内弁慶全員集合

つれづれなるマンガ感想文 5月後半
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一気に下まで行きたい

2001年

5月31日(木)

わけあってとゆうか何とゆうか、本をたくさん読まないといけないのだけどイマイチその気になれん。まあだいたい泥縄式に読んでっても、頭の中でこんぐらがってわかんなくなったりするんだけどね。

私は好んでタクであることに意識的なサイトをよく見てて、そこでは各自タク論が展開されててそれなりに興味深いんですけど、ひとつだけ(というかふたつ?)見落としているところがあると思います。それはミステリマニアと鉄道マニア。
巷で展開されているオタク論というのは、この2つを放り込んで整合性があるかどうかということを考えてみると面白いと思いますよ。それともうひとつは、確か大森望の日記に書いてあった「SFはサブカルではない」っていう発言。私はSFマニアではないけど、この発言はなかなかにガンチクがあると思います。そりゃ広い意味でとればサブカルチャーですけど、いわゆるサブカル臭というか「昔宝島、今クイックジャパン」的なスタンスがSFファン全員にあるかというとそれはぜったいないわけで。
そういう関係と、ミステリマニアおよびいわゆる鉄ちゃんと「萌え」とかをキーワードにしているオタクとの「関係」は、似ていると思うわけです。

まあたとえばかなりコアなミステリマニアの間にしても、「ミステリマニアなんだけどオタクっぽい、そうでない」というような属性のとらえられかたをするんじゃないでしょうか。島田荘司のキャラクターのやおい本つくったりする人たちと、そうでない人ってあきらかにスタンス違うんで。

何が言いたいかというと、そういうの抜きにタクの歴史とか語っちゃうのは物事の片方しか見ていないのではないかと。たとえばアニオタVS宝島系とかJICC系とかって対立だけでモノを見てると、ちょっと、というかかなり狭いなあという。
「オタク」とはなんぞやということを考えたときに、たとえば内藤陳の影響で冒険小説を読んでいる人とか、北方謙三しか読まない人とか、本屋に行って平積みになってる翻訳モノのサスペンスとかしか読まない人とか、そういうヒトは乱暴に「ふつうの人」にカテゴライズしちゃって、新本格(新本格って今言わねェのか?)の人とか京大のミステリ研の人とそのファンはカテゴライズしやすいからオタク的文脈で語る、ってのはちょっと違うなあと。
それともうひとつは、SFがオタク的要素とかなり強固に結びついているのに対し、ミステリってそれほどでもない。SFファンが素養としてミステリを読んできたってのはあると思うけど。SFファン自体がコアなファン活動をしてきたってことに意味があるんだろうけど、ミステリの方はそうではないんだろうかとか。この辺よく知らないんですよねえ。

さらにもうひとつは、やっぱり自覚的であるかどうかだと思う。そう考えると……コレには異議のある人もいるかもしれないけど、やっぱりタクってイデオロギーの一種だと思います。ほんっとうに何も考えないでグッズ買いまくってるのとかいるけど、それは立ち姿がすべてを表しているんでそれはそれでわかりやすい。
問題は、自分語りができる能力のある人が自分をどう規定するかということ。そう考えると、自己規定してなくてやってることは立派なオタク、って人たちがけっこういて、こういう人たちをも含めていかないと、総論は語れないと思うわけです。人間何も考えなくてもけっこう生きていけるわけで。とくに男は。「飲む、打つ、買う」で済んじゃうから。

さて、いつも「ひと月に70キロバイト以下」と決めてるんで思った分量書けないんですけど、5月分は分割したので下旬は好き勝手に書いてました。でももうそんな5月も終わり。もうほぼ今年の半分終わりです。私の人生も終わりです。
でも「ハイパーグラップル編」について語ることができてよかったですよ。次回は「黒の森編」か身堂竜馬とフラッシュハニーの道行きについて考える(多分ウソ)。
でも「黒の森編」は、軟弱な若人は一度読んでおいた方がいいと思いますよ。

5月30日(水)

ハイパーグラップル編
凄ノ王

みんな〜っ、社長に読めと言われた自己啓発の本、熟読してますか〜っ? レポート書いてますか〜っ? 歩いている途中で雨がパラついてきたんで、コンビニで傘盗んでますか?
5月の日記を分割するにあたってタイトルを何にしようかな〜と思って、咄嗟に思いついたのがコレだ。知らない人には何のことだかわからないだろうが永井豪「バイオレンスジャック」のゴラク版第5部のタイトルだ。

この中での凄ノ王の言葉が、ときどき私の脳裏をかすめる。

「ある者は権力を得て何百万 何千万もの人間を支配する ある者は猫一匹も支配できない…… それらの事を単に運であると言って片付ける者は多い しかし私はそれを純粋にエネルギーの差であると考えた」

まるで胡散臭いベンチャービジネスの社長のようなコトバ。だが永井豪作品のほとんどはこうした考えに貫かれている。そして単なるお説教にとどまらないのがすごいところで、凄ノ王言うところの「エネルギー」とは本当に無から有をつくり出す一種の超能力であるというところまで飛躍。
またこの概念は「バイオレンスジャック」を「災害パニックもの」とか「現代を舞台にした戦国アクション」から、SF的な世界へ移行させるきっかけとなる(その後、この概念を持ち運ぶのが身堂竜馬だ)。
さらに表題のとおり、あまり直接はカンケイなく「ハイパーグラップル」というヴァーリトゥードを陰惨にしたような競技も平行して描かれ、登場人物が錯綜して盛り上がるという点においては「ゴラク版」ジャック前半でもっとも注目すべき作品となっている。

よくわからないポイントとしては、ハイパーグラップルの選手(グラップラー)アイアンマッスルのパートナーとなる美女・ファイヤービーナスが初登場のシーンでクイズを出す。「私のマントの下は裸か、何か着けてるか?」
地獄地震後の関東で、マントの下を裸で歩いている女などいるわけないと思うのだが、アイアンマッスルは「裸だ」と答えて不正解となる(なぜそう答えるか……)。

しかし、その後本当に「マントの下は裸」の女が登場してしまうのが豪ちゃんマンガのすごいところであった(「学園番外地編」とか)。

まあそんなことどうでもいいが、とにかく永井豪マンガのパワフルな部分について考えては「私の力及ばず! 猫一匹支配できねえ!」と思いガックリ来ている私なのであった。最近(というかここ5年くらい)はガックリ来るために本を読んでいるようなものだ。

……ビデオを5本借りるが、1週間で見切ることができなかった。
勝ち負けで言ったら、負けだ。敗北。負け犬。お金ももったいない。以下、借りて、見た。

・「パンダコパンダ雨ふりサーカス」
監督:忘れた(宮崎駿?)、脚本:忘れた(宮崎駿?)
アニメ。1作目は見てたので2作目を見る。実際のパンダより大きいパンダと、実際の子供のパンダより小さいコパンダが活躍する話。もう全編通して可愛すぎ。しかし、同時に言いしれぬ疎外感も抱く。というのは、宮崎アニメを見ていていつも思うことだが、全編通しておれに何の関係もないことだからだ。子供の頃から思っていたが、大人になって見るとますますその意を強くする。そして泣けてくる。

・「地球防衛少女イコちゃん」
監督:河崎実、脚本:忘れた
磯崎亜紀子がひたすらに懐かしい。ギャグはベタでわかりやすいし、これはこれで懐かしい。今、パロディというかオタクネタをやるともっとひねくれたものになると思う。その前段階というか、素朴な感じがラブリー。

・「ケイゾク」1話〜3話
監督:忘れた、脚本:忘れた
テレビドラマ。1話完結の推理モノ。周囲の評判がいいので見る。けっこう面白いが、犯人の動機づけというか、中途半端に社会派っぽいところはウザったい。「古畑任三郎」の方がゲームに徹していて個人的には好きだが。

週刊プレイボーイで秋山実希がセミヌードになってた。山田邦子の番組のダイエット企画に出ていたとか「VANITY」というグループのヴォーカルとして曲を出していたと言えば思い出すだろうか。
ところが「週プレ」のプロフィルでは「VANITY」のことは何も書かれておらず(セールス的にも無視できない経歴だと思うのだが?)、「ケイゾク」第3話でも殺され役として登場しているが芸名は「MIKI」となっていた。何かこの人の芸能生活の迷走ぶりを表しているような気がして、気の毒になった。

5月29日(火)

雨。傘がよく売れる。

知っているヒトには今更なんだろうけど、J-oの日記は面白いなー。自己分析が自虐に至らない乾いた感じが、これはもう批評ですよね、って思う。つまらん日記を見るとおちこむが、面白いのを見たら見たでなんか落ち込むなー。悔しい、って感じか。マネしたってイタくなるだけだしね。

正直、文化的な趣味は全部終わらせたいと思っているんですよ。これが一時の気の迷いか、完全にそういう方向に行くかどうかはわからないけど、これ書いている時点ではそう思う。

けっこう、最近は「広義のオタク的シュミ」っていうと十把一絡げにされるけど、同人誌を1日で5000部売り上げるところと、10部しか売れないところではおのずと考え方も違ってくるワケで(むろん私は後者)。
相棒の吉田等が言ってたけど「ウチのサークルでは云々」ってヨソの同人サークルさんと世間話をしてても、フタを開けてみたら売り上げがゼロ2ケタ違ってた、なんてことはよくある。当然こっちが少ない方。だいたい「サークルスペースにヘンなヤツが来る」ってハナシでも(そういう話、よく出ません?)、お客さんが1000人来るところと10人しか来ないところでは、もう絶対数が違うから。
こういう考え方はある意味不健全かもしれないけど、投入した労力と見返りの差が激しすぎる場合は考えざるを得ないっしょ。

だいたい思うんだよね、広義のオタク的シュミに「なぜハマるか」より、「なぜ離れていくか」を考えていく方が面白いんじゃないかと。
シュミでマンガを描いたり同人誌を出す場合も、最近私の周囲で少しずつフェイドアウトしていくヒトがいたりする。それで、「なんとなくやめちゃう」ってヒトが「なぜやめちゃうか」っていうのは、結局わからないんだよね。自分でもわからないんじゃないかと思う。時間的、金銭的な理由がないかぎり、そのヒトの中で何かが変化するんだろうね。

数年前は、その「変化」に対する言い訳をしてるんだと思って、けっこう私は批判的でした。今でもそういうところはあるよ。「同人誌界の現状に絶望した」とか、そういう理由づけはまずウソなんじゃないかと今でも思ってるんだけど、でも「心の中の何かがなくなる」って感覚は理解できる。
しかも、本当になくなっちゃったから「なくなった」ことに気づかないんじゃないかと思う。そんな感じ。

少し前に、古本屋で「ぱふ」「特集 全国まんが同人誌地図」ってのを買った。コレが79年だよ。1979年ね。そもそも「地図」という企画が成立したこと自体が、いかに20年で状況が変わったかを表していて興味深いんだけど、それよりもこれに載っている人々も今は40〜45歳くらいでしょ。
この中で、今でもマンガを描いているヒトってどのくらいいるのだろうかと思う。
本誌の中では、いわゆる「創作系」の常で、やや内省的なコメントがあいついでいる。創作マンガをやっている人は、自分が「なぜ描くか」ってことについて語ることができる人が多かったし、今でも多いと思う。
じゃあ「なぜやめたか」っていう話も、今の45歳くらいの人々にぜひ聞きたいと思ったりする。なんかねえ、そういうことって案外重要じゃないかという気がする。
あるいは、そういう「気持ち」は消え去るものであり、消え去るべくして消え去ったのかもしれないとも思うんだけど。

しみじみしますな。五月病か?

「慎吾ママ」のカタキをとりたいのか、「おはスタ」で今度は小西康陽に編曲を依頼。少し流していたが異様に入り方がむずかしい歌だぞ。だいじょうぶか。

ギョッとするくらい早い時間に寝てしまう。もういいや、火曜日だから。

5月28日(月)

けっきょく、「阿弖流為II世」と「爆射!! 弓道MEN」の1巻を2度買い。どう考えても探し回るより買ってしまった方が効率がいい。1日小遣い500円のおとーさん方が聞いたら激怒、あるいは呆れ、あるいは小馬鹿にする行為だ。ほっといてくれ(昔流行った人面犬風に)。いいじゃんかよ「弓道MEN」1巻は渋谷まんだらけで手に入ったよ。またコスプレ店員がカラオケ歌ってたよ。

映画「クレヨンしんちゃん 大人帝国の逆襲」の感想がぼちぼちとサイトで見られる。ものすごくたくさん見て回ったわけではないが、70年代生まれのヒトには「それほど感動しなかった」、「昔過ぎてなつかしいと思わなかった」という意見もチラホラあるところが興味深い。
確かに、ディティールに関しては本作のいちばんおいしいところを味わえるのは私より5歳くらい上の世代なのではないかと思う。万博の頃小学生だったヒトたち。私の世代は「万博的未来観」の残滓を食らって育ってきた感があるので、まだなんとなくわかるところはあるが、それより下となるとピンと来ないアイテムが出てきちゃうかも。
だけど、ウルトラマンやブルース・リー、魔法少女など、わりとノスタルジーを感じさせるモノにも幅を持たせていたとは思うんだけどね。

それと「ノスタルジー」そのものに対する思い入れというのも、感動の度合いを左右するのでは。私は思い出とかノスタルジーって大好きなので。それを正面からテーマにするってのはイイと思ってたし。
「想い出づくり」って言葉があるでしょ。あれって面白いというか、実行する前に想い出、つまり過去になることを想定した言葉なんだよね。「想い出づくり」という行為に強くひかれるってのは、すでにリアルタイムで郷愁を経験してるってことになる。そういうことにピンと来る人にはピンと来る映画なんじゃないでしょうか。

渋谷で入った牛丼屋の牛丼が激マズ。しかも、どういうわけか「中辛」を「太宰」と見間違え、太宰牛丼ってどんな牛丼だろうと注文するという、もう終わってる行為。
泣きながら帰る。

5月27日(日)

高橋克彦、原哲夫コンビの「阿弖流為II世」の単行本と、ながしま超助の「爆射!! 弓道MEN」の1巻を探して家の中をひっかきまわすが出てこない。探し回ってそうとう疲れた。

23日の日記の続きとしてまた代理母問題について書こうと思ったが、思いとどまった。ネットウロウロで日記めぐりをしているのだが、的はずれの怒り方はみっともないし、読んでる人の時間のムダ度も格段に跳ね上がる。それならキャバクラ「魔人ブウ」のことでも書いていた方がいい。もっと勉強してからにします。
ただひとつだけ思うのは、それが許されるにしろ許されないにしろ、「自分と夫(妻)の血のつながった子供が欲しい」と願うこと自体は、まあフツウなんじゃないかと思うということ。かえすがえすも、それすらも罪悪だといわんばかりの「やじうまワイド」の女レポーターには納得がいかんし、視点の変化や知識の量でどうこうという屁理屈は通用しない領域ではないかと思う。
むろん、願ったってかなわないことはあるし、個人では可能でも国家レベルではムリ、またはその逆のこともあるだろう。代理母やクローンの問題の一部はそういう領域のことなのかもしれん。ただ、「やじうまワイド」の女が偉そうなこというほどご立派な倫理観の持ち主かどうかということだ。
どうでもいいが同じ芸能レポーターの梨元(ヘソ本)さんは、「男のオバサン」と言われるだけあって、よくも悪くも「庶民的コメント」をはずしてないのがある意味すごい。思いつきで倫理を口走る女レポーターよりはナンボかマシだ。

さて、「代理母」問題と関係あるようでまったくない話なのだが、ネットウロウロしていて突然思い出したことがあったのでぼちぼちと書いておきたい。
藤子・F・不二雄はブラックユーモアに満ちた大人向けSFマンガを描いていることでも有名である。なまじ絵がかわいらしいだけに、イヤ〜な気持ちになるものも多く含まれている。
だが、ぜんぶの大人向けSFマンガを読んだわけではないが、私がダントツにイヤ〜な気持ちになった藤子作品のエピソード、それは大人向けではなく「ドラえもん」の「人間製造機」のエピソードである。

ある日、のび太の友人かだれかが赤ちゃんが生まれたといって自慢しにくる(この辺うろ覚え)。
それで、ドラえもんにお願いしただかなんだかで、「人間製造機」を出してもらう。
これは、子供向け科学読み物によくある「人間は物質に還元するとこれこれとこれこれでできている」というのにヒントを得たひみつ道具。要するに人間の原材料となるものをその機械に入れれば、赤ちゃんができるというわけだ。
だがこれまたいつものパターン(?)で、人間製造機は欠陥品だということがわかる。しかしそれがわかったのは材料を入れた後で、生まれたのは根性の悪そうな、宇宙人的なデザインのミュータント赤ん坊だった。
この赤ん坊はテレパシーで「ミルク持って来い!」と命令し、確かドラえもんものび太もサイコキネシスで操られる。このままではたいへんなことに……というときに、ドラえもんが「時間を戻す時計」を使って時間を戻し、ミュータント赤ん坊はすべて材料に還元されて終わる。

正直、これをリアルタイムで読んだときには藤子不二雄のファンやめようと思った。
というのは、まずこの「人間製造機」は22世紀において「あなたも赤ちゃんをつくってみませんか?」というような気軽なキャッチコピーで販売されている商品であり、のび太も「赤ん坊をつくる」ということにまったく罪悪感を抱いていない。
次に、「ドラえもん」という作品らしく、のび太は軽々しく生命をつくったことに対して「ミュータントが生まれる」というしっぺ返しを食らうことになるが、描き方としてドラえもんやのび太が何か倫理的な反省をした部分は皆無で、ただ単に「制御不能の事件をおさめられてああよかった」というだけで終わっているのだ。
「ミュータントの赤ん坊」というのは、SF者でない私に作品は特定できないが、古来SF作品で多く取り上げられてきている。しかしどんな作品でも多少はミュータントの喜びや哀しみ、それを人類がつくり出してしまったものならば科学文明への警鐘などが描かれるものだが、本作においてその要素は驚くべきことにまったくない。
この筋立てでは、もし「人間製造機」がパーフェクトなマシンであり、完璧に普通の赤ん坊が生まれたならば「人間製造機」の存在は肯定されることになってしまう。むしろその方が「ドラえもん」という作品としては恐ろしいことになっていただろう。簡単に言えば、藤子不二雄にしてはあまりに不徹底な作品なのである。

この不徹底さは、同じ生命を扱ったモノとしてはのび太と「ペット」の交流を描いた「のび太の恐竜」や「台風のフー子」、タイトルは忘れたがしずかちゃんのかわいがってた死にそうな犬を助けるエピソードなどと比べると、藤子不二雄がヤクでもキメながら描いたんじゃないかと思う不気味さを感じさせるものである。また、「ウルトラスーパーデラックスマン」や「ミノタウロスの皿」といったブラックさを意図したものとも異質だ。

「ドラえもん」をすべて読んだわけではないが、このエピソードだけが今でも異様に心にひっかかる。また、倫理的な問題として私の知るかぎりだれも問題にしないというのも、また不思議な話ではある。

5月26日(土)

イチロー、新庄などが大活躍してますね! などと普通の話題をふることができたとき、私は世界と一体化した気分になる。もう疎外されなくていいんだ……。
いや、多少は興味あるんですよ。意外かもしれないけど。
でも、「イチローをアメリカ人も絶賛!」とかアメリカ人女性の「シンジョーはハンサムね〜」とかのインタビューを見るにつけ、思うんだ……。「もしかして本当は『イエローモンキーが!』とか思ってんじゃねェか?」

本当は日本におけるケント・デリカットみたいな位置づけなのに、対日的にヨソ行きのコメントしてんじゃねーか? とか勘ぐってます。映画「パールハーバー」も日本での公開では一部カットするんでしょー。だったら似たようなことが起こってるよ絶対。まあきっと私の被害妄想でしょう。

「侍魂」でキャバクラの話題をしてましたが、おれもキャバクラみたいなの、苦手だね! でも「侍魂」とは逆の理由だよ。飲み会でも人を楽しませようなんて気はこれっぽっちもない私ですが、自分が接待される側というのも苦手なんだよ。とくに飲み屋のおねーちゃんなんて「このオタクが!」って思ってるに決まってるもん。きっと日記に「きょうわ おみせに おたくが きました」とか書いてるに決まってんだよ! あるいは「きょうわ おみせに ブーデーが 来ました」。あるいは「きょうわ おみせに 魔人ブウが 来ました」。しかしそれに復讐するすべはまったくナシ。もう奇蹟は起こらない。辛い……なんて辛いんだ……。

・復讐シミュレーション おれをバカにしたキャバクラにリベンジ魂!
「今日から『キャバレー王』の私、福富太郎時正(私)がこの店のオーナーです!」
「よって、店名は『魔人ブウ』に変更! 給料は一ヶ月1円! 客は体重100キロ以上で、頭にバンダナを巻いている人しかいれません! それで目標売り上げに達しない場合はッ、みなさんの脳内にしかけられた爆弾が爆発するしかけになってますッ!(最後は小池一雄調に)」
(店員の中にどよめきが)
「おれはいやだあっ、死にたくないっ」
「北斗の拳」のザコキャラのような男が一人、逃げ出す。冷酷な顔(下からライトがあたってコワイ)の私・福富太郎時正が「どくさいスイッチ」を押すと、男の頭がふっとんで「いってれぼ!」とか言う。

シーンとする一同。
開店時間となり、客が入ってくるが、全員体重100キロ以上で頭にバンダナを巻いている。もちろんめがね。迷彩のチョッキみたいのを着ているのもいる。
しかも……。
全員なんだか理屈っぽい!
カン高い声で早口。そして話している内容は理屈っぽい上に後ろ向き!
うぜぇ〜、超うぜぇ〜。

ついでに床下浸水! 蚊が入ってくる! 隣の家の豚肉みそ炒めの強烈な臭い(しかもいかにもその家庭独特の)が入ってくる! 小学生が吹いている笛の音がうるさい! 反対側の隣の家に住んでる女子高生のかけてる浜崎あゆみのCDがさらにうるさい! しかもその女子高生が気持ちよさそうに一緒になって歌っている!

苦しむのだ! ヒャハハハハハ。
(次回・おれをバカにしたデパ地下の食品売場店員へのリベンジ魂へ続く)

・「超クソゲー外伝 企画屋稼業」 阿部広樹、永山義明、ゾルゲ市蔵(2000、太田出版)読了。
ゲームの「企画屋」である著者が、ゲームの企画書や仕様書の書き方やそれがどのような経緯でゲームとして完成するか、あるいはしないかについて書いた本。
これは面白い。中身を見るまでは、ゲーム業界のゴシップについてのみ書いたような本かなーと思ったが、かなり違う。パロディという体裁ではあるが、ほとんどゲーム版の「マンガの描き方」のような本だと言っていいのではないか(類似の著作物は出ているだろうが、おそらく本書はその中でもかなり画期的な部類だろうと思う)。
そもそも漫然とゲームをしているぶんには仕様書(ゲームをつくるにあたっての設計図のようなもの)など死ぬまで見る機会はないわけだし、その書き方を知る必要もないわけだ。しかし、それを見ることが「超クソゲー」のようなゲームレビューを読む体験とはまた違った、ゲームを別角度から見る体験になる。そういう意味ではかなり刺激的。
また、「噂真」的なゲーム業界のゴシップも「企画を通す」という本全体の目的がしっかりしているために、それに血肉を付けるための材料となって、本書に立体的な印象を与える役目を果たしている。

掲載されている「企画書」も、なまじの「企画書の書き方」本の事例なんかよりよほどよくできている。業界や職種にもよるだろうが、個人的にりーさら時代にもここまできちんとした企画書は私は見たことありませんでしたよ。
「文章の書き方」も実に簡潔だし、ゲーム業界ならずとも就職前の学生さんなんかは読んでソンはないんじゃないでしょうか。ゴシップについても、驚く話ではあるし誇張はされているだろうが、どんな業界にもありそうな話で思わずうなずいてしまう。コレを読んでてまだ就職してない人は「これが異常なんだ」と思わないで、これくらいの話はどんな世界にもあるんだと思っといた方がいいかも。

余談だが、本書の「文章の書き方」は的を射ていて素晴らしいんだが、同時に学校で文章を習ってきている人のほとんどがここに載っていることが実行できないっつーことでもある。これはかなり問題ではある。まったく別に、アニメライターの人が書いた文章入門も読んだことがあり、これもよくできていたが同じ感想を抱いた。
まあ私もまがりなりにも学校出てますが、学校の国語の授業って「論説文」と「小説」をゴッチャに教えてんだよね。「作文」の書き方もそう。そのどっちつかずな感じが、企画書にいらぬ文学的表現を持ち込むことになる。また、エンタテインメント作品ほど「読みやすさ」を重視するため、逆に推理小説などをたくさん読んでいる人ほど簡潔な文章を書けるというパラドクスが生じる。そのあまりに「簡潔な感じ」が、昨今のエンタテインメント小説の文体が似通ってくることにも通じていると思う。

本書では企画書の重要性を再三説いているが、私もそう思う。ホント、少し心がければちゃんとした文章書けるのを気にしない人ばっかりだったもん(まあもう関係ないけど)。広告業界などを除いて、文章そのものは会社社会全体で非常に軽視されているという気がするけどいかがなもんでしょうか。




サイトを始めてから2度目の、1ヶ月の日記を分割。
分量が70キロバイト以上になると、私のパソコンでは開くのが重くなってムカついてくるので、日記は70キロバイト以下にすると決めているのだが、まだ31日まであるのでちょっと間に合わないなと思って増設した。

毎日見るのが楽しみな日記系サイト、しかも文章のプロや有名人でないやつを探しているのだが好みにあったものがなかなかない。逆に、不愉快になるものが圧倒的に多い。
1年くらい前に見てあまりの底の浅さに驚愕したサイトは、ひさしぶりに見たら底の浅いコラムがますます増えていてめまいがするし。
思想的に同調できても、毎日読む気が起こらないものもある。

読んでいて無性に腹が立ってくるものもある。バカだったり、勝手なことを書いていたり、自己陶酔的だったりというのも腹立たしいがまあ仕方がない。
見てしまって「しまった!」と思ったのは、某日記系サイト(あまりにムカついたのでURLは示さない。忘れたい)。文句ばかり書いてある。とくに奥さんの。

サイト日記に、読者(つまり私)の会ったこともない奥さんが登場することはよくある。親兄弟とともにもっとも身近な存在なのだから当然だろう。だがそこに微塵の愛情も感じられないとすると、どうだろうか? 無性に腹が立ってきませんか。
サイトに書かれた人物というのは、そのサイト内では行動に弁明のしようがないのだから、意地になって糾弾するのでないかぎり悪口ばかり書くのはよくないと思う。私が見てしまったサイトというのは、日常生活に織り交ぜてそこはかとなく(「そこはかとなく」ってのが重要)奥さんの悪口が織り交ぜてあって、見ていて胸くそが悪くなった。
第一に、書かれていることが全部本当だとしたらこの奥さんはそうとうヒドいやつである。
第二に、そういうことをしゃあしゃあと書いているサイト管理者も頭がいい方ではない。
第三に、書かれていることが嘘であったとしたら、それを容認していても気づいていなくてもこの奥さんはかなりのアホである。
第四に、この奥さんは妊娠中らしい。仲がいいのか悪いのかハッキリしろ。

23日の日記にも書いたが、私は「不満ばかり言っているけど実は幸福」であるとか「理想は羽のはえた美少女だの言っときながら、そうした趣味とはまったくかけ離れた現実生活を営み、それに自身が矛盾を感じていない」という人間が基本的に好きではない。したがって、仕事が忙しいだの奥さんが恐いだのと言いつつ子供をポコスカつくって(別名:ポコスカウォーズ)休日出勤しているようなやつは大嫌いだ。まあ友達にはなれんだろうな。腹が立ったら怒れ、笑いたかったら笑え!
あと表現力の問題ね。家族についてこんなこと書くやつなんて神経疑うよ。扶養家族を持っている人間がこんなこと書くってことは、自分の人生自体に自信がないってことだろうが。キンタマ付いてんのか。これだったら、まだ家族の写真だらけの親バカホームページの方がマシだよな。まあ根本敬のマンガに出てくる村田のような一生を送ってください。



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