つれづれなるマンガ感想文12月後半

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一気に下まで行きたい



【雑記】(今年の総括)
・「マッドブル2000」全3巻 小池 一夫、井上 紀良(2004、小池書院)
【雑記】・最近「SFおしかけ」の更新が滞っているわけ
【映画】・「キング・コング(1976年版)」 監督:ジョン・ギラーミン(1976、米)
【映画】・「キング・コング(1933年版)」 監督:メリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シューザック(1933、米)
【映画】・「キング・コング」 監督:ピーター・ジャクソン(2005、米)
【映画】・「7人のマッハ!!!!!!!」 製作:プラッチャヤー・ピンゲーオ、監督:パンナー・リットグライ(2005、タイ)
【映画】・「シルバーホーク」 監督:ジングル・マ(2004、香港)
・「実録 勝新太郎伝説」 勝新太郎、大石賢一、木村栄志(2005、竹書房)
・「実話が恐い! 怪談新耳袋(ミミの怪談)」 伊藤潤二(2005、メディアファクトリー)
・「ビッグ錠短編集1 パソコンワールド」 ビッグ錠(1986、集英社)
【雑誌】・「ウォーB組」1月号(2006、マガジンマガジン)






【雑記】(今年の総括)

毎年やってる、漠然とした1年の総括です。今年もやりますわ、一応。

・HP関連
トピックとしては第一に「教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書」ばるぼら(2005、翔泳社)[amazon]が出たこと、
もうひとつは昨年の「電車男」 中野独人(2004、新潮社)[amazon]のヒットを受けたマンガ化、映画化などのメディア展開があった(ンなこと言われんでもわかってるって?)。

「電車男」に関しては「オタク論」にも関連してくるが後述する。

「教科書に載らない……」は、すいません読んでません! しかし、情報の消費速度が既存メディアとは比較にならないくらい速いインターネットの歴史をまとめたことは偉大。また、「歴史」が蓄積されるくらいに積み上がってきたということでもある。

あとはのまネコ問題とかがあるか。MAX松浦自身が、どこぞで「本当に喜んでやってもらえると思った」と書いていた。私は、これは本心だと思う。avexはテクノ関係の音楽を多く扱う会社である。テクノにサンプリングは付き物であり、その権利関係をどうするか、海外の前例なども知っていたはずなのだ。
私自身はだれが何をつくろうと知ったことではないのだが、「作者が特定できない不特定多数の場合、それを商品化するにはどうするか」に関しては、海外のサンプリング事例はぜったい参考になるはずなので、もやもやした気持ちを抱いている人は調べるといいですよ。

昨年は「変わらずやっていくつもり」と書いたが、今年はさすがに完全にHTML言語を覚えてイチからHPづくり……なんてことが決定的に流行らなくなった年だったと思う。私とてブログの簡便性はミリョクなのだ。が、とにかくしばらくは頑固一徹の職人的にこのHPも(生活をおびやかさないかぎりは)運営していくつもり。

思えば「ブログの女王」眞鍋かをりは、確か自作のホームページをやっていた時代があったはず(すいません今検索したけど出てこなかったけども)。しかし、彼女は「ホームページの女王」にはなり得なかった。この辺の時代の変化について考えるのも面白いかもしれない。

・J−POP関連
「CDは株券ではない」 菊池成孔(2005、ぴあ)[amazon]とか「考えるヒット」近田春夫(2003、文藝春秋)[amazon]を読めばいいじゃない、と思った。

あとBUBKAの宇多丸氏の連載は単行本にならないのだろうか?

もう、とにかく私にとってのJ-POPは死んだ。
また復活するかもしれないけど、少なくとも今年は死んだ。完膚無きまでに。
昨年も似たようなことを書いたのだが、メジャーがメジャー足り得ていないということがあまりにも大きい。
メジャーがだらしがないために、マイナーシーンがそれを仮想敵にできない。もちろんそういう構図ではない、ヒット曲のあり方もあるのだろうけど、それはポストモダンな感じで私にはもう予想のつかない世界だ。

近年の紅白歌合戦に対し、年輩の方々が「だれがだれだか最近の若いやつはわかんねえ」という。しかし、その「わからなさ」は、10年前とは違ってきていると思う。
だって、私も(もう若くはないけど)わからないから。三十代の人間にもシーンがシーンとして理解できないんですよ。
これまただれもが最近よく言う言い方だが、「10万枚売れたら10万人しかその曲を知らない」のである。
泣けてくる話である。

ハロプロ系がほぼ完全にグダグダの道を歩んでいることも大きい。ハロプロ関係に関してもいろいろ言いたいことはあるが、今言えるのは、けっきょく彼女らがやってきたことは、J-POPシーンの解体を遅らせることにしかならなかったのではないか、ということだ。
それと、まったく知らないで書くが海外シーンも盛り上がっていないんじゃないか? という感じもちょっとしている。明確に反映されるからね。日本の音楽界に。

ジェフ・ミルズは、かつて自分の楽曲を部品のように使ってDJをすると言ったが、なんとそこら辺のにーちゃんねーちゃんたちも、iPodによって楽曲を解体して楽しむ時代になってきているのである。
それはもちろん楽しいことでもあるのだけれど、やはり一抹の寂しさは感じるし、時代とフィット感がなく、逆に強い反発も感じることができないということにしみじみする年の瀬である。

・グラビア関連
今年初頭に花井美里が「付け乳首をする」という事件(?)が起こった。何もこむずかしい言葉を使わずとも、これが「着エロの限界点」であったことは同意していただけると思う。
別にアレが大きく影響したというわけでもないだろうが、今年着エロがグラビアの最前線に出ることはなかった。

今年活躍した人々というと、
熊田曜子、安田美沙子、夏川純のピラミッド軍団、磯山さやか、大久保麻梨子、森下千里、岩佐真悠子、佐藤寛子、小倉優子、川村ゆきえ、小野真弓あたりだろうか。

それと山崎真実ね。ミスマガジンで新体操をやってたとか何とかいう話だが、NHK教育の英会話の番組のアシスタントを勤めたり、トリビアの泉に出たりと破格の扱いであった。
それとドラマで広く知られるようになった沢尻エリカなのだが、私は「忍 -SINOBI-」という映画でしか彼女を見ていないので演技力などに関してはよくわかりません。

・マンガ論
ズバリ「表現論ひとり勝ち」というのが私の感想です。
なぜこんなにも、マンガ論において「表現論」が知的大衆の心を掴むに至ったか、私はそれを知りたい。

・おたく論
まず「電車男」。実はちゃんと読んでいないのだが、あらすじなどから考えるに、「オタク」と「普通人」を完全に分けたことがヒットの一因ではないかと思う。
インターネットの使い方にしても、エルメスってインターネットやらないんですよね?(やってたらゴメン) 「インターネットをやらない人」と「やる人」を分けて、そのカルチャーギャップをネタにしたところが勝因なんでしょうね。

そして、コレは「階級」がないと表面上はされているニッポン社会において、まあ差異化ゲームといいましょうか、人為的にギャップをつくり出すことで物語にダイナミズムを生み出すということなんだと思う。
そして、「電車男」ではまだ、ロールプレイの領域にとどまっている(メイド喫茶のメイドさんのように)が、今後深刻な階級差が国内で出てくるのではないか、というのを、私は少し恐れている。「電車男」が「古き良き」差異化ゲームの最終地点にならないことを、ちょっと願ったりもしてみる。

そして「電波男」本田透(2005、三才ブックス)[amazon]。実はこの作品も買ったけど読んでいません! ただし、ネット上で繰り広げられる非モテ/モテ論争なんかと関連しているものだろうことは想像がつく。
読まないで感想を書くのもナンだが、著者はメチャクチャなことを言っている、やっていることを承知でやっているように思える。
それがどこまで通用するか? という、言ってみれば小林よしのりのマンガに出てくる「異常天才」がやろうとしていることに近い気がする。
だから、普通の人はついていけないアクロバティックな思想なのではないかという懸念は、あります。

もうひとつは、恋愛における男女のパワーバランスにおいて、女性の方が強くなってきていることに対する男側の逆ギレなのかな、ということを思う。

さらに、非モテ論争でよく目にする「恋愛資本主義」っていうのは、本来「近代」の所産である恋愛を見直すことによって「近代」そのものを見直すというものすごい壮大な批判だったはずなんだよね。
呉智英は「恋愛至上主義」っていう言葉を確か使っていたと思うけど、彼が恋愛至上主義批判をする中で、その文脈において「恋愛論の王様」みたいに紹介されたことに対し「恋愛論の王様になるくらいなら、恋愛の奴隷になった方がいい」とどこかで書いていたのが印象的(すいませんソースわかりません)。
しかし、現状「恋愛資本主義」という言葉を使っている人は、自分の日々の生活をやりやすくするためにのみ、その言葉を使っているような気がしてその辺にも思いをはせる。

なお「恋愛」に対応するのは「お見合い」であるのだが、非モテ論争の参加者には若い人が多いようで「お見合い」に関する論考はあまりないように感じた。
そして、家同士の釣り合い、ということを重視する「お見合い」に立ちはだかってくるのが今度は「下流社会」的な問題点であったりして、いろんなことがリンクしてしまったりするのである。

まあうだうだ書いたが、私は壮大な話の方が好きだ。もっと話を壮大にしてください。

で、雑誌オタクエリート。この雑誌のHPを見て思ったのだが、オタクも第一世代、第二世代とあるが「オタクを誤解している人」にも世代があるのではないかということ。何か非常に「第三世代」的な、浸透と拡散をした後のトンチンカンを感じてうーむと思ったりしました。

・ライトノベル
だれかが「ラノベブームじゃなくて、ラノベ評論ブームだ」と書いていたと記憶する。部数をチェックしたわけではないのでそれが本当かどうかはわからないが、マンガとの関係のみを見るに、「中間小説」的なものに対する不満がぜんぶこのジャンルに来ている気がしている。 要するに、設定の細かさや「どれくらいプロットを複雑にするか」、「どの程度まとめるか」は、マンガに関しては限界に来ている気がするのだ。パターンが確立されてどうしてもそこから出にくい。
(余談だが、マンガはパターンが確立されてきたからこそ、現状の評論やレビューで、あまりにも作家性の全面に出た作品、あるいはアート寄りの作品と、エンターテインメント作品との間でその「取り上げ方」にギャップができているのではないかと思う)。
多少、複雑な物語づくりがしたくて、なおかつジャンル小説としてのSFやミステリにそれほど執着のない人たちは、みんなこっちに集結するような気がする。

なお「おたく論」に関しては【雑記】・最近「SFおしかけ」の更新が滞っているわけも参照してください。

・映画
CGとか特撮を駆使したものしか見なかったが、ことヒーローものに関してはここ数年、「敵の不在」ということが重要なテーマになっていると思う。
欧米のように「神と悪魔の間で翻弄される人間が生き方を試される」という命題のない日本では、「正義」、「悪」とは何かを考えたときになかなか答えが出ないむずかしい状況なのである。
「何が正義かわからない」なんてことをテーマにするのは、「雨が降ったら天気が悪い」ということと同じことだということを、みんな忘れないでほしいです。

2004年の総括

(05.1230)


・「マッドブル2000」全3巻 小池 一夫、井上 紀良(2004、小池書院) [amazon]

1999年〜2002年頃連載。黒人で筋肉ムキムキのスリーピーと、(たぶん)日系人ダイザブローのニューヨーク・コップのコンビが、アメリカに巣くう秘密結社を相手に戦う。

読んだのはコンビニペーパーバック調単行本。実は私、前作の「マッドブル34」をきちんと読んでないんですよね。だから最初はどういう話だったか知らないけど、本作に限って言えばメチャクチャ度はかなり高い。ギャグ寸前。こんないい意味でアホアホなマンガがよく連載されていたなと思う。小池一夫のアホアホ度は、こんな時代だからこそ検討の価値アリ、である。
(05.1230)


【映画】・「キング・コング(1976年版)」 監督:ジョン・ギラーミン(1976、米) [amazon]

髑髏島に石油採掘のために赴いた一行は、旅の途中で遭難していた女優志願の女性ドワーン(ジェシカ・ラング)を拾う。しかし行ってみればそこには原住民に神とあがめたてまつられているキング・コングがおり、ドワーンはさらわれてしまう。おまけに、髑髏島には石油はなかった。落胆する一行だが、コングを捕まえて見せ物にすることを考え、捕獲に成功する。
プリンストン大学の動物学者プレスコット(ジェフ・ブリッジス)はコングを捕獲し連れ帰ることには反対だったが、ニューヨークでコングの顔見せ興業が行われる……。

これ、リアルタイムで映画館で見ていたらなあ、と思った。小学生の自分はかなり喜んだのではないかな(テレビで放送されていたのを見た。実際にはもっと冗漫だという意見もネットで目にしたがそっちは見てない)。33年版が、文明批評的な一面を持ちながらもあくまでもコングとアンとの関係に重点を置いていた(美女に惑わされる男、という神話の原初的パターンになぞらえていた)のに対し、この76年版では石油会社が巨大ゴリラの興業をも行うというふうに、文明というか資本主義批判みたいな面に重点が置かれている。

しかしコングがドワーンに性的な興味を抱いていることがかなり明確に描かれており、ドワーンのアホで脳天気で名声欲が強い性格とあいまって、何となくコングが色っぽい隣のおねーさんに振り回される真面目クンのように思えるところに含蓄がある。もっとも、そのぶんドワーンと恋仲になったプレスコットも少しアホじゃないか? と思えるように感じてしまったのだが。
CGも好きだが、CGに食傷してくるとこういう着ぐるみの特撮がむやみに懐かしく思えてきたりする。「エイリアン」を見たときも思ったけれど、70年代のアメリカのクリーチャーの造形能力はやっぱりすごいなと思った。コングの表情とかよく出てるもんね。
(05.1230)


【雑記】・最近「SFおしかけ」の更新が滞っているわけ

ふと思い出したことがあるので書きます。
当HPの重要なコンテンツとしてSFおしかけ女房ものを収集するというのがありまして、しばらくやってましたが、最近まったくやる気がなくなって更新をやめてます。

理由はいろいろあります。以下、箇条書き。

その1 「オチモノ」というネーミングの方が定着してしまった。しかし、このネーミングには実に愛がない。このサブジャンルを扱っている人そのものに、たいして愛がないのだなと思い、やる気が半減した。
その2 「SFおしかけ女房もの」は、マンガ、アニメ、ゲーム、ライトノベルなどで恋愛がどう扱われていくかを見るためのひとつの基準であると思っていた。しかし上記のとおり、愛情のある人が少なく、また他方面からたいして参考になる論考も出ないので、やる気が半減した。
その3 そもそもが、このジャンルにおいて「揶揄と愛情の入り交じった論調で語る」というスタンス自体が、ここ5年くらいで古いものになりつつあると感じる。このため、やる気が半減した。
その4 作品(主にマンガ作品)にあまり面白い新作が見られない。また、皮膚感覚ですでに古いパターンのようにも感じるので、やる気が半減した。
その5 世間的に注目されているのはむしろ「萌え」というタームであったり、それを自明とした「属性」というパーツのような部分であると感じたため、やる気が半減した。
その6 自分がトシをとった。正直、アホらしくて読んでられない作品も多い。

その1に関して。数回ネット上で書いているが、「SFおしかけ女房もの」の本質は「零落したマッチョイズム」である。あまりにもこの言葉が使われないので、逆に使われたら使用料を請求したいくらいだ。「オチモノ」という言葉ではそのニュアンスがまったく出ない。だからイヤだ。

その2に関して。このあたりに関して参考になりそうなのは著作として私の知るかぎり「二次元美少女論」くらいしかなかった。「戦闘美少女の精神分析」は、「戦闘美少女」に焦点が当たっていてSFおしかけは「同居もの」として中に組み入れられてしまっている。これも数回にわたって書いているが、マンガやアニメで「性的にかわいい女の子を描こう」という技術が磨かれた歴史はだいたい25年から30年。これを長いと見るか短いと見るかが問題になる。が、なんだか問題にしている人はいないようだし、通史が出る様子もない。だからなんだかどうでもよくなった。

その3に関して。「揶揄と愛情の入り交じった論調」というのは、まあ80年代的な所産という意味での価値相対主義ということである。
バランスの問題はあれ、多かれ少なかれこういう視点は存在し、またかつては有効性もあり、さらに「オタク」が議論される以上ここの部分は絶対にはずせない(「洒落」とか「酔狂」という視点をまったくさしはさまないオタク論は成立しない、と私が考えているので)と思っていたのだが、なんだかそうでもない風潮がある。
その辺のさじ加減は、はっきり言って形成されるコミュニティの問題であったりするのである。その中のあうんの呼吸というかね。
だから、そういうのを知らないままにあーだこーだ言うのは(自分に対して言うのだが)年寄りの冷や水でしかないように感じる。
洒落が通じないっぽいのがイヤだなということ。
「サークルクラッシャー」とかさ、ちょっと前ならGOROとかSPA!とかの特集にあった「○○女に気を付けろ」みたいなモンでしょ。
その雑誌の記事だけで忘れ去られていくような。それを真剣に論じているブログを見て、なんだかやる気をなくした。

その4に関して。最近はアニメをほとんど見てないのでわからんが、マンガ方面では「女の子が押しかけてくる」よりも、「いろんなタイプの女の子の集団の中に主人公の少年が入っていく」方が多いように思う。
また、「SFおしかけ」の裏本質は「男がどの程度リードするか、あるいはしないか」という問題であったのだが、最近のラブコメは男が受けに回ってもそれが自明となっていたりする。少年マンガの主流が問題としていた部分を、ラブコメが屈折したかたちで保っていたと考えていたのだが、最近軒並みここら辺は問題とは見られなくなったように思う。この時点で、リアルタイム作品に対する興味が消失しつつある。

少女マンガにおいて「少女マンガが少女マンガたる要素は何か」はかなり議論されてきたように思うが、実は「少年マンガが少年マンガたるべき要素は何か」は、意外に議論されていない気がする。主人公が男でも女でもいいなら、それはもはや少年マンガではない、と自分は考えている。だから興味が消失しつつある。

ひとつ付け加えておくなら、自分は「男の子はこうあるべき」という確固たる主張があるわけではない。しかし、少年マンガと少女マンガがいまだに分かれている以上、何らかの嗜好の差は確実にあるはずだろう。それはスポーツマンガが多いとか恋愛ものが多いとか、現象面だけではなく本質的な部分で、である。
それについて語る人があまりいないので、やる気をなくした。

その5に関して。当然ながら「萌え」とは現実世界とまったく違ったところで成立しているものではない。むしろその反映だ。だが、「萌え」だけを取りだして論じる風潮があるように思え、やる気をなくした。
たとえば「ツンデレ」とか言ってるが、あれってどう考えても現実世界で女の子が男の子に「キモい」とか平気で言うようになって、「女は愛嬌」なんて言ったらサベツだと言われるようになって(まあ私もそう思いますが)、「女の子だからって愛想をふりまかなければならないわけではない」っていう時代風潮から出てきた趣向でしょ(余談だが、刃牙の彼女が処女→非処女になる過程のキャラクターの変化っていうのがまさしくそんな感じで、あれって定型を壊したいがゆえに逆に処女/非処女のイメージをなぞっちゃったケースだと思う)。
だれがツンデレだとかどれがツンデレだとか、そんなことは私にはどうでもいいんですよ。
だいたい萌え系のトレンドって、現実の男女間の恋愛のパワーバランスで読み解けると思う。そうすると、考えを進めていくとそれが是か非かっていう教条的な文脈を背負わざるを得なくなってしまって、とたんにつまらなくなるという部分もある。

あるいは、「自分たちは倫理とか道徳とは関係ないところで論じています」っていう人たちが不可避的に背負わざるを得ない倫理的、道徳的な部分をどれだけ自覚してるか、ってことですよ。なんかあんまりそういうことみんな考えないのかなーと思って、やる気をなくした。

まあ、かといって現実世界とオタク要素をいちいち結びつけて語るというのも野暮な気がするし……。だからやる気をなくした。

その6。40すぎて「萌え」とか言って戯れることができるかというのが、今度は問題になってくると思いますよ。私は前々からアホらしいと思わないでもなかったが(いや「萌え」を語る人で尊敬すべき人もいますが)、ボクはもういいです、という感じもします。
「萌え」っていうのが戯れである以上、生活がしっかりしているかとか、家庭を持っているかとか、そういうことが重要になってくる。
でも、現実と妄想との関係っていうのもまたつまらない話になりそうなんだよね。

あ、あと補足。少年ラブコメにおける恋愛の主導権は、かなりロコツに女の子に握られているように思うが、少女マンガではときどきビックリするくらいイケメン男に振り回される女の子が出てくる。
その辺どうなのか、それをよしとするのか、あるいはそういうシチュエーションに喜んでいる女の子を啓蒙していくのか、あるいは妄想と現実をきっちりわける知恵を身に着けろと主張するのか。
そっち方面のシソウカの人とか、どう思ってんですかね。

……というわけで実にやる気をなくしました。またがんばります。
(05.1228)


【映画】・「キング・コング(1933年版)」 監督:メリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シューザック(1933、米) [amazon]

ピーター・ジャクソン版を見て感じた違和感を追究したくて見る。
最初にお断りしておくが、私は怪獣マニアではない。また、本作は高校時代か大学時代に映画館で一度見ている。

さて、本作とジャクソン版の最初の違いは、ヒーロー役のジャック・ドリスコルが船員から脚本家に変えられている点だろう(その後の76年版は、私はまだ未見の状態で話を進めます)。
1930年代には典型的だったであろうマッチョなヒーローを線の細そうな芸術家肌の脚本家に変えたのは、設定をイマ風にするためだと思うが、私の個人的見解ではこの改変が物語全体を破綻寸前にまで導いてしまったと感じた。
「コングのような怪物に恋人がさらわれたら、まず助からないだろう。それを追いかけていくドリスコルについていけない」という感想を目にした。ジャクソン版のここの部分、確かに無理があると思ってしまうのだが、33年版のドリスコルなら何も問題はないのである。
だって、彼はヒーローなんだから。設定がどうあれ、彼はマッチョなヒーローなんだからコングを追って当然、美女のアンを助け出して当然なのである。
ところが、現在ではそんなマッチョ・ヒーローは古いとつくり手は考えたのだろう。だからそこに無理が生じる。

何となく「キング・コング」の基本プロットは古いマッチョイズムありきという感じがする。それを拒否したら、もしかしたら成立し得ないものかもしれない。
「美女をさらう」ということ自体が、すでに古典的な愛憎劇という感じだしね。

他のシーンでは、いちいちオマージュだと思われるところが見受けられた。たとえば、ジャクソン版の「予告編」で、カメラテストとして監督がアンに「悲鳴をあげてみろ」というシーン。似たようなシーンが、33年版の本編にあった(でも何でジャクソン版の本編になかったのかな?)。
コングと恐竜との死闘。恐竜をブッ飛ばしたコングが、死を確認するために恐竜の両アゴを持ってカクカクするシーン。ありました。
船員たちがつかまった大木を、コングが振り回して船員を振り落とすシーン。ありました。
コングを麻酔で眠らせ、運ぶシーンがいっさいなく場面転換するとニューヨーク。これも33年版と同じでした。

しかし、オタク監督の映画で引くってことは滅多にない私だが、上記のシーンが他の長尺のシーンの中にまぎれて入っていて、ジャクソン版はとにかくクドい。「キング・コング」の導入部なんて、怪獣映画として見たって重要なのはヒロインのアンとヒーローのドリスコルのロマンスが描かれるところくらい。そこをあそこまでネチネチと映像化しているわけだから……後から考えて少し引いた。
さらにコングが登場してからも、まあ特撮映画なんで33年版も、特撮を見せつけるがごとくパノラマ的にお話が展開する。
次はステゴサウルスだ、お次は首長竜だ、そんでもって翼竜だ、みたいに。
でもジャクソン版では、ただでさえ冗漫になりかねないここのくだりをさらにクドく、クドくやる。

コングと美女・アンの心の交流は、33年版ではほとんどない。確か20年近く前に見たときもそこが淡泊すぎて少し不満を覚えたことを思い出した。悪く言えば淡泊、よく言えばクールということ。
でも再見すると、そこら辺をあっさりにしたことが怪獣映画としてスタンダードたりえたのかもしれない、とは少し思う。

33年版では、ニューヨークで鎖につながれたコングはカメラのフラッシュに驚いて鎖を引きちぎり、逃げる。
なぜアンの居場所がわかったのかは、何か曖昧な描写だった。ジャクソン版では街に出たコングがアンを探すために金髪の女性を見つけてはとっつかまえるというシーンが長々と続く。ここもまた、ピーター・ジャクソンはクドい。

エンパイア・ステート・ビルに上るところとかは同じ。しかし33年版では、このクライマックスにおいてさえコングとアンはディスコミニュケーション状態であるところが、見終わった後の余韻を残す。対照的なのはジャクソン版が「相思相愛」なところだ。
このため、コングとアン、ドリスコルの三角関係みたいになっている。33年版では、ドリスコルとアンは結婚をひかえていて、コングは完全に横恋慕状態である。だからこそ、塔(エンパイア・ステート・ビル)に上る悲劇性が生きてくるわけなんだけど。

話を戻すと、「髑髏島」の原住民の描写も33年版の方がいいように感じた。ふだんはちゃんと秩序を持って生活している感じがする。ジャクソン版では、もっと理解不能な奇怪な部族というような感じだった。また、33年版ではコングが差し出される生け贄としての「花嫁」をどうしようとしていたのか、はなはだ曖昧なところがいい。ジャクソン版では……餌として喰ってたのかなあ? わからん。

とにかくまあ、33年版は1時間40分くらいの尺で、観客が疑問を持たない程度にウソや飛躍を入れてうまくまとめてあるんだけど、ジャクソン版はそういう、もともとウェルメイドな完成度を持った(それ以上でも以下でもない)作品を、脳内で過剰なまでにこねくり回したという印象である。その過剰さと、コングとアンの関係を変えてしまったところ、見た人の評価の違いは、この2点をどうとらえるかで変わってくるかもしれない。
(05.1227)


【映画】・「キング・コング」 監督:ピーター・ジャクソン(2005、米)

公式ページ

いやー私はこれ、だめでした。
とにかく長すぎる。3時間もある。しかも、特撮の見せ場が多いからというだけではなく、人間のキャラ紹介だけでも時間を割きすぎている。船員たちの描写なんて、あんなにいらないでしょう。それが後半に活かされるわけでもなんでもないんだから。
前半の人外魔境編が長すぎて、後半のニューヨーク編とのバランスをいちじるしく欠いている。そりゃ魔境の特撮はすごいし、ジャングルで大暴れするコングを見せたいのもわかるが、このバランスでは無理矢理都会に連れてこられたコングの悲劇性がまったく活きない。

「コングの悲劇性が活きない」要素は他にも多々ある。船員たちのキャラを無駄に立たせたために、人間を人形のようにブン投げるコングに感情移入できない。船員がみんな欲深の悪モンに描かれていれば、観客はコング側に感情移入して見られたはずなのに。アン(ヒロインの女性)がいくら「(コングを)殺さないで」と言ったって、そりゃあんだけ殺されてりゃねえ。
かといって、魔境編ですでにアンとコミニュケーションをとっているコングを「悪」と見なして憎むわけにも、観客はいかない。この辺、中途半端。

さらに、コングとアンの心の交流の理由が、(おそらく)アンがコメディ女優として活躍していた時代のダンスやお手玉なのだ! こりゃもう冷めるだろう一気に!
「キングコング」は、基本プロットは「美女と野獣」だろう。実際に映画の中に「美女と野獣」って言葉も出てくるし。しかし、ディズニー版の「美女と野獣」しか見てないけど、野獣は美女がおもしろダンスを踊ったから美女を愛したのか? 違うでしょーそこはー!! 食い詰めた女優のアンはストリッパーになることを勧められ、それを断るシーンが冒頭にあるが、それならいちおう練習しておいたストリップ・ダンスで(もちろん着衣でいいので)コングを魅了したという方が、まだしも苦笑混じりで許されたのではないか。

ジャック・ブラック演じる映画監督も中途半端。「金のためなら何でもするエゲツない男」として徹底して描かれていれば、あるいは「映画のためなら仲間が何人死のうが知ったことじゃない狂気の監督」として描かれていれば、ニューヨークでコングが暴れ出し、彼がすべてを失うシーンがもっと生きたのに。

昔、テレビで「サムソンとデリラ」という映画を見たことを思い出した。セシル・B・デミル監督だったかどうか忘れたけど、怪力無双のサムソンはデリラにダマされて目をつぶされ、大勢の異教徒たちの眼前で鞭打たれ忠誠を誓わされる。しかし、サムソンはそのコロシアムみたいなところの柱を最後の力を振り絞ってブチ折り、これによってコロシアムは倒壊、彼を嘲笑する異教徒たちは大洪水によって全員死滅する。

あれほどのカタルシスが今回の「キング・コング」のニューヨーク編にあるか? というと、微塵もないのである。そういえば映画の中でジャック・ブラックは「セシル・B・デミルの映画にお色気は必要あるか?」と叫ぶシーンがあるが、ピーター・ジャクソンは当然「サムソンとデリラ」を念頭に置いていたんだろうな。そしてあんたに必要なのは、まさしくその「お色気」なんだよ!

アン役のナオミ・ワッツは確かに美人だが、画面で見ると今ひとつ肉感的でない。「キング・コング」って基本的にモテない男(コング)と美女との悲劇なんだからさ、もうちょっと男の妄想が具現化したような女優の方が良かったんじゃないか。あと「モテない男=コング」という観点で見ると、「お手玉で気を引く」なんて描写がいかに興をそぐかはわかっていただけるだろう。
この映画で思ったのは、ピーター・ジャクソンって女にモテるんだろうなあ、と思ったことだけであった。
(05.1222)


【映画】・「7人のマッハ!!!!!!!」 製作:プラッチャヤー・ピンゲーオ、監督:パンナー・リットグライ(2005、タイ)

公式ページ

ムエタイの達人である刑事と、スポーツ選手たちが慰問にやってきた小さな村をテロリストが制圧。村人を人質にとるばかりか、核ミサイルをバンコクに撃ち込むと政府を脅迫、ボスの釈放を要求する。
次々と惨殺されていく村人たち。このままやられっぱなしでいいのか!? とにかく、スポーツ選手も村人も、だれもかれもが立ち上がった!!

あまりにもすごすぎる映画。個人的に、今年のベストワン。陳腐な表現で「日本に失われたものがアジアにはまだある」というのがあるが、それを見せつけられた印象である。
テコンドー、サッカー、器械体操などの特技を活かして敵と戦う、それはまあ想像ついてましたよ。でもねえ、何がすごいって、銃器を持ったやつらにまんま立ち向かっていくんだよ!!
普通は、油断した敵が銃器を一箇所に集めたところをだれかが隠しちゃって……とか、何らかの理由で銃器を扱うなとボスが命令していて……とかの設定が入るでしょう。そうじゃないんだよ!
だいいち、まず村の中心部に集められた村人が銃器を持ったテロリストに取り囲まれ、監視されていて、この状態からどうやって戦いに持ち込むのかなと思ったら、いきなりみんな立ち上がって、銃を乱射していくテロリストに向かって素手で反撃していくんだよ!! これには唸らされたよ。

もちろん、その時点でバタバタ死んでいく。善人は生き残るとかね、そういうのはないわけ。その辺はかなりシビア。でもその逆に、いちばん憎たらしいやつはバズーカ砲みたいのを食らって肉片まで粉々になるとか、悪いやつも完膚無きまでにブッちめられる。
日本人のさァ、細いメガネかけてポストモダンがハチの頭とか言ってるやつは、「銃器と核兵器を持ったテロリスト」と、「武器を持たない村人」っていう対立関係を考えたときに、ゲーム的なパワーバランスを考えるわけじゃないですか。しかも、敵を強く設定しすぎちゃってニヒリズムに陥っちゃったりとか。自分でつくった設定なのにね。
でもこの映画って、そういうのぜんぜんないんだよ。よく、タイ映画を揶揄と賛嘆の入り交じったニュアンスで「仏様の国では仏像を盗んだら許されない」っていうけども、それも批評のおとしどころとしてわかるんだけども、なんかこの映画はそれだけで片づけちゃいけない気がしましたね。とにかく横っ面引っぱたかれたような衝撃を感じましたよ。

あと「7人のマッハ!!!!!!!」はナイス邦題(原題は「BORN TO FIGHT」だそう)。

いちおう断っておきますけど私は「デアデビル」と「キャットウーマン」と「仮面ライダーFIRST」に甘い人間ですよ。あくまで、その私の感想ですからね。
(05.1222)


【映画】・「シルバーホーク」 監督:ジングル・マ(2004、香港)

公式ページ

バイクに乗り、拳法の達人として悪と戦う謎の女戦士・シルバーホーク。彼女は昼間は大富豪の養女でセレブのルル。幼なじみのリッチマン警視はシルバーホークの正体はルルだと気づかないまま、逮捕しようと狙っている。一方、人間を人工知能がチェックして思い通りにするシステムが開発され、「悪の組織デス・クルセイダー」はそれを使って世界を征服しようとしていた。
シルバーホークもリッチマン警視も、デス・クルセイダーを倒すために動き出す。

映画館で見た予告編に衝撃を受け(たぶん中江真司ナレーションでメチャクチャカッコいい!)、速攻で前売りを買ったが公開終了間際に見に行く。
とにかくこの予告編が、パロディか、何かシビアな物語が始まる前の劇中劇かと疑ってしまうくらい「旧時代的」なのだ。月光仮面か仮面ライダーを思わせるマスクの女戦士? 世界征服をたくらむ悪の秘密結社? 本当にこんな映画が新作として公開されるのだろうか?

夢みたいだ!!

陶然となった私は、見てやはり陶然とした。
いちおうお断りしておくが、私は映画の「デアデビル」も「キャットウーマン」も大好きな人間である。その人間の基準であることを頭に入れて、以下の感想を読んでいただきたい。

まずバイクに乗ったヒーローというのは、映画で見て案外機動性がないように見えてしまうのがネックなのだが、そこをきちんとクリヤ。そして秘密兵器が仕込まれているところもワカッテいる。

主演のミシェル・ヨーは43歳とは思えない華麗なカンフーを披露するし、敵の大ボスの両腕が鋼鉄の義手でできており、そこから繰り出すパンチが超強力であるとか、携帯電話に仕込まれた機械で洗脳されていく人々の洗脳されっぷりが超極端だとか、最後に秘密基地に乱入して敵を倒して爆発とか、本当に申し分のないヒーロー・アクション映画になっているのだ。

ミシェル・ヨーに関しては、「グリーン・ディスティニー」と「レジェンド/三蔵法師の秘宝」が両方とも個人的にはたいして面白くなかったが、この映画は彼女をじゅうぶん活かしきっていたと思う。

さらに、ヒーロー映画にとって重要な細かい演出も良かった。リッチマン警視との再会に、幼少時の拳法道場での回想をオーバーラップさせたり、過去のやりとりそのものが現在のシーンでのアクションに活かされたりといった点。また、ルルの戦う動機が「目の前の不正を許せない」、「拳法道場で師匠も見逃す悪が存在した経験」ということに加えて「自分の拳法を活かして暴れ回りたい」という欲求にあるあたり、昨今のヒーローものにはない陽性の印象があって逆に新鮮である。

なお、本作はヒーローものに何の興味もない人が見ると単なるアナクロニズムの集積にしか見えないだろう。そこに苛立ちすら感じる人もいるかもしれない。しかし、かつての定番を踏襲しているからこそ見えるものもある。
本作で悪とされていることは何か、というと、もちろん敵のファシズム的世界征服だが、そのたたき台となるのは「人工知能が常に最適な命令を下す」システムである。
逆に言えば「人間は自分の意志で生きるべきだ」ということが正しい、というのが前提ということになる。
これは深読みでも何でもない。こうしたテーゼは、ルルが警察組織に属さずに独自に戦うことと呼応するからだ。

さて、現状で何が古くなっているかというと、実は「人間は自分の意志で独立して生きるべきだ」というテーゼなのである。
かつて日本で「独立」は純文学でもエンターテインメントでも脅迫観念的なテーマであった。それはアメリカから独立できないジレンマから来るものであり、農村から都会に出てきて生きる人々が考えることであり、親の世代とは違う人生を歩みたい、いや歩むべきだと人々が望んだということであった(余談だが「空手バカ一代」は、アメリカに対する愛憎相半ばする心情と、一人の人間が「独立して生きていく」というテーマを同時に扱っている)。

ところが、現状では親、祖父の代のしがらみはある程度払拭できるようになった反面、長びく不況のためにニートやフリーター問題が重視されるなどの経済的独立のむずかしさなどの要因がからまり、「一人で生きていく」ことを金科玉条のテーマとして掲げにくくなっているのである。
また、「一人で生きる」と言ったってそこには必ず恋人、夫、妻などのパートナーが不可欠であったが、このあたりもそう簡単に描くというわけには行かなくなっている。ニューファミリーのあり方に対する疑問は、もうずいぶん前に提示されている。
要するに「孤独」というものが社会全体で結ばれる像が、70年代終わり当たりから決定的に変わってしまっているのである(香港では、そういうことをウジウジ考える必要はないのかもしれない)。

私はときどき、今の日本人ってみんな洗脳されてもいいと思ってんじゃないか? と思うときがある。
もちろん「下流」だの「電波男」だの「フリーター批判」だの、もしかしたら私の書いていることだって洗脳の一部かもしれないよ。

わが子よ、この事を覚えておきなさい。そしてこの映画を見なさい。カッコいいから。
(05.1220)


・「実録 勝新太郎伝説」 勝新太郎、大石賢一、木村栄志(2005、竹書房) [amazon]

「俺、勝新太郎」の劇画化。コンビニペーパーバック調単行本。さすがに数多の原理主義者を産むだけあって、勝新の自慢話というのは豪快で面白い。あと男の色気があるよね。勝新に比べれば押尾学なんて兵隊の位で言うと五等兵くらいなモンです。

で、このマンガを楽しむには少なくとも勝新の映画を1本でも見ておくこと、個人的には「座頭市物語」を見ておくことをオススメします。「メクラ」という言葉が頻発するのが悪いのか、私が子供の頃「座頭市」をテレビで見た記憶がありません。このためときおりワイドショーをにぎわす変なオッサン、程度の印象しかなかったんですが、「座頭市物語」一本で勝新のスキャンダラスな面もすべて伝説だったと納得できます。
パンツに覚醒剤だか麻薬だかを入れて捕まり、「なぜパンツに入れたんですか?」とレポーターに問われ、「だから、それをオレも教えて欲しいンだ」と言った勝新。まあ、そこら辺のエピソードはこのマンガには入ってないわけですが。時期的には昭和40年代くらいまでです。
(05.1217)


・「実話が恐い! 怪談新耳袋(ミミの怪談)」 伊藤潤二(2005、メディアファクトリー) 「ミミの怪談」[amazon]

コンビニペーパーバック調単行本。わが同人誌「ぶっとびマンガ大作戦 Vol.9」において、赤兜のヒライさんに原稿をお願いしてレビューを書いてもらったのが本作に収録された何本かだったわけですが、実際に読むとヘンでいいですよ。確かに「隣の女」、次いで「墓相」が突出してヘンな話ですよね。

「怪談 新耳袋」のマンガ化だそうなんですが、この2編は単に「伊藤潤二のマンガ」であって、「実話の恐さ」とか何とかそういうのぜんぜん関係ないんだもん。それにしても「でろでろ」の押切蓮介といい、山咲トオルといい、ギャグと恐怖が混然となった作品がマンガで多くリリースされているのは興味深いです。やはり95年からの10年間を象徴するのはホラー(そしてその果ての笑い)なのか、という気がちょっとします。あ、「ミミ」って耳袋だからミミなのか。今気づいた。
(05.1217)


・「ビッグ錠短編集1 パソコンワールド」 ビッグ錠(1986、集英社) [amazon]

パソコン黎明期に描かれた作品を集めた短編集。ここに描かれたことが実際のパソコンでどの程度実現できるかはわからないですが、ストーリーテリングの妙を堪能できます。古書店で見つけたら即ゲットをオススメ。清潔で美味しい定食屋さんでご飯を食べたような気持ちよさがある。
(05.1217)


【雑誌】・「ウォーB組」1月号(2006、マガジンマガジン)

公式ページ

巻頭は後藤ゆきこ[amazon]。あと、堀田ゆい夏とか。

野田ゆうじ「ぼくとすずなのいた夏」は、第42話「DESPERATE WARLD」。
いなくなったメス犬・すずなを探し回るケンイチは、公園で義母(だったかな?)を緊縛して野外露出プレイを楽しむクラスメイト・鏑木に遭遇。戻ったケンイチは、家が放火されていることに愕然とする。

他にはマンガとしては杉友カヅヒロ、嬉野めぐみ、児島未生。

次号は1月7日発売。

先月号の感想

(05.1217)

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