ない願望である。この文章のタイトルに「あるいはおわりに」と付けた理由は、そこにある。
(2009年5月7日)



・はじめに(「SFおしかけ女房」とは何か?)99年2月23日執筆)

この地区は、「ふぬけ共和国」内でも一種独特な世界、地獄地震後の関東で言えば「ミッドタウン」のような比較的平和な地域である。

 「ああっ! 女神さまっ」とか「電影少女」などの、超能力を持った女の子が男の子の家に住みついて大騒動、といった一連の作品は、「女ドラえもん」モノとも言われるとか言われないとか。

まあかわいい女の子が家に住みついて、困ったときには超能力でなんとかしてくれるというのだから「女ドラえもん」という言い方もわからなくはないが、これは悪意をもった命名であって(笑)、
本当は 「SF押しかけ女房モノ」とでもいう方が
正しいと思う。

「うる星やつら」のラムちゃん、「GOD SAVE THE すげこまくん!」のM1号などはその典型だろう。
「ウイングマン」のあおいさんもそうか。マイナーどころやHマンガを合わせたら、その数は膨大なものになる。サブジャンルを形成しているといっていい。
よく安易に「都合のいい女」を描くという批判を受けるこのジャンルだが、
実はメインテーマは「他人に必要とされる恍惚と不安」である。
主人公はたいていダメ人間でヒョーロクダマだが、ある日何らかの理由(それは極端に、一方的にヒロインの女の子の都合によることが多い)で結婚なり同居なり戦士として戦うなり「もろもろのこと」をせまられる。主人公は当初とまどい、迷惑だと思うが、
話が進むうち、「必要とされる」ことの大切さを知る。

 このパターンをまったく逆手にとった永野のりこの「みすて・ないでデイジー」を読むと、私の言うことがあながちコジツケでないことがおわかりいただけると思う。
これは自分が社会に「必要とされていない」と思い込んでいる主人公が、自分の女の子に対する恋愛感情を「外部から来たもの」だと思い込み、普通の女の子を外部から来た「宇宙人」として認識するというものだった。

女の子が外部からやってきたアンドロイドだったり宇宙人だったり異次元人だったりすることによって、「必要とされることの不条理さと快感」はきわだつ。

……などと書いたりしたのが2、3年前だったが、その後
ちょっと決め打ちしすぎたかな、っつーのがありますな(笑)。

「ただ都合のいいだけ」な話も
ゴマンとありました(笑)。
 まあ、ここは数読めば何かが見えてくるかも、な地区である。気楽に行きましょうや。(99.0223、滑川)


・はじめに(「SFおしかけ女房」とは何か?)(新田五郎、ふぬけ共和国・マンガ2002年9月30日リニューアル)

当コンテンツをつくって、3年以上の月日が流れた。「うる星やつら」のラムちゃん、「GOD SAVE THE すげこまくん!」のM1号、「ウイングマン」のあおいさん、そして「ああっ! 女神さまっ」や「電影少女」……。これらのような、超能力を持った女の子が男の子の家に住みついてラブコメチックな大騒動が起きる一連の作品は、マンガだけに絞ってもあまりにもその数が多い。
そこでこれらを
「SFおしかけ女房モノ」 と名付け、手当たり次第に集めてみようと考えたのが当コンテンツの主旨だった。

この3年で、若干動きがあったように思うので自分なりにフォローしてみたいと思う。
まず「女ドラえもんモノ」という言い方は、さすがに現在も定着はしていないようだ。ただし、なかなかにジャンルの本質を言い当てていないこともないので、保存はしておきたい気はする。

他にも「同居系」(「戦闘美少女の精神分析」←(私の感想文))とか「オチもの」などのジャンル名が冠される場合があることを知った。まあ厳密に言えばそれぞれ若干の違いはあれ、現在ジャンルとして認識されていることは間違いないと思う。
ところが、認識されだしたということは、すでにジャンルとしての訴求力が落ちてきているということも言える。簡単に言えば「またコレだよ」と読者に思われてしまうということである。
また、ギャルゲーの浸透やそれに伴う女の子のキャラクター付けの定型化(こういうコを出したら当たる、という感じの)が進み、「女の子をたくさん出せばより読者への間口が広くなる」ということなのか、「出てくるヒロインの人数がやたらと多い」作品が「SFおしかけ女房」や「少年ラブコメ」をまたがるカタチで出てきている。
個人的には、「パイルダーオン」や、せいぜいジェットスクランダーとの合体くらいしかしなかった「マジンガーZ」から「ゲッターロボ」を経て、どんどん分離・合体の機体が増え、しかもひねくれた合体をするようになっていった80年代巨大ロボットアニメのエスカレートを思い出すが……。

とにかく、女の子の人数が増えるにともない「SFおしかけ」のように女の子の方から独り暮らしの主人公の部屋へおしかけてくる、という展開よりも「女の子がたくさん住んでいるアパートとか寮に、主人公が引っ越してきた方が早い」という逆転現象が起こることになった。こういう作品は、マンガにおいて過去なかったわけではないが、出てくる女の子の特徴(=属性)がそれぞれ非常にハッキリしている(悪く言えばパターン化)していることが相違点である。

原点は不勉強にしてわからないが、「ああっ女神さまっ」において浸透したと思われる「女の子が複数出てくるときは、ピュアな美少女、タカビーおねえさま(もしくはお嬢様キャラ)、ロリコン少女」という3大キャラ分けがさらに分岐してきている印象だ。

もうひとつの変化は、主人公が「女の子ばっかりのある意味閉鎖空間」に入ることにより、ユートピアがさらに密室化というか現実世界との接点がなくなってきているということ。「SFおしかけ」においては、いちおう「アパートで独り暮らし」とか「両親が海外に行っている」などの「女の子が転がり込んできても問題ないっぽい」設定がつくられていたが、現在の「女の子がやたらいっぱい出てくる少年マンガ」では、もう女子校とか女子寮とか孤島の学園とか、外部との接触はほとんど問題とされない舞台設定が多くなってきている。

このように、いろんな意味でハイパー化した「SFおしかけ女房モノ」は、もはや「おしかけ女房」というより「ハーレム」に近い。仮に「ハーレムもの」とでもしておくが、これからは「ハーレムもの」の時代になるのかもしれない。

一方で、ライトノベルやアニメ作品のパターンとしては「SFおしかけ」がしつこく残っている現状もある。今後、20世紀末までのマンガの1パターンとして消えていくのか、あるいはしつこく生き残るのか、ジャンル的にも過渡期に入っていくと思う。

当コンテンツにおいては、私自身の怠慢もあって「SFおしかけ女房」考察に当たって重要である80年代後半(「うる星以降」)や90年代中盤以降(「女神さまっ」以降)の作品のレビューが足りず、我ながら困ったモンだと思っている。
さらには「うる星」以前、「可愛い魔女ジニー」などのアメリカ製シチュエーションコメディにまでさかのぼらなければならないのだが、私の勉強不足でそこら辺はいまだお留守になっている現状である。

そのようなことを、のんびりと見守っていけたら嬉しいと思う今日この頃だったりする。
(99.0223、02.0930全面改稿、新田五郎、ふぬけ共和国・マンガ

ここがいちばん下です
SFおしかけ女房 もくじに戻る
トップに戻る