「SFおしかけ女房」もくじに戻る
「SFおしかけ女房その2」
一気に下まで行きたい
・「おてやわらかに ぴんく!!」 全3巻 遠山光(1985〜86、講談社)
・【映画】「ラブアンドロイド・チェリー」(1986、アメリカ)
・【映画】「天使とデート」(1987、アメリカ)
・「ああっ 女神さまっ」 藤島康介(1989〜、講談社)
・「てんで性悪 キューピッド」 全3巻 富樫義博(1990、集英社)
・「おしかけ聖天使っ!」 にしき義統(1995、富士見出版)
・「愛 Doll(アイドル)」 全2巻 のでらゆき(1991、講談社)
・「AI(アイ)が止まらない!」 赤松健(1994〜、講談社)
・「まもって守護月天!」 桜野みねね(1997〜、エニックス)
・「陰陽天女」全4巻 みなみりょうこ(1996〜98、講談社)
・「NaNa(ナナ)」(1)〜(4) 綱渕貴仁(1996〜98、講談社)
・「戦うメイドさん!」(1)〜(2) 西野つぐみ(1998〜、ぶんか社)
・「しらぬGA宇宙人(エイリアン)」(1)〜(2) 東直矢(1998〜、秋田書店)
・「弁天様には言わないで」(1)〜(2) 鶴田洋久(1998〜、集英社)
・【ドラマ】「千年王国三銃士 ヴァニーナイツ」(1999、4月〜、テレビ朝日)
監督:スチーブ・ドジャーネット
主演:メラニー・グリフィス
「暴力の横行する未来社会を舞台に、真の愛を求めて過酷な旅を続ける男の闘いを描くSFアドベンチャー」、「グリフィスのセクシー演技が見もの」ってTVブロスの紹介欄に書いてあった。
あらすじは、「チェリー2000」というセックスアンドロイドを主人公が間違えてぶっこわしてしまう。
「チェリー2000」は旧式なので、ボディはもう売っていない。幸い記憶の入ったCDは無事だったので、新しいボディを手に入れればチェリーは復活するが、それはものすごく危ない盗賊のいっぱいいる地域にしかない。
典型的な退廃した未来。主人公はチェリー以外には興味がないんだが、同僚に誘われてお見合パブみたいなところに行く。
ここではおのおのがカードを持参する。それを機械に差し込むとセックスの趣味とか
相性が水晶玉みたいなものに映し出されて、そこで気に入った男女が「膣に舌を入れてもいいか」など(そのまま〜)かなり細かいところまで契約を交わし、合意のうえで性交する。
外見は二枚目風の主人公は、ヤル気もないのでカードを持ってきていないんだが、そこへその気になったおねーちゃんが寄ってくる。でもカードがないことを知るや、
「あんた何しに来てんの!? バカじゃないの!?」
とムチャクチャののしる(このののしり方がすごい)。
主人公は危険な仕事を引き受ける女何でも屋とともに、チェリーのボディ奪還に出向くことになる。
主人公はときどき小さいテレコでチェリーの声を再生させては、思い出にひたる(それがものすごい媚び媚びの声)。それに気づいた女何でも屋が、いちいちそれを口マネして男をバカにする。
最終的には2人しか乗せられない飛行機にチェリーか女何でも屋かどちらを乗せるかで、チェリーの方を置き去りにしてしまう。主人公と何でも屋はくっついてハッピーエンド。
だいたい思ったとおりの話でした。チェリー役の人より何でも屋の方がずっとたくさん出ていたが、チェリーの方が有名なのか? よくわからん。
本作そのものは「SFおしかけ女房」ではなく、「失われたSFおしかけ女房の奪還」みたいな話ですな。
なぜ直接関係ないのにここにカテゴライズしたかというと、本作を見ると「SFおしかけ女房モノ」とは「零落したマッチョイズムのグダグダなカタチ」、あるいは
「理想社会のはずがマッチョ不在な世界」ということが言えるんではないかと思ったから(仮説)。
そう考えると、「SFおしかけ女房モノ」が「おおっぴらに好きとはいいがたい」ジャンルでありながらもしつっこく生き延びてきた理由がワカル……というか早合点……できそうな気がしますな。
ちなみに、たいしたセクシー演技はありません。
(98.0403、99.0804、滑川)
監督・脚本:トム・マクローリン
主演・フィービー・ケイツ、エマニュエル・ベアール、マイケル・E・ナイト
社長令嬢(フィービィー・ケイツ)との結婚披露パーティの日。
内気な主人公(マイケル・E・ナイト)は憂鬱だった。
彼女を愛してはいたが、結婚すれば作曲家になる夢を捨て、彼女の父を手伝い実業家にならなければならない。
悩む彼のもとに、とつぜん天使(エマニュエル・ベアール)がおちてくる。
彼女は羽を少しケガしてしまい、飛ぶことができない。
天使を保護して逃げ回るうちに彼女を愛しはじめる主人公、怒るフィービィ・ケイツ、天使を見世物にしてひと儲けしようとする悪友たちなど、多数の人が巻き込まれ騒動になっていく……。
これぞ西洋の「おしかけ女房モノ」だ(ホントか?)(笑)。
ただし、ステロタイプな世話焼きはいっさいしない。
むしろ保護してやるのは主人公の方である。天使は人語をしゃべらない。「鳴く」だけである。
フライドポテトを好んだりするところなどは、すべて「鳥」のたとえなのだろう(いやなんか、ウチで飼ってるチャボはフライドポテトとかを好んで食べるんで……)。
内容は、「作曲家を目指していたものの煮詰まり、あきらめたところにフィービィ・ケイツと出会い、結婚に至った。しかし天使の純粋さを見て、再び芸術家ダマシイが頭をもたげてきた主人公が……」というアメリカ映画にありがちな「本当の自分に出会い云々」なパターン。
しかし、別にそれを掘り下げることもせず、単なるストーリー進行の道具、みたいな感じなのでイヤミもなく、それでいて「おいおい、『本当の自分』を描けばOKかよ」的なところもない。よいバランスである。
それより何より、この映画はただひたすらに美しい天使(エマニュエル・ベアール)とアメリカの森尾由美(笑)&小沢なつきであるフィービィ・ケイツのかわいさを堪能する映画であるので、余計なことは言いっこナシ、なのだ。
なお日本語吹き替え版では、ほとんどセリフのない天使の声を井上喜久子がアテている。
アニメ版の「ああっ 女神さまっ」でベルダンディーをやったヒト、ということだが果たしてどちらかがどちらかを狙ったのか???
エマニュエル・ベアールは、映画「美しき諍い女」(91年)で絵画のヌードモデル役をやった人です。
(99.0117、0803、滑川)
月刊少年マガジン連載。
欲望のかたまりのような少年・風水慎吾(かざみ・しんご)がアヤシゲな老人から買ったピアスは、付けた者の欲望の質と量に応じて「陰」の世界から「陽」の世界(つまりこちら側)に妖怪を呼び寄せてしまうモノだった。しかも一度付けたらはずれない。
こちら側の世界にやってくる妖怪を退治するため、陰陽天女・素蘭(すーらん)も陰の世界からピアスを通じてやってくる。
だが妖怪もなかなか手強い。素蘭の最後の手段は、「自分のパンティを護符に変え敵に投げつけること」。だが陰陽天女のパンティは、ピアスを付けた者(つまり風水慎吾)でなければはずすことができないのだ。
……というわけで毎回ケンカしながらも、素蘭と慎吾は妖怪を退治していく。
本作は、「おしかけ女房モノ」という基準には、正確にはあてはまらない。素蘭の目的はあくまで妖怪退治であり、たまたま慎吾につきあわされているにすぎない。
もちろん、だんだん慎吾を好きになっていく過程は描かれているが、初期は妖怪との戦闘アクションがメインになっている。
主人公が天女である等々から、「女神さまっ」の系譜であることは間違いないので、ここにカテゴライズさせていただく。
驚くべきは最終巻。まるまる1冊使って、慎吾と素蘭が人間の男女として愛し合うまでを描いているのだが、今までギャグっぽく描かれてきた「慎吾の欲望」(「うる星」のあたる的煩悩に近い)が、実は寂しい幼年期に起因していることになる。
「神」である黄龍の力によって過去を追体験した慎吾は「人間になって慎吾を愛したい」と言う素蘭を守り抜く、と断言するまでに成長する。
少年マンガでは、邪悪な方向でないかぎり「欲望」はおうおうにして肯定される。欲望の強い者が主人公である、と言ってもいいほどだ。しかし本作は主人公の「欲望(金、色欲、見栄など)」を方向性によりマイナスととらえ、それを克服することを描いた比較的珍しい作品と言える。
それにしても、スケベ本見ているだけで妖怪が出てくるシーンには少し参ったなぁ(笑)。
絵柄もパターンもラスト近くなって変質していき、あとがきでは作者自身に劇的な心境の変化があったことが告白されている。その変質そのものの善し悪しや作品への影響などはひとまず置くとしても、プログラム・コミックの代表格とも言える「おしかけ女房モノ」において、かなり作家の声がムキダシになったあとがきが載っていた事実は、あまりにも工業製品的な作品評価もまた危険であると自省をうながしているように思う。(99.0622、滑川)
成年コミック。
Hマンガでは「おしかけパターン」は死ぬほどあり、いちいち拾っていてもキリがないし、おしかけてきていきなりHしてしまうのも「おしかけ女房モノ」という分類ではなんか違うような気がするので基本的にチェックはしていない。
が、本作「おしかけ聖天使っ!」はタイトルに「おしかけ」と付いているため見過ごしにするわけには行かない。
結論から言えば、げんみつには新田的「SFおしかけ女房モノ基準」には入らない作品であると言わざるをえない。「言わざるをえない」からといって、それが作品評価とは何の関係もないこともまた当然なのだが。
(あらすじ)
高校教師・安東勇気の前に、とつじょエルフ耳の美少女があらわれる。名前は「時空監視官第六位 ナージャ」。魔法文明の発達した「別の時空の地球」から来たナージャは、魔法を使って悪さをする者をとらえるために安東の住む「こちら側の」地球にやってきたのだ。魔法でつくった忠実なしもべ(美少女の)チェーナとミエーレを従えた彼女は、かつて戦いで死んだ自分の兄のおもかげを安東に見たために、イキナリ安東とヤってしまう(兄さんと近親相姦していたらしい)。
その後「虫使いのザラ」という美少女悪党との戦い&Hがえんえんと繰り広げられ、最後は安東とナージャがザラを倒して、完。
(感想)
最初にヤってしまっては、ふつーの恋人同士かセックスフレンドなので、「おしかけ女房モノ」とは言いがたい(げんみつに、どの作品にもあてはまる基準ではないのだが、その理由は後述する)。
ここに「安東に兄のおもかげしか見ていない」ナージャと安東が、本当にそれぞれを認めあって再結合する、という展開になったとしても、それは「おしかけモノ」とは言えないだろう。
では逆に、本作から「おしかけ女房モノとは何か」を考えさせる基準がわかるかもしれない。しばし考えてみる。
そのいち イキナリ美少女が少年のところにおしかけてきて、同居する。
そのに この美少女は、たいてい不思議な力を持っていたり、謎があったりする。
そのさん 何らかの理由により、少年と美少女はヤらない。
そのよん いくつかの事件を経て、ラスト、今までの関係性をチャラにした2人は別の関係で向き合うか、または別れていく。あるいは同じ関係がかぎりなく続いていく。
「そのいち」は、実は絶対条件ではない。
「理想の美少女」としてアンドロイドをつくったり、パソコンで疑似恋人をつくったりするパターンもある。
「そのさん」も、実は絶対条件ではない。これを四角四面にあてはめていくと、Hマンガがひとつも入らなくなってしまうからだ。
「おしかけ女房モノ」は、「エロコメ」と同様、「ホンバンを描けない」という規制が大きな枷として成り立っている部分が大きいのだが、では描けるからといって「おしかけ女房」ジャンルが消滅するわけではない。
要は「少年と少女(男と女)の関係」のギクシャクさそのものが物語を動かす原動力となっていればよいわけで、それが多くの場合「恋愛関係も肉体関係もないのに同居している」という理由であるにすぎない。
たとえば「GOD SAVE THE すげこまくん!」(ごめん、最後まで読んでないんだけど……)の、すげこまとM1号の関係。
M1号は、松沢先生に憧れるすげこまがつくった、松沢先生ソックリのロボットである。すげこまとM1号は、おそらく肉体関係がありそうなのでそれだけを取れば「おしかけ」でも何でもないのだが、「あまりにも自分の妄想を基準に造りすぎ、すげこまは自分の妄想そのものを見ているようでイヤになる」というのが、すげこまとM1号との「ギクシャクした関係」であった。
その後、M1号はすげこまのもとを逃げだし、名前は忘れたが暗いマンガ家志望の青年の家に転がり込む。
こっちの関係の方が、より狭い意味での「おしかけ女房モノ」ではある。
つまり「SFおしかけ女房モノ」とは、主人公が「現実の女性」、すなわち「他者」との「まともな関係性」をつくろうとするか、拒否するか、とにかくそうした「ギクシャク」で動いている、と仮定していいだろう。
この「まともな関係」というのは一般的な恋人同士のことで、ここらへんがア・プリオリに定められているところが、よくも悪くも「おしかけ女房マンガ」の限界だと言えるだろう。その先を行くものは、正確には「メタおしかけ女房マンガ」だとでも言えばいいのだが、いたずらにジャンルばかり増やすのもばかばかしいのでいっしょくたにすることにする。
少年少女の「ギクシャク」が限りなく少ないと「ああっ 女神さまっ」になり、大きいとかけあい漫才のような「うる星やつら」になるのではないか。
物語内で、美少女はそれがオトコから見て「神秘性」を獲得しているうちには奇妙な関係が続くが、これが現実だと思ったとたん、彼は破滅するか、ちゃんと恋人同士になれるか、あるいは別れるか、ってなマルチエンディングになるんじゃないかと思うわけである。(99.0424、0622、滑川)
月刊少年マガジン増刊GREAT連載。
ごく普通の中学生・皆垣吾郎の家に、父の会社で開発中の家庭用アンドロイド・ナナがやってくる。
最初は受け答えもロボロボした感じだったが、充電の際直流と交流を間違えたためにちょっと壊れてしまい、人間の感情のようなものが芽生える。
一方、吾郎には梢野(しょうの)ことみちゃんというガールフレンドがいる。彼女が毎回吾郎とナナの仲を誤解したり、別の理由で吾郎とケンカしてしまったのをナナがとりもったりしていく……、というのがお話の基本パターン。
この話、吾郎とナナの関係よりも吾郎とことみの関係の方に重点が置かれているため、ナナの「おしかけ女房度」は比較的低いと言える。巻を重ねるごとに、ナナは自分が吾郎を好きなことに気づいていくんだが……。
「吾郎とことみのラブコメ」がハッキリしているぶん、「吾郎とナナの関係」もメリハリがきいているので、「ああっ 女神さまっ」ほどご都合主義感覚はナイ。
最大の特徴は、ナナを充電したり冷却装置を起動させたりといった「メンテナンス措置」をする場合、
また、ナナの妹ぶんとして「ハチ(通称ハチリン)」も登場。こっちはおちびさんだが積極的に吾郎を誘惑するという小悪魔タイプである。
絵柄は比較的マンガチック。「女の子を死ぬほどかわいく描いてやる!!」っていう気合いが伝わってきます。(99.0612、滑川)
マガジンスペシャル連載。両親がカナダに行っていて一人暮らしの少年・大海寺裕也は、ピンク色の子猫を拾う。「ピンク色だから、名前はぴんく」と名付けられた子猫は、なんと驚いたり怒ったりすると人間の美少女に変身してしまうのだった(超人ハルク???)。そこから起こる珍騒動を毎回描いたラブエロコメ。
「エロコメ」に分類できるかどうかわからないが、ぴんくが人間に変身すると100パーセントハダカになってしまうので、毎回ハダカが見られるという点では少年誌では「エロコメ」と言っていいでしょ。
ストーリーは、いろいろな場所(大学、温泉、テレビ局、結婚式場など)へ行ってはぴんくが人間やネコに変身して起こす騒動がメイン。途中からは裕也に言い寄る大胆な同級生・杉本真奈が登場。裕也を誘惑する。ぴんくは裕也を「だんなさま」と呼び、まわりからは「同棲している」と思われている。
裕也がぴんくと「ヤらない」理由は、「ネコだから」というひどく曖昧な感覚と、少年らしいストイックさが原因らしい。設定としての詳細は不明。
「おしかけ女房モノ」的には、発表年度が比較的早いこと(「うる星」より後、「女神さまっ」より前)、メジャー誌連載だったこと、ほとんどどこの古書店でも手に入ること(プレミアもなし)などから、ポイント的な作品である。
本書は、「おしかけ女房モノ」であること以外にも重要なファクターを持っている。これすなわち「ネコ耳、ネコしっぽを付けた美少女」がヒロインだということ。
ぴんくは「ネコに変身しかけ」だと「人間の身体にネコ耳、ネコしっぽ」という状態になるからだ。
この「ネコ耳美少女」、いったいいつ頃、どこから出てきたのか私は浅学にして知らない。「美少女症候群」という、同人誌をまとめた本に本作以前に描かれたネコ耳美少女マンガ(タイトル忘れた……)が載っているのを見たことがあるし、イラストだのマイナー誌だのそんなに知られていない作家だのを合わせると、膨大な「ネコ耳美少女」を見た記憶があるが、何かサッパリ作品を特定できない。
「ネコ耳」とは、SF風Hマンガにいまだによく登場する「触手」(要するに、タコの手みたいのが何本もニュルニュル出てきて美少女を犯してしまうアレ)のような、集合無意識的アイテムだと言えよう。
ちなみに、同じマガジン系ではその後美少女がネコの特性を持つ「猫でごめん!」(永野あかね)、ヤンジャンでは「ネコが美少女に変身」する「ちょっとごめんネコ」なんてのがあった。「美少女がネコに変身」と「ネコが美少女に変身」は同じか違うか。まあ私にはどうでもいいですが……。(99.0415、滑川)
週刊少年ジャンプ連載。正確には、「ホームコミックス」として再刊されたのが1994年。「全3巻」はそちらの方である。
鯉昇組の跡取り息子である竜次は、やくざの家系でありながら天使や妖精に憧れ、現実の女の子が嫌いな少年である(これは極悪な父の血をひく、腹違いの4人の女きょうだいと一緒に育ったことが原因らしい)。そこで竜次の父・竜蔵は、まりあ(本当は悪魔のムスメ)を「すけべの家庭教師」として竜次にあてがい、彼に立派なスケベになって跡継ぎをどんどんつくってもらおうと考えた。こうして竜次とまりあの同居生活が始まる。
悪魔のまりあ側にはどんな思惑があったか。実は魔界では鯉昇家の「極悪な魂」を貴重な財源としていたため、竜次のようなヘタレが生まれてしまっては子孫をつくってもらえる保証がない。つまり魂が供給されない。そこでまりあを使わしたのだ。
後はお決まりの「おしかけ女房」ライクな話がどんどこ続き、最終的には普通の男女として竜次とまりあは恋人関係をやり直すことになる。「SFおしかけ女房モノ」の定型パターン的な作品。
関係ナイが作者はこういう押しの強い子が好きなのか? 他のマンガでも、なんか押しの強い子しか出てこないよね。そうでもないか。(99.0410、滑川)
監督/舞原賢三、脚本/前川 淳、原案/畑澤和也、
劇中ゲームのキャラクター原案/美樹本晴彦、
制作/円谷映像
注:本作は映像作品である。マンガではない。
(あらすじ)
ちょっとダメっぽいサラリーマン和幸(グレチキの渡辺慶、CMで「サトーのごはんお願いします」って言ってる方)は朝寝坊したため走っている最中、見たこともない少女ありす(栗林みえ)のアタッシュケースと激突。なんとか会社にたどりつくと、リストラに遭ってしまう。しょぼくれて外の公園みたいなところに座っていると、姉御系のあきら(益子梨恵)に「撮影の邪魔だから出てって」と言われてしまう。あきらはモデルらしい。
……家に帰ると、そこにはメイド風カチューシャをつけ、エプロンドレスをきたありすが飯をつくって待っていた。なぜか「身の回りの世話をしてくれる」というのだ。
何がなんだかわからないうちに、怪人(ラッキィ池田)に呼び出された和幸は、危機にさらされる。彼の危険を察知したありす、あきら、そして女子高生のあいり(永井流奈)は集結、小さな十字架風のアイテムを使って「ヴァニーナイツ」に変身、怪人を倒すのだった。
(感想)
基本的に映像モノはチェックしないんスが、たまたま目についたので見てみました。「お天気お姉さん」とかやってる金曜深夜、テレビ朝日の時間帯の新ドラマです。
何が驚いたって、多少ヒネりはくわえてあるものの、
「寝坊した主人公が走っていって、ヒロインと激突」
というシチュエーションを、パロディではなく本当に見たこと(^_^)。都市伝説かと思いかけていただけになんかオドロキ。
展開も「これぞ様式美」って感じで、中世騎士風デザインの「ヴァニーナイツ」のコスチューム、「ヴァリアブル ニンフェット(「ニンフェ」だっけ?) ナイツ」の略であるという「ヴァニーナイツ」という名称、そしてそれにひっかけたウサギの耳のような頭のカザリモノ。
さらに、
・裸っぽいショットからCGで鎧が形成される
・3人一人ひとりのキメポーズ
・3人の合体技(戦隊モノ風に剣で敵を一閃する)
・女の子が「ちょっと天然ボケの元気っ子」、「おねーさま」、「無口で神秘的美少女」というキャラクターの割り振り
・女の子3人組が主人公の家に住み着くことになるというラスト
・主人公にはカワイイ妹がいる
と、……ここまで来ると往年の馬場VSブッチャーの試合ですよ。「様式美」
としか言いようがない。
今後、主人公が戦いに巻き込まれて成長していく、みたいなことがテレビ雑誌に書いてあったんで、少なくともそこはキッチリ描いてほしいスね。(99.0409、滑川)
1987年頃、ヤングサンデー連載。時は22世紀。階級化の進んだ社会で逸茂(いつも)一族は貧困にあえいでいた。彼らは、貧乏の元凶である逸茂礼児を過去を改変して真人間にするため(真人間と認められると階級もあがるらしい)、タイムマシンで美少女アンドロイドのアイを現代へ送り込む。
ダメ人間の礼児をマシな人間にしようと努力するアイ。しかし彼と結婚するはずの小川ゆかりとの仲を壊してしまったり、失敗続き。そこにアンドロイド刑事・ケイや教育用ロボットの出現で、お話はどんどんめちゃくちゃになっていく……。
まさしく「女ドラえもん」! 設定がひじょうに近い。しかし、アイはむしろ失敗することの方が多い。脳天気な礼児はアイのオッパイをもんで喜んだりしており、あまり悩んではいないようだ。
この人の描く女の子は(当時)全体的にムチムチしててカワイイ。(99.0401、滑川)
アフタヌーン連載。「お助け女神事務所」から、モテない大学生・森里螢一救済のためにやってきた女神・ベルダンディー。何でも願いを叶えてくれるという彼女に、半ば冗談で「ずっとそばにいてほしい」と頼んだために、螢一とベルダンディーはいつも一緒にいることに……というのが初期設定。
ベルダンディーには願いを成就させるための「強制力」というのがありそれが一種の枷になっているのだが、1巻の段階では螢一はたいして迷惑でもなさそうだ。彼はちゃんと手順をふんでベルダンディーをカノジョにしたいと思っているが、無垢な彼女はそのことに気づかない。
青年誌でこの設定が不自然ではないのは、強調はされていないがベルダンディーが「女神」であるからだと思う。なお「都合よすぎるんじゃないの?」という読者の無言のツッコミには、2話目で早くも戯画化された悪い意味でのアニメマニアが登場、「コイツとは違うんだよ」ってな無言の返答がなされていた(と思う)。
ベルダンディーは、テレビのアンテナとバイクのメタファー。
90年代の「SFおしかけ女房もの」のすべての基点になっているといっていい始祖的作品。
似たような設定の作品は80年代にも山ほど見出されたが、ピュアなヒロイン、タカビーお嬢様(またはヤンキー少女)、そしてロリータ少女という、美少女キャラの3つの基本パターンは本作で確立された。過去の作品、あるいは他ジャンルで似たようなキャラ分けがあったかもしれないが、少なくともメジャー化させたのは本作だと思う。
「なぜ超能力を持ったヒロインが主人公を好きになるか」に、たいした説明がないのも特徴。さらにエキゾチックな感じのコスチュームや、魔法のシステムがパソコンや機械の動作を模倣したものだったりするところなども、他作家の作品に踏襲された。
本作の連載が開始された89年から90年初頭あたりまでを、「SFおしかけ女房」の転換期、あるいはジャンルとしての自意識を持ちだした時期だということができると思う。
(03.0205加筆)
少年ガンガン連載。中国に古くから伝わる「支天輪」という不思議な輪の中から、あらゆる災難をはねつける「守護月天」シャオが登場。中学生で一人暮らしをしている七梨太助のもとにやってくる。
シャオはむかーしの中国風コスチュームの美少女で、さまざまな中国風超能力を使うことができる。太助を「ご主人様」と呼び、本格的な中国料理をつくってくれたりするが、本来災難から人間を守る女神であること、現代日本についての知識がないこと、性格が無垢で無防備なことなどから、いろいろな災難?
が逆に太助にふりかかる。
アニメ化もされ、いまいちばんホットな「SFおしかけ女房」ではないかと思う。 で、一読。
……ぐあああああ! は、恥ずい! 恥ずかしすぎる!!!
こんな都合のいい女の子がいるわけないだろ!
はっ!? こんなベタなツッコミを入れてしまった!?
このディオが、このディオがあああああっ!!!!!
……と思うくらいこの「シャオ」ってのは都合がいいのである。
それともうひとつ恥ずい理由は、主人公の太助はシャオに対して性欲を抱くことを自分で禁じているのだが(この葛藤は第1巻ではけっこう描かれる)、その理由が中学生特有の潔癖性(のみ)であることから来るのだろう。
単行本第1巻の中で究極に恥ずい回、第4話「海へ行こう!」では、ひとつ屋根の下でシャオとふたりっきりで暮らしている太助が自分の性欲に悩む。で、気晴らしにもう一人の女の子も交えシャオと海へ行くのだが、海でシャオの水着姿を見てますます悶々としてしまう(展開自体が恥ずい……)。
太助の気持ちも知らず、「オイルを塗ってくれ」などとあまりにも無防備なシャオに太助はいらだちを感じ、逆ギレしてシャオを叱ってしまう。
その後罪悪感にさいなまれる太助の前に、シャオがやってきて仲直りする。
……このエピソードでは太助が中学性的な仁義の通し方(笑)でシャオに接していることが最大限描かれているだけ、本編の「恥ずい面」を存分に表している。
要するにシャオはどんなわがままでも聞いてくれる究極の「おかーさん」なので、彼女に性欲を抱いてしまうのは(そんなこた描かれてないけどさ)近親相姦的な罪悪感を伴うのだった。
(この辺はあながち私の深読みではなく、シャオが頭にこぶをつくった太助を抱きしめて「痛いの痛いのとんでけ」と言う、非常に恥ずいシーン(^_^)からも証明されよう)
単行本第1巻の表紙は、小さな人形のような太助をシャオがだっこしている絵である。なんかの心理学の本で読んだけど、「母親のイメージ」を書くときに、大きな人間の中に抱かれている小さな人間を描く、というのはよくあることで、あまりにモロなこの絵もまた恥ずいのであった。
「コミックまぁるまん」連載。モテないフリーライター・田辺晴親(ハルチカ)は、酔って冗談で「メイドロボット」のモニターに応募した。すっかり忘れていたところに、2人のメイド・葉月と如月が登場。どんな願いでも聞いていくれるというエロコメ。
エッチに関しては「おっと言い忘れたがエッチの機能はついとらんぞ ダッチワイフじゃないからな」の博士のひと言で片づけられる(笑)。ハルチカの妄想にはギャグとしてツッコミが入るので「守護月天!」より恥ずかし度は薄いとも言えるが、それ以上に妄想を実行してしまうので相殺されてやっぱり恥ずかしい。葉月と如月は、微妙な違いを描き分けていて、よい。2人のメカっぽさはパソコンと対応しているのが近頃の定番。
第2巻でも、順調に? いろんな騒動が描かれる。次第にハルチカと幼なじみの有賀時子とのラブラブストーリーに展開しつつある。手堅い。
1巻でも出てきたが、本書では「衛星連動慣性移動システム」というのがあ る。ロケットランチャーでワイヤーを打ち上げ、人工衛星にひっかけてそれに ぶら下がって高速移動するという、空を飛ぶよりよほど非効率そうなメイドロ ボットのワザ。これ元ネタなしでオリジナルだとしたらそうとうスゴイと思う んですが、いかがでしょ(^_^)(海外のバカSFにありそうな気もするが……)。
週刊少年マガジン連載。パソコンプログラムだけが得意な高校1年生・神戸ひとしがつくった「理想の彼女プログラム ナンバー30」が落雷のショックで突然実体化。「難波サーティ」として同棲することに……。
キャラ設定は「女神さまっ」とほぼ同じ、超能力じゃなくてコンピュータを使うところだけ違う。サーティはフィードバック機能を持っているプログラムだが、恋愛やセックスについてはまだ学習していない。ひとしは、ちゃんとした手順でコトに及ぼうとするがあまりにもうまくいきすぎるので「男と女がマニュアルどおりに最後までうまくいってたら 世の中つまんないよな」と思い、とりやめる、などという回もある。
サーティは「純粋無垢」、「特殊能力を持つ」、「メシをうまくつくれない(見た目だけソックリにつくる)」などこのテのパターンをあまりにも忠実に踏襲しているので既視感が出てきた。
月刊少年チャンピオン連載。
あらすじは、画家を目指している高校生・健二の家に、親戚の美少女天宮エミリィ(外見は雛形あきこ風味)が同居することになる。彼女は実はエイリアン・キアラ星人であった。……というもので、地球人の羞恥心がわからないので健二と一緒に風呂に入りたがったり、スカートをめくられても動じなかったりといった「定番」シーンが入る。掲載誌では「おれってピヨリタン」と「ためしたガール」という2大?おきらくごくらく系エロコメが連載されており、「また似たようなのがはじまった」と思ったものだった。だが、これがまとめて読むと、意外に拾いモノだった。
エミリィの種族は、人工子宮で子供をつくるほど文明が発達しているが、文明の発達とともに「種」としての退化が始まっていた。そこで50年前に地球人の遺伝子を採取し「第二世代人」を創造、その中の一人がエミリィにあたる。彼女は地球人の遺伝子を持っているため、「交接し、子供を産んでみたい」という本能を持ち、地球にやってきた、というのが基本筋立て。
まあなんで「人工子宮」まであるのに「種」として退化しているのかとか、当初はエミリィが「キアラ星人の変わり者」であるがゆえに「子供を産みたい」本能があるという設定が「第二世代人」というプログラム上のことであると何の説明もなく描き変えられていたりとか、穴も多いんだけどそれはそれとして。
エミリィはまったく羞恥心とかセックスについての倫理観がない(「交接」としか考えていない)ため、それをいちいち健二が教え込むことになる。本当はただ地球人の精子を持って帰るためだけならエミリィ側にはそういう「地球人の文化」的なことはまったく教わる義理はないわけだ。つまり、エミリィが教わるべき価値基準は、すべて健二の価値基準なわけである。健二の倫理観が浮き彫りになっていく点が、意外に面白かった(「スカートをめくられたら恥ずかしがらなければいけない」と一生懸命教え込むところとか)。
これに「男をダマしてなんぼ」と考える女・井原真由(あきらかに広末涼子がモデル)がカラみ、ドタバタが起こる。真由は健二と対照的に、恋愛に何の幻想も抱いていない(そのようにつとめている)ので、エミリィとの対話で真由の倫理観も浮き彫りになる。
とくに、真由が健二に何故かホレてしまい、クールな自分を保つためにわざと健二を誘惑し、わざと冷たくふる、なんてところはちょっと屈折してて、なかなかいいねえ(笑)。
第2巻きでは、1巻で展開されていた異星人であるエミリィと健二とのカルチャーギャップはほとんど描かれず、グループでデートしたり海に行ったりといううじゃじゃけた展開になってしまった。にしても、あいかわらず真由が小悪魔的でイイ味を出しているし、ラブコメとしてもけっこう面白かった。「あくどい広末」 ってのは面白いので、ぜひ彼女を出演させて映像化してほしい(設定を大学にすれば雛形も主演できるネ!(笑))
ビジネスジャンプ連載。第1巻では、ビジュアル系バンドのヴォーカルにして売れっ子作家の桧川亮(本名:花山大吉)の土瓶の中から、とつじょ弁天様が現れる。悪鬼によって閉じこめられていた弁天は、外に出ることはできたが完全に自由になるためには、人間と契約を結び10の願いをかなえてあげなければならない。… …というわけで、桧川にまとわりついては騒動を起こす、という「おしかけ女房モノ」の見本のような作品である。
ところが、これが意外に面白いのだった。
話は非常に他愛ない。同じマンションに引っ越してきたスポーティ系美女・秋元勇紀と桧川のケンカもまじえたラブ話が、弁天の仙術を媒介として展開していくという最もオーソドックスなパターンなのだが、とにかくこの人絵がうまい!(と思う。) 滑川は、「見やすい」という意味では萩原一至よりイイと思ったりする。絵だけで読めてしまう。
弁天のキャラは「女神さまっ」で言えばウルド(だっけ? 色っぽいやつ)系。主人公桧川も、表面上は女に不自由しないものの内面にはしょーもない悩み(おしりにいまだに蒙古斑があるとか)を持っているという設定なので、屈託がない。男のこっぱずかしい妄想系ラブ話になっていかず、展開が外向きで明快なんである。
第2巻では、悪役仙人として「大黒屋懸巣(だいこくや・かけす)」(男)が復活。弁天との過去の因縁が明らかになりそうなところで、なんと話はまったく別の方向へ。
同級生のイジメに耐える少年・橘未稀(たちばな・みき)が、仙人・天門毘沙奈(あまと・ひさな、女)を復活させてしまう。
彼女は未稀の学園に教師として登場。未稀を守護すると誓うが、目立ってよけいいじめられることを恐れる彼は毘沙奈を遠ざける。悪の柔道部員に投げられたショックで喘息が悪化し、体力的衝撃とともにイジメの激しさに心が萎えて死にかかった未稀を、毘沙奈は復活させようとする。だが仙人は人間の潜在能力を引き出すことしかできないので、未稀自身のパワーがないと力を貸すことができないのだ。どうなる未稀!? という「なつきクライシス」を思い出させるシリアス展開。
1巻の軽いノリを期待していた滑川としては、ちょっと?な展開であった。まあ好みは分かれるでしょ。
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