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「つれづれなるマンガ感想文2005」11月後半
「つれづれなるマンガ感想文2005」12月後半
一気に下まで行きたい
1972年頃、週刊少年サンデー連載。
「アポロの月面着陸はすべてでっちあげ」という噂が、日本で2、3年前から流行っている。その主張のどこがどのように間違っているかを一つひとつ検証した本。
【雑記】・紅白歌合戦批判定番伝説
【イベント】・第4回ハロプロ楽曲大賞2005(於:新宿ロフトプラスワン)
【映画】・「ALWAYS 三丁目の夕日」 監督/脚本:山崎貴(2005、日本)
【映画】・「少林キョンシー」 プロデューサー:ジェレミー・チョン、監督:ダグラス・クン(2005)
【映画】・「乱歩地獄」(2005、日本)
【映画】・「奇談」 監督:小松隆志(2005、日本)
【アニメ映画】・「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」 総監督富野由悠季(2005、日本)
・「餓狼伝」(17) 板垣恵介(2005、講談社)
・「ザ・ムーン」 全4巻(1997、小学館)
【雑記】・本格的希望宣言
・「喰いしん坊!」(4) 土山しげる(2005、日本文芸社)
・「艶恋師(いろこいし)」(1) 倉科遼、みね武(2005、実業之日本社)
・「ゲノム」(4) 古賀亮一(2003、ビブロス)
・「新ゲノム」(1) 古賀亮一(2005、コアマガジン)
【書籍】・「人類の月面着陸はあったんだ論」 山本弘、植木不等式、江藤巌、志水一夫、皆神龍太郎(2005、楽工社)
【書籍】・「現代アメリカの陰謀論―黙示録・秘密結社・ユダヤ人・異星人」 マイケル・バーカン(2004、三交社)
【雑記】・本格的絶望宣言 その2
・「AERA」05.12.5 「学校の授業でも『水からの伝言』の仰天」(2005、朝日新聞社)
・「コミック ザ・ベスト キュン!」Vol.28(2005、KKベストセラーズ)
【雑記】・紅白歌合戦批判定番伝説
紅白歌合戦について書くのは、簡単なようで実は非常にむずかしい。
というのは、民放ならとっくに終わっている可能性もある古い番組でもあるし、
かといって紅白自体が「伝統」を、なぜか守らない妙なリニューアルの仕方をしてきた番組だということでもある。
さらに、掘り下げればいろいろとNHKの体質なども含めて見えてくるものがあるのだろうが、紅白について考えることなど普通、1年のうちに一週間かそこらだろう。
だから、関係者を除いて年を越せばみんな忘れてしまい、同じ言説が繰り返されるということになる。
そこで、ネット上や週刊誌などにありがちな「紅白批判」を追うことで少し考えてみたい。
・知らない歌手(ジャリタレ)ばかり出てきて、つまらない
これは「アイドル」というものが出てきてからずっと言われ続けていることで、私の知るかぎりでは82年組のアイドルが大量にデビューした23年前から言われ続けていることである。正直、テレビなどでこういうコメントを言うだけでお金をもらっている人が心底うらやましい。23年前の言説でまだ食っているわけだからね。
まあ、業界的な事務所の「枠」があるのかもとかそういうことは置いておいて、記憶だけたどると82〜83年は実際に人気のあったアイドルが多く、若手組枠でも入れるのに相当苦労があったのではないかと思われる。
また「ジャリタレ批判」に関しては、70年代の「アイドル」そのものが登場したときから存在しているのでかれこれ30年以上、同じ批判が続いているのである。
これはジュブナイル(ヤングアダルト)小説やマンガなどの他の新興ジャリ文化と比較しても、批判言説として異様に長い歴史を持っているということになるが、それはまた別の話である。
「ジャリタレつまらん批判」は同じように繰り返されてきたが、ここに90年代から「J-POPの台頭」が加わったことがより問題を複雑にしている。ここではJ-POPを「ポップ化したニューミュージック」と捉える。
ニューミュージックを「ポップス」というので「ポップ化したポップス」という妙な言葉になってしまうが、ニューミュージックが持っていた反骨的態度が消臭されたのがJ-POPであるとここでは解釈する。つまり、かつては紅白なんぞ出演拒否していた位置にいた歌手たちが、こぞって何のてらいもなく紅白に出る時代が来たのである。そして、さらにその先には「何のてらいもなく出場を拒否する」という宇多田ヒカルまで行ってしまう。
さらに、三十代、四十代でも共有できるヒット曲がないということもある。それは音楽の好みが非常に細分化してきた、やはりここ30年くらいの事情によるもので、とてもここ数年のこととして語れるものではない。
ここら辺の事情をおさえておかないと、「今、紅白を語る」という意味はあまりなくなってしまう。
・大人の好む、大人の歌う歌手を出場させるべき
ここには矛盾がある。第一に、「一年を振り返る」という意味では「大人の歌手」はここ最近ほとんどヒット曲を出していない。北島三郎や和田アキ子の新曲なんて知ってます? 私は知りません。百歩譲って「ああ、この人もこの1年がんばって来たんだなァ」というしみじみ感があることは認めるが、それと「歌が懐かしい」ということはまったく別問題である。
これをごまかしてきたのが、スタンダードな童謡を歌う由紀さおり姉妹だったのだが、どうも今年は出ないらしい。NHKがとことんワカッテナイ証拠ではある。まあ、「涙そうそう」に「大人の歌」の役割を担わせようという意図は見えるが。
また、懐メロなら全国ネットかどうかは知らないが「にっぽんの歌」というのを他局で毎年やっている。コレとの差別化を図るとしたら、やはり紅白は「この1年」ということに固執せざるを得ないであろう。しかし、大御所は1年や2年でどうなるものでもないという矛盾が潜在的にある。
・紅白の対戦に意味がない
これも、当たり前すぎてあまり言われなくなってしまったことだがたまに見受けられる。しかし、私の記憶では私が小学生くらいの頃から紅白の対戦はすでにほとんど無効化していた。とすると30年近く前から意味がなかったということである。
そもそも、紅白歌合戦に関して、本当にどちらが勝つかが興味の対象になっていた時代があったのだろうか? その辺は勉強不足でよくわかりません。
もともとゲーム性の低さという意味で、確かに紅白の対戦形式には意味はどんどんなくなっていった。しかし、90年代を通じてもっと面倒な事態が出てきた。男女混合のバンドなどが増え、そもそもの「紅」、「白」の区分けも無効化してきたのである。「男女に分かれて競う」というお遊びの前提すら崩れた以上、もともとのゲーム性をうんぬんするのはさらに意味がないことのように思われる。
ま、ゴリエを紅組に入れたのはその辺をわかってのお遊びなのだろうけど。
・最後に
「紅白歌合戦」は、建前上は国民全員に開かれたほとんど唯一の娯楽番組だと言ってよい。そこで必ず浮上するのが「アイドル(ジャリタレ)」と「実力のある大御所」という対立図式で捉えた批判なのだが、ホントにそんなこと言えるのかヨと、少し思うのである。
たとえば「演歌」全体でも新人で、まずまずだれでも知っているとしたら氷川きよししかいない。1ジャンルに一人しかいないというのは、こりゃ大問題である(北山たけし? だれそれ?)。たとえば私は落語をほとんど知らないが、落語家の若手だったら名前だけでも2、3人は知っている(あの、NHK教育に出ている人とか)。それに比べても演歌界の怠慢はまぬがれないだろう。そこまでの衰退ジャンルに、若い人のリスペクトが集まるだろうか?
それと、演歌の好きな人には悪いが、かつて小室哲哉が「演歌をつくるとなると、……そこまでルーティンな仕事はさすがにしたくない」みたいなことを言っていた記憶がある。コムロの歌って何聞いても同じじゃねェか、という素朴な批判が、実は演歌はできないのである。そんなんでいいのかホントに? と、どうしても思ってしまう。
「今のアイドルはだれを見ても顔が同じ」と言っている人が、「どれを聞いても同じような」演歌を聴いていたりするのである(私は、小林幸子と美川憲一が衣装対決になったのは、楽曲の差がそんなにないことが一因ではないかとも思っている)。
そしてまた、実力のある歌手を視聴者が見たいかというと、実はそうでもないのである。昨年のマツケンサンバだって、何も松平健の歌唱力だけであそこまで人気が出たわけではないだろう。
その辺、実力主義の評者はずっと悶え苦しんできたのだ。ポップスについて言えば私の知るかぎりもう戦後ずっと。あんたらが悶え苦しんでいるのはわかったが、もういいかげんにその真相を教えちゃくれまいか。
しかし、ほとんどのジャリタレ批判者はその真相を明かさない。それは突き詰めると、大衆文化一般を否定することになってしまうからである。まったく、大人は汚ねェよな。30歳以上も30歳以下も、私はもう信じない。
(05.1213)
【イベント】・第4回ハロプロ楽曲大賞2005(於:新宿ロフトプラスワン)
第4回ハロプロ楽曲大賞2005を発表するトークライブ。12月10日午後7時半から。
関わったスタッフの方々、お疲れさまでした。
今までベスト100曲を流していたのを、今回は半分の50曲。映像やVTRゲストの企画もきっちり出来ていて、4回目でスタッフが慣れてきているとはいえこのダンドリのスムースさにはシビれてあこがれます。
今日決定したランキングはどこかに発表されると思うし、そちらが第一報として正式なものなので順位については書きませんが(後でリンクするかも)、いろいろと思ったことを昨年自分が書いたことと比較して、とりとめもなく書いてみます。
VTRゲストの掟ポルシェ氏は、前年はわざとアイドルヲタを演じることで楽曲に対する評価の低さをごまかしてましたが、今回はベリ工に対しては(アイドル的側面も含めてのことでしょうけど)かなりまじめに高評価を出していたように思います。
対するに、宇多丸氏はテンションの低さを隠そうともしなかったのが印象的。雑誌連載でも「元モーヲタと名乗ろうか」とか書いてましたし。でもこの辺はホント、しょうがない気もしますね。
今回、50曲見ていって感じたのは、とにかく現場主体の投票だなあと。これは前々から思っていて、かつて後藤真希の「スクランブル」が1位になったときにも感じたんですが、今年も現場で盛り上がる曲が上位に入っている印象でした。
フットサルの盛り上がりもそうなんですが、去年感じた「閉鎖性が強くなるだろう」という予測は半分当たって半分はずれたような感じで、キーワードは「閉鎖的」というよりも「現場」でしょうね。現場のことがわからないとシーンにまったくついていけない状況になってきてる。
もともと、ステージの評価が高かった娘。やハロプロですが、テレビの露出が減ったんでそのぶん、現場の特異性が浮上してきている感じがしましたね。
この辺が、同じ国民的アイドルでもピンク・レディーなどとはもっとも違うところです。
昨年の予測との比較という点で言えば、私の予想どおり「萌え路線」ではハロプロは他のアイドルと比べて突出して洗練されてます。いや予想以上だったかな。
「電車男」のブームからこっち、マスメディアの「萌え」評価が非常に気持ち悪いカン違いのもとにできあがっているのとは対照的に、ハロプロは「全部わかってるのにそれをしない」点がノーブルでしたね。
そして「萌え」を小出しにしている成果が辻や紺野の人気ですから。あるいは、れいなにネコ耳を付けさせてもファンが「あざとい」と言える冷静さを持っているということね。
そういえば今回、「推しメン部門」で辻と紺野が上位に入ってたんですが、「これは世間評価とは違うんじゃない?」っていう言葉に壇上の別の人が「いやー……インターネットの好きな人たちの投票ですから」的なことを言っていて、「インターネットの好きな人」っていう表現に笑ってしまったんだけど、そういう評価がくだせるっていうのは「萌え」に対する客観性が、ハロプロを取り巻く環境にはある、ということじゃないかと思います。
ま、そんな感じですかね。もう少しトークに笑いが入ってもよかったかなと思ったけど、キャラだとか事務所の方針だとか言い出すとまとまりがなくなっちゃいますしね。あれくらいがちょうどいいのかもしれません。
・自分の投票
・第3回ハロプロ楽曲大賞2004感想
(05.1210)
【映画】・「ALWAYS 三丁目の夕日」 監督/脚本:山崎貴(2005、日本)
公式ページ。
原作を1ページも読んだことがないということをお断りしておきます。
昭和三十年代。茶川は純文学作家志望だが、糊口をしのぐために駄菓子屋をやりながら意にそわぬ児童雑誌に子供向けの連載をしている半チクな文筆業者。
ある日、元踊り子で現在は飲み屋をやっているヒロミから頼まれ、色じかけで淳之介という少年を預からねばならなくなる。一方、茶川の家の近所にある鈴木オートに、集団就職で六子(堀北真希)という少女がやってきた。
お話は茶川/淳之介と、鈴木一家/六子という関係を中心に描かれる。
私は戦後すぐ当たりから、この昭和三十年代までというのが皮膚感覚としては苦手。だってほとんど記憶のとっかかりがないからね。しかし「ノスタルジー」というものに興味があったので見てきた。
どんなもんじゃろと思っていたら、冒頭「つくりかけの東京タワー」が映し出された時点で、かなり心を捕まれた。
つくりかけの東京タワー! それをリアルタイムで見ることができるのは、当時の人間たちだけである。
しかも、あのような角度で本当に見えたのだろうか? それもちょっとアヤしい(当時東京に住んでた親から聞いたら「さあねえ……」とかって興味なさそうだった)。
アレはファンタジーにおける「魔法の塔」のようなものなのだ。だから登場人物もファンタジックな世界の住人なのだろう。たぶん「どこにもなかった昭和33年」なのだ。
お話はとてもユーモアに溢れていて、見る前に想像していた人情の押しつけがましさのようなものは感じない。エンターテインメントとして考えた場合、この時代の「暗部」の描き方も、これくらいのバランスがちょうどいいのではないだろうか。
「どうせキレイ事しか描いてないんだろう」と思っている人のために説明すると、
・町医者の宅間先生は空襲で妻子を亡くしていて、中年なのに一人ぼっち。
・少年・淳之介はだれも引き取り手のいない、みなしごのような存在。
・自動車修理という生産的な仕事を持ち、妻子を持つ鈴木オートは文士きどりの茶川をかなりマジでバカにしている(どうもこの界隈では鈴木オート以外にもバカにされてるらしい)。
・元踊り子のヒロミは、ストリッパーなのかな? そんなことを匂わせつつ、けっきょく事情があってカタギの仕事に就くことができない。
・冷蔵庫を購入して大喜びの鈴木一家とは対照的に、うつろな顔をした氷屋(ピエール瀧)の顔のアップが長めに映し出される。
・六ちゃんは人減らしのために都会に出された?
要するに、状況としてはさまざまな悪条件があるけど、それでもがんばっていこうよみたいな内容で、こういう作品ってそれこそリアルタイムでちばてつやとか水島新司とかにもあったテイストである。
その当時を描くという点において、そのときのすべての社会階層を描いていないからダメだという意見があるなら、私は承伏しかねる。ご都合主義的にまるめている点は否定しないが、やはり限度というものがあるのだ。
さて、原作を読まないままに書くが、ラストシーンでこうなったらものすごく感動したのに、というのがある。
(注意!! 以下、ネタバレです。)
(実際の展開)
・淳之介はお金持ちの父親に引き取られそうになるがふりきって茶川の元へ戻る。
・六ちゃんは、実家から追い出されたと思いこんでいたが、それは「里心が出るから」と親元で心配しながらもわざと冷たくしていたことが発覚。鈴木オートからもらった切符で正月休みのために帰省していく。
私、これが逆だったらものすごく感動していたと思う。
要するに、
(私が勝手に考えた展開)
・淳之介が金持ちに引き取られることを、淳之介の将来を考えて茶川は涙ながらに承諾する。
・六ちゃんの親は本当に冷淡だった。だから帰省することもできない。鈴木オートは、「一緒に大晦日とお正月を迎えよう!」と、六ちゃんに言う。
この展開だったら号泣していたな、きっと。
なぜなら、この時代「将来」のために、別に冷酷というわけではないが断腸の思いで義理や人情を捨て去った者は大勢いたはずだし、
一方で、人はバンバン「ふるさと」を捨て去る時代でもあったからだ。
本作どおりの展開になると、茶川と淳之介は明らかに「疎外されたものどおしの疑似家族」ということになるし、
それとは対照的に鈴木オートと六ちゃん(と、六ちゃんの田舎の親)は、あまりにも理想的な当時の家族ということになってしまうので、いま一つ面白みに欠けるんですよね。
私が勝手に書いた展開なら、2つ疑似家族(茶川、鈴木オート)ができあがるわけだから。実際そこまで前向きな解体は行われなかったと思うけど、時代性としては面白いと思ったんだけどね。
あ、それ抜きにしても、けっこういい映画だと思います。ただ見る人間はそれを「この時代を選んだからできた話だ」って思っちゃいけないんじゃないか。いやこのテキストの冒頭に「昭和30年代の東京というファンタジー空間」と書いておいてアレだけど。
「昔だからできた、今はできない」じゃなくて、「今」何ができるかを考えないとなあ。
(05.1209)
【映画】・「少林キョンシー」プロデューサー:ジェレミー・チョン、監督:ダグラス・クン(2005)
公式ページ。
道士とキョンシーが戦うような話だが、私の体調がよくなかったせいもあるがあまりにプロットが単純すぎて途中で眠くなり、ほとんど半分くらい寝てしまった。ラストがどうなったかもわからん。気づいたら終わってた。
(05.1209)
【映画】・「乱歩地獄」(2005、日本)
公式ページ。
江戸川乱歩原作をアレンジした短編作品のオムニバス。
・「火星の運河」
初っぱなからのあまりのアングラ的映像にビビり。ちなみに、映画館の予定表に書いてあった予告時間が間違っていたことは書いておく。予告編観るのキライだから、あやうく冒頭を見逃すところだった。
・「鏡地獄」
監督は実相寺昭雄。エラいお芸術的な映像だなと思っていると、なんだかオチは「怪奇大作戦」みたいだった。
・「芋虫」
「観るんじゃなかった……」と思うぐらい陰惨でグロテスク。お話もムチャクチャ。でも頑張ってると思う。
・「蟲」
「芋虫」以上に「観るんじゃなかった……」というグロテスクさ。観ていて身体がかゆくなってくる。しかし悪口ではない。このテのジャンル内評価はどうかわからんが、頑張っていたとは思う。明るい太陽の下がグロだった、みたいな感じの気色悪さ。緒川「うそつき」たまきもがんばってました。
総評:
全体的なお芸術テイストが、「乱歩=お芸術」という固定観念という感じがして観る前はあまりいい印象はなかったが、乱歩作品の「エロス」と「グロ」をこれでもかと描いた点は買う。
(05.1208)
【映画】・「奇談」 監督:小松隆志(2005、日本)
公式ページ。
諸星大二郎の「妖怪ハンターシリーズ」から「生命の木」を映画化。
放送コード的な意味で映像化は不可能だろうと思われたので、それをとにかく商業映画にしたところは買う。
しかし、物語の狂言回しである女性がまったく必要がない。事件後、すべてをセリフで説明するのもブチ壊し。
ぱらいそに言ったところは、まあ良かった。ぜず様は役者の表情、声ともに良かったとは思う。
(05.1208)
【アニメ映画】・「機動戦士ZガンダムII 恋人たち」 総監督:富野由悠季(2005、日本)
公式ページ。
前作「星を継ぐ者」が良かっただけに、本作はゼータになじんでいない者がおちいる「ゼータ地獄」の幕開けとなった。
とにかく展開されていることが何がなんだかサッパリわからない。トミノ監督はほうぼうで吠えて「さすがトミノ監督!」とか言われることが多いが、それもけっこうだが少なくとも観ていちおうストーリーだけでも掴める映画をつくってください。ファーストガンダムの映画は、ここまでわけがわからなくなかったと思う。
・「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」感想
(05.1208)
・「餓狼伝」(17) 板垣恵介(2005、講談社) [amazon]
イブニング連載。北辰会館のトーナメント続き。
プロレス・鞍馬彦一VSキック・安原健次
私は鞍馬ってキライで、しかし安原が勝つ芽も展開的にはなかったが、「オンナを賭ける」ことも含めた凄惨な試合の中にも盛り上がりをつくり、なおかつユーモラスなオチできっちりシメたのは作者が立派。
北辰館・遠野春行VS古武道・畑幸吉
畑幸吉がカッコいい。昔はこういう試合があるんじゃないかと思ってヴァーリ・トゥードを観てた。
日本拳法・椎名一重VSレスリング・畑中恒三
ヘビィウェイトの日本拳法家ってたぶん日本にいないと思うんだけど、それだけに夢がある試合。
伝統派空手・神山徹VSボクシング・チャック・ルイス
伝統派空手に着目したのは格闘マンガでも板垣恵介の勝利だと思う(確か「なつきクライシス」が伝統派だったと記憶しているが)。
・16巻の感想
(05.1208)
・「ザ・ムーン」 全4巻(1997、小学館) [amazon]
大金持ちの魔魔男爵が、2兆5千億円をかけてつくった巨大ロボット「ザ・ムーン」。それは9人の少年少女に託された。主人公格の「サンスウ」、紅一点「カテイカ」、アオレンジャー的存在「シャカイ」、サンスウの弟「タイイク」、工作の得意な「ズコウ」、頭のいい「リカ兄弟」、小さい子供である「オンガク」、オンガクの弟「ヨウチエン」。彼ら9人全員が揃い、念じないとザ・ムーンは動かない。しかし、ひとたび動けば圧倒的な力を発揮する。
正義と悪が混沌とした時代、真の正義を遂行できるのは純粋な心を持った少年たちだと、魔魔男爵は思ったらしい。
そして9人をサポートするのは、魔魔男爵の忠実な部下であり謎の忍者(?)糞虫だ。
この作品は非常に面白い。しかし、あまりにカルト的な作品として位置づけられすぎている気がする。
実際読んでみると、「9人全員揃わないとザ・ムーンを動かすことができない」という設定がサスペンスを盛り上げる要素となり、いざ9人全員が揃うと巨大なザ・ムーンが動き出し、それこそ「神」的な力を出して敵をやっつける。正統派の少年マンガだと言える。
「衝撃のラスト」という声も多いが、いやそりゃまあリアルタイムで小学生くらいのときに読めばトラウマになるかもしれませんよ。しかし、絶望的なバッド・エンディングということで言えば、そういうのが多かったアメリカン・ニューシネマは本作の連載前にかなり日本で公開されていたのではないかと思う。
それに、日本のマンガとしても本作と同じく「核の恐怖」をテーマとした石森章太郎の「そして……だれもいなくなった」は1967年。同じく石森章太郎の、本作のラストに酷似している(まあ若干こっちの方が希望は残されているが)「幻魔大戦」が同じく67年。
さらにハルマゲドン的展開を予感させた「サイボーグ009 神々との闘い」が1969年。そしてやはりバッドエンドの「人造人間キカイダー」が1972年、永井豪の「デビルマン」が1972〜73年と、少年マンガ誌の時代背景としても、似たようなテイストの作品でなおかつ後世の記憶にとどめられたものが近い年代で出ている。
要するに、本作はおそらく突発的に生まれたものではないということだ。
それと、「絶望的」、「救いがない」という意見が少なくないが、本当だろうか? という気持ちもある。ラストは確かに救われないかもしれないが、少年たちが最後まで前向きだったことの方が重要ではないだろうか。単なる「悲惨」と、カタルシスのある「ラスト」は違うと思うのである。
サンスウとカテイカの結婚式は、単なる結婚式じゃなくて、みんなを鼓舞するための儀式なんだよ。あんなにどんづまりの状況の中で、少年たちが「始まり」を高らかに宣言したという意味において、私の読後感は良かった。最後まで作者が人間を信じているふうでね。
(05.1207)
【雑記】・本格的希望宣言
ノスタルジーについての意見をいくつかいただいたので私見を書きます。若い衆はウンザリしているかもしれませんが、私はむしろ順番順番だったことがわかって嬉しいとすら思います。
現在、マスメディアを通じて昭和30〜40年代、高度成長期に対する郷愁を「プロジェクトX」あたりをかわぎりに多く見ます。ところが、高度成長期は70年代の終わりから80年代にかけては、むしろ忘れるべき時代だとされていたと思います。
家族の絆がどんどん弱くなっているということに対し、その原因を高度成長期「働きバチ」と言われたお父さんたちに帰する言説も多く見られました。
あるいは、家庭を顧みないで仕事に明け暮れたお父さんに反発を持った息子世代が「もう少し何とかならんもんか」と模索した時代ですよね80年代は。それが低成長期のフワフワした感じの中ではぐくまれた考えだとしてもです。それはもう時代の流れだから仕方ない。
「男塾」なんかに顕著ですが、80年代は「がんばった日本人の物語」を、高度成長期よりも戦時中とかに求めていたんですよね。だからやっぱり順番順番です。
また、大阪万博に対する郷愁もここ数年で多く見受けられますが、万博も15年くらいは、少なくともマスメディアの本流からは忘れ去られていました。
なぜ高度成長期とその帰結である大阪万博が忘れ去られるべき存在だったかというと、理由はいろいろあると思いますがものすごく簡単に言うと80年代から見て近い時代だったからでしょう。
大島弓子のマンガで「お花畑がなくなってそこに自転車置き場ができたら思い出の場所がなくなって哀しいと思うが、自転車置き場がなくなってお花畑ができても思い出がなくなって哀しいと思うかもしれない」(大意)というセリフがあった記憶があります。
何が言いたいかというと、緑あふれる田舎暮らしにしろ工業化しつつある町にしろ、ノスタルジーの対象になりうるんだなあ、という軽い驚きがあるということです。私はそれを風通しのよさとすらとらえているけど、まあうざいと思う人はうざいと思うでしょうね。
歴代のおっさんたちの昔話を段階的に聞いてきた私にとっては、やっと高度成長期にがんばってきた人(ぜんぶではないと思うけど)が自分たちの時代を懐かしめる時代がきたんだな、ということと、「うさぎおいしかの山」みたいな「田舎に戻りたい」みたいな言説一辺倒だったのが、さすがにそういうのが無くなってきて、そのまま時代がスライドして高度成長期に移ってきているんだな、というふうに思うのみです。
(もちろん、そこには不景気から脱却するために過去から何かを学ぼうという、藁をもつかむ気持ちも含まれているでしょうが)
だから、ノスタルジーに対してはブームになろうがどうなろうが、私は実はそんなに動じないんですよ。
みんながホッとするならいいんじゃないですか。
もう始まってるかもしれないけど、バブル(80年代終わりくらいから90年代初めくらいまで)を懐古する風潮も起きてくるかもしれないし、「過去」っていうのは時間が進むたびに当然ながら蓄積されていくものなので、そこからどの時代がチョイスされてもあまり驚きません。
むしろ全共闘世代の大多数がかなりノスタルジーを忌避してたので、その反動が下の世代に来ているという感じがします。
そうそう、「21エモン」で21世紀に「昭和村」という、昭和のものを何でも残しているテーマパークみたいなものがあって、「明治村」というのがもともとあってそこからの発想らしいんですが、確か電信柱とか木の板の塀の家とかが残してあるんですよね。
このマンガが掲載された当時は「懐かしくもなんともないものが懐かしがられている」というギャグでしたが、現状もうそうなってますね。「昭和かよ!」なんてツッコミが一般化するとは思ってもいませんでしたし。
ニコニコできるようなものであれば、何が流行ろうがかまわないんですが、それより不安を煽るようなものが気になるんですよね(って、私もじゅうぶん煽ってるか)。
(05.1204)
・「喰いしん坊!」(4) 土山しげる(2005、日本文芸社) [amazon]
週刊漫画ゴラク連載。鉄火丼対決(鯨喰い)→謎の三兄弟の出現まで。いやー食べ物がうまそうなのがいいね。すごく美味しそうな鉄火丼。
「おいしく食べる」ということと「大食い」を取り扱うことの矛盾を、あまりにうますぎるバランスで乗り切ってます。表紙はなぜか縁日とかで売ってるパックの焼きそば。
・3巻の感想
(05.1204)
・「艶恋師(いろこいし)」(1) 倉科遼、みね武(2005、実業之日本社) [amazon]
たぶん漫画サンデー連載。表の顔は神楽坂を根城にする三味線、都々逸の師匠。裏の顔は、卓越した性技で女性の悩みを解決する竿師・神楽坂菊之介の活躍を描く1話完結もの。
う〜ん、まだ様子見ですかね。あまりに70年代テイストな内容がちょっと狙いすぎという気も……。倉科遼って、そんなにいちじるしく突飛な話を描く人ではもともとなくて、昔からやってる人の中ではかなり売れてるってこと自体が、「ああ、マンガにギミックってそんなに必要じゃないんだなあ」って思えてすごく哀しくなる。
わー、ネガティヴ評価でスイマセン。
(05.1204)
・「ゲノム」(4) 古賀亮一(2003、ビブロス) [amazon]
エルフのエルエルとロボットのパクマンが昆虫について解説するテイのギャグマンガ。
投稿職人的なネームのうまさはギャグマンガ家の中でもながいけんと双璧だと思う。個人的に。
・3巻の感想
(05.1204)
・「新ゲノム」(1) 古賀亮一(2005、コアマガジン) [amazon]
かなり前に読んだのだけど、感想を書いてなかった。
ギャグマンガの感想を今まで避けてたんだけど、逆に言うとこれからのマンガレビューで芽があるのってギャグマンガのものだと思う。「感覚的なモノだから」とか言っていられない。だから感想を書きます。
面白いです。そんだけ(ええーっ)。
惜しむらくは、もともと作者本人に昆虫に対する思い入れがたぶんなく、昆虫関係のうんちくがいかにも「まずネタありきでそれから調べました」みたいな感じになっちゃってることかなあ。
・「ゲノム」(4) 古賀亮一(2003、ビブロス)感想
(05.1204)
【書籍】・「人類の月面着陸はあったんだ論」 山本弘、植木不等式、江藤巌、志水一夫、皆神龍太郎(2005、楽工社) [amazon]
「アポロ月面着陸でっちあげ」説のことを「ムーンホークス説」というそう。この一種の都市伝説の始まりから伝播の仕方、そして論理的検証などいたれり尽くせりの内容。
ムーンホークス説の個別的な特徴として、「疑惑がいちいち細かく、そして論理的なように見える」というのがあって、これを細かくつぶしていかないといけないというのがあるようだ。
それと、「月面を望遠鏡で覗けばアポロの残骸が見えるのでは」と簡単に考えていたが、現在ある望遠鏡では決して見られないそう。要するに、物証をつきつけることができないというのが、ここまで広まった理由かもしれない。宇宙人の場合、「連れてこられない」ことがそのまま「いない」ことの証明になるが、月面着陸の場合、「物証を見させられない」ことが「なかった」ことの証明であるかのように思われてしまう。多くのトンデモ説が、ないものを「あった」と証明するのに対し、あったものを「なかった」と証明しようとしているんだよねえ。
まあこういうのはこういうのでホロコーストがなかったとか、1ジャンルあるのかもしれない。
具体的にはテレビ番組「これマジ!?」、「世界はこうしてダマされた」、書籍「人類の月面着陸は無かったろう論」を検証している。
個人的には「無かったろう論」というのが出たのがショックだった。「これマジ!?」は、ええかげんな言い方をすればエンターテインメントで、参加スタッフが全員ムーンホークス説を信じているとは思えない。が、「無かったろう論」の著者はそれなりに頭のいい人だと思っていただけにねえ。
いやあまり本を読まない私でも、ソエジーのちょっとした文章は読んだことあるんですよ。確か湾岸戦争についての本で、いろんな人が書いていたけどその中で私がわざわざ名前を覚えたというのはそれなりにいいこと書いてあったと思うんだよな(まあ、あまりに上からものを見た態度も強く印象に残ってたけど)。
で、「たろう論」はけっこうカンだけで書いているというか資料を調べないで書いてるところがあって。
何で調べないのかなとは思う。栗本薫(中島梓)がある本の中で、「いろいろと参考にした本があるので、巻末に参考文献を付ける」って書いてあるのに、それがいつの間にか忘れ去られて巻末には付いてない、というのがあって、「付けないなら『付けようと思ってる』なんて一文削ればいいのに」と思ったことがあった。本の内容自体は悪くなかったけど、悪い意味でのアドリブ重視というか、自分の「ノリ」についての過信があると感じた。
で、その十数年後、「北朝鮮に拉致された人たちは、他の人にできない経験をしたので幸せ」と書いたということで「あー、こうなっちゃったか」と思った。ネット上の文章を見たけどほとんど改行なしだった記憶があるし、そこに「自分には推敲なんて必要ない」という傲慢さを感じた。
「たろう論」には同じような傲慢さを感じるから、困ったもんだなあと。
(05.1203)
【書籍】・「現代アメリカの陰謀論―黙示録・秘密結社・ユダヤ人・異星人」 マイケル・バーカン(2004、三交社) [amazon]
こんなことやこんなことを書いている自分は、最終的には陰謀論者になってアタマがおかしくなったりしたら当HPのいい幕切れじゃないかとも思うんだけど。どうなんですか。毎回書くんですよ。「福神漬け星人の尻尾を掴んだ」とか。福神漬け星人はアレですよ。「だるまさんがころんだ」を大ブームにすることによって世界を征服しようとしてるのね。
福神漬けはとりあえず関係ないの。
さて、本書はアメリカの、まともな人なら「ゴミ」と思ってしまうようないわゆる陰謀論の系譜についてわかりやすく解説してある。
日本とのいちばんの違いは「終末思想」が根底に流れている場合が多いことで、宇宙人に対する話題すら日本に輸入されたときに、その辺いかに消臭されているかがよくわかる。
たとえば、異星人ネタの陰謀論としてグレイ(悪い宇宙人)とノルディック(いい宇宙人)の対立なんてのがあるんですよ。矢追サンも書いていた、日本での宇宙人伝説の基盤になってる考えだと思うんですが、筆者はグレイ=ユダヤ、ノルディック=アーリア人という解釈が根底にあるのではないかと指摘。要するに宇宙人だけを信じてるピュアな人がいたとしても、解釈的には反ユダヤの片棒をかつぐ結果になってしまってるということ。逆に自分の主義主張を通したいがために、宇宙人を信じてるコミュニティに接近する人が出てきたりということ。
で、それは単なる「当てはめ」だけの話じゃなしに、オカルトだとか疑似科学だとかがそういう反ユダヤだとかあるいは反政府右翼だとかの思想と結びつきやすいということを言ってる。
漠然と「『ムー』に載りそうな話」と思われているような知識が、なぜ結びつきやすいのかについて分析してあります。とても面白いです。
コレを読むと、まあもともと陰謀論っていうのはバカバカしいもんだけど、さらにバカバカしいもんだと感じますね。っていうのはやはりアチラの文化なんだよね。キリスト教文化圏のモノだという印象がすごくする。
だから日本人で舶来の陰謀論とかふりかざすのは、いや国産のものだっていいとは思わないけど外国のものをふりかざすのはとくにダサいよなあと。
昔の日本の映画やマンガに出てくる金持ちって過剰なまでに西洋化されてるでしょ。シャンデリアが吊ってあってお父さんはローブ来てパイプくゆらせて、洋間にソファーが置いてあって。あの気恥ずかしさに近いものを感じる。
宇宙人伝説を日本に輸入してきた人たちは、自分たちはサベツネタを取り除いて穏健なものだけを持ってきた、あるいはサベツネタの部分はアメリカ人の偏見であって自分たちの方がより真実に近づいている、と思っていたかもしれないけど、真偽や地域を越えた普遍性を持つかどうかを別にして「伝説」として見ていくと、いかにアメリカ固有の問題を抱えているかというのがわかる。
UFO伝説の前に「ブラックヘリコプター」の噂があるとか、宇宙人に誘拐されたというネタの前に「CIAかなんかに誘拐されて洗脳されてた」とか、そういうのがあってそれらは日本に起こりうる話として援用できないから翻訳されるときに捨てられてきたんだろうけど、そういうのを見ていくとアメリカ固有の妄想かどうかというのがわかりますね。
(05.1202)
【雑記】・本格的絶望宣言 その2
【雑記】・本格的絶望宣言の補足みたいなことを書こうと思いますよ。
まずノスタルジーについてですが、「ノスタルジー」って書くとたいていいくつかの反感をいただきます。
まあ私もわざとそう言っている部分はあるんですが、現状の若い衆のノスタルジーに対する反感は昭和30年代ブーム、高度成長期ブームみたいな部分にあると思います。
ただ、そういうのは順番順番なんですよ。
20年くらい前は、旧制高校の卒業生のじーさんたちが校歌だか寮歌だかを歌うというテレビ番組もあったし、
軍歌を歌う番組も確かありましたよ。
これはもう存在としてしょうがない部分はあるんですね。
ただし、これは主に「旧世代のノスタルジーにあこがれている若い衆」に対して言うことなんですが、都合よくまるめられている過去に対して、うさんくささを感じ取る感性は必要でしょうね。ひと昔前の江戸ブームとかもそうですけど。
でも、私は自分がノスタルジーを感じる70年代から80年代前半までが、非の打ちどころのないいい時代だとはひと言も言ってませんよ。
ここから70年代から80年代前半までの、個別の話になります。
私がこの時代に興味があるのは、ここら辺が広義のエンタテインメントに関する分岐点になっていると感じるからです。
まあ、いつの時代も分岐点、過渡期と言っていいんですが、子供の頃にわからなかったことが今調べるとわかったりするから、とりあえずそこに定めて、この時代について調べたりしている部分はあります。
とくに、一般的に80年代前半に対する理解は進んでいるとはとてもではないが言い難く、この辺にも調べる面白さはあるわけです。
同時代を生きた人でも、80年代前半を理解している人ってそうはいませんから。
それともうひとつは、トシをとるとノスタルジーに浸るしかなくなるんですよ。
新しいものを理解しようとすると、苦痛しか伴わなくなるから。
それは評論家とかだったらその苦痛に耐える義務があるんでしょうが、一般的にみんなそこまではできないですよ。
ノスタルジーっていうのは旧世代と新世代を分けるという意味もある。もともと旧世代と新世代は対立して当然だし、それがダイナミズムってもんですよ。
世代的な感覚において、大統一理論みたいなものはぜったいに生まれないんで。
で、ノスタルジーに浸りながら何らかの意義があることをしようとすると、過去の掘り返しになります。
これは決して無駄じゃないと思うんですよね。
近い過去ほど忘れ去られるということもあるし。
そういう確信のもとに「ノスタルジー発言」を繰り返しているわけです。
次に、「何をやっても無駄、絶望」という私の発言については、
これはエンターテインメントに対する気持ちが強いです。
たとえば70年代の原田芳雄主演のアクション映画って、私にとっては何でも面白い。もう最初から筋は読めるんだけど、面白いです。
だけども、逆にこの面白さっていうのはそうした映画が制作された時期にしかありえない。現在同じテイストのものをつくろうとすれば、それはその時代を忠実に再現したものになるか、あるいは現状に合わせるために違ったものになるでしょう。
どちらにしろ、同じものは現出し得ない。
エンターテインメントというのは、当然ですがその時代にいちばん多い趣向を持った人々に向けてつくられることが多いから、それにフィーリングが合えばどれを取っても何でもイケる、っていうことになるし、合わなければどんなものを観ても面白くない、ということになります。
そうすると、同じテイストのものが続くとどんなに泣いてもわめいても、5年、10年はそういうのが続くことになる。
で、そういうことっていうのは自分と「『大衆』と言われているモノに対する距離感」の問題になってくるわけだけど、この辺のことをいくら言っても書いても理解してくれる人がいないので絶望です。
ホントにエンターテインメントのレビューで「大衆」って言葉は使われなくなったね。
そりゃいわゆる「サブカル」だったら必ずしも大衆向けとも言いきれんのだけれど、たいていのエンターテインメントは一般大衆向けにつくられているというのに。
それにイラつきます。
たぶん「インテリ」に呼応する言葉がなくなっちゃったからだろうね。
あるいは「大衆」に呼応する言葉がなくなってしまった。
たとえば、エンターテインメント映画からどっか骨のあるモノを探し出してきて評価する「映画秘宝」的な手法っていうのは、その「骨」の部分が大衆に寄り添いつつ「違う」わけですよね。
それを「ボンクラ」って言ったりしてるけど。
それはマッチョイズムとかオタク趣味だと勘違いされるけど、実は違うでしょう。それは「何も考えないでダラダラ映画観ている人」との違いでしょう、いちばん大きいのは。
当然だけど、何かを評するときには一般大衆とはどこか必ず乖離する部分があって、それを「インテリ」という言い方のように完全に上からの目線で全面に押し出して評価することが、まあいつ頃からかというと、よほどのカン違い野郎でなければすでに70年代中盤から無効になってきてるわけですよ。
だから「大衆」の対照的なくくりとして、「オタク」であるとか「マニア」であるとか、呉智英は「士大夫」だったかな? そういう言い方をしてた。
小林よしのりだったら、自分とそれ以外を切り分ける呼称として「ゴーマニズム」って言葉を使った。
あるいは自分の位置を上げることをせず、多少見下せる「大衆」を「DQN」と呼んだりするわけですよね。
ぜんぶカッコ付きの呼称になってるし、対応も対立概念と捉える場合もあるし、非対象のコミュニティとして捉える場合もある。
「モテ/非モテ」っていう概念は、この辺を女性の趣向(と、男性側から思われていること)と混乱して捉えている部分はあると思いますよ。
でもそこには、区別される以上違いはぜったいある。なければそんな区別をわざわざして語る必要はありませんから。大衆側にはなくてもそれを語る側にはあるんですよね。
で、その「語る側の乖離」を語る手法というのはある程度あるんだけど、
その距離感というのは「大衆」というものを想定した相対的なものである、ということは意識しておかないとダメだし、じゃあ「大衆」って何だ、ということになると、
まあマーケティング的にはいろんな切り分け方があるんだろうけど、
漠然とテレビとか観てると、これはもうじっとガマンしてるしかないな、と。
それが絶望、って話で。
逆に言えば、自分の好きなものをある程度持ち上げることはできても、
嫌いなものを消すことはできない、ってコトです。
疲れているときとかは、本当にそれがイヤなことがある。
正直、階級化社会とかそういうのはどうでもいい。
どうでもいい、というわけでもないけど、そっからどのようにして生きていかねばならないかは、それこそ過去の歴史とか外国の例とかでお手本が山ほどあるでしょう。
それわかんない方がおかしいですよ。
何が言いたいかわからなくなってきたけど、とりあえずそういうことです。
(05.1202)
・「AERA」05.12.5 「学校の授業でも『水からの伝言』の仰天」(2005、朝日新聞社)
何の映画か書くと少々ネタバレになっちゃうから書きませんが、過去に某映画の中でトンデモネタが含まれており、私は苦笑するだけだった。そして、当HPにもそう書いた。
しかしこの雑誌のこの記事を読んで、これはもしかしたらかなりマズいのではと思い始めた。
まあ、「ID4」にエリア51のことが出ていて、それはすでに「エリア51」というネタが陳腐化した証だという面はある。それでも「ID4」でエリア51が取り上げられたことに陰謀論的な陰謀の匂いをかぎとってしまう困った人もいる。そういうのは止めようがない。
しかし、どうも某映画で「水からの伝言」ネタが取り上げられていたのは、現状でこのネタが陳腐化したからではないようだ。
あーあ、「『ありがとう』と言ったらご飯は腐らない」とか、そういうこと信じちゃうから日本人はクソまじめとか欧米人に言われちゃうんだよ。
何より危機感を感じるのは、小学校の道徳の授業で取り上げられているという事実。
だって学校の先生だよ!? ちょっと信じられないというか、また絶望のタネが増えましたよ。
「あたかも人間の心情に呼応するように自然現象が変化する」っていう事象(があるとされること)は、私はぜんぶ危険だと思ってますね。いつも思うんだけど、そりゃ人間同士で数値化できない何かに呼応するっていうことはありますよ。それをカリスマと言ったり、「芸能人はオーラが出てる」と表現するときに使う「オーラ」と言ったりする。
人の心を掴みやすい人というのはそりゃいますよ。
でも、その人が人間以外の自然現象にも働きかけられると考えるとしたら、それは考えの飛躍ですよね〜。
教師がなんでそういうことを思ってしまうのか、あまりのことに信じられません。
授業で使うってことは、「本当に天には雷様がいて、おヘソを出して寝てると本当に、雷様におヘソが取られるよ」って言っているようなもんでしょう。
あるいは「口笛を吹くと、本当に、リアルにヘビが出るよ」と言うようなもんですよね。
しかも「水からの伝言」関係は疑似科学だから始末が悪い。雷様やヘビの話は大人になるにつれてウソだってわかりますが、疑似科学っていうのはハンパなリクツがあるだけに始末が悪い。
それともうひとつ言えるのは、疑似科学でもオカルトでも「理論は破綻していてもいいことを言っている」という考え方に、人間はあんがい陥りやすい。
なぜそういうことが起こるかというと、厳しい言い方をすれば「日々感謝の心を持つ」とか「人に会ったら挨拶をする」とか、そんなようなことが「すばらしい」ということを、一足飛びにある種の奇蹟によって証明しようとする怠慢が、信じる人の心の中にあるから。「いいこと言っている」の「いいこと」は、それなりに根拠があるから「いいこと」と捉えられるんだけど、それが「いいこと」だと思われているのはなぜかという、哲学的な掘り下げができてない(まあ、私もわかんないけど)。
できてないならできてないで「世の中そういうもんだ」でいいんだけど、どこかすわりが悪いから飛躍した考えにそれの証明を求めてしまう。
優しい言い方をすれば、そういうのは人間の本能みたいなところも確かにありますよ。
たとえば悪いことをして捕まった人がいた場合、普通に「やっぱり悪いことはやるもんじゃない、ああして捕まってしまうから」というふうに思う場合が多いわけだけど、
捕まってない人もたくさんいるわけでしょ。そういうのを目のあたりにしたときに気分が悪くなる(私も気分悪いですそう言うのは)というのは、やはりどこかに善事と悪事を監視する超越的なシステムが働いている(あるいは「働かなければならない」)と無意識に思ってしまう部分が人間にはあるのではないかと思う。
でも本当はそうじゃないわけでしょう。
泣いてもわめいても、事件も事故も起こるし、善は報われない場合もあるし悪人が笑っている場合もあるでしょう。
でもそういう不条理があっても、なおかつやっていいことと悪いことがあるわけで、
そういうふうに教えていかないとダメだと思います。
某映画の某「水からの伝言」ネタについて、当HPで軽くスルーしすぎたかな、と思っていちおう今回自分の見解を書いてみました。
(05.1201)
・「コミック ザ・ベスト キュン!」Vol.28(2005、KKベストセラーズ)
ザ・ベストマガジンスペシャル12月号増刊。
エログラビアと成年コミックの雑誌。巻頭は 小林ゆりっていう人。
団鬼六、大熊英文「花と蛇」が第四回。
矢野健太郎「Race Queen Angel」も第4回。今回はフツーな内容。フツーのレースクイーンHマンガ。
(05.1201)
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