悲しいけどこれ、妄想なのよね

つれづれなるマンガ感想文 6月後半
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一気に下まで行きたい

2001年

6月23日(土)

よくわかんないんだけど、日記だけ更新しても「漫画系サイト 更新時刻一覧」とかでは更新されたことになっちゃうわけですよね? いろんな人から感想を聞いたかぎりでは、「つれづれマンガ」とかのマンガ系のコンテンツのみ見ている人と、日記だけ読んでいる人に大別されるようなので、本当は両方更新したいけど昔の高橋由美子の歌風に言えば「そんなのムリ」なんです。手間がかかりすぎて。まあでも「そんなのどうでもいい、むしろ興味ない」と思っている人が大半だろうからそのままにしますけど。
「つれづれマンガ」の方は味気ない感想文だと思っている人もいると思うが、書くのはあっちの方が手間がかかる。マンガ読まなきゃいけないから。日記はテキトーなことを無から書くことができるので全然楽。犬が吠えたでも猫が泣いたでも、何でも書けるし。

……明日が選挙だということで、いろんな人から電話がかかってくる。店にも叔母さん(伯母さん? わかんねー)が直接来て「だれだれ候補に入れてくれ」と頼んでくるなど、にぎやかしいことこのうえなし。
しかしそんなこととカンケイなく、おれはお客として来るお寿司屋さんが、おれを怠け者として見抜いていないかとビクついていた。ほら、職人って人を見る目が厳しいから。昔の職人は、包丁の背の部分で殴ったりしてたらしいじゃん? 思わずビクつきすぎて、ひじがけいれんしてお釣りをあさっての方向にぶつけてしまいそうであった。

さて、あっという間に夜になり、寝た。最近夜寒い。夜に温度が下がるといつもものすごく不愉快な夢を見る。
この晩は、夢の中で友人とどういうわけかパチンコだかパチスロを打ちに行くことになるが、夢だからマンガ喫茶とマンガ古本屋と、多目的ホールが合体したような場所になっている。なぜか「ちばてつやのウルトラマン」というマンガ単行本が出ていて、買おうかどうしようか悩んだりする。
パチンコだかパチスロだかを打っているときは友人は非常に上機嫌だったが、終わって手を洗いに行ったとき、私が石けんも付けずにテキトーに洗っていたら突然激怒してきた。汚い手でモノを触ったら他人にも迷惑だの何だの。それはすさまじかった。
私はシュンとしてしまった。
その後、自分が激昂したことが恥ずかしくなったのか、友人は照れ笑いをしながら「年の離れた弟がいるので、ついこういうことには厳しくなってしまって」とかフォローしだしたが、そのフォローに対して「いいっていいって」などと私の方が気を遣って言うのが、とても疲れてしまった。

そんな夢。

私のネット日記渉猟は続く。今回は、私の神経を逆撫でするサイトのリンクに何かイイのがないかと思い、それをたどっていった。そのサイトがダメでも、リンク先にはいいのがあるかもしれない。
そしたらどうだ、どのリンクもすべてムカつくサイトばかりではないか! これには我ながら笑ってしまったよ。
私の嫌いなサイト、それは自分自身を完全に棚上げした毒舌文体、そしてコトの善し悪しをきちんと文章で説明する労力を怠っている、さらに最終的には何やら「純文学ぽいもの」をオシャレ方面に志向していること。

ある日記サイトに行ったら、某娯楽映画……ともすればブンガク的に云々と解説されかねない娯楽映画を「つまらん」と完膚無きまでにこきおろしていた。そしてともすればなされる文学的解説に凶悪な矛先を向け、総攻撃していた。
……ンじゃあよほどの庶民派かと思って他のところも見たら、なんちゃらいうよくわからん外国文学を絶賛していた。なあーんだ、やっぱりブンガク志向なんじゃん。しかも「オッシャレー」な感じ。腹が立ちますな。

たとえば、エンタテインメントがブンガク的なものに色気を見せることに嫌悪感を感じるというスタンスは、アリだと思う。「娯楽に徹せよ」と。ところが「娯楽好きが娯楽に徹しろと言う」ことと「オシャレブンガク好きが娯楽に徹しろと言う」ことには相当な違いがある。後者は3回転ひねくれている。
エンタテインメントの評価の仕方として、
まずは、ブンガク的な善し悪しを論ずることが一義とするというスタンスがある。
次に、それに対する反発、反論。「面白いだけでは何が悪いのか」と。そこには「面白さ」を問い直すことによって「ブンガク的」なものとは何か、という問いかけも含まれていたはずだ。
そして、この日記の作者はもう1回転して、再び「ブンガク的なもの」と「そうでないもの」を厳密に区別しようとしているのだと思う(思う、ったってリンクしないからコレ読んでる人は確かめようがないけど)。
さらに、そこにオシャレ/オシャレじゃないという価値観を持ち込む。この場合、「オシャレじゃないことがオシャレ」というスタンスにすら、用心してかからねばならない。

まあ人それぞれ好みがあるんで(うわ、なんつーあいまいな言い方)、どう分けようと勝手だが、独自のチカラで「ブンガク的なるもの」を囲い込むことは、よほどの力量がなければできないこと。だって「自分にとってブンガクとは何か」という問いかけから始まるんだよ?
だから「最終的にブンガクに帰結しようとする志向」を、私はかなりの頻度で信用してない。ウェブ上のこうしたスタンスは、たいていがオシャレ志向に過ぎないものだしな。

信用する場合ももちろんあるが、それは人による(誤解を招くとアレなんで書いておくが、私は自分の知り合い関係のシュミは信用している方)。私が今回HPを見たところは信用しない。ただの教養スノッブ。
19日に書いた「群像」の座談会に対して感じた違和感と、そこらへんは共通しているもののようだ。

「嫌いなサイト」の話に戻れば、「自分がどう思うか」をきちんと説明せずに、オシャレブンガク志向だとどういうことになるかというと、文章ばかり凝っているが説明の内容はスッポリ抜け落ちているというどうしようもないモノができあがることになる。そこには「ブンガク的なモノ」に対するあまりにも無邪気な信頼と、自分の発したコトバが同好の士だけに通じるだけでもよいというヤケクソ感、言い換えれば甘えがある。
まあそういうことをまったくやるなとは言わないが、やっても二十代後半くらいまでだろうな。あと私、自分がカンケイないぶんギョーカイ人の文章には点が辛いんでヨロシク。

さて、「嫌いなヤツの嫌いなリンク」をたどろうとすると、半分くらいはサイト閉鎖か休止になっている。「どこまで続けるか」は人の勝手だけれども、「どうしてやめたんですか?」の問いに対する答えがみな同じであるだろうなと、なんだか想像がつくところが笑っちゃう。「もうネットは終わった」とか言ってんだろーなー。本当は自暴自棄になって空しくなってほうり出したクセに(決めつけ)。

とにかくまァ、自分を振り返らないスタンスは好きじゃないねぇ。でもそういうので固まってるってコトは、なんかそういうフリーメーソンみたいな団体があるんだろうね。

6月22日(金)

・リーサラについて今さら考えたり
またネットウロウロ。本当は、「ロックミュージシャンを目指していたが30ンなってあきらめて家業の米屋を継いだ男」や「工員をしていて週末に映画を見ることだけが楽しみの青年」 、「コミケの存在すら知らないがあずまんが大王が大好きな少年」なんかのHPを探しているのだけれど(本気)、そういうヒトたちは自分の立場を主張する気も団結する気もないので、滅多に見つかるものではない(当たり前だが)。

で、そんな中「若きサラリーマンへの提言」って感じのところに出くわした(注:そういうサイト名ではない)。
管理者も若い(20代後半?)らしい。で、「これからのサラリーマンは政治力や人脈ではない。今の上司の言っていることは忘れろ」とか「酒の席のみで仕事についてのホンネを言い合うのはやめよう」とか書いてあった。サラリーマンに人気の「司馬史観」についての批判もあった。

正論ではあると思うけど、コレは若くてきわめて特化した職能を持ち合わせた、優秀なヒトの提言だなあという気はする。正論ゆえに弱い。私がサラリーマン時代に知りたかったのは「同じことをやってもより評価される人」や「同じミスをしても大目に見られる人」の不思議の解明であり、そこには広義の政治力を抜きにしては絶対に語り得ない部分があった。

「政治力」というとなんかアコギなイメージがあるけど、社内でどうバランスをとっていくかという、無意識にだれでもやっている部分にまで私は「政治」というものを拡大解釈して考えている。「アイツ、この間機嫌を損ねてたから好きなケーキを買ってってやろう」ってのも私の考えでは一種の政治。
それができなきゃどうしようもない。おそらく、「おれは職能だけで食っている」と断言している人でも無意識にやっていること。

「サラリーマンの酒席」ということで言えば、まあ同意はできるけどここらへんがもっとも変えにくいところではないかという気もする。
私個人は仕事の話云々よりは、飲むとぜったい下ネタに話題が移行して、下ネタにならないとうち解けないっていうのが不思議だった。私のいたとこだけかもしれないけど。
セクハラがいつまでたっても問題になるのも、「下ネタを話せるとうち解けた気分になれる」っていう幻想が根強くあるからじゃないかと思いました。そこには「性=ホンネ」という、ものすごく根強い幻想があると思うんだけど。

「意識を変えれば仕事ができるようになる」というような、いわゆるリーサラ啓蒙に私は同意しない。むしろ、「仕事ができるやつができないやつに意識を変えろと主張する」。けどそれはまあ仕事のできない人間にとってはヘのツッパリくらいにしかならないんじゃないでしょうか。
だいたい仕事のできるやつってのぁできないやつに冷淡だからさー。「どうして自転車に乗れないのか」とか、乗れる人間にとっては理解しようとしても無理な部分があるというような。あー、また後ろ向きなこと書いちゃった。

でも単純に、若いのがヤイヤイ言っても職場って変わんないよね。

映画「ハムナプトラ2」を見る。楽しい映画ではあるが、2時間以上ってのは長い。ジャングルの戦闘シーンは全部カットしてもよかったと思いました。CGの過剰さはまあいいんじゃないですかね。悪趣味一歩手前。あそこまで行くと実写だかアニメだかわからんですね。ゴテゴテな映画。
退屈でしょうがない人生のうえで、一瞬だけ見ている人が夢を見られるような映画。だからこういうのってそう何百本も見る必要はなくて、週末にポツンと見る感じ。

6月21日(木)

SFマガジン7月号の「キース・ロバーツ特集」を読んだ。短編が4本。初めて読む作家だが、最初の「サー・ジョンのお守り」がだんぜんイイ。かわくて奔放な魔女(魔女っ子?)のアニタが魔女の研究家、サー・ジョンから時を越えるお守りをもらう……というお話。
「あたしはカンブリア紀が好き」っていうセリフは、確かに最高だ。しかもこれが1965年の作品だ。
おれさまはコレを読んで、黄金バット的に歓喜の大笑いをしたくなった。変わったところは変わったが、変わらないところは何も変わっちゃいないんだって。このプロット、現在のアフタヌーンかなんかにマンガとして読みきりで載ってもなんら違和感はない。

晩飯食いに行ったついでに、自転車でしばらく行ってなかった近所の商店街に行ってみた。私の家の周辺には3つの商店街があるが、その中でもいちばん遠いところ(遠いと言ったって自転車で5分くらい)。
ココはアーケードがなくて、本当に昔ながらの東京の商店街(ヨソは知らん)。プラスチックの花が電信柱にヒラヒラしてて、夕飯どきに行くとなんかいいにおいがする。しかし個人商店は確実に減りつつある。商店街の入り口に、チェーン店のとんかつ屋がドカンと建っていたのには「変わったなあ」と思う。駄菓子屋はとうの昔にないし、中学時代に通い詰めていた本屋は、客層を絞って主婦向けに料理と編み物の専門書店に変わったがそれももう消えていた。歩きながら食べるためのおでんを買った店ももうない。
反面、昔ガキ相手にガンプラのくじびきをやり、「メガロ・ザ・マック」かなんかがいつまでも売れ残っていたおもちゃ屋は今でもあったし、古い店もまだいくつか残ってた。うわあ懐かしい、と思ってたら最近の映画版「クレヨンしんちゃん」に出てきた懐かしの商店街と同じテイストを醸し出していることに気づいたのであった。

その後調子に乗って、自転車でグルグル回っていたら、引き戸でお菓子やスナック菓子を売るタイプのパン屋(コンビニができる前は、ガキが入り浸っていたような場所)を見つけたし、油臭いバイク屋や、店全体が鉄みたいなにおいのする金物屋も見つけた。
こっから非日常的な空間に紛れ込んでしまうような幻想的な文章でも書ければイイのだが、悲しいかなそうはいかない。いい気になってグルグル回っていたら道に迷ってしまい、30分くらい自転車でグルグルして帰ってきましたとさ。

さて、ノスタルジックな気分に浸った後に、ある意味もっともトレンディなアニメ「シスター・プリンセス」を録画しておいたので見る。
このアニメ、「主人公の男の子にいきなり12人の妹ができる」というモノだがますます発狂してきている。
先週、妹の一人(発明家)のつくった潜水艇で旅行に出かけた主人公と妹たち(ここからしてもう狂いかけている)。しかし嵐にあって遭難してしまう。それが先週まで。今週どこかの島に漂着した主人公たちだが、そこにはなぜかこぎれいな別荘があって中には新鮮な食料がどっさり。助けを求めることも忘れ、みんなで海で泳いだり気ままにリゾート気分。
そしたら実は、孤島だと思っていたそこは主人公たちが住んでいる島だった……という今どき15分のギャグアニメでもやらないネタを、2週も引っ張るこの衝撃……。
しかも「遭難した」と全員が思いこんでいるときも、服も食料もあるきれいな別荘に寝泊まりし、パソコンにはメールまで届く。もともと「てんとう虫のうた」(懐かしい)のような大家族モノとは対局にある生活感のないアニメだが、事件が起こってもそこに肉体性というか泥臭い部分が見事なまでに払拭されている。天然か、確信か。たぶん両方だろう。
いちばん年上の成熟した妹が主人公を性的に誘惑するというのは12人を設定するうえでバランス的に決まったものだろうし、じいさんの顔がどれも同じなのはゲームがもとなのと、アニメポケモンの婦警さんと看護婦さんが全部同じ顔なのと同パターン。しかし、どうも企画者の悪意というか作為が感じられてならないところもあるし、お話自体が同じことの繰り返しなのだが演出も意図的に繰り返しがなされている(オープニングが主人公が同じ場所に立っているところからはじまり、エンディングが友人の山田太郎の自室で終わるところなど)。

たとえば原作をアニメが破壊したとか別解釈にしたというのではなく、携わっている人間全員の少しずつの「悪意」とか「作為」が感じられるところが、大上段に振りかぶった大作や思わぬ拾いモノというのとは違った印象を与える。簡単に言っちまえば、「ときメモ」と「エヴァ」と「ウテナ」を通過して自身がそれと気づいていないような、すなわち発狂した作品なのである(もちろん制作者側は気づいているだろうが)。

6月20日(水)

ドラマティック

・CD「ドラマティックに恋をして」 釈由美子(zetima)
「モー娘。」以外のアイドル歌謡は死なず! って感じ。現在セールス的には「アイドル文化」そのものを担っている「モー娘。」。確かにそれだけのことはあんだよね。まあだいたい、つんくは私とほぼ同世代で、つんくの思い描いているアイドルってそのまま80年代アイドル的なものだと思うし(もちろんイマ風のアレンジはあるが)。
だから、他のアイドルがアイドル的なことをしてもどうしても弱いっつーか、1つしかないパイを全部モー娘。が食ってるような印象なんですけど、深夜ドラマ「G−taste」のテーマ曲であるコレははいろんな意味でイイです。まず釈由美子の微妙なヘタさ。野村祐香は「アイドルとしてのヘタさ」の限界値を越えてましたが、釈は「かわいらしさ」にとどまっている。
それとこの曲、ハッキリ言って中山美穂の「wakuwakuさせて」にソックリなんですよね。でもアイドル的な個性を打ち出すには、もはや直接、ジャパニーズポップス持ってくるしかないかもしれないです。……っていうか、単に私がこういうの好きなだけなんですけどね。
あと、アイドルソングはテレビやラジオで聴いてるとイイんだけど、CDを買って聞くと案外アレンジがつまらないことも多いんだけど、コレはいい方だと思います。さあ、次は深田恭子を買いたいなぁ。

……ということで(?)、録画してそのままンなっていた、「モーニング娘。」のミュージカルを見る。
これはさすがにちょっとその……寒いなぁ。
あらすじは、つぶれかかった遊園地のショーをやっているやる気のないダンサーたち(アベ、ヨシザワ、イイダ、ヤグチ)が、近くの病院に入院している子供(カゴ)の手術台を稼ぐために、貧乏でダンサー志望のラーメン屋の娘(ゴトウ)の協力を仰ぎながらチャリティショーを成功させるまでを描くというもの。イシカワはダラダラ見てたら役柄がわかんなかったな。ツジはカゴの入院仲間、ナカザワは看護婦。ヤスダは遊園地の社長の娘でした。

いや、クサいプロットは全然オーケーなんですよ。っていうかこういうのはクサくなきゃダメでしょ。もうクライマックスのショーで大盛り上がりになるのは必至なわけだし。でもちょっとあまりにあまりなところが目立ってて、セリフ回しとかぜんぜんダメ。なんか、練習に3カ月かかるところを2週間でやったらしくて、
……うーん、アイドルってミュージカルでも映画でも歌でも、ヘタだろうが何だろうが打ち出していかなきゃいけない時期があるんであんまり野暮は申しませんが、私個人は見に行ったら多分「ミュージカルを見る」という意味ではガッカリしたと思う。それぞれの役柄はわりと合ってると思うんですよ。コレだったらもっと面白くなったはずなのにとか思っちゃって。
でも、ライブで見に行ってればまた感想は変わったと思うんですけどね。

あいかわらずネット日記渉猟(オタク寄り)を続けています。で、日記を見つけてはその中の過去日記を漁ってるんだけど、「ベルカー問題」とか掘り出してきて懐かしくてのけぞってみたり。
「ベルカー」って、「女神さまっ(ベルダンディー)」の絵がデカデカと描いてあったワゴン車みたいなやつで、同人誌即売会で路上駐車してすごい迷惑がられてた。
この問題はすでに解決しているらしいのでそれ自体どうこう言う気はない。でもさあ、法律違反、マナー違反は別として、ベルカーそのものが「ダサい」とも〜んのすごくはっきり言いきる人があまりに多くて驚いたんですけど。
だって「ダサいかダサくないか」っていう判断基準なんか持ち込んだら、オタク活動なんてできなくなるんじゃないの。それとも、はっきり断じる人って自分の活動で「コレはおしゃれ、コレはおしゃれじゃない」って明確な基準があるのか。それともそういうものを超越するほどのダサさを「ベルカー」が持っており、それをおれが理解できないだけなのか。いくら考えてもわかりません。まぁダサ/非ダサはともかく、おもしろ物件ではあったけどね。ベルカー。

昔っからよくわかんないのは、オタクの「ダサ/非ダサ」の基準なんですよね実は。 たとえばラミバッジを体中に付けてるやつとか、即売会の帰りに電車内で同人誌読んでるヤツとか、カッコよくないとは思うけど。オタクの人の人間関係って、そういう人とそうでない人が明確に線引きされるのか。それとも親しい友人で体中にラミバッジ付けてても「仕方ねえなあ」って思いながら付き合ってるのか。ワカラン。

それと日記渉猟してて思ったのは、昔から変わらず「ネット論」みたいのに自分は興味ないなあと。ネチケットの問題とかそういうの。いや、守るべきことは守るけど。考察することに興味がない。ただねえ……当サイトのコンテンツである「未整理リンク」と「そうでないリンク」については、確かに問題をうっちゃってますスイマセン。

CD屋回ったけど、アニメのCDがぜんぜん置いてない。意図的におしゃれじゃないから排除しているのか、アニメだけで点数が多すぎるのであえて切っているのか。

6月19日(火)

・「大槻ケンヂの読みだおれ」続き
たまには前向きなことも書く。昨日の「大槻ケンヂの読みだおれ」に書いてあって「そのとおり!」と思ったのは、「いつも不幸を先に想定していると、本当に不幸が来たときにそれを越えられない」っていうコトバ。本当にそうだ。だから前向きに行きよう。これはいつも不幸を想定して生きている者でないとワカラン言い回しだ! ハイ。

・「青山正明氏逝去」
青山正明氏が亡くなったという。確か雑誌「危ない1号」の編集長。

で、なぜ「危ない1号」などを熟読していない私が氏の名前を知っていたかというと、石野卓球との対談をどこかで読んだんですよね。で、氏が1960年生まれで卓球との対談当時は確か30代後半だったんだけど、それで今テクノ(ダンス系テクノ)にハマってるって言ってて、それが強い印象を残した。

やっぱり文化全般って、子供の頃〜十代に浸かったもの以降のモノって血肉化しないし、ヘタをすると興味すら持てない。もちろんそんな中で、自分がもっとも大切に思っている時期の文化を一生愛し続ける、というのもアリだと思う。私もトシとってきたんでそういう方向に行こうかな〜と思っているんですけど、でもやっぱり「卓球世代が今テクノの最年長」っていう否定しがたい事実を越えてた、という点で、青山氏は強く印象に残っていました。合掌。

・「群像」3月号の座談会
たまには文学雑誌でも読むベー、と思って何カ月もほおっておいて、埋もれた本の中から「群像」3月号(講談社)を掘り出してきて寝っころがってペラリとめくったら、川村湊、清水良典、斎藤美奈子が「日本文学の新潮流」と題して座談会してた。
まあ文学専門誌なんで、私がわかんないのも当然なんだけど、それにしてもなんかヌルい気がしたんですけど。

たとえば純文学がダメんなって、エンタテインメント小説の方が面白いんだ、熱いんだ、純文学って難解でわかんないからイヤ〜ンっていう風潮がある、と思われていて、また逆に必ずしもそうではないんだ、という意見があるんだけど、その両者のもっとも基本的な違いが明確化されないままに話が進んでいた。しかも、たぶん純文学読者との共通了解事項があるわけでもないみたい。
……純文学とエンタテインメント小説の表面上のもっとも大きな違いは、後者の方が「型が決まっている」と思われているということだと思う。しかし、実は純文学にも型とかパターンとかがあるらしくって、この座談会の中で個人的にいちばん面白かったのは、「過去の作品を知らないと、新しいつもりでも古風な作品を書くことになっちゃうよ」と言われていたことね。
ということは、「エンタテインメントには型があって、純文学にはない」という論旨の流れと矛盾してくる。そこは、これから文学を読もうとか書こうという人たちの間でも、すごく問題なんじゃないかと思うんですけど。

あと、インターネットに対する過小評価がヒドい、と私は思う。「作家がホームページをつくって、少数のファンと戯れているか、それとは逆に悪口雑言がバラまかれているかで、批評が存在しない」って全員断じている。けれども、「立ち読みは犯罪だ」と発言して問題になったり、「ハンドルネームを変えろ」とヒトに抗議して問題になったり(どっちもマンガ家だけど)、まあ旧来の「批評」とは違うかもしれないけど、そういうほころびがネットの興味深いところなんであって。簡単には閉塞空間をつくれないのがむしろネットだという気がするけど。ドカンとテキストが載ってて、それをダウンロードしてじっくり読むみたいな、まさかそういう姿勢だけでのぞんでんじゃないでしょうね。
あとは批評まで行かなくても市井の「目利き」のセレクトをすぐ読めるとかね。もうね、文芸批評家の「面白いか面白くないか」っていう文章は不明瞭すぎるんですよ。ミステリやSFの書評家に比べると。 この座談会内でも「読んでて癒されないのが純文学」って言ってて、まあ通常のエンタテインメントを味わうときと異質の感触があることはわかるよ。だけど、それそのものが「面白さ」なんだ、と明確化したうえでもっと「面白い面白くない」をハッキリさせないとなあ。何言ってんだかわかんないよ。

ビックリするのは作家のウェブ日記にも批判的だったり。要はどんなものでも面白ければいいっていうだけじゃん? 作家で日記風エッセイがツマランのなんて大勢いるし、日記だけが面白いヤツがいるかもしれないのに。ただそういうのについていけないやっかみなんじゃないのかなあ。 山本夏彦も、文芸春秋かなんかで「今は未来のことばかり考える『手帳の時代』であって、過去のことをかえりみる『日記の時代』ではない」ってなことを書いてたけど、それは言葉としておさまりがよすぎてどうかと思うね。むしろネット上で日記って普通でしょ。ネットも歴史が浅いからアレだけど、日記が10年以上プールされれば、さかのぼってかえりみる状況ってのが生まれてくると思うし。日記文学に詳しいヒトとか、ウェブ日記のことをどう思ってんのかね。

テーマに関しても価値が転倒している。「今は本当の貧乏がいないから、どんどん不況になって景気が悪くなれば期待できる」(大意)みたいなことも言ってるんだけど、そりゃ昔景山民夫が「日本を舞台にした冒険小説がむずかしいのは、仮想敵がいないから」と言ったり、ソ連が崩壊したときに「仮想敵がいなくなってスパイ小説がむずかしくなった」と言われたりしたのと同じ価値の転倒じゃないスか。
文学の場合は、たとえばフリーターのヌルい境遇しかないんだったらそこからリアリティ出して行くしかないわけだし、冒険小説の場合は(この座談会にはカンケイないがついでに書いておくと)、「仮想敵がなくなったらダメ」ってことは、それまで仮想敵をパターンとして使い回していたに過ぎないってコトでしょ。パターンにすぎないなら他のものがぜったい見つかるよたぶん。

この座談会って、「現状がなんか面白くねえんだけど、『新潮流』とか言っておかないともう流れとして語れないから」っていう雰囲気がアリアリな気がした。これは、たとえばミステリ畑で「清涼院流水なんてダメだ」って言ったり、SF畑で「ファミコンRPG風ライトノベルばっかり読んでるんじゃねーぞ」って言ったりするのとは比較にならないほどたぶん深刻だと思うなあ。
言うなれば相撲協会がいくつもに分裂して人気がガタ落ちになっちゃって、相撲評論家がしかたなく「力道山も力士でしたから」とか言ってリクツを付けてプロレスに口出してきて、さらにシューティングについて語って、さらにその現況が面白くないもんだから「今のワザは相撲で言えばですね……」とか言って、さらに総合系の評論家に同情の目で見られているという、それくらい深刻な事態なんじゃないかと思う。
町田康の「くっすん大黒」を合評でみんな「これは小説じゃない」ってボロクソに言ってたっていうんだけど、それってガチンコなんでしょ? 出来レースじゃなくて? 電通とかがからんでるわけじゃなくて? そういうアンチみたいな立場で売り出そうとかじゃなくて? そんなことやってたら、純文学なんて盛り上がるわけないじゃん。

たとえばだよ、私は小説として好きな方だけど椎名基樹の「ぼろぼろのダチョウ」を「文学じゃない」って純文学系の批評家が言うなら、まあ仕方がないって思うよ。この作品は別の分野で別の評価をされるだろうし。だいいち表題の「ダチョウ」ってダチョウ倶楽部のことだし。だけど町田康を文学じゃないっていうのは、まあ「真・幻魔大戦」をSFじゃないっていうのと似たような、ハタから見たらどうでもいい違いでしかないと思うよ。宇宙船やサイボーグが出りゃ普通SFだからなあ。

6月18日(月)

昼間暑いのに、夜涼しい。

意識的に、この日記を毎日書くようにしてみている。いつもは時間をかけて推敲したり消しちゃったりしてるんだけど。実験企画。……と思ったけど、やっぱりザセツした(^^;)。

「大槻ケンヂの読みだおれ」(2001、イースト・プレス)というエッセイ集を読んでいる……という書き出しで昨日書いたのだけど、やっぱり全部読んでからでないと書けませんでしたわ。で、全部読んだ。
大槻ケンヂのエッセイは好きでたいがい読んでいるが、ここ近年、私の読む際の観点が変わってきた。
最近はじめて気づいたが、この人の書くモノには「若い頃のファースト・インプレッション」を描いたモノがすごく多い。UFOなんかのトンデモ系の記述に関しては読書上の鍛錬がかいまみえるけれど、それを全面には出さない。
いわゆる「トンデモ本」にツッコミを入れる文章一般は、その道で鍛えに鍛えツッコミ能力を発揮するか、さらに鍛えに鍛えて、なんてことない壺だの掛け軸だのに「枯れた」おもむきを見いだすという一種のワビサビの境地に達するというスタンスが多いような気がする。つまり努力と経験に裏打ちされた芸。しかし、大槻ケンヂはあくまでファースト・インプレッションにこだわった文章を書く。ロック、小説、恋愛、何でもそうだ。あるいは慣れていくことの痛み、空しさを描く。
瑞々しい最初の感動はだれもが持っているもので、それを追体験するのはせつなく、また楽しい。それが好きで大槻ケンヂの文章を読んでいたが、最近印象が変わった。 それは、どんなにカッコ悪いことを書いていても、やっぱり最終的には「モテ」に帰結する文章だと気づいてきたということなんだなコレが。「でも、あんたけっきょくモテてんじゃん」ってコト(笑)。
やはり文章の中の、若い頃のダメさや青さの存在意義を保証しているのは、現在の、カッコいい大槻ケンヂなのだよね。だから「おれも昔はだめだったのよ」、「うそー、信じられなーい」という女性読者とのコミニュケーションが成立する。男性読者向けのようでいて、実は強烈なまでに女性読者の視線を意識している。もちろんそれが悪いてんじゃない。ただ、伊集院光のスタンスにも言えることだけど、「モテなかった」ことを創作の立脚点にしているモノっていうのは、「でも、今は結局もててんじゃん」っていうミもフタもないツッコミと、「モテないとは言っても、最終的にモテなければモテない時代の出来事も無意味化してしまう」という矛盾を合わせ持っている。

もちろん「BOYS BE...」的な甘ったるさから背を向けることから始まっているけど、一回転ひねってやっぱりスイートなところへ帰結するのがニクい作風なんだろうね。
そういう意味では実にポップです。

「強烈に女性読者の視線を意識している」と言うと、最近は知らないが一時期かなりの数のエッセイを出していた原田宗典にも同じことが言える。
いやね、この人の下ネタの描き方がね、かなり下ネタがダメな人でも受け入れられるように調整されてるんだよね。下ネタダメな人に、「まあキミならわかってくれると思うからあえて品のない話をするんだけど……」と語りかけてるような感じがした。まあニクいやり方と言えばニクいか。
吉田等が原田宗典のエッセイがものすごく好きで、何冊か借りて読んだけど、なんだコイツ(原田)貧乏とかモテないとか言って、最終的にはモテるやつじゃんとか思って、なんだか読むのをやめた。

まあだれもついていけなくなるような生活態度や下ネタを連発するというのがいいかというと、当然いちがいには言えないワケだが。

オーケンの場合、自意識と才能が別々に存在していて、才能によってモテたりクリエイティヴな仕事ができたりという事象を、自意識が冷徹に見ているという感じがある。これは逆に言えば、才能によって世界がまったく変わってしまうというかなり単純かつ衝撃的な図式だ。人間って才能があるだけでこんなに人生変わるんだ……みたいな、シンプルで読者にはどうすることもできない領域に達していく。
まあ、そういうのに救われるのが若さであり、けっきょくはそれがポップさにつながっていっているんだけど。

もっと、あると思っていた才能がなかったとか、ちょっとしたチャンスを逃してダメんなっちゃったとか、いつまで経ってもムダな希望を持ち続けているとか、そういうコトに対するおとしまえの付け方みたいのを読みたいんだけどねぇ〜。現代版のね。

もうひとつは、オーケンは音楽でもエッセイでも、自分の考えの変遷をストレートに綴ってきた印象があって、単純なロック少年から、どんどん懐疑的になってって最終的には「ノイローゼ」にまでなる。で、この先この人はいったい何をやるんだろうと思ったら、けっきょくノイローゼ直前までの芸をさらに深化させる方にいったのかなあと漠然と考えた。
「特撮」の曲まだ聞いてないし、小説もちゃんと読んでないんで、今度ちゃんと読んでから感想を書きます。

6月16日(土)

所用があるとき、店の正面からお客さんをすり抜けて外に出るのがイヤで、裏の窓を開けて店の後ろにある家と家のすき間を通り抜けていくことにしているのだが、運悪く通りかかった近所の電気屋のおばさんに見つかってしまった。
ものすごくバツが悪い。「そこ通れるの?」とか聞いてきたが、通れるわけないっつーの。いつもネコかガキしか通ってないところだもん。

ひさしぶりに何か物語を考えてみようと思ったが、地口とかダジャレオチしか思い浮かばない。実にクダラン。自分がイヤになった。そもそも物語のシーンとシーンの結びつきを、言葉のつながりとしか考えられないというのは悲劇的におれの発想は貧困だ(要するに「元カレ」というテーマで「モトカ」と「レ」に分けたように)。

ゲーム雑誌「CONTINUE」のVol.1を買う。新宿の紀伊国屋は地下のゲーム本売場が改装中で、8階に移動している。階段をのぼったらゼイゼイしてしまった。
お目当ては「ファミコンロッキー」の作者、あさいもとゆきのインタビュー。これがまたものすごくドライ。インタビュアーもドライすぎる内容に自分のコメントを差し挟んでフォローしなければならない状態だし、「ロッキー世代」らしき別のサイトも、あまりにドライなインタビュー内容にガッカリしたと書いてあった。
確かに「企画はすべて編集主導」、「作品自身への思い入れはあまりナシ、むしろ一時期忘れたかった」、「自分の作家性をまったく入れられないという不満があった」、など、ホビーマンガを作家中心で見た場合の「現実」がありありと露呈してしまっていた(これはアニメ・特撮のコミカライズを手がけた作家においてもときおり見られること)。
だがこうした事態は、マンガがエンタテインメントである以上、絶対に至るところで現れる事実だ。それはコロコロ黎明期まで戻っても、さらに前に戻っても、逆に現在でもやっぱり同じことだと思う。後は送り手が「語り」にどれだけサービスを入れるかとか、当時ノれていたかとか、そんな具合でインタビューの内容は左右されるのではないか。

もっとも、送り手の「やりやすいシステム」というのは存在するのだろう。しかし、少なくとも完全に受け手でしかない私は黙って見ているしかないし、作品の評価基準は唯一「読んで面白いか否か」である。執筆環境やギャラの問題など、ウラでは問題はいろいろあるのかもしれないが、それはまあいい方に向かうことを祈るしかないんである。

それよりも、あさいもとゆきのインタビューで注目されるべきは、「ストーリーで自分が出せないんで、パンチラなどはこだわって描いていた」というくだりだ。読者へのサービスカットも、娯楽マンガにおけるシステムのひとつだ。実際に「サービスカットを入れろ」という指示がある場合もあるらしいし、それがすごくイヤだという作家もいるらしい。
サービスカットの存在も、純粋な作家主義で言えばマンガを硬直させるよくないシステムのように言われがちだが、あさい氏の場合は「ロッキー」連載前に好んでHマンガを描いていたこともあり、その「サービス」自体が息抜きになっていたようだ。

むろん、私はパンチラのみがあさい氏の自己主張であったり作家性であるとはまったく思わない。しかし、もしかしたら「作家性」というものを「ハタから見たオリジナリティ」とのみ断じるのは違うのかもしれない、と思わせるエピソードであるとは思った。

……「マスクドマジシャン」という、マジックをやった後、それを自分でネタばらしするという特番がテレビでやっていたのを忘れていて、最後の方少ししか見れなかった。残念。

6月15日(金)

「侍魂」考察ふたたび
The Battle Watcher ANNEXに、考察が載っていた(といっても2週間以上前に書かれたモノだが)。コレを機会にまたこのサイトについて考えてみたい。
「これくらいならアクセス数は1000くらいではないか」というバトルウォッチャーの予想は、私とだいたい同じだった。私もあながち何も知らないわけじゃないってことですかな。
で、私はインターネット人口の増加に伴う、見ている人々の嗜好の変化がよくわからなかったために、異常ともいえるアクセス数の増加には判断保留をしていた。

まず「先行者」のバカウケ状態があって、それが一種のチェーンメール化し、先行者に釣られて覗きに来た人がテキストの面白さにハマってそのままいついている、というのがアクセス数の倍々ゲーム的増加の経緯だと思う。実際、「複数の人から別々に、メールでサイトの存在を知らされた」という人が多いのではないだろうか。それも、メールをくれるのは必ずしも面白サイトを常にあさっている人とは限らない。この辺りはすでに何人もが指摘していることだと思うけど。

では肝心のテキストの面白さなんだが、ここで「そんなに面白くない。少なくとも、爆発的なアクセス数を得るテキストではない」と断じる人もいる。ここら辺は、むずかしい。私は、面白い面白くないで言えば、面白いと思っている。まあ「ナインティナインが面白いか面白くないか」レベルの話になってしまうとは思う。要は好みの問題ってこと。

この「好みの問題」はひとまずおいておいて、驚くべきはやはり「マネサイトの続出」だろう。
フォントいじり系テキスト推進派 Web-Ringというようにカテゴリができてしまうほどの影響力。ヒトに教えてもらった、ここなんかもなかなかキョーレツですごい(と思ったらもう閉鎖だよ! この早さもいろんな意味ですごい)。

これは、今までまったくないとは言わないがオチのもっていき方に効果を狙った「フォントをいじって、スクロールさせていくと最後にオチが来る」という「侍魂」独特のフォーマットにみんなが魅了されたところが大きい。……ってなんか当たり前のことを書いているな私。まあとにかく、「先行者→一種の口コミ化→そのままいつく」という好循環に、「マネしやすい形式」を与えてさらにサイトのつくり手のキモチにも火をつけた。
主催者はそのつもりはないかもしれないが、これは深夜ラジオがはがき職人に「お題」を与えている状況に近いと言えるかもしれない。アレも、「いかにフォーマットを踏襲するか」だから。
「本質的な毒がない」というのもメジャー化の一要素だろう。なんかOLにウケているとか聞いたが、なるほどというか。もともと日記サイトとか、あるいはアクセス数の多い情報系サイトは「毒」が本質的な魅力になっていると思うが、「侍」にドキリとするような毒はない。

さて、肝心の「テキストが面白いか、面白くないか」だが、私は「侍魂=かつての欽ちゃん説」を主張する。そう、テレビのレギュラーを週3本も持っていた頃の欽ちゃんだ。あの当時の欽ちゃんは、「敷居の低さ」、「マネしやすさ」、「毒のなさ」という「侍」に通じる要素を兼ね備えていた。「面白いか面白くないか」が話題になることも共通している。「毒のなさ」を除けば、ドリフだってその大衆性ということでは一致しているが、ドリフについて「面白い面白くない」を話題にすること自体、何かアホらしい気にさせられる。面白いと思えば見るし、つまらないと思えば見ない、それだけのことだ。
話は「欽ちゃん」にずれるが、なぜ「欽ちゃん」が「面白いか面白くないか」がときおり問題になるかというと、それが「人畜無害→『当たり前』という権威」につながるという、マイナー指向者の危機感に通じるものだからだと思う。

まったく個人的なウスい推論で申し訳ないが、欽ちゃんの黄金時代に風穴を開けたのは高部知子なのではないかと思っている。むろん、大きな流れで言えば欽ちゃんが多用していた「シロウト、もしくは半シロウトのタレントをいじる」というパターンが飽きられていたこともあるだろう。だが絶頂期には、欽ちゃんが55号時代に持っていた毒は見事なまでに払拭されていた。
本人はどう思っていたか知らないが、その「善人イメージ」はあやういところまで膨れ上がっていたと思う。そのとき、高部知子が「不祥事」を起こしたのだが(要するにニャンニャン写真事件。なんだか最近高部知子のことばっかり書いてるな私)、欽ちゃんは見事に高部知子をブッちぎった。要するに番組から降ろしたのだ。
たとえばコレがたけしやダウンタウンなら、降ろすにしろ降ろさないにしろ、彼らの人気には何の関係もなかったはずだ。一人のタレントがスキャンダルで消えていくだけにすぎない。
だが、確か私の記憶では、欽ちゃんは不祥事後の高部知子を番組に呼びだし、優しく説教し、高部涙ボロボロ。そして番組から降ろしたのである。このとき「欽ちゃんファミリー」の「ファミリー」が家族の意味でなく、イタリアンマフィアや任侠の方々の「ファミリー」の意味であることを、視聴者が悟ったのであった。
こうして欽ちゃんの人畜無害神話は崩れ去り、その人畜無害さに胡散臭さを感じて隠れていたマイナー指向者はここぞとばかりに指摘した。「欽ちゃんはツマラン!」と。

どんどん話がそれる。「欽ちゃん凋落」を予感した話をもうひとつ。
「欽ドン」で、ゲストに明石家さんまを呼んだのだ。さんまは、シロウト目に見ても「全部自分に注目が集まらないと気が済まない」感じのヒトだ。欽ちゃんの芸風と合うとはまったく思えない。この状態、昔の電気グルーヴと現在のコブクロのジョイントコンサートくらいありえない。
内容は、鬼気迫るものとなった。とにかくさんまの欽ちゃんに対する合わせなさは確信的なものであり、おそらくさんまの芸能界での活動範囲と欽ちゃんのそれがほとんどリンクしていないという事実と、さんま自身の「欽ちゃんはもうダメ」という読みのもとに暴走。「さんまのメチャクチャに欽ちゃんが怒りのツッコミ」という、笑っていいんだかよくないんだかわからないものとなった。

そのすぐ後、さんまが自分のラジオで「あの後、欽ちゃんが激怒していたらしいが、それがどうした。呼ばれたから行って笑いをとっただけだ」的な発言をしていて、あんまりゴーマニズムな発言が好きではない私も、当時の欽ちゃん状況では仕方ないと思ったほどであった。
……もういいですね欽ちゃんの話は。

とにかく、「欽ちゃん的」な反感を、一部の人が「侍」に持っていても何らおかしくない。だがそれでも思うのは、「でも『欽ちゃん』なんだよね」ってコトだ。「侍魂」が、それだけ多くの人に支持されているという事実は動かしようがないのだ。

また関係ない話だが、「爆笑オンエアバトル」のチャンピオン大会で、2回連続優勝した「ルート33」とかいう漫才コンビがいて、コレが私個人はそんなに面白いと思えない。
やることは、地口とか顔で笑わせたりとかそんなのばっかり。仮にもチャンピオンなので、ドヘタだとは言わないが、逆に「でもチャンピオンになるほどのコンビかなぁ」とも思うのだ。しかも2年連続。
しかし彼らを見て思い出すモノがある。それは全盛期の「ザ・ぼんち」と「B&B」だ。それと若い頃のサブロー・シローもそうかな。
ひと言で言って「かわいらしい感じで、何やら面白そうなことをする」という感じの人々(「B&B」はネタ的なこともやってたし、私個人はキライではないが、カテゴライズすればそういうことだろう)。核となるネタは面白くないんだけど、それを言い方とか顔とかで笑わせるタイプというか。そりゃすべてのお笑い全部がそうだが、なんかことさらに目をひくんだよ。「ザ・ぼんち」なんて「そーおなんです」って繰り返すだけで笑わせてたもんな。しかもものまねでも何でもないんだよ。ただ「面白そうに言っている」ってだけ。それを「かわいい」と思わせるところに意味があるんだろうね。

だから、「文句言いたくなる人々」とは関係ないところで、「そういうのが大好きな人」が大量に存在する、ということは、私も当惑しながら認めざるを得ない、ってコトです。
ちなみに私が「オンエアバトル」で応援しているのは、「アンタッチャブル」と「ますだおかだ」と「ハリガネロック」と「マギー伸司」と「品川庄司」と「中川家」です。中川家は人気出てきたからもう「オンエアバトル」には出ないかもね。あと「ダンディ坂野」と「ユリオカ超特Q」もいろんな意味で応援してます。

あ、あとなんだかんだいって私は基本的に「侍魂」の芸風は認めていますので。昔の欽ちゃんはあんまし好きってわけでもないけど。

今日は1日雨でした。

6月14日(木)

OUTDEX:外環視点さんで知ったマスコミ。こ、これは……確かに絶句するな……。コレで何が「心のケア」だっつーの。ねえ。マッチポンプとはこのことだ。と、ひとまず憤ってみる。
そしてすぐ後気づくのは、少なくとも視聴者の私自身がそのマッチポンプの一端だということなのだった。

なんか日記が「暗い、暗い」と言われたんで、昨日みたいなことを書いたけど、……あらためて読み返したらおれ的にはそうでもないんだよな……。なんか首を傾げるよ。よくわかんねー。これくらい普通のトーンだよ。そんなにしょっちゅう「うきゃい! うきゃい!」とか言ってられませんよ。
あ、これから流行らせようと思ってるから。「うきゃい! うきゃい!」っての。でもこんなこと書くと、ホントに会ったときに「『うきゃい!』って言いませんね」とか言われるんだよな。……なんかこうよくわかんねーよ。

昨日は代理店研修会で、こういうのってイメージ的に社長に怒鳴りつけられたり、前任ハチマキ締めてエイエイオーみたいな雰囲気を想像するが、この場合はぜんぜん違う(よそは知らん)。それより戦後50年のたくさんの「自営業者的ツラ」がおがめますよ。まあこれについても説明しない。でもリーマンと顔付きがぜんぜん違う。こういうことこそ文章化されないで消えていくんだよな。小田嶋隆の本とか読んでるとなんかわかるかもネ。
あの人んちもたぶん自営業だから。しかも東京の。

京都の業者が来て、自分で開発した××の××××を×××××して見せてくれた。×××は×××が×××だそうで、×××が×××するのにはおれも××だったけど、まあこんなこと書いてもコレ読んでる人にはぜんぜん意味ないし、見当違いな質問とかされてもウンザリするだけだから書くのやめたー。
そうそう、別の人の日記で、実名を書くわけにもいかずオブラートにくるんで書いたら、見当違いのメール(あれって私ですよね? とか)が来るので当惑した、って書いてあったけど、ホントにそういうことってあると思った。

1ン日雨だった。

あと太りすぎ。

6月13日(水)

人間精神状態に波があるのは当然なので落ち込む日があってもいいと思っているが、本当に落ち込んだ日(昨日など)が、連日暗いことばかり書いていると埋もれてしまうことに気づいた。……というか「どれだけ暗いことが書けるか」が、なんだか面白くなって来ちゃって、5月の中旬から一昨日くらいまで「暗いことを書こう、書こう」と毎日頭をひねっていたりした。……のだが、「暗すぎる」と批判の声が2、3人から出てきたのでさすがにやりすぎたかと思った。

……ので「コメットさん☆」のことを書こうと思う。
「コメットさん☆」、日曜日の朝やっているアニメで、当然実写版コメットさんのリメイク。最近は「カゲマン」さえアニメ化されるご時世、何のリメイクがあっても心が動かされないどころか、オリジナルを知っている世代だと余計に興味がなくなるんではないか。最初のイメージを払拭できないのね。私もそうでした。
……で、各方面から「コメットさん☆」は良いと言われ、とあるMLの集まりでは半分近い人間がコメットさんを押していたということもあり、見始めたんですわ。

……なんか一発でハマっちゃったというか、久しく忘れていた感覚を呼び覚まされたような感じ。
お話は、えーと途中から見たんで詳細はわからんが、とにかく星の国から来たお姫様のコメットさんが、心に輝きを持つという結婚相手の男の子を探すために地球にやってくる。毎回、心に輝きを持つ者を探しては、それが結婚相手でないとわかっても手を貸してやろうとするコメットさん。というような話か。

あまりにもどってことないのだが、脚本や演出のうまさ、絵のかわいさ(動きのかわいさ)などでついつい最後まで見てしまうというような感じ。それがあからさまに技巧的というのではなしに、とても自然で、アニメの技術論なんか微塵もわからない私にはどこがどういいと論評のしようがない。しかし「そこはかとなくいい」という感じなのだ。

オレ語りをすれば、私は個人的に「思春期の、これからいろんな感動に触れていくんだというワクワク」を描いた作品というのがものすごくツボなんですよね……。絵はガチャガチャだったけどそういう意味では「アキハバラ電脳組」も大好きだし。「ウテナ」もそれに近いっちゃ近い(おれの中で)。
「コメットさん☆」は、12歳のコメットさんが地球のいろんなことに触れていろんなことに感動していく過程が描かれている。今後恋愛に目覚めていくみたいなんで、子供から大人になっていく部分を描こうとするんだろうと思うけど、それがうまい具合に表現されている。

こうしたテーマを、男の子主演で描いた作品ってあまりなくて、ちょっと掘り下げるとすぐ「稲中」みたいになっちゃう(いや、「稲中」も好きですが)。思春期の恥を露悪的に見せていくというか。どうしても、男は子供の頃から中学生あたりを振り返ると自虐的になる傾向があるのかもしれん。そうでなければジャンプ的というかドラクエ的成長物語になっちゃうんで。
そんな中、私の知るかぎりアニメの「黄金戦士ゴルドラン」はさわやかに少年の頃のワクワクを描いたんじゃないですかね。これもわりと好きな作品のひとつでした。

話を戻すと、コメットさんのライバルがメテオさんっていう意地悪な女の子の魔法使いなんですが、このキャラクターの描き方もけっこうイイ。ちょっとどんだけ意地悪かがまだよくわかんないんだけど、可愛げを残していればかなりイイキャラクターになると思います。なんかドイツ語っぽい呪文だったが、意味があんのかな。エヴァンゲリオンのアスカもドイツ人だったけど。

太り研究
「コメットさん☆」の話終了。人に会うたびに「太った、太った」って言われるのがだんだんめんどくさくなってきた。本当に太った場合と、そうでない場合があるんだけど、そうでない場合が面倒だ。だって太ってないんだから。
だいたい太り方にもいろいろあって、おれの研究では3つに大別される。
・「伊集院光型」(田口浩正型)
・「松村邦洋型」
・「クイズ王西村型」
「伊集院光型」が、いわゆる陽気なブーデー、デブをギャグにできるタイプ。10キロ近く体重に変動があっても外見があまり変わらず、あまりみんな気にしない。女版は森公美子。
「松村邦洋型」は、ちょっと病的な太り方。「この人、本当はデブじゃないんじゃないかな?」と思わせるような感じ。何かある種のストレス太りなんじゃないかと思わせる。類例がなかなか見あたらないが、この人、マジにやばくないか?
「クイズ王西村型」は、もっとも人にいやがられる太り方で、デブのシルエットが美しくないというか崩れちゃってる。顔まで肉に埋まった感じになってるのがこのタイプ。女版は斎藤こずえ(ひどい)。
私は「松村型」と「クイズ王西村」の中間にあたると思う。太っていること自体が浮いているというか。そういう情けない太り方だ。だから何かと取り沙汰される。デブってのはたいてい、自分を「伊集院光型」だと思いこんで安心しているが、実は多くの場合「クイズ王西村」なのだ。もちろん、クイズなんかできやしないクイズ王西村だ。
関係ないが、クイズ王西村って空手やってるんだって。クイズ王西村最強説。

あと、私95キロまで太る予定なんで、ヨロシク、シクヨロ。

・今期の「おはガール」について品定め
「品定め」って完全にセクハラ用語だな。どうすればいいのか……。

・月曜日の子
5年くらい経ったらすごくいい女になると思う。スタイルがいい。

・火曜日の子
少女誌のモデルらしい。顔が若い頃の南美希子に似ている。

・水曜日の子
身体はコドモだけど、顔は合コンの一次会で帰っちゃうようなタイプ。

・木曜日の子
いちばん印象薄いけど、カワイイ顔してます。

・金曜日の子
確か小学校5年生くらい。ミュージカルに出ているらしい。まったくの守備範囲外なのでコメント不能だなぁ。

6月12日(火)

5月9日以来の実質的ダメ日。ちょうど1カ月ぶりか……。落ち込んだ感想はこの日とまったく同じ。ここ数年、注意されても「気をつけなければ」とか「イヤだなあ」とか「この人、うるさいなあ」とかいった感想を抱くのではなく、ひとつの注意が全細胞をかけめぐり、私の全過去が否定され、また全未来が否定されたような気分になってしまう。連想してどうこう、という論理的な思考手順を踏むのではなく、瞬時に情報が時間的・空間的に広がっていく感じだ。
仕事に関しても、物理的な大変さよりも精神面の追いつめられ具合の方が強い。それは納期までに何かをやらなければならないとかいうことよりも、どうも別の面にあるようだ。実際そんなにキツいスケジュールで動いているワケではないし。何か言われたことに対するこちら側の被害妄想的思考とか、瞬時にやる気がまったくなくなる現象とか。
だいたい十代、二十代よりずっとイライラがはげしいってのは、どこかおかしいんだろうなあ。
他人事みたいに書くけど。

まあおれの本当の望みは、日常生活(とくに仕事面)に関わっている人たち(でもそんなに話さないような人たち)の首ねっこをつかんで、おれについてどう思っているか問いただしてみたいということなんだ。案外関心がないのかもしれないし、驚くほど観察しているのかもしれない。まあホンネを聞いたら聞いたで絶望にかられるんだろうけど。聞かないなら聞かないで非常にイライラする。

我々は、テレビで芸能人やスポーツ選手、犯罪者の簡単なプロフィルを見るとき、瞬時に実にいいかげんな憶測をしている。たとえば世田谷の一家惨殺の犯人かと思われた(でも違ってた)ネコをボウガンかなんかで撃ちまくっていた男が、確か離婚歴があり40過ぎで親と同居していたことに関して、「ケッ、ンなこったからそんなことやるんだよこのマザコンが!」くらいのことは思ったりする。
金属バット殺人のイチリュウノブヤは、月刊プレイボーイを毎月買っていたというだけで批判されていた(「ヌードが載ってるから」だってさ)。
事件と直接関係ないようなことでも、我々は俗な類推をしているものだ。

別にそのような類推の対象とならない生活をしている場合、こういうことは案外気づかない。たとえば学生であったり、サラリーマンであったり、単純に多人数の側にいるとそのような批判の矛先も向きにくいからだ。

ところがここから一歩出てしまうと、実にさまざまな批判の目にさらされる。というか、さらされるような気がする。まあその中の一要素くらいならイイが、コレが合わせ技というかコンボというか、そういうので襲ってくると心底ヘコむ……いや、ヘコむというか、実際に自分が罪人のような気がしてきます。世間様は、あやまっても何しても許してはくれません。

ところで、ディズニーアニメで「美女と野獣」というのがありますが、アレのヒロインは「すごく読書家」という設定でした。原作は知らないんだけれども、あのアニメは「本なんか読んでいるヤツは、野獣とでも結婚しやがれ」という映画だったと思います。
実際、ヒロインの父親は科学者で、確か村はずれに住んでいて村人との交流もあまりないようでした。そしてきわめて抽象的なラストシーン……。あの王国はいったいどこにあるんですか? きっとヒロインも野獣であった王子さまも復讐のためにあの村から搾取するようなこともせず、あのお城はひたすらに現世から隔離されたユートピアとして存在し続けるに違いありません。

そして、そんな場所は現実の世界のどこにもないんです。

6月11日(月)

「コミックバンチ」の山下たろーくん、やはり生理的に受け付けない読者も少なからずいるようだ。
「山下たろーくん」ってのは、説明するともともと少年ジャンプでやってた「不器用な山下たろーが野球で勝ち抜いていくマンガ」だったのだが、それがこのたび「コミックバンチ」でサラリーマンものとして蘇ったというものだ。

現在の「山下たろー」についての批判は、ひとまず多様なものではあると思う。理由として、単純に続編としての安易さもあるだろうし「不器用な男が不器用さゆえに勝ち上がっていく」ということに対する面白くなさもあるだろう。
後者については、実は「何も努力しなくても勝ち上がっていく」キャラクター造形に対する反感とコインの裏表だと考える。どちらも「勝利」の理由にテクニカルな部分が欠落しているからだ。

だが、「本質的には勝利そのものに理由がない」のがマンガの主人公なのだ。「たろー」にかぎった話ではない。少年・青年マンガの主人公は、その作品のテーマを体言している存在だ。だから強いのである。それ以外の理由はない。それは同じ「バンチ」に連載されている原哲夫の「蒼天の拳」だって同じことだ。

では、何故に「たろー」がヤリ玉にあがるかといえば、それはサラリーマンだからだ。「課長 島耕作」や「サラリーマン金太郎」が「こんなことあるわけない」と言われるのと同じである。「宮本から君へ」もそうかな。
自分の生活に近いから、それだけ読者が文句を言いたくなるという、それだけのことだ。おそらく「北斗の拳」を読んで「リアルじゃない」と怒る格闘家はいまい。しかしサラリーマンだけが、フィクションにブチブチ言っているのだ。
つまりサラリーマンマンガに「リアルじゃない」と文句を言うことは、まあ一種の罠にかかっていると言えると思う。

●小学校乱入男、やっぱり「エリート校に意識的に入った」と言っているらしい。あーあ。

●土曜だか日曜の朝にテレビ東京で「チキチキマシン猛レース」をやってて、懐かしくなってハンナバーベラのCDを聞こうと思ったら部屋が散らかっててあんのじょう出てこなかった。二枚組なんでけっこう目立つはずなんだけどな、どこ行ったんだ?(知りません)

オキメグニャンニャン写真騒動は、とぼけ通すことでたぶん終息に向かうだろう。
芸能生命を完全に絶たれた高部知子のことを思うと、世の中変わったモンだ(ただし、コレは大人の女優へと脱皮しようとしていた奥菜恵だったからなんとかまぬがれたモンダイであり、タレントによってはやはり致命傷を負っていただろう)。
で、私は梨元勝のコメンテーターとしての超無難ぶりをある意味尊敬しているのだが(例:無知であることをまったく恥じない、「ぶっちゃけた話、こうだよねえ」的超庶民派的物言い、それでいて強い押し出しの印象など)、オキメグ騒動のとき「きちんと出てきて釈明した方がいい」って言ってたけどこれだけはいただけない。

梨元って、いつも「きちんと出てきて釈明した方がいい」って言うのね。そりゃその方がレポーターたちがラクだからでしょうが。でもこう言うときだけ、梨元は「疑惑の当事者が真偽を明らかにする義務」を正義のように振りかざす。おそらく梨元にたいする悪評の大半は、こういうあまりに面白味のない芸能レポーターライクなスタンスによるものなのではないか。
すっとぼけた方がいい場合もあるに決まってるし、今回の奥菜恵がまさにそうだと思う。それにしても現物を見てないので隔靴掻痒だなぁ。

集英社スーパーダッシュ文庫新人賞の審査員に、阿部和重が入ってる。どういう意味だ、こりゃ。この辺りに、ポケモンやクレしんの主題歌をなぜか歌ってる小林幸子、もっと意地悪く言えば教育テレビ(「みんなのうた」だっけ?)で自分の歌を流すドリカム的食いつきを連想せざるをえない。まぁ阿部和重については1冊も読んでないんで、読んでから文句言うことにする。あ、別に文句を前提に読むわけじゃなくて。ただ読まずに文句言うのはダサいから。

6月10日(日)

一昨日か? 大阪だかどこだかで、アタマに異常をきたした男が小学校に乱入、20数人を包丁かなんかで刺して、うち8人の子供が死亡。その間、わずか12分だったという。新聞・テレビでは大騒ぎになった。

大学かなんかの付属小学校で、制服があって、エエとこの子が行ってそうな学校だった。
調べないで書いてしまうが、犯人がこの小学校に縁もゆかりもない者だとしたら、「エエとこ」だと無意識のうちに狙ってやったんじゃねえかと思う。学校の外観は小綺麗でこいつのコンプレックスを刺激しただろうし、エエとこの子は見た目は「ガキ」って感じの子供より、弱そうに見えるからな。
こういうやつってのは被害者意識ばかり強いが、自分より弱い者をターゲットとする嗅覚だけは備えているように思える。

妻子を殺され、被害者の遺影を裁判所に持ち込む持ち込まないで訴えた青年がいた。
まったく気の毒としか言いようがないが、犯人が侵入したときの家の外見が、ちょっとファンシーな感じだったらしい。ほら、ネームプレートが丸文字になってるみたいな。
根本敬も書いてたけど、そういう「ファンシーアトモスフィアー」みたいのを敏感に察知する非道な人間というのは、残念ながら確かに存在するように思える。いわゆる「与し易い」ってコトを嗅ぎ取る能力。そういうのは天災と同じだとも言えるが、「外見のファンシーさ」は、善意のない者どもにも振りまかれているということは肝に銘じなければならんだろう。

もっとも、私はそういう文脈において「わんぱくガキ大将」の復権などは微塵も考えていない。かつて多くの子供にてんかんを引き起こした「ポケモン事件」において、「野山を駆け回っていればこんな事件は起こらなかったんだ」と言っているヒトもいたが、そりゃいくらなんでも乱暴すぎる。
まあせいぜい、あまりに強固な「ファンシーさ」、「ハイソなおしゃれ軍」な雰囲気を打ち出すことを気を付けるぐらいが、せいいっぱいの自衛手段なんじゃないかな。

ウチの親の膝が悪くなり、ずっとそのまま。気になる。

6月8日(金)

大学時代の後輩が亡くなった。あまりに突然のことで、聞いたときは呆然とした。

昨日、昼間私が出かけて不在のときに、滅多にウチに電話をかけてこない(私の生活パターンもまったく知らない)大学時代の同期から連絡があった。帰宅したときには電話があったという事実しかわからず、その意味するところがまったくわからなかった。

夜中、別の大学の後輩から電話がかかってくる予定になっており、事実かかってきた。四方山話でもしようと思ったらイキナリの報だった。

要するに、昼間の電話もそのことについてのものだったのだ。

この日記は、もともと私が日々の瑣末なことを大げさに書いたり、被害妄想的なことを書いたりするのが趣旨だ。だから書いてあることが事実かよりも、自分の思うことの方を優先させていた。要するにフィクション性が高いと言うことだ。

プライバシーの問題もあり、今日の日記をどう書こうか悩んだ。気楽なウソ日記なら本当のことを書く必要はないのだ。しかし、なんというか、長い時間の流れの中では当然日々書いているような瑣末問題や、私のインナースペースだけで解決するような問題ばかりではない。シビアなこともある。というより、長い目で見ればシビアなことの方が多い。ということで、事実だけ簡潔に書くことにした。今日がお通夜だった。

6月6日(水)

今売りのSFマガジン7月号に、新田のセンパイ、深堀骨氏の短編小説「飛び小母さん」が載っています。みんな読もう。小母さんが空を飛ぶ話。ほんとに。でも「解説」の「グランドホテル形式」って書いてあるのはマジでウソでした。
こないだ奥菜恵のニャンニャン写真(しかしこの言い方もいいかげん恥ずかしいな)が入手できない腹いせに買ったとも言える「新SFハンドブック」にも、深堀骨氏がマイベストSFをあげてます(買った後で気づいた)。

「最近、日記がものすごい負の方向に行っている」と言われたので、明るくしなきゃと思っている。あんまりマジで暗いというのもね、ヤバいから。っていうか、読んでる人を不幸にさせても仕方がないし。

……っていうか、負の方向に持っていった方が反響(?)があるので、最近どんどん調子に乗って、暗く、ダウナ〜にしようと気合い入れてました(気合い……)。

しかしこれからは明るくいきます! なんかもう、山田邦子大好きっコというか、いきなり小林克也のものまねをせんばかりの、「軽井沢の風」とかいうクダラン、ウエハースにクリームが入っているだけのお土産を社内に配りまくろうかっつうほどのいきおいの日記に生まれ変わりますよ!

だから、本当は「朝、柱に膝をぶつけて非常に痛かった話」を書こうと思ったんですけどヤメました。SFマニアになりきれない自分のふがいなさを呪うのもヤメました。「METAMO」の五十嵐めぐみがトレッキーだ、という噂を追いかけるのもヤメました。

雨がそぼふってました。「雨に〜濡れなが〜ら〜」と歌いながら歩いて、渋谷のガード下にあるラーメン屋に入りました。しかしここはマズい。前回行ったときは水も出してくれなかったし、スタミナ丼を食ってデブデブになったのでもう二度と行きません。

それと5月3日に書いた、いわば週刊ストーリーランド的、「Y氏の隣人」的物語(どこがだ)である「リス顔の男2」ですが、私は何も古い言葉を遣う人間がキライてんじゃないんです。そんなこと言ったら私はどうなるんですか。「テクシー」とか「ちんくしゃ」とかの言葉を使えないじゃないですか。ちなみに「ちんくしゃ」ってのは犬のチンがクシャッとしたような顔のブス山さんのコトです。
そうじゃなくて、自己陶酔している人がキライなんです。カラオケで目ェつぶって歌うババアとか。でもそれも人それぞれ、ってコトで今では納得していますし、スタミナ丼を食ってデブデブになったのそれどころじゃないですし。

最近、一人で酒飲むと涙もろくなって、飲みながら1カ月近く前に録画しておいた「も〜っと! おジャ魔女どれみ」を見ていたら、黒人サベツをしてしまった少女がお誕生会でものごっつい気まずい雰囲気になる、という話だったのでかわいそうでかわいそうで泣けてきました。

6月5日(火)

たまにネットウロウロしていて日記とかフリートークを読んでいて驚くんだけど、会社でけっこう女の子を怒鳴る上司っているんですね!? しかも「このやろう!」みたいな荒っぽい話し方で。うーんそういうのが普通なんだろうか。
しかし、何かよほどの大事でもないかぎり、そんなのあんまり好きじゃないですな。こういう物言いは一回転でサベツになってしまうかもしれないんだけど、男だったら 言われてもガマンするよりしょうがない場合ってのはあるし、ヤクザまがいの人もいますよ。残念ながら。だけど、女性に、脅すような感じでなんか言うってのはイヤだなあ。

ちなみに私が勤め人時代には、残業していたら近くの部署の女の子に「出前取るんだけど、何か食べる?」と聞かれたんで「じゃ、きつねうどん」っていったら「きつねうどんですね……ウウッ!!」って泣かれたことありますよ。詳細は不明。そしておれの今後の人生も。

6月4日(月)

私がのんきにネットで生稲晃子の写真集なんかを漠然と眺めている間に、世間では奥菜恵のニャンニャン写真の話題で持ちきりに。

「ニャンニャン」はかつて「性交」を意味した言葉だったが、「ニャンニャン写真」と来れば間違いなく人々の脳裏には「高部知子」の名前がかすめているワケで、ちょっと高部知子の人生について考えてみたがどうでもよくなった。とにかく、気づいたのが遅かったんで掲載誌のBUBKAがどこにも売ってない。
BUBKAは毎月買ってたのに、毎月買ってる私の手元にはなく、イチゲンの客が入手したかと思うと空しくなった。あーあ。

仕方なく、「東スポ」と「新SFハンドブック」を買って帰りました(当然ながら、「新SFハンドブック」は奥菜恵とは何の関係もありません)。

日中は暑くて泣いた。

6月3日(日)

昼から某会例会。昨年の11月19日から数えて、約半年ぶり。私は相当ネタ探し&ネタ絞りに時間をかけていて、前回の発表(ネタを揃えて発表する会なんです)には悔いが残っていたりもしたので、午前11時頃からなんだか緊張してきた。

……なので力学(ちから・まなぶ)に電話してこの間合コンしたという話を聞いて「いいなー、いいなー」とか言って気をまぎらわし、少し早めに家を出る。

前回同様のみなさん方の発表内容に圧倒されつつ、私も時間をいただいて持ってきたマンガの話なんかを7分で。前回はあまりの緊張にマジで膝がふるえたりしたが、今回は前回よりは落ち着いて発表できた(そう見えなかったかもしれないけど……)。

今回は、前回よりは聞いている人の声や反応も耳に入ってきたし、「あと何分です」という表示も気にかけながらできたような気がする。あとの反省点は映像をきちんと見せられるかどうかと、説明をイチからすることと、あまり早口にならないことかなあ。
で、自分で狙っていったものの反応が私が思っていたよりイマイチで、出がけに「ついでだから」と思って持っていった「3D甲子園プラコン大作」のエロ同人誌がいちばんウケていたような気がする(^^;)。こういうのは、インターネットにレビュー書いたり同人誌出したりというのでは味わえない感覚でした。

それともうひとつ思ったのはネタの料理の仕方というか、知識や視点の問題で、他の人が発表されたネタの中には私も持っているものもあったけれど、私自身には知識がないのでツッコミが入れにくく、ネタにできないんですよね。
今回、カルト&神秘系の本も読んでいったんだけど、基礎知識がないのでその本のどの辺が変なのかを明確にすることができなかった。また、純粋に視点の問題でネタにするかしないかというのもあるし。この辺も勉強になるというか考えさせられるというか……。

二次会でたまたま「野獣警察」の話題が出て、その場で私以外に二人の人間が野獣警察のファンだということがわかり、あまりに驚いたのでえ!? 「野獣警察」!?と、ざわざわしている酒席でも聞こえるほど大声を出してしまった。これはちょっと自分でも後で恥ずかしかったです。

さらに三次会まで出席。ここでは酔っぱらってしまい、何を話したのかもよく覚えていない……。うーんほんとに思い出せない(笑)。でも、いろんな貴重な話を聞くことができましたよ。

非常に勉強になった一日でした。

6月2日(土)

吉田等やモロモロの方々と、焼き肉食い放題に行く。「肉のハナマサ」がやってる、「カルネステーション」というオールセルフサービスの焼き肉屋。
秋葉原で待ち合わせたが、神田駅の方が近かったですね。制限時間1時間半でガシガシ食う。

値段のわりにはなかなか美味しい肉だったし、肉以外にもキムチはもちろん、酒を含むドリンク類やギョーザ、シューマイ、スープ、握り寿司、ご飯、ビーフカレー、ケーキなどがすべて食べ放題というすごさ。

ぜんぜん関係ない話だが、ひさしぶりに秋葉原に行ったけど家電中心時代のことを思うと、本当に特殊な街になったよねぇ。なんか常設コミケみたいな感じ。
ムカシは、だれかが言ってたけど、秋葉原の店に展示してあるテレビに森高千里のレプリカントっぽい様子が流れてくるところに安普請のサイバーパンク感覚を感じたが、今やUFOキャッチャーの景品がよく知らないギャルゲーのキャラクターグッズや「でじこ」のフィギュア。もはやかつての森高などワビサビの領域である。
一方、CD屋の「ロケット」がなくなっていて代わりに巨大なおとなのおもちゃ屋ができていたり、フーゾク店も何軒かできているという。まあアキバだけじゃなく、新宿も、渋谷も変わったけどシミジミしますなあ。

ちょっと食い過ぎた。だいたいデブデブ病とかいって食い放題行ってどうする、とか思ったが。帰りは体中から食べた肉のアブラがしみ出していくような感じがした。

6月1日(金)

トップページでちょこっと告知したんですが、知り合いの人々5、6人とともにマンガについておしゃべりするというイベントに参加した。
恵比寿ガーデンスクエアにドーム型の特設会場(ホワイトドーム)があり、そこで生絞り(発泡酒)を飲みながら話したことがインターネットで生中継されるというもの。夜8時半からだったので、ホワイトドームに7時頃待ち合わせて事前に打ち合わせをしようと集まる。「雑誌中心で」、「コミックバンチの話題から」とか決める。決める、というかそれくらいしか決めなかった。

実は(実はも何も、私を知っている人は想像つくと思うが)、私は人前で話すのがニガテで、今回も事前にあれこれ悩んだが(悩んだりするわりにはそういう場に出ていくンだが)、トチらずに説明できる雑誌と単行本を持っていった。その場で凍りついたりするのはイヤだし。
実際どうなるかはあまり考えなかった。この中継自体を自分では見られない(その場にモニターがあるが小さいし、毎日さまざまなテーマについて中継しているのだがそれについてもちょっと見るヒマがなくて見なかった)のが、個人的には極度のアガりに陥らなくてすんだ原因だと思う。結果を考えすぎるとロクなことにならない。
あと酒が入っていたことは大きいな(笑)。ああ、酒はいいなあ(生絞りのイベントなので、ソレを飲みながらだった)。

直前になって「オススメのマンガをマイクに向かって熱く語ってくれ」と言われて少々アセる。「マイクを回すから一人ずつ語るというのはどうか?」とも言われたが、それをやられたらそうとう緊張してしまっただろうと思う。またカタい内容になってしまっていただろう。

実際には、「コミックバンチ」、「CUTiE comic」、「仮面ライダーSPIRITS」、「りぼんオリジナル」、「スピリッツ増刊IKKI」、「1ねん3くみ桃ちゃん先生。」、「近代麻雀」などの話題が出ましたよ。聞いている人の反応はぜんぜんわかりませんが(本当にわからん)、いちおうメジャー雑誌、いわゆるマンガ読みの人が読む雑誌、特撮のコミカライズ、いわゆる「萌え」系マンガ、麻雀劇画誌というふうに恐ろしくバラエティに富んだモノになった。ほとんどネタ合わせもしてないのに、なかなか面白い。

少年マガジンとかモーニングとか、当たり前なものはまったく入ってない。しかし取り上げたモノの偏りについては、コレはもうしかたないような気がする。1時間という区切りの中で、たとえば映画であるとか、音楽であるとかいった場合は「洋画のみ」とか「邦楽のみ」といった明確なシバリをもうけることができるが、マンガはそうもいかないから。
漠然と「マンガマニアの読む雑誌」とか「オタク系雑誌」などの区分はできても、なんかスッキリしないし。少女マンガやレディースという区分はあるが、それで区切ってしまうのはかえって対象をせばめてしまう気がするし……。

終わった後場所を移してまた飲んで、さらにまた飲んだ。しかし最近、頭で考えているより飲めなくなってしまい、最後の方は苦しかった。なんでかなぁ。



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