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「つれづれなるマンガ感想文」2月前半
「つれづれなるマンガ感想文」3月前半
一気に下まで行きたい
新創刊のマンガ雑誌第3号。「癒し系」がキャッチフレーズ。ものすごくぶっちゃけると、和姦系成年コミック。2月17日発売。レビュー遅れてゴメン。
「お手伝いしちゃいます。」八月薫は、ハウスキーパーがエッチしてしまうマンガ。連載第3回。実は、前回はさすがにHになだれ込むまでが強引だなあと思っていたのだが、今回は「気の弱い下着メーカーの若社長に性のてほどき」というわかりやすすぎる展開で良かった。
「シーラント」矢野健太郎は、連載第3回。杉田慎二が、別れた彼女にソックリという理由でつい購入してしまった高級等身大ダッチワイフ・ラブドール。それがとつぜん生き物のように動き出して……。
「高級ダッチワイフを人に隠れて使う」という、背徳的なというか世間体の悪いことに主人公がハマっていく過程を描くとやはり本当にうまい。意志を持たない人形にすぎないラブドールは、以前謎の存在のままだ。
「お嬢様のための楽しいSF生活」ちもは、新連載第2回。大学に入学したヒロインが、入寮したらマッドサイエンティストのとんでもないセンパイ(女)とルームメイトになることに。今回は先輩と二人でバイトする。
「すいーと・ハウス」香月りおは、彼氏がいなくなった美少女がさえない男と同居することになる話。連載第3回。今回は、さえない男・俊之が合コンに出るハメに。ださい男がださいゆえにモテるという都合のいい展開だが、フィクションの世界でこういうのでもなければ人生やってられんよ。
他に、黒河澪、いとうえい、琴の若子、山崎あつし、結城ひなせ、綾野なおと、橘セブン/NAKADO(近未来SFタッチでわりとイイ)、坂辺周一(サスペンスもの)、湯河原あたみなどが描いている。
なお、次号からリニューアル、大増カラーグラビアで値段も若干上がるらしい。
「ぶた増しシングル」サクライマイコに、「ヤマアラシ」の原作者である鶴岡さんが登場。あっ、簡単な描線なのに似顔絵が似てるなあ。
「ヤマアラシ」宮塚タケシ、原作/鶴岡法斎は、ライバル・飯塚が浮気をしているのではないかと疑っている彼の恋人・リサに、堀田は尾行してどこに行っているのかを突き止めるように頼まれる。
飯塚のキャラは、いつもながら立ってます。なんつーか、本当にコメットさん☆で言えばメテオさん的にキャラ立ちしてますね。
「SLOCA(スロッカ)」押山雄一は、連載第4回。カードゲームにパチスロの要素を取り入れた「スロッカ」で主人公が敵と対決するという異色マンガ。
今回出たカードは「ノストラダムスの破滅願望」、「官憲は市民の味方」、「再遊戯よ、永久に……」など。カードのネーミングが独特。
何度も同じことを書くが、HPってのはやはり毎日更新された方がいいのだろうか。
「雑記」が恐いのは、時間さえある程度あれば、いくらでも書けてしまうということだ。そして、それを自分で読んでみて客観的に善し悪しをはかるのはきわめてむずかしい。つまらなければ、だれもが読み飛ばすゴミの山をせっせと生産していることになってしまう。
さて、マンガ的なトピックと言えば少年マガジンで赤松健が始めた新連載「魔法先生ネギま!」だろう。しかし私は電車の中吊り広告でしか見ていないのだ。なんでも、ヒロインが30人も出るとか。
個人的には赤松健作品的に女の子に振り回されたいとは微塵も思わないので、あんましマジメには読まないと思うが。
後はマイケル・ジャクソンのテレビを見損なったのが残念だったなー。巡回先で、その話題ばっかり出てる。
社会科の副読本らしい。日本の国旗、日の丸の歴史と意義について、マンガで書かれた本。奥付を見ると90年まで使われていて、たとえば「みどりの日」の項なんかは改訂されている。確かに日の丸の成り立ちなんてふだん考えもしないし、まあ勉強になったことはなったのだが、ちょっと気分的にそういう余裕がないときに読んだので疲れがドッと出た。
短編集。「アワーズライト」に不定期連載していた「影男」シリーズ、およびコンバットコミック掲載のミリタリーもの「空の追想」などを収録した1冊。
「邪悪な勢力によって日本女性は母性を失い、未来の花嫁を失った男たちは生きる希望をなくし、その中でさらにダメな男が『いらない人間』となり、『死の拠』を探し彷徨する」という主張が脅迫観念的に繰り返される。それを作中で体現しているのが「影男」。38歳独身で、アニメかフィギュアの少女しか愛せない。黒いベールを頭からすっぽりかぶっていて、外界との接触もほとんど行わないダメ人間だ。
とにかく結婚して子孫を残せない→「いらない人間」→絶望、死の拠を探すというテーマは作者のHP日記や同人誌などでも本当に執拗に繰り返されており、果たしてネタなのか本気なのか、理解に苦しむ。
年齢が3年から5年違っていても時代感覚がかなり異なることがあるので、以下は昭和四十年代生まれの私の憶測で、作者の実感とは違うかもしれないとは断っておく。
若者の間で「零落した、ダメになったマッチョイズム」が幅をきかせてきたと考えることはそんなに間違いではないだろう。マッチョというのが筋肉という狭い意味なら単に「男らしさ」といってもいいんだけど。暴走族の疑似家族・タテ社会にも似たような意味があるかもしれない。
「死に場所」を与えてくれる存在が美少女としてかなり大きく描かれているのに対し、「死に方」を体現する兵士はそんなに大きく出てこないことからも、「影男」が取り憑かれている「男らしさ」という考え方が意識されないほどに刷り込まれていると考えるのはうがちすぎか。いやたぶんそんなでもないだろう。
本作ではそうしたことに対する答えはほとんど提示されてはいない。影男も戦いにおもむいて死ぬのかどうかもわからない。しかし、何の解答もないにも関わらず、不思議とカタルシスがあるのがマンガというジャンルの面白いところで、細密な作画にウットリしているうちにいろんなことがどうでもよくなってくる。短いプロットの中に、ほんの少し希望をにおわせる部分を入れてあるのも心憎いというべきだろう。
なお、むずかしいことはよくわからんが「戦争で戦って死ぬのが本当に至上の幸福か」については、笠井潔の推理小説「哲学者の密室」[bk1] [amazon]でかなり突っ込んだ議論がなされている。
伊集院光の深夜ラジオで、「だれそれの、なんとかかんとかをお聞きください」というアナウンサーの紹介とともに、よく知らないアーティストの曲がえんえんと流れるコーナーがある。CMなのだろうか。とにかく、それで流れていた曲。
しかし個人的に気に入ったのは、本作のREMIXである「みんなでフーフー ハイパートランスラーメンスキスキMIX」だ! 「だ!」っちゅーほどでもないが、猫も杓子もトランスの昨今。いい時代になったもんである。もともとトランスというのはクラブで大音量でかけるためにつくられたものだと思うが、本作がクラブでかかる可能性は限りなく低い。いわば「テスト飛行すらできない新型戦闘機」に近い(近いのか?)。
マジメなことを書くと、もう少しだけ、原曲を崩して完璧にトランスにしちゃえば思いきりが良くていいかなと思ったけど。J−POPのDJで、うまく使えば楽しいと思いました。
・マンガ太郎が、NHK趣味悠々の覚えて楽しい! 似顔絵教室で講師。
もう始まって数回になるんで、マンガ太郎はもう出ないかも。マンガ太郎と言えば「漫☆画太郎」のペンネームの由来でもある。20年ぶりくらいにテレビで見たが、あまり変わっていなかった。
そんでマンガ太郎関係で見つけたNO NUKE ONLINE EXHIBITION(インターネット 非核まんが・アニメーション&アート展)。もうずいぶん前のCOMIC BOXの企画らしいが。こういうのの有効性って、「マンガと風刺」という意味合いにおいてもなんか考えちゃいますね。どうなんだろうね。
・「レディス4」の高崎一郎、健康上の理由から降板。
ヒトと話をしていて、自分は「モー娘。のものすごいファンだと思われるとちょっと困るかも……」とか思った。
だから、ここらでいちおう私の「モーニング娘。」に関するスタンスを、以下に整理してみる。
・いわゆる「ASAYAN的展開、視点」は好きではない。アイドルは雲上人であるべきで、必死の舞台裏を見せるべきではないと思っている。その意味で言えば、藤本加入による騒動などは、あくまでオマケ。
・楽曲は、「ダンス☆マン」や渡部チェルなどが参加したあたりから好きになった。
・メンバー「だれ推し」とかいうのはとくにはないです。しかし、四期メンバーが入っていなければ、一生興味なかったと思う。その意味では四期以前と以後、という見方はできると思う。
・「ミニモニ。」の評価は、私はマジに高いです。それはシンセ的ピコピコ感を感じさせた狂騒音楽であり、コミックソング的でもありといった、アイドル楽曲としては周縁的なテイスト(堀ちえみの「ワッショイ!」とかあの辺の感じ)を持ちながら、アイドルとしてのかわいさと1位をとった圧倒的なメジャー性にある。
そもそも「モーニング娘。」は「なりふりかまわず、一生懸命やる」というところから出発しているが、一見、秋元的とも言える人工感覚漂うミニモニ。も、フタを開けてみればメンバーそれぞれの、受け手の想像の範囲内での生き方を体現しているところがある。これがつんく♂のわかりやすさで、「『あえて』とか言ってんじゃねーよ」という反論を軽く受け流してしまう。
・「娘。」たちの「アイドルコント性」には舌を巻いている。「アイドルコント」は、「コント」の中からは鬼っ子扱いどころか無視されているジャンル。一時期はアイドルそのもののアーティスト化によって絶滅の危機に立たされていたが(SMAPを除く)、「娘。」はさすがたたき上げ、という感じでかなりの汚れ役もいとわず、「アイドルコント」として前人未踏の域に達しつつある。
アイドルコントとしての、まさに少年マンガ誌の新連載第一回! 一挙60ページ! として大々的に躍り出たのがやはり加護・辻だろう。
そもそも、四期メンバーのアイドルコント力は高い。まあ「キャラ重視」と言われているから当然と言えば当然だが、後の五期と比べてもずっと高い。「ハロプロニュース」ではひたすらに自信満々の「アイドルキャスター」(「アイドルキャスター」って何だ?)を演じるチャーミーこと石川梨華。そして正統派アイドルコント演者の吉澤ひとみ。
そうした飛び道具的キャラに埋もれがちだが、アイドルコントとしての基本的資質を備えているのは意外に安倍なつみだと思っている。手堅すぎて目立たないが、こういう人がいないと全体がしまらないものだ。
そして、今週の「ハロモニ。」において、私が存在感を再確認したのが飯田である。
このような中にあって、ブスキャラで通したりしてみる保田の影が薄くなってしまうのも仕方がないのだろう。「保田おばあちゃん」はがんばってたけどなあ。
五期メンバーでは、「北の国から」のマネを執拗にやり続ける小川がいる。が、これ1本ではちょっとキツいか。子供らしく思いきりのいい新垣に、むしろ可能性を感じる。紺野はずっとあのままだろうし、あれはあれでいい。高橋愛もあのままだろう。やたら推されているのか、コントによく出てくるが、この人はアイドルコントというものをたぶん愛していないと思う。もともと「面白いこと」に興味がないのではないか。かわいいことはかわいいんだけど。
……などと適当なことを書いていたら時間が経ったので、オワリ。
コミティアでした。お疲れでした。
本はあんまし売れなかった。買ってくれた人、ありがとう。書評の難しさを感じたことであった。でも自分の性格に起因しているような気がする。でもこのトシになってもう性格は直せないと思うから、宇宙って大きな存在だと思うから、そのままにしておく。……と書いておいてナンだが、自分って思ったより酷薄な人間かもしんないと思った。そしてそれに対する復讐を異常に恐れている。
ワンフェスが同じビッグサイトで開催されており、フィギュア関係のことはまったくわかんないので、「なんで入り口のところの絵がロボットじゃないんだろう」とか見当違いなことを思った。
「ワンフェスのお客がコミティアになだれこんできて、今や会場は大混乱です!」(峰不二子) になると思ったらまったくならなかった。ケバブ屋が出ていて、そこでみんなケバブをモサモサ食っていた。「なんか珍しい料理があるぜ!」「行ってみようぜ!」などと言いながら、虫取り網を持った小学生が走っていった。あと、地面にぺたんと座り込んでカードゲームやってる小学生がいた。いや、それはウソです。ケバブ屋は本当。
同人誌は買い的にも今回失敗だった。買う気、やる気がないと買い物に明確に反映される。中途半端な買い物をしてしまった。昔、鉄腕アトムに「チュウト・ハンパー」とかいうロボットが出ていたことを思い出した。
戦国武将達が覇権を争う時代。父に剣技を仕込まれつつも平凡な生活を送っていた若者・朱砂丸は、自分が持っている2つの剣・乾雲と坤竜を奪おうとして襲ってきた謎の集団「鬼道衆」に父と妹を殺され、乾雲を盗られる。この刀には、日本の命運を左右する秘密が隠されているらしい。
コンビニ売り単行本。平野仁の絵は迫力があってすごいのだが、作中のさまざまな謎はわりと予想どおりであった。原作がないとマッタリしちゃうのかな。
それと、通しナンバーがないので何巻が何番目だかかなりわかりにくかったです。
第47話「そうなんですか?」(2月22日)
人間界は一面の雪景色。すっかり興奮したミルモは、妖精界から仲間を呼び出し、雪の中で遊び回る。そんな中、ガビンが水たまりに落っこちて、熱を出してしまう。最初は懸命に看病しようとするミルモたちだったが、寝るのがいちばんの風邪ひき病人(正確には「妖精熱」)にすることはあまりなく、ガビンをおいて遊びに行ってしまう。
自分は、マンガやアニメの中にある勧善懲悪的、あるいは因果応報的矛盾を小さい頃から執拗に覚えていて、たとえば「人間をつくろう」と言い出して何の倫理的罪悪感もないのび太くんなどが印象に残っている(「人間製造器」の回)。前にも言及しましたが。
もともと安純というのは、パートナーである妖精のヤシチをこき使っているという設定で、これはヤシチが安純のパンツをときどき盗んでいるということで相殺されているはずなのだが、スタッフのシュミか番組全体にエロ度が低いため単なる設定に堕してしまっており、一方的に安純が悪人のように見える。
どうでもいいが、楓と安純の通っている学校指定らしいコートはかわいくデザインされてるね。
2月12日放送。
17歳のななかがいかにイヤなやつかが丹念に描かれていた。こりゃ嫌われるよ。ガリ勉少女らしくへりくつをこねるのだが、それがまた穴だらけで真剣に論破したい衝動にかられた(大人げない)。しかし、そこら辺が次週への伏線なんだね。
いちおうベタかと思いますが指摘しておくと、次回予告で雨宮さんに「はわわ〜」と言わせたのは偉い。
2月19日放送。
本作の公式ページにある「あらすじ紹介」は、まとめ方をもうちょっとどうにかした方がいいと思う。まあ字数が決まっててめんどくさいとはいえさ。
先週の続き。先週の七華の態度が、「大人になった」のではなく「大人になろうとして焦っている少女」の態度であることを、七華は稔二によって指摘される。
ここでカギになってくるのが「まじかるドミ子」という、「毎回魔法で大人に変身する」という劇中アニメと、17歳七華が6歳当時の稔二との約束をきまじめに守ってきたということ。
見よう見まねで、最新テキストをトップに表示するようにしてみた。
しかしそんなことをぬらりくらりとやっていたらバチが当たったのか、バチが当たってしまった(←トートロジー←違う)。
「ミュージックステーション」でBON-BON BLANCOを見たが、予想と違う意味ですごかった。
しかしそんなことを考えていたらバチが当たったのか、バチが当たってしまった(←トートロジー←違う)。
あ〜もう調子悪ィ。
成年コミックのアンソロジー。テーマは「女子小学生の妊婦」。執筆者は、つくしの真琴、みにおん、林原ひかり、猫守麻里鈴、へのへの、魔北葵、小林少年丸、美女木ジャンクション、山咲梅太郎、月下冴喜、吉田ふらわ、香月りお、藤瀬あきら、留萌純、吉野志穂、海明寺裕、ACTIVE FACTRY、金井清顕。
エロジャンルにおいて「妊婦もの」というのがあるのは知っていたが、それが小学生となると内容的にまったく想像できないので読んでみた。
海明寺裕さんのが「少女妊婦」というテーマを満たしつつも、自身のK9ワールドにちゃんと組み込まれる内容で、読んでて拾いモノでした。
それにしても、基本的に自分は「小学生」にも「妊婦」にも、エロという意味では興味がないことが本書を読んで判明した。
公式ページ。しかしこのページ、わかりにくいなあ。
ゲストが石川梨華。ピンで。「ハロモニ。」などのときよりは格段にナーバスになっているようだった。でもやることはやっていた。「セーラー服と機関銃」のマネとか。
マシューは「うたばん」の石橋などと違い、ゲストのいいところを見つけてあげようと言うキャラだと思う。見つけてあげて、持ち上げておいて落としたり。いいところ、アピールすべきところをギャグとして広げたり(ソニンに対して「この子はおしんアイドルなんです!」と画面に向かって呼びかけるところなどが典型)。
だが今回の石川は「私はキショイキャラなんです」、「キショイと言われるのが快感なんです」と自分から自虐コメントをかます。これはねー、「うたばん」ではいいかもしんないけど、マシューに対してはどうかと思う。
でもまあ、こういう自分に対するダメ出しみたいの、石川の特徴ですね。だから一時期「ポジティブ!」って言ってたんだもんなあ。でも、トータルでかわいいから自分ダメ出しに対して相手がどうツッコんでいいか、マシューに限らずとまどっているように感じることがある。むしろ「自分がいちばん!」と突っ張り通した方がいいのでは。……と、ここまで書いてて空しくなってきてはいるんだけど。私の実生活に何の関係もないから。
第46話「ニュース3人娘」(2月15日)
ミルモのもとに、妖精新聞から取材の依頼が。記者はワカバ、トモン、チーエの3人娘だ。すっかり得意になってしまうミルモだったが、ヤシチとムルモはそんなミルモにジェラシーメラメラ、いつものビミョーな敵対関係は忘れ、手を組んでミルモを「ダメ王子」として報道させることに成功する。
まあ普通の回。ワカバ、トモン、チーエをさらってミルモに助けさせようとする作戦を立てたムルモ、ヤシチ、サスケ、ハンゾウの覆面姿がかわいかった。
・「爆竜戦隊アバレンジャー」(東映公式、テレビ朝日の方のページ)の第一話を録画しつつ、リアルタイムでも途中から見たのだが、最初から見ようと思って録画した部分を探してもいっこうに出てこない。ビデオを何本も早送りしたり巻き戻ししたりしていたら、2時間くらい経ってしまった。
しかし東映のHPを見ていたら、メインライターは荒川稔久なんですか? そしたらイイ感じの「SFおしかけ女房」的脚本が見られるかもしれない。期待です。「燃えろロボコン」の、ロビーナちゃんソックリのお嬢様がロボコンのところに転がり込んでくる話、燃えたよねえ。おれにとって「萌え」じゃなくて「燃え」なんだよ!
それにしてもビデオ探しでものすごい時間をムダにした。ショックで倒れた。雑誌でアコムのCMの女の子・小野真弓が水着になってたが、あれってみんな、同僚の女子社員が水着になったみたいな視線で見てるでしょ。なんていやらしいんだと思った。PTAに電話しようかと思った。でも自分が水着が見られなくなるからやめた。
・「やじうまプラス」で、昨年末に阿部美穂子が降ろされたのはふざけていると思った。見ている側だけの観点で言わせてもらうと、リニューアルの必要もないリニューアルをして、番組全体を「癒し系」みたいな感じにして、そのひとつの象徴がニュースキャスターではない阿部美穂子の起用だったと思う。
・牛−1グランプリ
←新聞に入ってた焼き肉屋のチラシ、牛−1グランプリ。小ネタですが。「モー誰にも止められない」と言っているのは、こりゃボブ・サップだろ。勝手に写真使ってるな?
それにしても、テキストサイトで「だれかがだれかを出し抜こう」としている文章にだんだんウンザリしてきた。そんなのはプロのライター10人、シロウト20人くらいで充分なんだよ!
でも「人と人とのふれ愛がたいせつ」とかいう、オノ・ヨーコを2、3発殴ったような女(もしくは男)もイヤだけどな。そんなジレンマの中で、みんな生きている。みんなみんな、生きているんだ友達なーんーだー。
と、JASRACを無視して歌詞を引用したところで、ぼくはなんとかかんとかのキスの数ならきっと三日で越えてみせるぜ。毎度おなじみ、三代目魚武濱田ナニガシでした。
・万引きして逃走した中学生が電車にはねられて死んだ事件、「店長は悪くない」というトーンでマスコミの論調も落ち着きそうだ。私も店長は悪くないと思う。
しかし、私がこのコメントをどっかで目にして思い出したのは、出会い系サイトかなんかで知り合った女子中学生に手錠をかけて車に乗せていたら、その子が窓から下に落ちてしまい後ろから来た車にひかれて死んでしまった事件。
この女子中学生は、家庭がフクザツで日頃から素行に問題があったらしい(学校をサボるなど)。児童施設みたいなのに相談に行ってたらしいし。どうみてもオヤジに多少なりとも責任があるっぽかった。
で、このトシになってやっと気づいたが、テレビ報道ってのは(新聞はまた別かもしらんが)、最初っから期待されている「物語」があって、事実をそれに当てはめていくという方法がとられているらしい。だから枝葉は切り取られる。ハタから見ていると、枝葉は枝葉で残しておいてもいいような気がするが、本当にバッサリ切る。
あれ、何でなんだろう。やっぱり視聴率なのかなあ。それと、テレビってかなり深刻な意味で頭のオカシイ人って出しちゃいけない不文律があるでしょ。でも「ゴミ屋敷」のテレビで、明確にオカシイ人をさんざん映してるじゃない。顔にモザイクはかかってるけどさ。オカシイ人の奇行を大々的に映して、それをスタジオのゲストが見て「いや〜!」とか言ってる、あれいいのかね?
・「仔犬ダンの物語」映画興行成績不振→「天上の飛鳥」掲示板書き込み(天上の飛鳥)
まず「ゲンダイネット」の記事では興行的にあまり成功しているとは言えない東映・岡田裕介社長について、いろいろ書かれている。
しかし、まったくのシロウト考えだけど、東映って昔からそんなにビシビシ映画を当ててきたわけじゃないと思うんだけど? 「流れ板七人」とか「北京原人」とかも東映でしょ。
で、もうひとつの対象「子供」向けの映画「仔犬ダン」だが、単純比較して「ピンチランナー」がGW興行で5億7000万、正月映画の「仔犬ダンの物語」が6億円というのはキツい数字だそうだ。
このデータを見てどういう結論に持っていこうかと思ったけど、みんな日本映画見なさすぎ! 見る前から日本映画バカにしている人いるでしょ。せめて見てから判断してほしい。映画好きで「ワカッテル」感じの人でも意外に日本映画を好きになれない人は多くて、コサキンの二人もそうなんじゃない?(例が唐突だが) 評価してるのは黒沢明と「直撃! 地獄拳」くらいで。あと宮崎アニメか。
まあ、「ダン」はどうでもいいんだけど同時上映の「お菓子な大冒険」もあわせて売れなかったってのがなぁ。ファンでも何でもない人にとっては「普通にいいんじゃない?」程度のものではあるんだけど。
・おはスタの話題。東京や名古屋や福岡で開催された「次世代ワールドホビーフェア」において、ゾナーとサイガーの人気投票が行われ、負けた方がおはスタを引退するという企画で、ゾナーが負けて本当に引退してしまった。
・3月29日(日)、東京国際フォーラムでミニモニ。のスペシャルイベントがある(モー娘。、ハロプロ公式ページ)そうだ。どうせ親子連れしか入れないんだろうけどね。
今日の「おはスタ」でも現ミニモニ。リーダーとして矢口が出演していたから、ハロプロのコンサート前日に引退を言い渡されたというのは、単なる「ステージ上で」という意味合いが強かったのではないか。
・10年ほど前、バスが転落事故を起こし、崖に宙づりになった親友を救おうとして、一度つかんだ手がすべって結果的に彼を谷底に落としてしまった自分は、ささいなことで異様に気を遣ってパニックになる性格になってしまったようだ。
・「TOKYO1週間」かなんかで連載している倉田真由美の「芸能人評」みたいな1ページものの連載、ものすごい薄い(私が見たのは「松浦亜弥」の回だったが)。くらたまって人はそれなりに才能あるとは思うが、「松浦亜弥の歌って森高千里を連想する」とか書いてて、松浦亜弥と藤本美貴はたぶん森高千里を明確に意識して売り出されていると思うんだけど? これじゃ「モーニング娘。っておニャン子クラブみたいだね」と言っているのと同じだ。
唐突ですが、ちょっと自分のネット発言を今後整理しようと思ってまして、とりあえずオタク論についてとか書くの、やめようと思ってます。自分の中ではある程度目鼻がついたし、二十代や十代の人とツッ込んで話しても、空回りするだけだと思うし。逆に、上の世代の人の方が当事者性というかオタク生成の過程は自身が体験してきていることで説得力があるし。その話は聞きたい。それより下の世代の私には、当事者的な話を書くことはできても「論」的なことに関しては、もうあまりないです。
「網状言論F改」についてはここに感想を書いて、現在でもその感想はほぼ変わっていないのだが、多少考えがまとまってきた部分もあるし、網状言論F改(東 浩紀 編著)Databaseなどというものができていてゲゲーッとか思ったので、追記として書いておく。
・「オタク」の定義は、学問的に厳密にしてもそんなに意味はないと思う
「萌え」などといった鑑賞スタイル、果ては「風呂に入らない」とか「異性にもてず、同性とばかりつるむ」などの生活スタイルもよく言及される(というより、むしろ「オタク」の違和感はそこから始まっていたような気すらするが)が、きれい好きのオタクもいるし、女(男)にモテモテの人もいる。これは本当。
つまり、オタクってのは私はみんなが「なんとなく認識しているもの」程度のものでしかないと思う。それを前提に話を進めず、学問的に定義づけや厳密さを突き詰めていくと、どんどんおかしな方向へ行く。
・あまりにも「政治的」だと勘ぐられるオタク論
しかし、そうした基準を本書のようにあまりに学問的にどうのこうのというと、ちょっと待ってくれと思う(ササキバラ氏も、文中で「78年」は便宜上のもの、と明言している)。
何が言いたいかというと、オタク史っていうのは、はっきりと厳密な結論が出るものではなくて、もっと曖昧で、個人個人の歴史に根ざした、ブンガク的な領域に近いものではないかということ。
・「自分はどうなのよ?」という問題
しかし「オタク」が定義不可能だとした場合、できるのは「内省」と「鑑賞」しかないと思う。そういう意味では、オタク自己言及マンガとか小説とかに、個人的には興味がある。
「網状言論F改」に戻ると、ここまでひねくり回されると後はもう同じ主張の繰り返しじゃないのかな? それと、個々の専門家の学問領域に読者が興味があるかどうかで評価が変わってくると思う。私はあまり、興味ない。
・「薄いオタク」について
そもそも、現在では「オタク」のイメージは二極分化してしまっていて、
むちゃくちゃおおざっぱに言うとこういうことになる。で、「頭いい」定義には「オタク」イメージを高い位置にひっぱりあげようという「政治的意図」があった。私はこの戦略には賛成している。具体的には岡田斗司夫氏の「オタク学入門」がコレだったが、執筆意図も明確だし、それ以前に言及されていた後者の「バカ」イメージだと、どうしても独特の生活スタイルであるとか異性にもてないといった、言及したってどうなるものでもない表現、「クラスにひとりはいるヤツの指摘」レベルにとどまっていたイメージを変え、広げた功績があると思う。
で、ほんっとうに「『萌え〜』とかしか言わない人々」とか、単に知識の少ない人というのは、別に自問自答、つまり「オタク論」の端緒になる考えに行き着かないんじゃないかと思うんですよね。
そういう意味で言えば、オタク史=大衆史のひとつの視点というか。
そして、「薄いオタク」がどこら辺におさまるかは、それぞれの論者がそれぞれの「居場所」を用意しているし、それ自体に議論の余地はあるだろうとは思う。が、「網状言論F改」にそれがあったかというと、ぜんっぜんないと思う。鼎談だって専門用語が悪いんじゃない、どういう問題意識で、どういう方向に話を持っていこうとしているのかというところが、自覚、無自覚別にして読者のオタクたちにぜんぜん向いてない。しかし、そうした批判に対し、私がルサンチマンを持っているからだと批判される筋合いはないと思うんですよね。
まあ、思ったのはそんな感じ。
・余談
また、ハタから見ても「日露戦争なんか舞台にして、まずいっぽいんじゃないの、別にいいけど」的トーンで受け止められているらいむいろ戦奇譚は、「愛國……」の時代と比べてどのような受け止められ方、批判をされているのかとかも、ひとつの比較論にはなるはずだ。まあウチではこのゲームもアニメも見れないんで、とりあえず「ぽりりんネタの使い回ししてる!」みたいな意見しか目にしてないんだけどね。
「オタク論」論なんて辛気くさい文章を書いてしまったので口直し。自分の。
ところで、テレビで見ただけの印象では「ひょっこりひょうたん島」は意外に良かったです。「ひょうたん島直撃世代」と「モーヲタ」は「ケッ」とか思うかもしれないけど、自分、どちらも関係ないスから。「ひょうたん島」、確か再放送がなかったですよね。だから生まれた頃につくられた「ウルトラマン」は知ってても、「ひょうたん島」は知らない。
今回の「ハロモニ。」は、そこら辺にある衣装を使って仮装して優劣を決める、という実にたわいないことをやっていた。しかし飯田のセーラー服はエロかった。しかもランドセル背負っていた。「大人っぽい女性がわざと子供っぽい格好をする」というのがエロジャンルであるらしいのだが、それに近い。
飯田に関しては、デビュー当時はかなりガキっぽいと思っていたのだが、いつの間にかものすごい大人っぽい顔&身体になってた。
「バスがくるまで」は、せっかく終わったと思ったのにまたしつこく復活してきたが、これは安倍なつみを「安倍かわもち」という小学生キャラにしたいからじゃないかという疑念がふつふつとわいてきた。
「かっぱの花道。」は、つじっぱの初恋がテーマだが、いつもの狂騒的感覚はなかった。しかし辻はセリフをしゃべるだけで面白い。
藤本と松浦の漫才である「ハワイャ〜ン娘。」は、面白いように改善されてきている。前半、一瞬神が降りかけた。笑いのではない、「アイドルコント」の神が。でも後半はいつもどおりだった。
「笑い」で思い出したが、雑誌に載っていたブッチー武者のインタビューで、彼の師匠のレオナルド熊がいかに鬼畜な人物だったかが語られ、死人に口なしで真実はわからないとはいえかなりダークな気分になった。
四六判。好美のぼるは、本書によると1960年代に四十代にして貸本マンガ家となり、80年代末までマンガを描き続けた作家。私の知るかぎりでは、B級ホラーやサスペンスものなどを描きまくった人である。
本書は、好美作品の中から5作、解説&作中ツッコミ入りで復刻したもの。
以下は、私の簡単な感想。
・毒香水
実は本書を買ってからけっこう前に読んではいたのだが、あまりにデタラメな内容だったので思い出すのに苦労してざっと読み返した。それでもやっぱりよくわからない。ただ、よくわからないだけに読んでいるときはすごい疾走感を感じる。けっきょく復讐劇となるのだが、仕返しされて顔が溶けていく女の子の顔が恐い。
・妖怪アパート
ナンというか、「悪いことをしたり、怠けたりしているとおばけが来るよ」というパターンのものだと思うが、表現のすべてが極端。文子のわがままぶりと改心してからの豹変は、ほとんどギャグです。
・夜光虫少女
何も考えてない度はかなり高い。いちおう合理的なというか、人間技の範疇の謎があって、スリラーものみたいになっているが構成が(無意識のうちに)ものすごいアバンギャルドになっててトンデモないことになってた。まさしくトンデモ。
・猫魔の辻
まず冒頭、ヒロインの女の子・まゆみの名前がいきなり「なおみ」になっていて軽いジャブを食らう。
他にも、もともと同情を誘うべき子猫が最初っからちっともかわいくなかったり、まゆみの霊がネコの霊と合体し、まゆみがネコ耳付きの霊になってなんだか1周まわってかわいらしくなっちゃってたり、これ以上考えられないほどの驚愕&脱力のオチがあったりと、本当にある意味すごい作品だ。
・殺してよ
おそらく「人を殺人にむかわしめる呪いの剣」というモチーフは古くからあるのだろうし、比較的最近では確かジョジョ第3部にそんなのが出てきた記憶がある。
好美のぼる作品は現在絶版のようだが、復刻貸本マンガそれ以外の同人誌は貸本マンガライブラリー(唐沢俊一「一行知識」ホームページ)で通販で買えるようです。
・エヴァのDVDが出るとか出ないとか、出たとか、ネットのあちこちで目にするが、かなり信頼を置いているオタク系サイトで「ミサトはオヤジくさい女だ」と今さらなことを書かれていてガックリだ。なんでこんなことになってしまったんだ。ドク! 時間を戻してよ!
・「ヴァレンタインデーに踊らされているヤツはアホだ、と言っているヤツは自分が他の局面で踊らされていることを知らないアホだ」というテキストも目にする。
また、食玩フリークのように踊らされているとわかっていて踊らされているのと、それとは知らずに踊らされるのとでは、気分的に違うというところまで現代人、来ていると思うよ。確かに、そこにあんまりこだわるのもイヤラシイんだけどね。うん。そのイヤラシサはわかる。「共同幻想」とか言っててけっきょくモテないヤツとかね。
「『共同幻想』の概念を記憶から消したらモテる」というなら、すぐ消してもらいたいんですけど。そういう問題じゃないんですか。
・t.A.T.u.(タトゥー)
なんで珍しく海外ミュージシャンのことなんか書いているかというと、巡回しているオタク系サイト、およびテクノ系サイト両方でほぼいっせいにこのt.A.T.u.(タトゥー)に関する言及が見られたから。こんなこと珍しいよ。
ンでまァ、公式ページでPVを見たけど、思ったよりピコり度が少ないので個人的には趣味の範疇外。でも、歌手の衣装としてチェックのミニスカートは流行るよ(断言)。うん。dreamの新曲の衣装もチェックだったし。
・NHK人形劇「石の裁判」
人形がインドの壁画みたいな(インドの壁画見たことないけど)エグい顔をしていて当初なじめなかったが、とんち話としても知らないエピソードで興味深く見た。
NHK教育の人形劇には「これは」というものが少なくない。が、「名前が長すぎて川で溺れ死んだ」というラストのはずだった「じゅげむじゅげむ」が、「名前でいじめられてグレたじゅげむが、名前の由来を知って改心する」という話に変えられていたことは書いておきたい。なんじゃそりゃー。
A5判。マンガ家の田丸浩史と、なんかダメ〜な感じの友人たちとのダメ〜な感じの日常を描いた日記風マンガ。「ラブやん」(→感想)でカズフサがやたら肉体改造したがるのは作者の志向もあるんだなとか、集まってくる仲間もマンガを描いてるっぽいけど溜まり場が「おもちゃのさいとう」というモデルガンなどを扱っているところで、バイクとかミリタリーに興味のある人が多いみたいだなとか、そういうことがわかる本。
「飲み会でケツを見せられるかどうかで人間は区別できる」と個人的に思っており、本作の「ヒロシ」とその仲間たちは「見せられる派」のようである。同時に、伊集院光のラジオのネタにあったが「ケツを見せる器(うつわ)」というのが人間には存在する。当然、「ケツを見せられる派」の方が価値としては高い。「見せられない派」の人間は、見せられる派の人間に踏みつけにされて搾取されるほかない。
とはいえ、「ケツ見せられない派」の人間代表である私にも五分のタマシイはある。その五分のタマシイによって言いたいことを言わせてもらうと、本作は作品内で「テキトーだ」というエクスキューズはあるものの、やっぱりテキトーすぎると思う。
A5判。手塚〜トキワ荘ラインとも、劇画とも別の「大人マンガ」というジャンルがかつてあった。その中の名作を選りすぐったアンソロジー。漫画サンデーに企画として連載されていたものがもとになっている。
実は「今のマンガ文化はコドモの文化だからけしからん。今こそ大人マンガの復権を」みたいに大上段に振りかざしたような観点だったら文句のひとつも書いてやろうと思っていたのだが、そんなことはなかった。
「大人マンガ」について本書から受け売りをすると、最も隆盛だったのは1960年前後、衰退期に入ったのが70年に入ってからだという。現在30歳の人間でも隆盛期を知らないくらい昔のことになってしまった。雑誌「漫画読本」および大人マンガ路線だった(後に劇画に路線変更)「漫画サンデー」の隆盛と退潮が大きく影響しているらしい。
「漫画読本」といったマンガ専門書だけではなく、新聞や週刊誌にもこのテのマンガは載っていて、それなりに面白かった記憶がある。が、誌面のビジュアル化によって「活字に疲れた目を休ませて、楽しませる」という役割がなくなったり、劇画があまりにも隆盛したため、現在ではジャンルとしてほとんど省みられなくなってしまった。
本書には書いてないが、重要なのはこうした「大人マンガ」的テイストは、ある時期まで……やっぱり70年代初めくらいまでだろうか、手塚治虫自身、あるいは手塚に影響を受けた人々も「たしなみ」として必須だと考えていたフシがあることである。
想像だけで書くと、「とんちのきいた、落ち着いたユーモア」といったものが受け入れられ、そうしたものを持っているのがマンガ家である、と強く思われていた時代があったということだろうと思う。
それらがなぜ消えてしまったのかについても本書で考察がなされているが、イメージ的にはマンガが「劇画的手法で文学的表現をする」という方向と「子供っぽいことを偏執的に追究する」という方向にものすごい勢いで流れていったからではないかと思う(むろん例外はある)。
そして、「マンガ=子供っぽいことを偏執的に追究する」方向性がオタク文化とかコミケ文化とか言われるものだとすれば、大人マンガは逆ベクトルとなる。
本書収録の作品に関しては、東海林さだお、岩本久則、園山俊二、馬場のぼる、滝田ゆう、秋竜山などが面白かった。とくに園山俊二のギャートルズはいいなぁ。永井豪は「れすらマン」が収録されている。純然たる大人マンガではないが、確かTVマガジンかなんかの読みきりだったのに、なぜか本作を覚えている人は多い。
当ページをどう模様替えしたらいいか、悩んでいる。現状だとどうしてもテキストを読むまでに2クリックしなければならず、どうしたものやらと思っていたから。でも知識不足のためか、どうしてもいい案が思い浮かばないので、だれか教えてください。
さて、本作を第一話だけ見たが、もう正直冒頭からぜんぜんなじめなかった。なんかもうこういう「何が正義かわからない」みたいの、いいかげんやめた方がいいんじゃないかな? どうせ「怨念を持った人々が怪人に変身する」というのも、何のフォローもしないんでしょ? 恋人が目の前で塵芥となった千恵があげる悲鳴は、もはや子供番組のものとは言えないし。
私は、こういう子供向けドラマにおいて、あまりに頑なにベタな展開を続けろ、それ以外は全部ダメだという主張には首肯できかねるが、かといってこれはやりすぎだろう。それは道徳的にどうこうというより、繰り返しになるがカタルシスがないからだ。
あまりマジメに特撮系の感想が書いてあるサイトは巡回してないんだが、批判する人の中では「龍騎」の頃から井上敏樹とか小林靖子(とくに井上敏樹か?)の脚本を問題にする人が少なくないようだ。が、たぶん脚本の問題だけじゃないだろう。勧善懲悪ものを利用してそうでないことを描くのなら、やはりそれなりのバランスというものが必要で、それをこの時間帯のライダーは「クウガ」以外、つくっている人がよくわかっていないとしか思えない。
成年コミック。平凡な女子高生だった土屋奈美は、父の失踪、母の自殺によって莫大な借金を背負わされた。奈美は転校生・山崎竜子の紹介でSMクラブに勤めることになるが、そこで思いがけずMの才能を開花させるのだった。
SMプレイの才能を発揮していくところに、他の女の子の妬みそねみだとか、恋人や妹との確執などがからむ一種の大河ドラマ。ヒロインが次々とひどい責めをくらっていくわけだが、スプラッタ的な気持ち悪さとかそういうのはない。今のソレ系Hマンガにあるヤバさみたいなものはなく、ストーリーや脇キャラクターを重視している点なども含め、一般劇画的と言うことはできる。
その代わり、この作者得意のスカトロ描写はイヤというほど出てくる。なんというか、触覚、嗅覚、味覚に訴える描写が非常に多く、読んでいてちょっと食欲がなくなったりした。
どちらにしろ、読んでいて疲れた。
【関連作品】・「真夜中のアリスたち」 (前、中、後編)(1991〜92年頃(初出?)、1994、ミリオン出版)
(03.0213)
・「POP-ZONE」Vol.3(2002、リイド社)
・「パチスロ7Jr.」 3月号(2003、蒼竜社)
・「雑記その6」
・「歴史まんが 日の丸ものがたり」 著者:岩田亘弘、画:藤原良二(1974、国旗協会)
・「晴れた日に絶望が見える」 あびゅうきょ(2003、幻冬舎)
【CD】・「みんなでフーフー」 早川まみ(2003、テイチクエンタテインメント)
・「雑記その5」
【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(テレビ東京)
・「雑記その4」
・「戦国悪霊剣 鬼夜叉之章」 平野仁(2002、リイド社)
・「戦国悪霊剣 阿修羅之章」 平野仁(2002、リイド社)
・「戦国悪霊剣 乾坤之章」 平野仁(2003、リイド社)
【アニメ】・「わがままフェアリー ミルモでポン!」第47話
【アニメ】・「ななか6/17」 第6話「修学旅行ななか」(2003、テレビ東京)
【アニメ】・「ななか6/17」 第7話「旅行の続きななか」(2003、テレビ東京)
・「雑記」2月22日
・「少女妊婦」(2001、桜桃書房)
【テレビ】・「Matthew's Best Hit TV」 ゲスト:石川梨華(2003、テレビ朝日)
【アニメ】・「わがままフェアリー ミルモでポン!」第46話
・「雑記その3」
・「仔犬ダンの物語」映画興行成績不振
・「雑記その2」
・「網状言論F改」感想追記
【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(テレビ東京)
・「呪いのB級マンガ〜『好美のぼる』の世界〜」 監修:唐沢俊一&ソルボンヌK子(2002、講談社)
・「雑記」
・「最近のヒロシ。」 田丸浩史(2003、角川書店)
・「夏目&呉の復活! 大人まんが」 編著:夏目房之介、呉智英(2002、実業之日本社)
【ドラマ】・「仮面ライダー555」(2003、テレビ朝日)
・「少女『奈美』 第1部」全6巻 三条友美(1992〜93、ミリオン出版)
・「POP-ZONE」Vol.3(2002、リイド社)
マンガとしてはわりと読めるが、徹底的にSFっぽくないのはどうしたことだろうか。「逆・西川魯介」って感じ。
立沢直也にまた戻ってきてほしいなあ。
(03.0118)
・「パチスロ7Jr.」 3月号(2003、蒼竜社)
(03.0227)
・「雑記その6」
どうも貧乏性というか強迫観念で「更新した方がいいのか?」とか思っちゃうんだよね。でも、かといってニュースサイト的なことはやれないのはわかってるしやる気もない。
前から主張しているとおり、少年ラブコメものというのは往年のスーパーロボットアニメの展開と似ているところがある。巨大ロボアニメが、合体するメカの数、変形合体のパターンをエスカレートさせざるを得なかったのと同じことを繰り返している。
まあ赤松健も一筋縄ではいかないマンガ家らしいとは聞いているのでアレだが、とりあえず設定としては驚かないでおこうと思う。
自分の心の中では、「ヒロインが突出してフリーキー」なサンデーの「美鳥の日々」と勝手に対決させてみたりしようと思っている。
(03.0227)
・「歴史まんが 日の丸ものがたり」 著者:岩田亘弘、画:藤原良二(1974、国旗協会)
なぜコレを読んだかというと、もう1冊、「日の丸、君が代」問題についてサヨク的な考えのもとに描かれたマンガ単行本を1冊持っていて、それを読むための基礎知識を養うつもりだったのだ。しかし、こっちもパラパラとめくっているうちに気分が乗らなくなったので、私の日の丸知識は宙ぶらりんとなった。
(03.0227)
・「晴れた日に絶望が見える」 あびゅうきょ(2003、幻冬舎) [bk1] [amazon]
恐ろしいまでに細密な背景と、そこにポーズをとって佇む少女がどれも印象的な「影男」のシリーズは、作者が最近追いかけているテーマ「現代日本に住む『いらない男性』の絶望」を幻想的な筆致で追い続けている作品。単行本タイトルもそのシリーズの1作からとったものだ。
うがった見方をすれば、そのきれいな裏返しが強い、死を恐れぬ女性を主人公にした連作「空の追想」シリーズということになる。
本気で受け止めるとアンチ・フェミニズムおよび戦争賛美とも受け取られかない主張だが、むしろ昭和三十年代後半生まれの独身男性の呪詛を極端にして作品化したもの、と考えた方がいいような気はする。
「影男」は、クーデターが起こっても戦争が起こっても、「秋葉原やコミケに行けないのが辛い」としか考えないヲタクということになっている。現在、オタクのセクシュアリティというと「男のヲタクは妄想の世界で女の子になりたいんじゃないか」といった、妄想内での男女役割の相互浸透みたいな変化の指摘が主流になっているが、影男は「死に場所がないから」美少女にすがる存在として描かれている。逆に言えば「男らしく」生きたい/死にたい。
マッチョイズムがなぜ零落したか、については、本当に作者の言うような「邪悪な勢力」のせいか、あるいはごく常識的に「日本が戦争に負けたので軍国主義的な考えが表向きは遠ざけられてきた」と考えればいいのかはわからない。が、「影男」の希望が「戦争によって戦って死ぬ」ことであると繰り返されているということは、逆に考えれば「戦争で戦って死ぬことが最も男らしい死にざまである」という考えに、影男は平時もさいなまれ続けているということでもある。そこまでは行かなくとも、影男の考える「理想の男」は、有事には間違いなく戦って死ぬ男だ。
個人的意見では、戦争で敵と戦って死ねない人間はどうするのかと思う。腹痛で死んじゃったり、味方の誤爆で死んじゃったり。あと訓練のシゴキの途中で死んじゃうとか。私はそういうのはイヤです。
(03.0226)
【CD】・「みんなでフーフー」 早川まみ(2003、テイチクエンタテインメント) [amazon]
「インスタントラーメン・イメージソング」である。河村隆一のプロデュースで、「インスタント・ラーメンのさらなる需要拡大をねらう」とamazonのレビューに出ていた。曲もたぶん河村隆一。楽曲は、彼がアイドルソングをつくったらこうなるだろうなあというのを想像していただければいいと思う。
作詞はあずままどかという人。本当に「インスタントラーメンの主題歌」といった印象の歌詞で、それ以上でも以下でもない。いくらタイアップとはいえ、アイドルにそれほどへんてこりんな歌は歌わせられないだろうから、結果的には手堅くまとまったという感じでぶっとび度はそれほどでもない。
だが自分は夢想する、「みんなでフーフー ハイパートランスラーメンスキスキMIX」が大音量でかかり、みんなが踊り狂い、インスタントラーメンを食いまくり、行列のできるラーメン屋に中指を突き立て、河村隆一だけがオーザックを食べているユートピアの現出を! 心にもないこと書いてすみません。
(03.0226)
・「雑記その5」
この番組、司会が光浦靖子で、素人の生徒さん数人の中に「アンタッチャブル」の山崎がベレー帽をかぶって混ざっているという微妙空間でした。
スクールエスケイパー(by伊集院光)が、夕方にテレビを付けるとやっている超マッタリ情報番組。とにかくこの時間の高崎一郎は長かった。私が幼稚園くらいからやってたよ。
で、調べたらテレビ東京にも公式ページがない。まあ必要ない気もするが。検索すると、レディス4.com〈ニセモノ〉が一番に出る。ここ、「ニセモノ」と書いてあるけどホントにレディス4について調べてつくってる。世の中拾いなあ。
(03.0225)
【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(テレビ東京)
いや、ぜんぜん好きじゃないんだったらこんなテキストを書きはしない。しかし、ものすごいファンの人たち、なんというか能動的に行動している人たち、まじめな人たちにとっては、自分は中途半端な人間でしかないと思うし、うざったい存在なんだろうなあと感じる。
それ以前は、編曲が淡泊な印象。でも「タンポポ」とかイイ曲あったけどね。「編曲が淡泊」は、80年代アイドル楽曲すべてに感じることでもある(あくまで個人的な印象)。マジな話、個人的には90年代以降のテクノを通過したアイドル楽曲を聴いちゃうと、もう容易に過去には戻れない。
徹底的につくり込んだ人工的ユニットであるにも関わらず、個々のメンバーがそれぞれの役割と同化していて「私は○○をあえて演じています」といった、80年代から続く「あえて感」がないのもかえってイマドキな感じがする。というより、その辺を常にアイマイにするコンセプトが、つんく♂の秋元康との決定的な違いだろう。
秋元は「あえて感」を受け手にバラすことによって、「受け手も『あえて』をわかってます」という一種の共犯関係をつくるのが得意だが、つんく♂は最初から受け手が「あえて感」なんぞというわかりにくいシグナルを発して理解できるとは思っていない。
別の言い方で言えば、夕方のニュースでやってる万引きGメンやホームレス、大家族、片づけられない女、ゴミ屋敷などに興味を示す人々に対して情報を発信している。前にも似たようなことを書いたが、そんな感じである。
「アイドルコントとして前人未踏」がどの程度のことかは、まあ私だけが価値を感じていればいいんです。
加護・辻の異形性については、前にも何度か書いてきたが、とりあえず「アストロ球団みたいな仲間集めのマンガには、たいていメンバーに兄弟や双子が入っている」の法則が適用されたとここでは書いておこう。
「ミニモニ。」として単体のコントコーナーを持っていることからも、その力は最も正統に評価されている。
本来、「うらりんギャル」とか「チェキッ娘」あたりに入っていたらそのキャラだけで頭3つぶんくらいは出られるはずの吉澤が「バランスのいい選手」的ポジションにいるところが、生存競争の苛烈さを物語っている。
それに続くのが矢口。矢口の、ドラマでの演技が不自然なのが気になっていたが、コントではその極端な感じがいい面に出る。本人はそんなことは望んでいないだろうが……。5分間の帯番組「ハローキッズ」は、まさに矢口ワールドになっている。
それと後藤真希。後藤は「他者との関係性の中で魅力を発揮するアイドル」と指摘されていてなるほどと思ったが、まさに関係性の妙で成り立つアイドルコントでも、ふだんの活動と地続きの存在感を出してきている。逆に言えば「何をやっても後藤は後藤」ということになるのだろう。
この人は、本人がニコニコしないで役に徹しきると面白味が出る。「工藤静江」という、工藤静香ソックリの主婦をときどき演じているが、笑わないで演じきることでやや異次元の領域に行ける。今回、最後に我慢できなくて自分で笑っちゃってたけどね。
それと、動きがすごいヘンなのだった。以前から知っている人は知っているらしいが、この人、動きの感覚が他のヒトと違う。工藤静江もサイン書きながら踊ってたし、以前「フラメンコの先生」役のときもメチャクチャな踊りを披露していた。「天然ボケ」という言葉があるが、この人の場合「天然で動きがヘン」だ。
(03.0225)
・「雑記その4」
ヒトと雑談していたら、このHPでななかを16歳だと思い込んで「16歳ななか」と書いていたことが発覚。直した。こうして告白すること自体、我ながら桜の木を切ったと正直に申し出たワシントン並みに正直。いやリンカーンだっけ? ワシントンだっけ? いやリンカーンだっけ?(調べない)
あと【雑記】まあ、いろいろの「zattki」の部分が間違っていたので直した。
たとえるなら、藤子不二雄Aが描くような人物像だと自分で思う。
むしろ人は少なかったのではないか。3人くらいしかいなかった。係りの人、自分、見に来た人で合計3人。それと犬と猫1匹ずつ。そして謎の巨大な神象。
「この神象に触ってはならん!」などと、長老みたいな人が言っていた。これもウソです。そもそも3人というのがウソ。
みんなフィギュア買いに行ったんだと思う。セーラームーンに大殺到(今さら)。いやぜんぜんわかんなくて書いてる。我ながらひどい。
新作の鉄腕アトムはダンゴっ鼻だからイヤだと思う。以下は豆知識。鉄腕アトムと、「ファミレス戦士プリン」を描いているマンガ家とは誕生日が同じ。
(03.0224)
・「戦国悪霊剣 鬼夜叉之章」 平野仁(2002、リイド社)
・「戦国悪霊剣 阿修羅之章」 平野仁(2002、リイド社)
・「戦国悪霊剣 乾坤之章」 平野仁(2003、リイド社)
復讐に燃える朱砂丸は、裏で日本を操ってきた榊一族と鬼道衆の戦いに巻き込まれてゆく……。
(03.0223)
【アニメ】・「わがままフェアリー ミルモでポン!」第47話
戻ってみると、ガビンはいなくなっていた……。
今回、雪の街にさまよい出たガビンを妖精たちを始め楓や結木が探し回る中で、「探すフリ」だけしていた安純に真剣にムカつきました。しかも何の因果応報的措置もとられていなかった。
予想どおり、嵐に巻き込まれたヤシチを安純が異様に心配するエピソードが以前にあり、それによって安純はヤシチを本当は大切に思っていることがわかるが、あまりに単純に描かれたために「いつも悪いことしているやつが、一度だけいいことをすると余計善人に見える」というだけのことになっていた。
つくづく「いつも悪いことしているやつが云々」と、ずーっと前にマンガで描いた島本和彦は偉大だなあと思う。
(03.0222)
【アニメ】・「ななか6/17」 第6話「修学旅行ななか」(2003、テレビ東京)
京都へ修学旅行にやって来た稔二、七華たち。迷子になった七華は、そのショックのせいか17歳の精神状態に戻っていた……。
(03.0222)
【アニメ】・「ななか6/17」 第7話「旅行の続きななか」(2003、テレビ東京)
17歳の精神状態に戻った七華は、ひさしぶりに会って大人になった稔二を見て喜ぶ。しかし、逆に稔二は17歳の七華を「苦手だ」と雨宮に話しているところを七華に聞かれてしまい……。
17歳の七華がことさらに大人になろうとして焦ったのは、幼い頃に母親が亡くなったことと、それに対して稔二が「大人になれ」と励ましてくれたことが理由なのだが、それに対して17歳の七華が「大人になるにはどうしたらいいか」の答えをはっきり見つけられていないところが興味深い。
要するに「魔法少女アニメ」と「幼なじみと交わした約束を成長してからも信じ続ける」という少女マンガのパターンを組み合わせたのが本作の基本設定なわけで、ジャンル内の話になるけれども、少年マンガの少女ものを取り入れて消化していく技術もとうとうここまで来たかという感じ。面白いです。
(03.0222)
・「雑記」2月22日
HPのつくり方的な本も買わずにやったんで、もしかえって見にくいようだったら元に戻します。ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。
もう布団かぶって寝ます。後は自由にしてください。その金塊はあなた方にあげます。それでいつもの牛丼を大盛りにするなり、中古CDを買うとき「700円以下」と自分で決めていたところを700円以上のものを買ってみたりしてください。
泣いた赤鬼より。
まず徹底的なやらされ感。みんな本当に太鼓とか叩きたいのか?
それと異次元的な振り付け。バックで一心不乱にマラカスみたいなものを振っていた女の子が、歌の後半ではマラカスを持たずに、ヴォーカルの女の子の隣で激しく踊る。あれは何なのか? 踊りがうまいから抜擢されたのか? ツインヴォーカルとかいうのはわかるが、ヴォーカルの子と合わせて踊りが二人である意味とは?
でもいいよな。いいよ。新曲のCDの方はREMIXが入ってなくてちょっと損した気分だったけど。
もう布団かぶって寝ます。機械の身体はあなた方のものです。
ボクは純な男子中学生に、誕生プレゼントとして星新一と筒井康隆の小説と、小倉優子の写真集を贈ります。
(03.0222)
・「少女妊婦」(2001、桜桃書房)
いざ読んでみると、怪生物に襲われる、ふたなり娘に襲われる、父親との近親相姦、同年代の男の子との和姦、先生と生徒、兄との近親相姦、ダルマもの、拉致監禁、衆人環視の調教ものと実に多彩であった。Hマンガ特有のお約束的展開が読者の了解として存在するとはいえ、人間の想像力とはすごいもんだなと思った。
(03.0221)
【テレビ】・「Matthew's Best Hit TV」 ゲスト:石川梨華(2003、テレビ朝日)
むしろ「キショイと言われているけど自分ではそうは思っていません!」とつっぱった方が良かったのではないか……と、ここまで書いてて空しくなってきてはいるんだけど。私の実生活に何の関係もないから。
(03.0221)
【アニメ】・「わがままフェアリー ミルモでポン!」第46話
しかし、誤解されたミルモは、激怒したマルモ国王により妖精界へ連れもどされることになってしまう。そこまでやるつもりはなかったヤシチとムルモは、今度はミルモをヒーローとして報道させるように画策するが……。
ヤシチの魔法で楓がパンチラになるシーンがあったが、いくら子供番組とは言えパンツはキッチリ描くべきだ。あれではパンチラとは言えん。パンツ見えてないし。
(03.0221)
・「雑記その3」
下司の勘ぐりをすると「リニューアルってことで、何もやらないと『アイツは何もやってない』と言われるから変えた」、サラリーマン社会ではありがちなこと。でも評判悪いからか、だんだん硬派な解説者とか増えて、今は以前とほとんど変わらない。
そしてタレントの阿部美穂子を降ろして、「癒し感」完全払拭。なんか納得行かない。
わざわざ載せるほどのものでもない気がしてきたけど、人間、毒舌ばっかりで活きられるモンでもないよ。優しさが必要なんだよ。今、爆発的に大流行している言い回しで言えば「ちょボラ」。
私は見ていないが、亡くなった少年の父親がテレビ取材に答え「廃業していただければうれしい」と言ったそうだ。
息子が亡くなったショックを割り引いても、軽率なコメントだったことは否めないと思うし、それを報道したのもどうかと思う。
で、この女子中学生を死なせた教師の学校の校長がその父親にあやまりに行くシーンがテレビであったんだけど、もうむちゃくちゃいばってんだよこのオヤジ。「将来ある子供の夢を奪って……」とか言って。自分のこと完全に棚に上げてんの。夢があるなら家出しないだろーよーとか思った。
でも、それすらもマスコミの報道の仕方でそう見えたのかもしれない、などと言い訳してみたりする。いややっぱりあれはヘンだったよ。
逆に言うと、入れ物が同じだから事件が違っても受ける印象はほとんど同じになる。
死んだ人、殺された人はすべて「いい人」になるし(これはこれで仕方ないとは思う)、政治家と官僚はみんな悪いことやってるし、滅私奉公しなきゃいけないし、スポーツマンは人格者で努力家、一般庶民は常に善良。
(03.0220)
・「仔犬ダンの物語」映画興行成績不振
優香主演「恋に唄えば」が大惨敗だそうだ。興行収入は8000万円。
次に窪塚洋介主演の「凶気の桜」は、興収6億円で「窪塚にしては低調」。
織田裕二主演の「T.R.Y.」も、目標40億円だったのが現段階では12億円程度。
反面、東宝の「黄泉がえり」は予想外の大ヒットだという。
何にしろ、「女の子やカップルが見に行かないと売れない」ということなんでしょうな。いくら窪塚主演だからって、「凶気の桜」をカップルで見るとは思えないし。「恋に唄えば」は「恋愛モノ」をカン違いしたケースなんだろうな……。監督は金子修介だから、見に行こうとは思ってたんだけど。
しかも「千年の恋 ひかる源氏物語」は20億7000万、そして「北京原人」でさえ8億円の興行収入を得ているという! ハア〜こりゃため息が出ますな。北京原人に負けてんだもん。
なんでこんなに日本映画がケナされるようになったか、よっぽどイヤ〜なやつが長い間ドンとしておさまっていたとか、何か歴史的経緯があるんじゃないでしょうか。よく知らないけど。
(03.0220)
・「雑記その2」
本人がスタジオに登場しない別れ方は、なんか後味が悪かった。また別キャラクターで復活するかもしれないけど。
私はテレ東大好きだけど、そのパクり精神もきらいではないけれど、やはりこういうセミドキュメンタリーものには手を出さない方がいいと思う。それは二十数年前に「どっきりカメラ」をパクったときのダメさが証明していたのに。
「おはスタ」では、公開時には秘密とされていた、映画「お菓子な大冒険!」のラストシーンが流されるようになり、新生ミニモニ。のビデオも流されるようになっている。これから、そろそろ新生ミニモニ。が始動していくのであろう。
もちろん、「ステージだからこそちゃんとして欲しかった」というファンもいると思うけど。プロジェクトとしては淡々と進んでいるはずだから、そんなイキナリとか唐突とかいうことはそんなにはないんじゃないかと思う。
あれ以来、ハンドルを握ることができず、いつもバーのカウンターで飲んだくれるような男になってしまった。飲んでいるのはいつもカルーアミルク。げー、酒にミルク入れるなんて信じられねぇよ!
そこに男が入ってきた。そしておれに行った。「おれには必要なんだ。あんたのミクロの指が!」
しかしおれは首を縦には振らなかった。「ミクロの指」なんて持っちゃいなかった(そんなの持ってたらもう少しうだつ上がってる)。
持っているのは昔の「ミニスカポリス」のCDだけだ。
「いや〜、こういうのなぜか買っちゃうんだよね〜」
女の子にウケようと思って出してきたら、「イヤ〜、すげ〜無駄遣い〜、ありえな〜い」と本気で言われた。哀しかった。辛かった。でもミニスカポリスのCDは、捨てない。
しかし、これで世の中通っちゃうということが、おそらくくらたまが人生勝ち組モードに入っているという証拠なのだろう。「普通」と「面白くない」レベルのエッセイを読むとき、それがテキストの面白さつまらなさ以前に、「そこに載っている」ということが一種の権力の証明であるように映ることがある。
くらたまはプロマンガ家なのでその印象は薄いが、しかし「だめんずうぉ〜か〜」で当てなければ、この連載は通用しないと思う(逆に言えば、「当たったから通用する」ということなのだが)。
またBUBKAに書いてください。あとグラビアにも出てください。もう1回くらい。
(03.0219)
・「網状言論F改」感想追記
まず、「オタク」とか「萌え」をテーマにして、本書のように若干抽象的な議論をするのはもう限界だろうと感じた、という考えは今も変わっていない。
それはけっきょく「オタクとは何か?」という問題になっていくのだが、思うにそんなもの、絶対に結論が出るはずがない。なぜオタクの定義に議論百出するのかといったら、それは個人個人の内なる基準に照らしているからではないのか。そもそも、「オタク」というのは「マンガ」とか「アニメ」とか「ゲーム」といった目に見える存在ではない。特定のメディア、たとえばマンガなら発祥が鳥獣戯画か、手塚治虫かなどといった議論や、「最短1コマで物語を表して云々」という定義が可能だが、オタクはそうはいかない。
アニメにものすごく詳しいからオタクか。ゲームに詳しいとオタクか、というと、必ずしもそうではないんじゃないか? 東浩紀氏は「オタク的物件にあまり詳しくない」ということでいじめられたりしているけど、しかしオタクじゃないと言えばそうでもないだろうし。
「おかしな方向」として関連づけられるのは、「オタク論」があまりにもあからさまに広義の政治的な意味あいを持つ、というふうに受け止められると言う点。
これは他のヒトの書評を見ると、うがちすぎだと思う面もあり、そのとおりだと思う面もある。
もともと定義が曖昧なものを叩き台に、さらにそれを「自分たちの世代が発見したものが歴史上、最も重要なのです」というふうに言うから、(私が高校で習ったような)文学史など以上に政治的なイメージになってしまう。
たとえばオタク史のうえでのキーポイントが75年か、80年か、86年か、95年かということは、はっきり言ってものの見方でどうにでもなるレベルだろう。
「目安」としてはいい。たとえば私はササキバラ・ゴウ氏の「1978年が『おたく元年』」という仮説には興味津々である。
だってそのもとになる「オタク」自体がはっきりしていないのに、なんでその歴史の基準点がはっきりするんだ。「網状言論」では、「95年」にはこだわりすぎていないか。
だから自分は当事者性を重視する。本書でも、現場に根ざした意見や個人のルサンチマンに基づいた文章は面白かった。それはその人の中のひとつの歴史だからである。
本書とはカンケイないが、たとえばSFファンダムでディックに耽溺した人もいれば、ものすごくうるさいディックマニアにいじめられて二度と読まなくなってそこから去った人もいたと思う。そういうのがひとつの歴史だと思う。
ある書評で、斎藤環氏の発言について「薄いオタクとしての第一世代の発言で、それは薄いオタクとして尊重すべき」という意見を読んだ。確かにそういう面もあるとは思ったが、それならば彼が用いる精神分析というアイテムはバランスが悪すぎる。
まあそんな展開はありえないと思いつつも、彼がヤマトブームのときにどうしていたとか、ガンダムのときはどうだったとか、そういう話の方がよほど面白いのではないかと思った。
んだから、個人的にはオタク論というのは「自分はどうなのよ?」という問題に終始すると思う。それはもしかしたら、自身の党派性というか、どういう考え方に組みするか、ということに帰結せざるを得ない気がするが、もともと「オタク」という定義自体が本質的にはムリだ、と考えている私からすればそれもまた当然だ。判断するのに客観的な要素が乏しいから。
東氏の説明で、何か自分のモヤモヤがスッキリする人はそれでいいし、そうじゃない人はそれでいい、というだけのことのような気がする。
たとえば「げんしけん」(→感想)は、「ガンダム」放映時に生まれた青年たちの楽しそうなオタクライフを描いたマンガだ。むろん本作がこの世代のすべてのオタクを代弁しているとは思わないけれど、少なくともその断片は切り取っていると思われる。
一方、あびゅうきょはおそらく年齢的には第一世代。彼の「影男」のシリーズは、まあ明確に「オタク」とは言えないものの、アニメやフィギュアなどの虚構世界にすべてを委ねざるを得なかった人間の絶望がややカリカチュアライズされてはいるが、見事に描き出されている。「絶望」なのに、細密な絵を見るのが快楽なのがポイントだ(単行本「晴れた日に絶望が見える」予告)。
最後に、やや長文になるがオタク論に関する文章はしばらくこれっきりにするつもりなので、もうちょっと書いておく。
「既存のオタク論の中には、『薄いオタク』に対する目線が行き届いていないものがある」という書評を読んで思ったことなのだが。
私も一時期「中途半端なオタク(薄いオタク)」について考えたこともあったけど、オタクという定義が曖昧な以上、「薄いオタク」は「濃い一般人」かも知れず、これもまた具体的な人物とか人間集団を描いていくしかものごとは見えてこないのではないかと思う。
・「ものすご〜く詳しい。頭もいい。」
・「ただ『萌え〜』とかしか言わない。バカ。」
後者の「バカ」イメージにおいて、「愛ある視点で」見ていたのがそれ以前の大塚英志氏。今でもそれはそうだと思うが。これはこれで意味があった。
まあ人生のその場その場で「アニメが好きだっていう理由でふられた」とか、そういう悩みは出てくるかもしんないけど、「自分とは何か?」みたいなところに行かないでしょう。そこを問題にするかどうかなんじゃないかと思う。
だって、「オタク」は、ひとつだけ定義できるとすれば「オタクという自意識」、ともすればルサンチマンを伴いがちな自意識に支えられている存在だから。オタクとルサンチマンは合体物だと、私は思っているのでね。
鼎談の中で「愛國戦隊大日本」に関し、発表当時、製作者たちより上の世代のSFファンから大マジメな批判が出たときの顛末がコチョコチョっと書いてあったが、こういうことこそキチンと言及してほしかった。また、本書では「オタク世代は上の世代に対し、反論する言葉を持たなかった」と断言されていたが本当だろうか? という疑問も残る。
(03.0218)
【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(テレビ東京)
しかしこうして書くとまたバカなやつが「佐野史郎の奥さんみたいなファッションのこと?」とか聞いて来るんだけど、もう許せない! あと、少女趣味で自分から嬉々として子供っぽい格好をしているのもダメ。「やらされ感」がないとダメなんだよ! あとは詳しく説明しない。タダでそんなことできるか。
どうでもいいが、安倍の小学生スタイルは飯田のセーラー服とはまた意味あいが違うな。
さすがに「面白い芸を持っていたからわがままだった」みたいなフォローはされていたが、一時期「たけしのオールナイトニッポン」で、レオナルド熊がいかに貧乏かをネタにしていたことがあり、そういえば「ひょうきん族」でブレイクしたわけでもなし、レオナルド熊の「売れた」過程に少し興味がわいたが、まあどうでもいいや。いや、これほどおれにとってどうでもいいこともない。
やはりものごとの裏側は、知らないのがいちばんのような気がしてきた。
きっと北朝鮮では北朝鮮側の発表どおり、みんなにこやかに暮らしているのだろう。
木の根っこをかじりながら。←意味不明な終わり方。「日本の名随筆」に載るね、きっと。
(03.0218)
・「呪いのB級マンガ〜『好美のぼる』の世界〜」 監修:唐沢俊一&ソルボンヌK子(2002、講談社) [bk1] [amazon]
何も考えていないかのような展開ゆえの、先がまったく読めない不思議なグルーヴ感を持った作風を特徴とする……というのも、けっきょくは本書の監修者たるお二人の発掘と再評価に寄って知った知識なんですけどもね。
ある日突然、お金持ちの家の少女・マミ子の元に届いた香水の贈り物……。その香水は、マミ子の友人である雪子と信子の元へも届いていた。しかし、だれが、なんのために……?
家を飛び出したワガママ娘・文子がたどり着いたのは、妖怪たちが棲むアパート。そこで、妖怪にいろいろと押しつけがましい教訓めいたことを言われるのだった……。
オビにある山咲トオルの「道徳の教科書ホラー」という表現は、本作のことを主にさしているんだろうか。
竜神島の漁場で、竜神に襲われ行方不明になってしまった海女である小百合の母。小さな娘の小百合も、また竜神に襲われる。一命をとりとめた小百合は、もぐりの練習を続けるが、やがて身体に夜光虫の光がしみとおるようになり……。
山奥の温泉旅館「奥利根館」で、猫が2匹の子供を産んだ。しかし、この旅館には「3匹の猫は火事を招く」という言い伝えがあった。2匹の子猫は、泣く泣く親猫と離ればなれに……。だが、その奥利根旅館も謎の出火で全焼、母猫も、ネコをかわいがっていた少女・まゆみも死んでしまう。
そして、ライバルの宝川旅館に、まゆみとネコの霊が表れるようになって……!
まゆみのじいさんが言い伝えにしたがって「3匹はいかん!」と言う。それに対し、久夫という青年がまゆみに説明してやる。「むかし、奥利根旅館に火事があったとき、ネコが3匹いただけだ、迷信だ」と。
その直後に久夫は「だけど火事のあったのはほんとだよ(大意)」、そして「奥利根旅館ではネコを3匹飼うと火事が起きるってうわさだよ(大意)」と言う。
おんなじことを1ページで真顔で繰り返す久夫、おまえはまゆみに迷信のいんちきを説いているんじゃなかったのか! 途中から迷信を信じる側になってるぞ!
下校途中、不気味な老婆から謎めいた短剣を渡された加代子。それは、持つと操られるようにして次々と人を殺してしまう呪われた短剣だった。短剣を持ち、人を殺してまわる加代子の前に表れる殺し屋・ピス健。短剣の魔手から加代子を救おうとするピス健と加代子を追ってくる謎の男たち、そして超驚愕の結末……。
本書のラストを飾るにふさわしいブッとび作品。
だから少々タカをくくって読み始めたのだが、後半まさかの超絶的盛り上がり!
今はなき「大井武蔵野館」で、ヘンテケレンなアクション映画を見ていた頃を思い出した。いやこれ本当に盛り上がる。本作は少女マンガというよりもっとアクションマンガ的な感じですね。ピス健の子分・ネコンブもほとんど「忍法」といっていいくらい穴ほりがうまかったりするし。
(03.0216)
・「雑記」
ミサトって「オヤジくさい女」として最初から設定されているんだから、これは「セーラームーンの亜美ちゃんって秀才だよなー」とか言うのに近い。
特筆するとしたら、カップうどんにつくったカレールー入れて「うまい!」とか言うミサトさんが男から見てもかわいこぶってるという意味ではなしに、チャーミングに描かれていたということ。モテないクンの妄想とかルサンチマンとかが、エヴァ女性キャラには意外とない。
確かにそれはそうだが、やはりヴァレンタインデーには「もともとの行事ではチョコを贈る習慣がない」など、豆知識を掘っていくだけで簡単にネタが割れるという底の浅さがあることは否めないだろう。
たとえばクリスマスは、背景となる神話、ツリー、パーティ、プレゼント、雪が降る季節というシチュエーション、葉っぱのついた輪っかみたいなやつ、クリスマスソング、街の電飾など連想するものがたくさんあり、ひとつの大系をなしている。これに対し、ヴァレンタインは「チョコ」で一点突破! 歌は「バレンタインデーキッス」のみ! これでは、行事としてのポテンシャルの低さを云々されても仕方があるまい。
しかも「共同幻想論」もちゃんと読んでません。
公式ページ(英語)。モスクワ出身のティーンエージャー二人組、プロディジーのポップス版だそうだ。プロディジーってあのプロディジー?
ネットだけで見たところ、疑似ズーレーを見た目のインパクトにした美少女ユニットという印象。アルバムの英語バージョンのプロデュースはトレヴァー・ホーンだってさー。って名前忘れてたけど。ザ・バグルズ(「ラジオ・スターの悲劇」)、アート・オブ・ノイズの関係者らしい。アート・オブ・ノイズって、ミスター・マリックの登場曲をつくったグループですよね確か。いや、登場曲のためにつくったわけじゃないけど。
こういうこと言うと大バカものが「チェッカーズみたいに?」とか言うんだけど、そういうやつはフミアートを見て感想文原稿用紙200枚書いてくることを命じる。オマエはチェックのスカートの意味するところが何もわかっとらん。あと、唐突だけど援助交際反対。
たまたま見た。ミャンマー民話だそうだ。
おじいさんの薬を買うために旅をしていた少年が、途中の村で野宿するときに石の下に隠しておいたお金を盗まれてしまう。村人は同情はしてくれてもお金は出してくれない。
すると村長が登場し「石の下の金が無くなったんだから、この石が犯人だ!」と、石を裁判にかけると言い出す。村人は野次馬で、バカげた「石の裁判」を笑うばかり。
しかし、村長は「裁判を笑ったヤツは罰金!」と言い出し、次々に大道芸人みたいに面白おかしく「石の裁判」を展開して、村人が笑うたびに罰金を徴収、最終的には少年が盗まれた金額よりも大目のお金を集めることに成功するという話。
一人だけ明確に少年の味方になってくれる女の子がいて、「笑ったら罰金!」と言った村長がいちばん最初に笑ったら「村長さんは笑ったから、罰金ね」という。素直に罰金を払う村長。みんなに金を出させるためにも、最初に村長が金を出すべきだが、そのきっかけもうまいし、味方の女の子の役割もはっきりしてくる。
他にも「石の裁判」がテーマであるため、何度も何度も石がアップになるが、その絵的なつまらなさを避けるため、石の上にはずっとユーモラスなカメレオンみたいなやつが座っていて、それが石の表情を代弁しているかのような印象を持たせていた。
(03.0215)
・「最近のヒロシ。」 田丸浩史(2003、角川書店) [bk1] [amazon]
そういう意味で言えば、一見ボンクラな人々が集まってテキトーなことをやっている本作の人間集団は、搾取される側の人間でいるようでいて、実は潜在的搾取する側の人間であると自分は思う。
(03.0215)
・「夏目&呉の復活! 大人まんが」 編著:夏目房之介、呉智英(2002、実業之日本社) [bk1] [amazon]
掲載されているのは、東海林さだお、加藤芳郎、谷岡ヤスジ、黒鉄ヒロシ、岩本久則、園山俊二、馬場のぼる、滝田ゆう、久里洋二、古川タク、砂川しげひさ、二階堂正宏、杉浦茂、タイガー立石、秋竜山、矢玉四郎、長新太、横山隆一、杉浦幸雄、佐川美代太郎、高信太郎、みなもと太郎、永井豪。
考えてみれば、現在のマンガ評論家のほとんど全員が手塚マンガ、あるいは手塚から派生したものを持ち上げることで「マンガはすごい」と言ってきたようなところがあり、あまりに強気に出ると自分で自分の批判をしているみたいになってしまう。それに、往時を懐かしがるだけでなく、若い人に読んでもらうことを刊行の主旨としている印象で、解説の文章やイラストはさすがにうまい。時代背景や鑑賞ポイントの指摘なども充実。こういうところで自分の心象風景とか書かれても困るしね。
「大人マンガ」の定義はむずかしいのだが……手塚治虫や劇画の流れとは違い、1コマ、4コマ、8コマ、あるいは4ページ、6ページといった短いコマ数で、簡略化した筆致によってナンセンスな笑いを追究したもの、というような感じか。
むろん、「大人の笑い」というだけならいしいひさいちも山科けいすけもいるが、ここでいう大人マンガとは、笑い、ユーモアの質がまた少し違う、どことなくふんわりしたテイストを持つ作品を指すらしい。
実際、手塚治虫にも大人マンガ風のものは存在するし、「漫画読本」には石ノ森章太郎も1コママンガ風のものを描いていた記憶がある。「マンガ入門」的なものの中にも、大人マンガは1ジャンルとしてページが割かれていた。
やくみつるなんかがコメンテーターで出ているのはその名残だろう。はらたいらがクイズ番組に出ていたのも「とんちがきく」と思われていたからだろうし。滝田ゆうとか福池泡介とかもそうですね。
筒井康隆のマンガも、今見るとかなり奇矯な印象を受けるが、確か「漫画読本」に掲載されていたっけ。あれも「大人マンガ」と考えると、そのタッチに違和感を感じなくなる。
本書の収録作を読むと、大人マンガ的テイストを残したまま、文学的なものを表現しようとしていた人もたくさんいたようだが、全体としての「ゆったりとユーモアを楽しみましょう」という雰囲気が、なんだか時代と合わなくなっていったのではないか。
本書に収録されている大人マンガが、巷のオタク論の多くとは違う方向を向いていることに、興味を感じた。
もちろん、まったくなくなってしまったわけではなく、「大人マンガ」的観点から見られる青年・少年マンガ家もいるとは思うが(中崎タツヤとか、榎本俊二とかはそうなんじゃないかな)、「大人マンガ」を途切れてしまった系譜として位置づけ、再評価してみるとき、逆に現在のギャグマンガや、盛り上がって現在衰退しつつある広義の劇画路線について、また違った観点で見ることができると思う。
それだけ強烈なナンセンスさを持った作品でした。
(03.0213)
【ドラマ】・「仮面ライダー555」(2003、テレビ朝日)
敵側がザンコクで、ヒーローもまだヒーローの自覚ができていないという設定だから、ぜんぜんヒーローものとしてのカタルシスがないんだよね。それに戦隊ものと比べると、全体的にモッタリした感じもぜんぜん直ってないし。
この時間帯の仮面ライダー、視聴者はみんな日曜の朝だからこのテンポを許しているだけだという気がするけどな。朝食とか食べながら、ながら族でちょうどいいみたいな。それを狙っているなら別だけど。
ドラマの中で、「悪人に感情移入して悪いことをしてやろう」とか、「思いっきり残酷なことをしてやろう」とか、反道徳的なことをしてやろうとか、そうしたことも一種のカタルシスだ。昔の永井豪とか、ほんと作品内でヒドいことをしてたような気がする。でもそこが悪魔的な魅力だったんだよな。
子供番組にあるまじき凶悪な敵、かわいそうな敵、やる気のないヒーロー、「何が正義かわからない時代」、大いにけっこう。しかし、最終的な「おとしどころ」はそんなに不明瞭なものではないはず。なんか、第一話だけで見る気なくした。
(03.0213)
・「少女『奈美』 第1部」全6巻 三条友美(1992〜93、ミリオン出版)
ただ、エグさからいったらもしかしたら近石まさしとかの方がすごいかもしれない。本作執筆当時よりは、Hマンガ全体の描写も過激化しているだろうし。そこら辺は議論が分かれるだろう。
「つれづれなるマンガ感想文」2月前半
「つれづれなるマンガ感想文」3月前半
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