つれづれなるマンガ感想文12月後半

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「つれづれなるマンガ感想文」12月前半
「つれづれなるマンガ感想文2003」1月前半
一気に下まで行きたい



・雑記(今年の総括)
・モーニング娘。サスペンスドラマスペシャル
・「週刊少年マガジン」4+5号(2003、講談社)
・「ピューと吹く! ジャガー」(4) うすた京介(2002、集英社)
・「殴るぞ」(2) 吉田戦車(2003、小学館)
【写真集】・「ミニモニ。カフェへおいでよ!」 取材・構成・文:永野ゆかり(2003、小学館)
【書籍】・「何はさておき」 ナンシー関(2002、世界文化社)
・「ぼくとすずなのいた夏」 野田ゆうじ(2002、マガジンマガジン)
【アニメ】・「陸上防衛隊まおちゃん」 第25話「おもひでぼうえい」
【アニメ】・「陸上防衛隊まおちゃん」 第26話(最終回)「今日もゆるゆる防衛です」
・「雑記」
・「ジェット上司」(2)(完結)ながしま超助(2003、双葉社)
・「実録まんが 松本伊代」 芦原しの、協力:ボンド(1983、学研)
【小説】・「ミニモニ。におまかせっ!」(2)あの子の夢を守れ 楠未莉(2002、竹書房)
【映画】・「とっとこハム太郎 ハムハムハムージャ 幻のプリンセス」(監督:出崎 統、脚本:島田 満、2002、東宝)
【映画】・「ゴジラ×メカゴジラ」(監督:手塚昌明、脚本:三村渉、2002、東宝)
・「とっても! ミニモニ。」(3) 永野ゆかり、こやまゆき(2002、小学館)
【書籍】・「矢沢永吉激論集 成りあがり」 矢沢永吉、取材構成/糸井重里(1978、小学館、1980、角川書店)
【雑記】・「まあ、いろいろ」
【小説】・「ミニモニ。におまかせっ!」(1)学園祭はドッキドキ!? 楠未莉(2002、竹書房)






・雑記(今年の総括)

紅白歌合戦も、アントニオ猪木の番組もガッツリ見逃した新田です。ところで「ガッツリ」って最初だれが言い出したの? 「ガッチリ」の間違いじゃないの?(素朴な疑問)
HP開設以来、日記で年末はその年の総括みたいのを漠然と行っているのだが、日記を終了させたのでこっちに書こうかなと。

・HP関連
飽きもせず同じことをやっていたわけだが、方向性としてはあまり悩むことはなかった。テキストサイトは3年くらいが寿命か? という俗説もあるらしいが、ウチはテキストサイトというよりは、たとえばMS少女のHPや映画内で女性がクロロホルムで眠らされるシーンにこだわったサイト、ダムの写真ばっかり集めたサイトなど、「ひとつのことに異様にこだわった変わり者サイト」に近いと自分では思っている。
だから、現時点では「これでもか」と同じことをやるのが大事なのである。
アクセス数もそれほど気にしなくなった。直接「読んでます」とか言われることも、わりとあるから。やっぱりダイレクトに(いい意味での)感想がないとつまんないしね。

・J−POP関連
過去日記を読み返すと、なぜか去年も一昨年もJ−POPに対する興味を年末に書いているので、今年もいちおう書いておく。
「J−POPって面白いんだなあ」という「認識」が衝撃だった頃とは違い、さすがに今年わざわざ書くことはない。とくに当HPで焦って推さなくては、というようなアーティストも見つけられなかったし。でも、コンスタントに面白かった。
ボンボンブランコ、テレビに出ないかなぁ。フルーツポンチは、1回でも歌番組に出られればよかった。同じ局でやってる「MUSIX!」とか、ムリだったのかなあ?(まあ実現しなかったってことはムリだった、ってことなんだろうが)。

・グラビア関連
「胸の大きい、かわいい女の子」から発想が過激化、「とにかく胸が大きければいい」という「リンかけ」の初期から中期へのような劇的変化をした事務所のイエローキャブ。いや、まさに「グラビア界のリンかけ」の現状である。「少年マンガの地平を見てしまった」と一時期言われた車田正美になぞらえれば「巨乳の地平を見てしまった」と言えるかもしれない。
「乳がでかければ、何をやっても許されるのか!」と普通程度に胸のあるタレントから毒づかれかねない根本はるみ。その、あまりにローテンションなしゃべり方に、巨乳幻想から一気に「落ちるかわからない領収書を、好きでもない総務の女の子に見せて懇願している自分」を想起させ現実界に引き戻されるMEGUMIなど、どうにもこうにもな人が多かった。
唯一、小池栄子のみがインパクトを残したと言えるかも。

それ以外では、エロいポーズが常態であるという昨今めずらしい緑川のりこ、ロリロリ路線の小倉優子(実は、私はあまり小倉優子をロリータだとは思っていないんだが)、コギャル路線っていうかあんたコギャルそのものじゃん、の内田さやか、逆に「もしもボックス」でつくった「茶髪のない世界」からやってきたと思われる「小説を読むグラビアアイドル」(大槻ケンヂが自称していた「図書館に行くロッカー」に呼応)平田裕香、せつない系美少女の仲根かすみ、テカテカした巨乳が印象的だった大城美和、腰のくびれが売りで、ねっとりした色気が漂う杏さゆりなどが今年の話題でしょうか。

あと、独自の展開としては謎のコスプレ路線のインリン・オブジョイトイ
卒業組では吉川美穂が気を吐いていた。

・マンガ関連
ベストテンみたいなものは、当HPでは今後やるかもしれないしやらないかもしれないが保留。
広義の「ぶっとびマンガ」関連では大きな動きはなかったように思う。安定した供給はあったが。
ただ、サブカル雑誌などで扱われる段階から、作品そのものを復刻する段階になったと思う。単に主要購買層の年齢が、今そういう時期なだけという気もするが。
SFおしかけ女房においては、企画がとおりやすいのか年の頭に「SFおしかけ」的アニメが乱立(不景気だからか?)。しかし、マンガでは大傑作はなくとも及第点はとれるこのジャンルも、個人的にはよっぽど面白くなければアニメで見続けるのは苦しいな、と思った。
あとは奇怪きわまりない「妹ブーム」などがあるが、その辺のことはそっち方面の専門家の方々に任せます。

・映画関連
そんなに見てないんだが、今年は「スパイダーマン」と「少林サッカー」で、個人的には決まりでした。惜しかったのが「アメリ」と「ジェイソンX」。「ラットレース」も肩がこらなくて良かった。
マンガにおける「物語性」漫画に関するWebページ「OHP」)ということを考えるとき、映画についても思いをはせるのだが、まず「一般的にベタとされる物語」を演出で膨らませていくのか、それとも「いわゆるブンガク的な物語」を「物語性がある」と感じさせるのか、について考えなければならないと思う。
たとえば「スパイダーマン」、「少林サッカー」、「ラットレース」は、いずれもベタな物語だ。単純に言って、勧善懲悪な物語。それに演出の肉づけを行って、初めて活き活きとした話になる。
「アメリ」は、異論はあるだろうがブンガク的な大筋だと思う。そりゃまあ類型化すれば、過去に似たような話はあるんだろうが、とりあえずゼロからプロットを組み立てている感じはする。
「ジェイソンX」は、「ジェイソンシリーズ」のセルフパロディなのでこれはまた別だ。ただし、パロディを超えようとするサムシングが少し、あった。

これらに加えて、オリジナルな不可能状況を設定してそれをいかに打開するかに力を注いだサスペンスもの、推理ものなどは、また別の考察が必要になるだろう。

以上、覚え書きでした。

・おたく論
最近、オタク自己言及マンガというか自虐マンガが静かな流行りみたいになっている。成熟の現れだろうと思う。
合わせて、「オタクの社会化」みたいなことが断続的にクローズアップされていた気がする。「AERA」と「SPA!」は、そのあたりコインの裏表、という感じで。 引きこもりやフェミニズムとも関連していて、個人的にはいまだにホットな話題だと思っているのだが、そうでもないという意見もある。まあそのことはいい。

最近思うのは、「オタク」に対する考えは、十代、二十代、三十代、四十代でぜんぜん違うということだ。これは単に世代間ギャップというだけでなく、そのときどきの社会的立場が違う、ということである。
この「年齢による社会的立場」の違いは、単なる世代間ギャップと違い、理解しあえる可能性はあまりない。
どうしても個人的問題に帰結しがちだからである。

だが考えてもみてほしい、いまだにいわゆる「オタク」で、老衰で天寿をまっとうして死んだ人間はいないのだ。
たとえば浅羽通明の「渋沢竜彦の時代」[bk1] [amazon]では、先人から「オタクいかに生きるべきか」という教訓を汲み取ろうとする努力が見られはする。しかし、やや突き放した言い方をすれば、渋沢竜彦の生はしょせん渋沢竜彦しか生きられないのである。
逆に言えば、自分の生は自分でしか生きられないのであって、それは足が泥沼に浸かっていても天上の星を目指す心情(by松本零士)でがんばっていくしかないのでございます。
そんなに簡単に答が出たら、世話はないですよ。

・まとめ
今年は、ひたすらに人の顔色を見ていた感じだった。人の顔色を見すぎて、日記も閉鎖したし。上記のこととも関連するが、今後はもうちょっと誇りをもってやっていこうかなと思っている。「誇り」といっても開き直りではなくて。人の言うことに謙虚に耳を傾けつつ、一個の人間として矜持を失わないようにしたいですな。
そして、市井のワカイシュの疑問や迷いに答えられるようになればなと。 我ながら大きく出たな〜。でも、もう自分自身が右往左往しているトシじゃないよね。っていうか今後も右往左往はするけれども、それを「みんなはどう思う?」ってこちらから語りかけるようなトシではない。

……というわけで、決意表明も含め、当HPを覗いてくださったみなさん、ありがとうございました。これ書いているときは年は越えているけれども、よいお年を。

2001年の総括

(02.1231)



・モーニング娘。サスペンスドラマスペシャル

公式ページ

12月28日(土)、TBSで放送された、二本立ての単発ドラマ。
三毛猫ホームズの犯罪学講座は、原作:赤川次郎、脚本:稲葉一広の推理もの。

片山義太郎(原田龍二)は女性恐怖症の気弱な刑事。ホームズは、その妹・晴海(飯田圭織)の飼い猫。
F女子学園のセミナー祭り(学園祭みたいなもの)でのイベントのひとつ、「ミニモニ。」のライブ中に生徒が殺されるという事件が起こる。そこで刑事・片山義太郎(原田龍二)は、事件解決の為にF女子学園構内に泊り込む事になる。
殺された生徒の妹・浜野かおり(高橋愛)に話を聞くと、事件には自治会長の宮越友美(安倍なつみ)が関わっているかもしれないと言う。
友美は、理事長である父親の権力をカサに来て、学園内で女王然とふるまっている女性だった。
学園内での麻薬売買の疑惑も持ち上がり、殺人の嫌疑は友美にかけられる。虚勢をはってはいるが激しい孤独を感じている友美を、義太郎は「信じる」と断言するのだが……。

「ミニモニ。カフェへおいでよ!」において、「シリアスなシーンはミニモニ。に似合わない」と言っていた加護さん。しかし、本作の冒頭でミニモニ。が歌うステージの背後から、ワイヤーに吊された女の子の死体が……夢、ぶちこわし!

「本当は巨大なピンクの豚のオブジェがつり上げられるはずだった」というドラマ内設定。豚の代わりに死体。観客がいちばん最初に気づくはずなのに、最初に気づくのは加護さん。しかも背後のオブジェに……。
その後、楽屋で「私たち、容疑者なんですか?」と不安顔のミニモニ。4人。ドラマ内では「素に戻った楽屋での4人」という設定。夢、ぶちこわし!

「演技は苦手」とどこかで言っていた矢口、少ないセリフが異様にあぶなっかしい。
カンケイないが、彼女が自分のことを「オイラ」というのは、ビートたけしのマネだろうか? 実に感慨深い。

そんなミニモニ。は5分で退場。子供たちの夢をぶちこわされて退場。

原作は赤川次郎なんで、プロットは「ふーん」という感じ。破綻しまくりだが、別に文句を言う人もいなかろう。意外な犯人も出てくるし。本当に意外かどうかは、人それぞれだが。最後、犯人が発覚するシーンでホームズが飛びかかる! みたいになると思ったら、ならなかった。その辺がガッカリ。

おれがあいつであいつがおれでは、「転校生」ですね。幼なじみの男の子と人格が入れ替わる。

原作:山中恒、脚本:遠藤彩見。
斉藤一美(吉澤ひとみ)の転校初日。帰り道にある公園を通りぬけていた一美と、同じクラスになった斉藤一夫(勝地涼)は偶然すれ違う。だがその瞬間、突然雷が側にあったジャングルジムに落ち、地面を伝わった雷光がふたりを包み込む。そこで、ふたりの心と身体が入れ替わってしまい……。

演技力について、ネットをざっと見たら賛否両論というか、吉澤ひとみの演技を「うまい」ととるか「ヘタ」ととるかは微妙である。私は、ゼロからやってるし、地に近い役とはいえ、ちゃんとやってると思う。人格転移ということで、斉藤一夫役の青年の女演技がフォローしているところ大だったことは確かだが。

やっぱり特筆すべきは、一夫の妹役の紺野。ファンサイトでは「眼鏡こんこんキター!」とか書いてあって、爆笑したりして、二重に面白かった。
なにしろ、二人の人格転移をただ一人信じ、元に戻す機械をつくるのがメガネに白衣の紺野だというのだから、マンガ度全開で面白い。しかもスーパーマーケットである家の中の通路みたいなところで、ゴボゴボいうビーカーとか試験管とにらめっこしながら研究してるし。
「今度来る雷を利用する」という人格の戻し方、あやしげな装置など、まんま「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のドクだ。その役を少女が担うというのは、マンガやアニメではむしろベタな設定だが、実写で人間が演じると妙にコミカルで面白い。

ドラマ的にも、入れ替わった二人が入れ替わったことによってお互いの気持ちを知るくだりなどは、学芸会的ではあるが、まあ見られた。単純で楽しめた。
(02.1231)



・「週刊少年マガジン」4+5号(2003、講談社)

「つんく♂物語」(完結編)は、読みきり49ページ。もう3回はやってるから、単行本になりますかね。なりませんかね。
内容は、モーニング娘。の初代メンバーに二期メンバーを入れるという思いきったことにふみきったつんく♂と、モーニング娘。内の不協和音から和解、お互いに切磋琢磨するようになるまでを描く。
まあ、ほぼ予想どおりだったが。本作に限らず、よく監督とかコーチとかが選手に試練になるようなことをしてどーたらこーたらという話があるが、いいように言われてはいるが結局「使われる者は使う者に逆らえない」というだけの話ではある。鈴木あみを見よ。あみの両親の怒りを聞け。
「なかよし」連載だったらまだ納得の行く「ライバル意識を育てるために新メンバーを入れた」という大義名分も、少年マガジン、しかもプロデューサー側から描いたんでは納得はいかないですよ。
……まあマガジンだからいいけどな。

音楽のことはよくわからないんだが、「偉大なバンドの歴史はいかにブサイクなメンバーを切り捨てていくかの歴史だ」みたいなことを聞いたことがある。しのぎあいという点では、新メンバーが入ろうが入らなかろうが、同じことなのだ。
……まあマガジンだからいいけどな。
後は何度も書いてるけど、少年マガジンはコマ割りは細かいしネームも多いし、絵柄も独特で非常に読みにくい。マンガ読みながら、読みにくくて泣いた。
(02.1229)



・「ピューと吹く! ジャガー」(4) うすた京介(2002、集英社) [bk1] [amazon]

週刊少年ジャンプ連載。1回がだいたい7ページのギャグマンガ。ミュージシャンを目指す少年・ピヨ彦が、謎の笛吹き男・ジャガーさんと知り合い、もとヒップホップ術講師の忍者のハマーや、アイドル志望であまのじゃくな女の子・高菜(たかな)などを交えてドタバタする第4巻。

前の巻の感想で「忍者・ハマーこそが今後の本作の面白さの重要なカギになる」と書いたが、やはりハマーが異彩を放っている。ハマー関連のエピソードはどれも面白い。

とにかくハマーさんのダメっぷりがすごい。「忍術が流行らないので『ヒップホップ術』と言い換えた」という登場時からそうだったが、自分に自信のない人間のあがきとかダメさを、笑い方向に昇華している。計算して配置したわけでもないような気がするが、「自意識のなさ」がすごいジャガーさんとは正反対の存在。今や、普通人として設定されているピヨ彦よりも、一部読者には共感を呼ぶのではないだろうか。

しかし、いまだにキャラクターが劇画調になったり少女マンガ調になったりするギャグは、ちょっとどうだろう、と思う。これだけしつこく続けてるっていうことは、たぶんそういうのが作者は素で好きなんだろうけど。
(02.1228)



・「殴るぞ」(2) 吉田戦車(2003、小学館) [bk1] [amazon]

ビッグコミックスピリッツ連載の4コママンガ。「伝染るんです。」をやっていた頃は、不条理マンガの代名詞みたいに言われていた作者だが、もともと説明可能なギャグ→不条理な感じのギャグ、と作品のトーンとしてはグラデーションなヒトだったと思う。「伝染るんです。」以前のマンガも、オーソドックスなギャグ寄りだったし。
で、今は何となくカドがとれて(もともと過激な感じでもなかったが)、まあるく親しみやすくなった印象。

何度かこのHPでも書いたかもしれないが、むかーし「伝染るんです。」が流行っていたころ、呉智英が吉田戦車と根本敬を同じ「不条理マンガ」として比較し、吉田戦車には帰ってこれる道が用意されているが、根本敬には用意されておらず、彼岸に到達しちゃっているような印象があるので不条理度としては大きい、みたいなことを書いていた(あくまで大意)。
その指摘自体には間違いはないと思うが、それと面白いつまらないはまた別の話だと思う。本書を読むと、吉田戦車はむしろ「読者が帰ってこれる道」に心をくだいていることがわかる。まあ「不条理マンガ」ばっかり持ち上げる連中をクサしたかったという、呉智英夫子の気持ちもわかるが。

1巻の感想

(02.1228)



【写真集】・「ミニモニ。カフェへおいでよ!」 取材・構成・文:永野ゆかり(2003、小学館) [bk1] [amazon]

映画「ミニモニ。じゃ(THE)ムービー お菓子な大冒険!」(私の感想)のオフィシャルメイキング写真集。
A5判 。コンビニ売りしてて驚いたのだが、「ワンダーライフスペシャル」として出ていて、これは小学館のミニ四駆とかハイパーヨーヨーなどのムックのシリーズ。写真集というより、ファンブックの一種。
撮影現場の写真とともに、出演者5人のインタビュー、ポスター、トレカなどが付いて838円。ライターは永野ゆかり、マンガ「とっても! ミニモニ。」の原作者でした。
個人的には、本書はけっこうイイ仕事してると思います。

なにしろ、映画パンフには5人のインタビューも載ってなかったし、なんか文字量的にも寂しい感じだったんだよね。CGの写真はいっぱい載っていたんだけど。

インタビューにおける「ラストのシリアスなシーンは?」という質問に対し、加護さんのコメント、

「そうですね……。加護的には、あまりオススメじゃないんです。」
「ミニモニ。っていつも元気だから、そういうシリアスなところを全然見せないじゃないですか。がんばったから、ある意味見て欲しいんだけど、ある意味見て欲しくない。
大切なシーンだけど、ミニモニ。らしくないから。……って、何言ってるかわかんないですよね?(笑い)」

っていうのがカッコいいなあ。まあ本当に加護さんが言ったんじゃないとしても、こういうコメントを残したこのムックの製作者はワカッテルと思いましたね。
母体であるハロープロジェクトの改変で、支店(?)であるミニモニ。がアオリを食ったかたちになり、その反映がこの映画ですからね。ああ、ミニモニ。を「支店」って考えると、わかりやすい。映画のラストはお父さんの急な転勤を小さい子供に説明するような感じですね。
他の4人の発言も、虚構としての「ミニモニ。」のあり方をすごくわかっている感じで好感が持てました。ものすごいつくりもののユニットなのに、メンバーにやらされ感がないんですよね。

ヒグチしんじ監督のインタビューでは「ハロー! モーニング」の「『ぴょ〜ん星人』が好きだった」って言ってて、ああワカッテル人がやって良かったなと。

掲載されている写真も、大半がCG合成の映画の、グリーンバックを前にしての撮影というつまらないシチュエーションを工夫して撮ってるなあと思いまして。まあ写真のこと、あんまりよくわかんないんですが。

ミニモニ。関係の書籍の中では、けっこういいです。
(02.1228)



【書籍】・「何はさておき」 ナンシー関(2002、世界文化社)[bk1] [amazon]

2002年6月に急逝した消しゴム版画家・コラムニスト、ナンシー関の単行本未収録コラム集。さまざまな雑誌媒体に発表されたコラムを一冊にまとめている。

「ナンシー関のことはもう書かない」と以前書いたが、死後、新刊が出ちゃったんだからしょうがない。ちなみに文芸春秋から出た「天地無用」も読んだ。
読んでいる間に、「ナンシー関が好きだったタレントを推測してみる」とか「ナンシー関にさまざまなつっこみを入れてみる」などのことを考えたが、全部どうでもよくなった。疲れちゃって。

ナンシー関が的はずれっぽいことになったコラムは何か、ということも考えた。
個人的に、ナンシー関は「そりゃ決めつけすぎだろう」とか「それは言い過ぎだろう」ということが極端に少ないヒトだった。しかし、それは後に私の考えとたまたま合致することが多かった、単なる偶然ではないかと思うようにもなった。
そういったひいき目で見ても、ナンシー関の読者にツッコミを許さない周到さにはかなりのものがあり、勝率では9割くらいは勝っていたのではないかと思う。しかし、少しずつその勝率が微妙に低くなっているのではないか、とも思わせた早すぎる晩年でもあった気がする。ほんのわずかな変化ではあるが、それは着実に進んでいたと思う。そして、たぶん最後の著作である本書で、ナンシー読者十数年の私としてはかなり顕著な「兆し」を発見した。
「みっくちゅじゅーちゅ」とミニモニ。矢口の「ひなまちゅり」に腹が立つ(02年3月)という、「噂の真相」掲載のコラム。「ミニモニ。カフェへおいでよ!」の後に本稿を持ってきたのには、それなりのワケがあるのである。
このコラムでは、サンガリアの「みっくちゅじゅーちゅ」のCMと同時に、矢口が「ひなまちゅり」と歌うと腹が立つ、と書いている。
自分の苛立ちとか腹立ちの分析が異様にうまい作者であるので、「なぜ矢口だとダメなのか」の理由がその後書かれている。
要約すると「ミニモニ。はイコール辻・加護であって、矢口ではない。19にもなって、『ちゅ』はないだろう、『ちゅ』は」ということだ。これはナンシー関の批判の「演出している方はこう見てもらいたいんだろうけど、こっちはぜんぜんそうは受け取っちゃいねぇよ」というパターンのひとつに当てはまる。要するに、送り手の演出と受け取り側のズレを看破するという流れ。こうした彼女の文章のスタンスは、現代人の自意識過剰批判にすら到達するスタイルであった。

実は、このコラムでは「加護・辻のキャラの寄りどころは年齢にはない、この2人には年齢がない」という鋭い指摘もある。五期メンバーが入るにあたって、「辻加護も、自分より若い人が入ってくれば、いつまでもうんこうんことか言ってられないだろう。どうするのか!?」と、一部私のような中途半端なファンに心配されたりもしたが、けっきょくまったく関係なかったのは、2人のキャラが年齢とは関係がないことを証明するものであったと思う。
これは、五期メンバーよりもさらに小さいハロープロジェクトキッズと比較しても言えることだ。

しかし、矢口批判には珍しく違和感を覚える。私は、年末のミニモニ。リリースラッシュで頭がおかしくなってしまったのだろうか。このことについて真剣に考えた。どれくらい真剣かというと、アニメ「ヒカルの碁」でプロ試験を受けているときのヒカルくらい真剣に考えた。そういうところをイメージしてください。

考えた末、やはり違和感は残った。ナンシー関はアイドルに対してはあまり批判はしない。アイドルがトシをとり、アイドルでなくなり、自分の芸能界でのアイデンティティ探しを始めたとき、かっこうの獲物として見ている感がある。「送り手の自己演出、居直り、誤魔化し」などが、その時点で始まるからだ。

では矢口はどうなのか。というと、これがまた微妙である。ミニモニ。を突っ込む上で、ミカではなくあえて矢口をターゲットにしたところは、福本伸行のマンガに出てきた「壺の後ろに隠れていると思わせて別のところにいる、と思わせておいてやっぱり壺の後ろにいた」というトリックすら思い出させる凄みはあるが、それ以上のものではない。
それは、自分がひいき目で見ているからだろうか。と、ずっと考えてみて、やはりここでの矢口批判には違和感がある。
というのは、第一に「矢口はいい大人のくせしてムリしている」というツッコミは成立するのか、第二にミニモニ。は矢口なしでも成立するか、第三に送り手はむしろ「ちゅ」を突っ込まれたがっているのではないか、という微妙な問題があるからだ。
第三の問題については、コラム内で作者は「自分はつんくの思う壺なのか」と言及している。

結論から言うと、どれも本当に微妙な問題である。たとえば秋元康とかとんねるず的な「あえてやってます」という方法論なら、まだ突っ込みやすい。「今さら『あえてやってます』でもないだろう」となるからだ。
が、つんく♂的手法はそういうツッコミに年々手強くなってきている。つんく♂的手法にも「あえてやってます」という部分はある。が、実に泥臭いところもある。巷間でよく言われる「わざとダサさを出してくる」という方法。しかもスノッブな感じがしない、本当に直球なものが混ざっている。
たとえば、ミニモニ。で言うなら、あれだけファンタジックなユニットなのに、珍しく「私たちはモーニング娘。のメンバーとソックリですが別人です」みたいなややこしい設定がない。
慎吾ママも、香取慎吾とは別人ということになっていたし、卑近なところでははしのえみ演じる「女王様」もはしのえみとは別人ということになっている。けれども、そんなメンドクサイ設定などは、つんく♂の頭にはなかったのではないかと思う。

そして、この「メンドクサイ設定のなさ」が、たとえ矢口だけが浮いていたとしても(おそらくこう考える人はあまりいないとは思うが)、「モーニング娘。」という人間臭い集団にミニモニ。をつなぎとめている説得力となって、矢口を「モー娘。」と「ミニモニ。」の介在者として存在理由を与えている。

「鋭い」と指摘した「辻加護年齢関係ない説」も、実は矢口評価と連動している。女性から見てどう思うかはわからないが、男の場合、プレーンに「美少女」とか「美女」というイメージが存在し、それに現実の人間があてはまってしまうのだ(「見た目」の話だが)。その「あてはめ」では、たとえば「少女」のイメージでも12歳くらいから20歳くらいまでは年齢を広げることが可能だ。
小倉優子は18歳くらいだったと思うが「ロリコン」の範疇に入ってしまうし、15歳でも「セクシー系」にカテゴライズされる人もいる。
辻加護は、実はかなり異形な存在であるという指摘は認めるが、同時にその異形性があまり指摘されないのは、男から見ての「少女」という固定イメージの範疇からは逸脱していないからだ、ということになる(それを、男性の想像力の欠如だと批判することもできるが)。もちろん、それが少女の実体であるかというと、それはまったく別の問題だ。

そうした観点で、矢口がとりわけキッツイ存在かというと、別にそんなわけでもない。19歳、見た目、リーダー的役割などをかんがみても、やはりつっこまれるほどのことはないだろうと思う。
「大人が幼児の格好をしている」という激しい違和感は、別にないし、あったらもっと他の人々からも指摘されているだろうと思う。

そんなわけで、ほとんど初めて感じた違和感がミニモニ。についてだというのは何か自分にとって因果な感じがするのだが、ここまで書いて非常に不毛な時間を費やした気もする。

川の流れを抱いて眠りたい(深い意味なし)。

【コラム】・追悼、ナンシー関

【コラム】・ナンシー関その2 「信仰の現場」が今、もたらすもの

(02.1228)



・「ぼくとすずなのいた夏」 野田ゆうじ(2002、マガジンマガジン) [amazon]

成年コミック。B6判。ウォーB組連載。姉弟二人きりで暮らしている、ややシスコン気味の少年・ケンイチに、姉が誕生日プレゼントをくれた。それは、外見は首輪をつけた全裸の女の子ソックリの「メス犬」だった。
どう見ても人間にしか見えない「犬」に当惑を覚えたケンイチだったが、この犬にすずなと名前を付けて飼うことにする。すずなの淫乱ぶり、およびクラスではつまはじきになっている同級生・阿部君のすずなに対する異常な興味に当惑するケンイチ。

一方、旧ソ連特殊部隊を一撃で倒すことのできる謎の能力を持ったケンイチの姉は、ロシアがらみらしい謎の組織に連れ去られて拷問を受ける。どうやら彼女は何かものすごい秘密を握っているらしいのだが……。

雑誌でのタイトルは「ぼくとメス犬」で、単行本化されてタイトルが変わった。まあ原題だととてもじゃないが口頭で注文できないので、妥当な判断だという気はする。 それ以外の理由があるかどうかは、知らない。
海明寺裕さんの「K9シリーズ」を思い出させる出だしだが、作者あとがきを読むとなんだかK9シリーズを知らないっぽい。
内省的で純粋な少年が、淫乱な「メス犬」をあてがわれてその存在自体よく理解できないという設定が面白い。ケンイチとその姉の素性の謎など、物語的なヒキも充分で読ませる(どうも、伝奇アクションっぽい物語になりそう)。しかし、ほとんどの伏線や肝心のすずなの正体などは、何ひとつ明らかになっていない。

月刊誌連載だが、けっこう落ちて載っていないときもあるので進みが遅い。が、続きが気になるのでぜひ完結まで持っていってほしい。

2巻の感想

(02.1226)



【アニメ】・「陸上防衛隊まおちゃん」 第25話「おもひでぼうえい」

今回と次の回で、完結。各話のスタッフ、あらすじなどは「陸上防衛隊まおちゃん研究所」「赤松健作品総合研究所」)内の物語のページに詳しい。

まお・みそら・シルヴィアは、それぞれの宝物を持ち寄って遊んでいた。 まおの宝物は、小さい頃から大事にしていた「クニちゃん」というお人形。しかし、イノシシ型エイリアンが現れて、まおの人形だけを奪って逃げて行ってしまった。
いろいろあったが、第二種装備に変身したまおは、みそらとシルヴィアとともにエイリアンの元に行く決意を固める。 しかし、エイリアンがどこにいるのか誰もわからない。

まあ、感想はまとめて次回へ。
(02.1226)



【アニメ】・「陸上防衛隊まおちゃん」 第26話(最終回)「今日もゆるゆる防衛です」

エイリアンの本拠地がどこにあるのかわからず困っているまおたちの元に、 ゆり子が「紫のユリの人」になって登場。
彼女はまおのバトンを借りると、防衛隊員3人を転送結界で囲み、本拠地へ移動させた。月面基地に到着したまおたちは、そこに今まで日本から盗まれた数々の名所を発見。 そして、露天風呂に入浴中だった銀河大王と接触する……。

悪い方の予想が当たり、グダグダな最終回だった。「グダグダ」をタイトルで「ゆるゆる」と言い訳している。
まあ、ハナっからまともなラストにするつもりなどなかったのかもしれないが。
とにかく、何の問題解決にもなっておらず、風刺としても中途半端。「また、明日からも同じような日常が続くのです」というふうにしてもいいとは思うが、それならば銀河大王とまおたちとのコミニュケーションを和解なり、決裂なり、和解かと思っていたら決裂だったとするなり(このセンがいちばん妥当な気がするが)、きっちり描くことが必要だったろう。

「理解できない敵だと思っていたら、相手にも似たような事情があった」という最終回もベタながらアリではある。が、それならば銀河大王が今までの物語の中で「まったく理解できない存在」として描かれていなければならない。
しかし、本作の面白さは「銀河大王」が「まるでフィギュアのように日本の名所旧跡を集める」という「オタク的価値観」で日本を侵略しているということにあったのだから、そうした価値観に決着を付けなければ面白くもなんともないと思う。

物語として結末はあることはあるが、何も説明していないというヒドイ終わり方だった。
もっとも、オタクにとっては「意味」そのものを拒否するのがいちばん痛烈なやり方なのかもしれないし(たぶんそこまで考えていないと思うが)、続編はつくりやすいだろう。

個人的にはテンポも良く、「飽きさせないで見せる」ということに関してはちゃんとしていると思ったので、惜しいかぎりでした。
(02.1226)



・「雑記」

トップだけ更新するとアンテナが上がってしまうんで、とくにまとめて書くことはないですが雑記。

エスロピIIが開設、ここにおいて、私も投票させてもらった第1回ハロプロ楽曲大賞2002の結果発表
予想外に凝って手間のかかるページづくり、および投票者の感想がまとめて見られるつくりに感心してしまった。ネットの利便性と不特定参加の利点を十二分に活かしている。同人誌にしてもいい企画だな、と思っていたけど、やはり一般投票の年間ベストは早さがものを言う企画であるし。

ミニモニ。カフェが品川プリンスホテルに期間限定オープン(品川プリンスホテルサイト)天上の飛鳥
期間は2002年12月25日(水)〜2003年1月5日(日)だそうです。短っ!(←矢口風ツッコミ)
「ミニモニ。カフェと同じ制服の店員が皆さまをお迎えします。」ということで、市井のカフェ制服研究家のみなさんにおきましてはぜひチェックしてきてもらいたい。
私は、「品川プリンスにいそうな、チャラいカップル」
具体的には、
「今をバブル期とカン違いしている、金満カップル」
「押尾学的、チーマーっつうかコワモテで渋谷をプラプラしているような男とそいつにコマされる女」
に鉄槌を下すため、荒俣宏を高額で雇って(うんちくではなく)その顔の恐さで何とかしようと考えているので、当然行きません。行けるかっつうの。

・「HEY HEY HEY」の特番で、「足でさわって箱の中のものを当てる」というのを安倍なつみがやっててなんかエロかった。素足になったりして。まあ素足が好きじゃない人もいるけど。「G−taste」の作者とか。
さわるたびに「ギャーッ!」って叫んでた。それが本当にすごい叫びだった。なまじのリアクション芸人もたじたじだった。

・で、「リアクション芸人」つながりで、伊集院光のラジオのスペシャルウィークで後輩芸人の「アンタッチャブル」とかも交えて罰ゲーム大会みたいのを何週間か前にやってて、ぜんぜん面白くなかった。こういうの、あまりに無名な若手がやると悲惨でしかないと思うんだけど。
最近、ハガキのコーナーも無意味ネタが減って、イタイ家族ネタみたいのが増えて、イタすぎてあまり面白くなくなってきていると思いました。
リスナーのコメントで「たった今、居酒屋で男友達と、エヴァンゲリオン論争で負けてきました。」というのがいちばん面白かった。

・ピンクレディーのベスト盤を買って聞いている。何でかというと、力学(ちから・まなぶ)と話してて「ピンクレディーの歌詞は、比喩でなくそのものを歌っているからすごい」ということになったのだが、それを確かめようと思って。
「比喩」っていうのは、ポップスの歌詞で「宇宙人」が出てきたら宇宙人そのものではなくて、「宇宙人みたいに理解できない恋人」になるというような意味で。

そうしたら、阿久悠の歌詞は「比喩ではなく、そのもの」というほど単純ではなかった。たとえば「モンスター」は、ピンクレディーが「モスラ」の小美人のような存在となってモンスターを蘇らせ、夜の街を徘徊するというような内容の歌詞だが、3番まで聞くと「モンスター」というのが、誤解されやすい純粋な人間で、普通の人間が迫害者であることの比喩みたいな、そこにまで至るギリギリのところまで行っている。でもはっきりと「これはこういうもののたとえです」と規定しているわけでもない。
他の曲でも、わりと突飛なものを持ち出してはいるが、それが単に好きな男のたとえだったりすることもあるにはあった。が、はっきりとそう打ち出しているわけでもなかったり、純粋にたとえだったとしても、ぶっとびすぎてその中に回収しきれなかったり。

この路線、アニメソングなどでは今でもあるだろうが、ポップス方面で継承してヒットしたものってこれ以降ない気がする。
ちなみに「UFO」とかはまだありがちな恋だの愛だのと宇宙人をからませている歌詞だが、「透明人間」に至ると本当に透明人間の話なのだ。比喩ではなく、本当に「自分は透明人間だ」って言っている人の歌。愛も恋もない。風刺も空振りしてて、まっちょうじきな透明人間の歌になっている。
「カメレオン・アーミー」に至っては、「カメレオン・アーミー」が何なのかもわからない。すばらしい。

・あと、島谷ひとみの行く末が心配だと思った。一発屋になる危険性アリ。それと、彼女の前髪は長すぎる。いつ切るのか。もう切らないのか。

・なんかマズい写真が雑誌に載ってしまった藤本綾はどうなるのか。すいません、この人、よく知りません。人と話していて、藤本綾と間違えて「平山綾」と言ってしまったんだけど、この人もこれからどうするのかと余計なお世話だが思った。
なんで「いいとも」に出ているとき、いつも真冬にスキー場でかぶるような帽子をかぶっているのかと思った。
以上。

(02.1225)



・「ジェット上司」(2)(完結)ながしま超助(2003、双葉社) [bk1] [amazon]

週刊漫画アクション連載。

バブル期に大手広告代理店でブイブイ言わせていた男・浅野W。彼は不慮の事故で昏睡状態となってしまい、ふとしたきっかけで11年後の現在、蘇った。
しかし、バブル期のイケイケ感覚から社内でデタラメをやりまくり、とうとうリストラされてしまう。かつての部下・斎藤の家に転がり込んだ浅野は、行列のできるラーメン屋に弟子入りして「巨乳ラーメン」をつくることを構想するが……。

くだらない。とにかくくだらない。こんなにくだらないマンガはひさしぶりに読んだ。ちなみに「くだらない」は当HPではホメ言葉だ。最上級の賛辞だ。
私が最近目にしたコメディ映画、漫才、コントなどと総合しても究極的にくだらない。(わたし的には)モノスゴイ作品である。

まず、当初の「10年前のバブル感覚の男が、現代でデタラメをする」という、やや風刺がかった基本ギャグがどこかへ飛んでいってしまっている。社内でいまいちで、浅野に影響を受けてCMディレクターに成長することを若干におわせた部下・斎藤は完全に脇役に回り、ただの浅野を養うだけの存在になってしまう。
この作者の女性キャラとしてはめずらしく巨乳でない斎藤の妹・かすみは、何のために出てきたのかわからない存在になってしまったし、浅野に店を破壊された巨乳美女・奈津美が新キャラとして登場、斎藤の家に転がり込んで共同生活を始めてしまう。

そもそも、リストラされた段階で「上司と部下」というテーマ(?)もほぼ喪失。作品の人気が今ひとつで路線変更が行われたと勘ぐることもできるが、「ラーメン編」に入ってからのエピソードもムチャクチャで、まともな「ラーメンもの」にしようという気など作者にはまっったく見られない。
浅野は最後までラーメンづくりを覚えないし。

途中から、ラーメンのことしか頭にないブサイクな店長が童貞だった、という話ばかりが広げられるようになり、浅野と店長が二人三脚でスケベでバカなことをやるマンガに変貌。
浅野念願の「巨乳ラーメン 浅野屋」は開店するものの、あれよあれよという間に最終回を迎え、驚愕の結末、ジ・エンドとなる。

ちなみに、斎藤のCMディレクターになる夢がどうなったかも、いちおう描かれているところが完全にお話を投げっぱなしにしない作者の良心か。

まぁこれに勝るくだらない(繰り返すがホメ言葉だ)マンガも、探せばあるのだろうが、どこか作者の知性を読者に提示するものか、逆に「安易」という意味でくだらない展開になるケースが多い。
が、本作はいちおうストーリーがあるにも関わらず、くだらない。さらに、知性は読者側には隠されている。たとえば小林よしのりの「最終フェイス」や「異能戦士」から、徹底的にテーマと、知性と、作劇上のツジツマと、意味を取り去ったら本作のようなテイストになるかもしれない。

かつての小林よしのりも、相当な「バカ」な「くだらない」マンガを描く人であった。が、その発想の叩き台には、知的な部分があった。倫理観と言ってもいいか。その知的な部分、およびきまじめな部分を異常発達させて、現在の彼の作風があるのだと思う。
本作にはそうした要素がまったくない。近来、これほど何も考えていない主人公も珍しい。いや、何も考えていないギャグマンガの主人公はいる。だが、ギャグやボケにはツッコミが入らなければ成立せず、そのツッコミのレベルによって、昨今のギャグマンガは「知的」な要素を読者側に提示せざるを得ないわけだ。
「浦安鉄筋家族」すら、オチに収束していく流れには毎回、「考え抜かれた」印象を残す。

ところが、本作は唯一のまともな人間・斎藤が大幅に後退していったせいもあってか、暴走が止まらなくなり、途中からはだれ一人まともな人間はいなくなる。しかし、それが「アナーキー」とか「ラジカル」とかいうのでもない(そういうギャグマンガも好きだが)。
単に、登場人物全員がアホで脳天気なのである。

とにかくバカすぎる。本当にこの作者の描くもののナンセンスさは、突き抜けている。

・1巻の感想

(02.1223)



・「実録まんが 松本伊代」 芦原しの、協力:ボンド(1983、学研)

80年代に存在した学研の「アイドル・コミックス」というレーベルの1冊。他に「堀ちえみ」、「原辰徳」、「荒木大輔」、「タイガー・マスク」、「アントニオ猪木」などがある。プロレスファンの中の好事家な人々にも有名なシリーズである。

本書の、凡百のアイドルマンガとの最大の違いは、強力な「公式」テイストにある。
幼少の頃の写真を載せたり、本人のインタビュー記事や片手間に描いたイラストなんかも載せる。ヒット曲の歌詞、年譜、伊代ちゃんのお料理教室、部屋の間取りまで載ってる。両親や兄弟、マネージャーなんかも実名で登場。とにかく、資料的に詳細で、アイドルマンガというよりはムックに近い。
現在のアイドル雑誌「BOMB」(同じ出版社)の巻頭特集の方法論に酷似しているが、同じヒトがやってたかどうかは知らない。
マンガ家自身のコメントも載っていて、何となく好感が持てます。

内容については割愛しますが(ええーっ!?)、デビュー曲「センチメンタルジャーニー」が印象に残るチョコレートのCM以前に、バラエティ番組「たのきん全力投球」でトシちゃんの妹役に選ばれた方が早かったとか(知らなかったよ)、いろんな情報が得られます。
私が松本伊代で思い出されるのは、以下のようなこと。

・「オールナイトフジ」の司会だった(忘れてたけど、そうなんだよな)。
・「伊代ちゃん、今度本出すんだって?」と聞かれて「まだ自分でも読んでません」と答えた。
・島本和彦が大ファンで、伊代ちゃん体形のキャラクターをマンガに登場させたり、特撮雑誌「宇宙船」で「好きな特撮番組をイラスト入りで描く」というような依頼のとき、伊代ちゃん主演の「ピンキーパンチ大逆転」について書いていた。
・「コムサデとんねるず」という番組で、松本伊代ファンクラブの、かなりアブない系のファンの人たちを集めてとんねるずの二人がいじっていたとき、たいしたフォローもせずに「いいんです、この人たちは」と言っていた。

……などの数々の逸話を残す人ですが、それはまぁ本作が出た後のことですね。
いちいち説明すると(まあ私もそれほど詳しくないんだけど)、

・「オールナイトフジ」の司会だった松本伊代は、確か短大に通っていた。当時は、アイドルも大学に行くとなんとなくステイタスが上がる時代だったのだ。現在、アイドルの学歴などはだれも気にかけないと思う。東大くらい入れば別だろうが。
・「まだ読んでません」は、本当かどうかわからないが松本伊代というキャラクターを説明するのに便利な話である。この逸話は「バカ」というより「細かいことに頓着しない」ということを表している。なぜか松本伊代は、アイドル時代からいい意味で「松本伊代にはある程度ぶっちゃけてもいい」という雰囲気があった。
・島本和彦が大ファンだったのも有名な話で、「松本伊代をいかに好きか」をハガキに書いて送るというラジオのコーナーで毎週読まれたりしていた。……というか、「風の戦士ダン」に巨乳の女の子が出てくるけど、イヤイヤ描いてたのかなあ。
・「ピンキーパンチ大逆転」は、松本伊代と柏原芳恵がピンク色の衣装のスーパーヒロインに変身して敵(確か俳優の志賀勝)と戦うという、30分のバラエティっぽいつくりのドラマ。「タケちゃんマン」にゲスト出演したりしていた。「ロリータ星からやってきた」という設定だったらしいが、当時の主演二人がロリコンの対象かというと、当時からすでに違っていたような気がするが。
やっぱり午後7時代にやってたというのがイイね。今なら深夜とかになっちゃうだろうけど。
・とんねるずの番組でのファンに対するコメントも、「冷たい」とか「性格が悪い」とかではなく、「さばけている」というような印象。余談だが最近、桜井智の大ファンが集まってゲームをするような番組があって、見ていて痛すぎて死んだ。

あと、個人的にいまだに思い出すのは、生の公開放送で、松本伊代が「チャイニーズ・キッス」を歌っていたとき、テープが飛んできて、顔に当たりそうになった。伊代ちゃんはそれを反射的によけて、その後も何食わぬ顔をして歌っていたこと。
あれ、ホントに見ていて危なかった。顔面直撃になりそうだったもの。
昔はよく、歌手が顔にテープが当たってケガをする、という事件があったが、最近はテープ投げちゃダメなんでしょ? まあそういうライブってほとんど行ったことないからわからないんだけど。

などと、今回はダベリみたいンなって、おしまい。
(02.1222)



【小説】・「ミニモニ。におまかせっ!」(2)あの子の夢を守れ 楠未莉(2002、竹書房) [bk1] [amazon]

小説。B6判。「ミニモニ。文庫」シリーズの第2巻。毎月下旬に1冊ずつ、刊行するそうだ。表紙や口絵はコゲどんぼ、本文イラストはあまぎゆう。

・あらすじ
テレビ番組で、重い病気にかかっているが手術はしたくない少女を励ますという企画が持ち上がった。その少女、神谷絵美を元気づけるために、ミニモニ。の4人は病院へ行くが、絵美は心を閉ざしてしまって彼女たちの説得にも応じようとしない。絵美は、母親ともうまくいっていないようだったが……。

・感想
あまりにもベタベタな出だしだが、本書の対象年齢のことを考えると普通なのか。しかし「ベタだなぁ」と思っていると、お話がどう転んでいくかだんだんわからなくなる。
たまに推理小説で「まさかこんなにあやしいやつは犯人ではあるまい」と思っていると、作者が素でそういう人間を犯人に設定していて、逆にまったく見破れないという事態が起こるが、本シリーズも2作読んだかぎりではそんな感触だ。
小説としてのテクニックがそんなにはないために、だれが悪人でだれが問題を抱えていて、という焦点が絞りきれないままお話が進んでしまう。

しかし、お話が収束し始めてからはものすごく早い展開になり、ストンと最後にはおさまってしまうという力わざ。だから先が読めない。本作も前作も、そんな印象を受けた。

陰陽師みたいな謎の技を使う教師・結城正義は、なぜか今回からミニモニ。のマネージャーになっている。人語を解するオウムのオウちゃんも健在。
ちなみに、今回は辻が主役で、前回が矢口だから、メンバーが持ち回りで主役を演じるのだろう。

本文イラストのあまぎゆう氏は、プロフィルで「モンスターデザインを担当」と書いてある(モンスターが出るようなお話なのです)ので、もしかしたら合議制みたいな感じでストーリーを決めているのかもしれない。そう考えると、非常にまとまりのよい結末にも納得が行くのだが。

巻末には辻の直筆(?)メッセージ付き。字体とイラストがすごい。現代っ子、って感じ。

なお、ミニモニ。関係のマンガ以外の書籍ではミニモニ。サンタのクリスマスという絵本があるが、これだけはカンベンしてほしい。だって絵を見ると、もう原型をとどめていないくらいオリジナル化してしまっているから。この人たちは、だれですか……?
(02.1221)



【映画】・「とっとこハム太郎 ハムハムハムージャ 幻のプリンセス」(監督:出崎 統、脚本:島田 満、2002、東宝)

公式ページ

テレビアニメ「とっとこハム太郎」の劇場版第2弾。「ゴジラ×メカゴジラ」と併映。

ハム太郎の夢の中で助けを求める、美しいハムスターのお姫さま。
ハム太郎は、夢の中の姫のことが気になって仕方がない。そんなとき、ハムスターのふるさとである砂漠に囲まれた「ハムージャ王国」にハムちゃんずと行くことになる(なんか神秘的な力を使って、公園の砂場から行く)。

行ってみるとにぎやかなハムージャ王国。しかし、数千年の眠りから覚めた魔法使いの猫(名前忘れた)にシェーラ姫がさらわれ、むりやり結婚を迫ろうとしていた。
ハム太郎とハムちゃんずたちは、お姫さまを救えるのか!?

……ここにも「ミニハムず」が出てきて、なんか最近ミニモニ。ばっかり私の行く手に現れてちょっと気がおかしくなりそう。目を閉じるとオレンジのチェックの幻が見える。
お話自体は、前回のことを思い出すとたぶんあってないようなものなんだろうなと思っていたら、やっぱりあってないようなモノだった。
ただ、画面はむやみとにぎやかで、歌もミニハムずの歌以外に何曲も出てきて、画面から楽しさが溢れている。ちょっと「子供をいかに飽きさせないか」という命題に、脅迫観念的に取り憑かれているような印象だ。
次から次へと目をひく出来事を展開させて、つなげてみるとつじつまが合わないという点ではマンガ「バキ」みたいである(本当にそう思う)。

だから、お話のつじつまなんてあんまりない。ただひとつ言えるのは、シェーラ姫はヤな女だということ。それと、悪人のキメどころが少なく、結果的にグダグダになっている。
悪を悪として描かないのは、最近の傾向なんだろうか???
(02.1220)



【映画】・「ゴジラ×メカゴジラ」(監督:手塚昌明、脚本:三村渉、2002、東宝)

公式ページ

ゴジラ来襲から半世紀近く経ったある日。千葉県房総半島沖に、2匹目のゴジラが上陸した。特生自衛隊員・家城茜(釈由美子)は、操縦するメーザー砲を搭載した車両を、仲間の車両に激突させ、崖下に転落させてしまう。その車はゴジラに踏みつぶされ、中にいた隊員は死んでしまった。
自責の念にかられた家城は、資料部かなんかに転属され悶々とした日々を過ごす。

日本政府は、人工生物学者の湯原徳光(宅麻伸)を始めとする、日本有数の科学者達を召集。そして、ゴジラを倒すため、機龍(メカゴジラ)開発へと着手した。
4年後、ついに機龍は完成する。機龍隊に転属となった家城は、ゴジラへの復讐を誓う……。

うーんとですね、基本的に嫌いな映画ではないんですよ。特撮のことはよくわかんないけど、ゴジラも、メカゴジラもよくできてると思うし。お話も単純で、肩が凝らない。

ただ、ものすごく気になったことがあって、宅麻伸の小学生の娘が、幼いときに母親が死んだために「命」にすごく敏感だという。で、サイボーグであるメカゴジラに対して同情する。
ここら辺で釈由美子とのやりとりがあって、天涯孤独だった家城(釈由美子)が、この女の子に「存在しなくていい命なんてない」とか言われてハッとしたりする。

ここでひっかかってしまって、クライマックスを見ながらも、ちょっと気になってしまった。
「ゴジラ」とか「ガメラ」では、こうした「命の大切さ」みたいなものが何度かテーマとはいかないまでもちょろっと出てきたりするが、そんな悠長なこと言ってていいのかよ、みたいに思えて仕方がない。
そもそも、家城と女の子のやりとりは、孤独で自分しか頼る者がいない自衛隊員と、母親の死を忘れることができない(オジギソウをいつも持ち歩いていることでそこら辺は表現されている)女の子とが、お互いに影響しあって成長していく、という点を描きたいのだろう。
が、それとゴジラをブチ殺さなければならないこととはまったく別問題なのではないか?

たとえば「仔犬ダンの物語」は、微妙にびんぼうな人たちが集まって仔犬を助けるという話だった。映画としてのデキは難ありだとは思うが、つじつまは合っている。「みんなで助け合って生きていこう」というのがテーマだからだ。そこに仔犬が加わっても、基本的に支障はない(余談だが、「仔犬ダン」の主人公の女の子の両親の離婚の間接的な原因が、両親ともが経済的に自立している点にあるのは死ぬほど皮肉な話である)。
しかし、ゴジラやメカゴジラに同情することに何の意味があるのか? ゴジラやメカゴジラに人権はあるのか? たぶんないと思う。
平成ガメラ3でもそうだったが、こういうテーマ、すなわち何か(今回は生体サイボーグであるメカゴジラ)を犠牲にする代わりに、何かを守らなければならないという問題提議は、基本的に娯楽映画にふさわしくないと思う。どう議論したって、だれかが犠牲にならざるを得ないからだ。

まあぶっちゃけ、私自身がいい怪獣映画の観客ではないということは自覚している。どっちかがはっきり正義か悪じゃないと、感情移入できないんですよね。怪獣映画って、基本的に善も悪もないから。
そういう意味では、思いっきりメカゴジラを善にして欲しかった、と思うのは、私のワガママな要望なんだろう。

ネットをざっと見たら、クライマックスの戦闘シーンがあまりに「あんたバカ?」などのセリフが飛び出す某アニメに似ている、という評判だった。そう言われれば、なるほど似ている。しかし、指摘されるまで気づかなかった。
「あのクライマックスシーン、カッコよかったよねぇ」とか言ってマジボケしなくてよかった。いや、ホントにカッコよかったんだけどね。メカゴジラ。
まあそれだけ、私も「逃げちゃダメだ」とか言ってたアニメにはあまり思い入れがなかったということなんだろう。などとトボけてはいるが、本当は後から気づいて、冷や汗タラ〜リだったのだった。
(02.1220)



・「とっても! ミニモニ。」(3) 永野ゆかり、こやまゆき(2002、小学館) [bk1]

・いきなり関係ない話
実は、アイドルマンガについての同人誌をまた出そうと思って準備しているのだが、もう間に合いそうもないくらいのところまで来ている。ギリギリ。
今回、積ん読しておいたマンガがかなりあり、プライベートでムカつくことも重なって大変なことになっている。
今頃、オフセット印刷の人はもう入稿済んでるわけでしょ? いいよなー、くそー。搬入もラクそうだし……。これからまた寒いコンビニでコピーしなきゃいけないかと思うと、いろんな、天地宇宙万物の真理を含めて、死ぬ。

間に合わなかったらスイマセン。でも今からネガティブなことを書くけど、間に合わなかったら「ごめんなさいペーパー」みたいの出したいじゃないですか。それなりに。
でも、そういうのだってつくるのにそれなりの手間がかかるんですよね。だったら同人誌をきちんと完成させろという。

もう、こうして書いているだけでもなんだかダークになってくるほど私って情けない、タマナシ野郎なんですけど(自虐、自虐史観)、まあ笑わば笑え、っていうところですよ。でも本気で笑われたら凹むと思うなー。

今、25歳以前に知り合った人間(親戚などを含む)の中で、グーでぶん殴ってやりたいヤツが3人はいますね。温厚な私には珍しいことです。でもホントにぶん殴ったら、手をケガしてしまうと思いますけどね。「成りあがり」の感想も、クールぶって書きましたけど読んでてかなり凹みましたね。
はっきり言って、こういう思想って若いうちしか通用しないんですよね。
こういう考え方は、かなりポップな領域で手軽に手に入る。
ところが、こういう思想でつぶれちゃうと、後はそれに変わるものが急速に手に入りにくくなるんですよね。
だから、短絡的にマルチとかカルトに行っちゃう人がいるんだろうけど。

変な言い方だけど、頭が良くてマジで世直ししようという人がいたら、「成りあがり」的思想からこぼれ落ちた人をどう拾うか、っていうことを考えてほしいですよ。
まあ解答を出している書籍はいくつもあると思うんだよね。でも、そういうのってマルチとかカルトに行っちゃう人には届かないようにできてる。
マツモトチヅオの元に集った人って、言い方は悪いけどことの善し悪し以前に「センスないなあ」って思うのは、たぶんある種の「思想の流通ルート」みたいなところからはずれちゃってるんじゃないかと思うからなんですけどね。

まあもっとぶっちゃけると「ある種の思想の流通ルート」に身を置いている人々が、それだけで自分を選民だとカン違いしちゃってる状況っていうのもあるわけで。
そんなのさあ、たとえば大学行ってれば学問的な言葉には常に触れられる。
でも、それだけではダメだと思うんですよね。それは当たり前の話なんだから。何がダメなのかはわかんないけど。

話がそれちゃいましたが、それだけ精神的に疲弊してるってコトで。ひとつよろしくお願いします。

・本編
話を戻すと、来春リーダーの矢口が卒業するミニモニ。も、矢口在籍時の確実に利益が見込める頃に稼いでおこうというハラか、あるいはきたるミカのリーダー就任、高橋愛加入、ハロープロジェクトキッズ混ざりーのの準備を整えておくためか、いろんなもののリリースラッシュである。

本作は、小学一年生、二年生、三年生、四年生連載。実在のアイドル「ミニモニ。」を主人公にしたマンガ。
「ちゃお」に連載されているもりちかこの「ミニモニ。やるのだぴょん!」が、メルヘンチックな内容なのに対し(映画「お菓子な大冒険!」の基本設定は、この「やるのだぴょん!」に近い)、本作はあくまでも「人気ユニットのミニモニ。」が騒動を起こしたりするという、どちらかというと現実に近い内容になっている。

お話は毎回のトピック、新曲が出るとかアルバムが出るとか、映画の撮影が始まったとか、メンバーのだれかの誕生日であるとか、そういったことを題材に進んでゆく。

ちょっと他のインタビューなどをチェックしていないんでウラをとっていないんだが、実際のメンバーのコメントを元にして描かれたとおぼしき話もある。「ミニモニ。の春はどんな春? でごじゃいます。」では、加護ちゃんが小学生時代、自分の赤いランドセルと友達のピンクのランドセルを交換したことがあるとか、ミカがハワイで島ごとのプリンセスに選ばれたことがあるとか、矢口がお年玉を5月まで残して置いて、ゴールデンウィークに友達と旅行に行ったことがあるとかいったことが描いてある。

別エピソードでは、矢口真里の実在の愛犬「クッキー」も登場する。まったく創作された話もあるし、虚実ないまぜという感じです。

巻末には「ミニモニ。プロデュースまんが ミニモニ。のお店へようこそ!」が載っている。どこまで本人たちが考えているのかわからないが、非常にシュールな内容。無重力の雑貨屋さんで、風船ガムを膨らませて身体を空中に浮かせて品物を取るとか。

1巻の感想

2巻の感想

(02.1220)



【書籍】・「矢沢永吉激論集 成りあがり」 矢沢永吉、取材構成/糸井重里(1978、小学館、1980、角川書店) [bk1] [amazon]

ロリコンを理解するためにナボコフの「ロリータ」を読破した私は(それが役に立ったかどうかは別として)、今度はヤンキーを理解する一助として本書を読むことにした。

矢沢永吉は、「ヤンキーの聞く音楽」をつくる最も有名なミュージシャンだと思われるし(ロック一般からの評価は浅学にして知らないし、他にツッパリ御用達のミュージシャンがいたらぜひ知りたい)、またその「生き方」に影響を受けた人は、ヤンキー以外にも多いのではないかと思われる。

で、読む前は実はけっこうバカにしてたんですよね。もう立身出世した人間の言うことって決まってるから。プチ成功した社長の本ってたいてい面白くないでしょ。
ところがねえ、これがけっこう読める。私が考えるその理由は、箇条書きにすると以下のとおり。

・矢沢永吉の言葉遣いそのものが個性的である(今でも、よくモノマネされるような感じに加え、表現が面白い)
・そうしたヤザワ語録の、構成者(糸井重里)の意図的なセレクト
・悲惨な苦労時代をユーモアを交えて描く
・いわゆるセックス・ドラッグ・ロックンロールとは正反対の、一般人もマネしやすいような人生訓を含む

矢沢永吉がロック史でどのような位置付けなのかは、すいません、よく知らない。それに、これから書くことは現在から見ての後出しジャンケン的な感想なのだが、本書が刊行された78〜80年当時の「重さ」と「軽さ」を同時に表しているところが面白い。

矢沢永吉は昭和24年生まれ。この世代で、彼と同じかそれ以上の貧乏を体験している人は少なくない。ねちっこく書けば、悲惨で読んでいられなくなるだろう。
青年時代になってからも、書かれている内容は、重い部分が多い。裸一貫で横浜に出てきて、徒手空拳の状態からバンドを築き上げていく過程。能力のない者はバンバン切っていって。才能のある者とサクセスしようとしていく。

しかし、全体を通して独特の「軽さ」、ユーモア感覚があるから、悲惨だったり泥臭い感じがない。いや、むしろ著者は「泥臭さ」をアピールしたいとも思うんだけれど、どこかにスコンと突き抜けたところがある。

要するに、70年代の泥臭さと80年代の軽さの中間に位置しているように感じる。
ここからパロディ色を付けていけば80年代に「横浜銀蝿」になって、もっとパロディ化していけば「アラジン」になる。逆に、時間をさかのぼってもっと泥臭くすればアニメ「さすらいの太陽」とかになるんじゃないでしょうか。

80年代半ば、私が通っていた代ゼミの古典の講師がよくこの本を引き合いに出して生徒を鼓舞していたけれど、この本、よく読むと受験勉強とか否定してるんだよね。もう冒頭から。
だけれども、「闘争的ストイシズム」という観点では予備校の先生が参考にしようと思う部分もあったということなんだよな。

60年代後半から70年代という政治の季節を通り過ぎていながら、ぜんぜん、まったく政治についての発言がないのも特徴。「それどころじゃねえよ」っていうのが本音だったろうし、だからこそ、時代が変わり始めた70年代の終わりから読まれ始めたんじゃないかという気もする。ちょっとうがちすぎな考えかな、とも思うんだけど。
(02.1218)



【雑記】・「まあ、いろいろ」

ある問題定義について、抽象的に自分なりの考えを書くのはむずかしい。オリジナルの問題定義を提示しないと何の話だかわからなくなってしまうことも多いし、何より「あれって、私の意見について書いたの?」と見当違いな方面からレスポンスが来ることもあるからだ。
だから、これから書くテキスト内だけで、私の意見は完結していなければならない。
以下のテキストは、私が複数の巡回先で読んだことについて、思ったことを書こうとしたもので、特定の何かに当てたものではない。

その1
まあ私はある種の理想郷のようなものを夢想していて、それは本当にあるのかもしれないし、ないのかもしれない。

たとえば、オタクとかマニアと一般人の幸福な関係は何だろう、と考える。
超メジャー作品なので、「エヴァンゲリオン」を例に取ると、実は私は本放送のときはほとんどこの作品を知らなかった。ただ、始まる際、秋葉原とかがただならぬ雰囲気になっていた気がする。看板が溢れていたりして。スタッフや設定などを事前に見ていれば、私も興奮しただろうと思う。もっとも、これは実際の作品を見た後付けの夢想かもしれない。

同作は、単純に人気作であったろうし、また問題作でもあったのでたちまち一般人に広まった。「いいとも!」を見ていたら、タモリさえ知っていた。
一種の話題作だったため、たいていのアニメオタクはその存在を知っていたと思う。
しかし、確か同時期には「ナースエンジェルりりかSOS」がやっていたりした。
「エヴァ」放送時には、当然エヴァだけではなかった。意気込みのある人は、そういうのもぜんぶチェックして、判断を下す。そういう人を、ヒトはオタクとかマニアとか呼ぶ。

「普通の人」は、その辺チェックなどしない。話題ならば見てみようかな、ぐらい。私は映画マニアではないのでその辺よくわかるが、「スパイダーマン」とか「少林サッカー」などは宣伝攻勢と口コミで見に行こうと思う。「アメリ」も話題作ということで見に行った。他の、何だかよくわからなそうな映画とかは、あまり見に行かない。
だが、そうした作品群が「話題作」として降りてくる前に、他の駄作も凡作もすべて、なめるように見ている人が存在する。その努力の恩恵を、おそらく自分は知らない間にこうむっているはずだという感じはある。

ただし、そういう人になれるか、目指せるかとなると話は別だ。才能と環境が必要だからだ。
昔も、こういう人はたくさんいたと思う。マンガ「エスパー魔美」で、魔美が遊びに行くたびに、自慢のオーディオの音を聞かせようとするはた迷惑なヤツが出てくる。オバQでは、大量の本を持っていながらぜったいに貸したがらない「本山シミ夫」という少年が。
彼らが、いいオーディオについて、面白い本について、一般人から聞かれるときも、まあたまにはあったのではないかと思う。

ただ、能力差には顕著なものがあったかもしれない。「村一番の力持ち」みたいなものだったから。他の人々との能力差を比較するのがむずかしいし、またその必要もなかったのではないか。
そして「本当にすごい人」は、全国的に腕試しをして、それを生業とした。

オタクとかマニアという人がいて、ものすごく大量に細かい情報をチェックしている。彼らはとりあえず、好きでソレをやっている。彼らのコミュニティ内での総意もあるだろうし、議論もあるだろう。
一般人が、その情報群の中から特定の好みでチョイスしたいときに、オタクとかマニアの人々の情報が活かされる。一種のソムリエみたいな感じ。現実にはそれほどスマートではないが、専門家と一般人の間にいい環境が築ければ、それは理想郷。

たぶん、映画やミステリ小説は、そのあたりの関係が昔からうまく機能しているはず。
SFは、ちょっとむずかしくなってしまった。「スター・ウォーズ」を見に行く客が必ずしもSFを読まないと言う意味で。
アニメはそういう関係が成り立っているか、浅学にしてわからないが、「目利き」のような人は何人もいるような気はする。
マンガは、そもそも昔からソムリエ的な人材を必要として来なかった。その理由はいまだに私にとってナゾだが、売り上げと面白さがシンクロしていた、あるいはシンクロしているという幻想があったということと、口コミに頼っていたようなところがある。

今ちょっとひらめいたが、「なんとなく面白い」というレベルの作品を大量供給できるジャンルだからではないか、という気がする。
映画においてエド・ウッドが「史上最低の映画監督」に選ばれるようなタイプの、超駄作というのは生まれにくいシステムになっているのかもしれない。
だから、駄作を読まされて大激怒する人などはあまりいない気がする。名作は忘れられないが、駄作は怒られもせず忘れられるというのが、マンガのジャンル的「特殊事情」かもしれない。

感覚的な話だが、マンガを読み続けていると、たまに映画を見に行って、その「ハレ」な感覚にビックリすることがある。日常からのジャンプ力がものすごいのだ。マンガは、日常に非日常が染み出していく感じだ。

その2
さて、クラスや職場に「詳しい人」がいて、その人が一般人が触れられないレベルの作品数にあたって、ソムリエ的、あるいはそれ以上の役割が果たせれば理想的かな、と書いてみたんだけれども。
「オタク」の存在を認めるか否かという議論の端緒は、「そういう、全国大会に出られないレベルの人間を、そのままにしていていいのか」というような問題だったはずだ。
もうそんな議論から20年くらいが経つが、ぶっちゃけると「おさまるところにおさまるしかない」というのが現実的なところだろう。オタク問題でいったら、オタク的属性以外にひとりの人間にはいいところや悪いところがたくさんあり、いちがいにどうこう言うことはできない。
オタクですらなく、目的もないフリーターもけっこう増えているらしいし、問題は別のところにあるような気もする。

もうひとつは、オタクの摂取する本や映画などの「量」が果たして妥当なものなのかどうかということだ。十数年前に、確か大森望が「クズ本ばかり徹底的に、大量に読んでその道の大家になってしまう人がたまにいるが、シロウトはマネをしない方がいい」とどこかに書いていた。私もそんな気がする。
ただ、確率的に言えば、人間というのは「好み」というのがあるので、小説ならばヒット作を10冊読むのと、クズ本が混淆した状態で10冊読むのと、どちらが「面白い」という感覚をより多く味わえるのかは微妙な問題のような気がする。
経験上、クズと言われるようなマンガ、中途半端なマンガもずいぶん読んだし、ハズレも多かったが、かといって「人気作」、「一般的に評価されている作品」を同じ数読んでも、感動の量に激しい差はなかった気がする。
そもそも、マンガ雑誌1冊読んで、気に入った作品が3本あればいい方だろう。それがどんなに大部数のマンガだとしても。

人間には「好み」という不確定要素があるため、確率的なことは実はあまり当てにならない気がする。

その3
話はすっとぶが、マンガそのものはともかく、マンガをめぐる言説はこれからだ、と思っている。
理由はいろいろあるが、マニアの方向性みたいなものがやっと見え始めている。
ちょっと前なら、マンガマニアはたいていのものをフォローしていた。少年マンガも青年マンガも少女マンガも。今は、ほとんどの人にはそれはムリだ。
この状況は、言論をタコツボ化させる危険性もあるが、多様化に向かっては通過しなければならない点だろう。

マンガの歴史は、70年代の時点でまだまだ浅かった。この頃にも優れたマンガ評論はいくつか見られたとは思うが、いかんせん、今後どうなるかまったくわからない状況だった。
異論はあるかもしれないが、現在、マンガも息詰まってきているような気はする。
が、それは振り返って、今までがどうだったかを見直すことができるということだ。
それと、ジャンルの細分化。ある程度の歴史と、細分化が進まないと、どうもならんという気がするのだ。

アニメーションは考えようによってはマンガ以上に歴史は古いかもしれないが、「宇宙戦艦ヤマト」あたりからとするとマンガほどの歴史はない。が、「個人で容易にはつくれない」という点において、それをめぐる言論が充実していった、という経緯は確実にあるだろうと思う。
マンガもいざ描くと大変だが、個人作業だということもあるし、何よりジャンルそのものが若かった。歴史が若いと、わざわざ歴史を読み解く必要もない。

その4
ここからは、さらに意見が分かれるかも知れないが、評論とかレビューとかの場合、まず書き手の思想が第一にしっかりしていなければならない。全面展開する場合もあるし、小出しにする場合もあるだろうが、無思想な評論なんて聞いたことがないし、また何も考えてない人間の書くものは、単なる紹介文の域を出ないし、またその紹介文にもどこか生気がこもらないものである。

以前、大槻ケンヂも村上春樹も、「語りたいことがないのに語るにはどうすればよいか」ということで悩んだ青い時期があったというが、そういう若者が、ただ「語りたい」というだけで心にもないことを書いても、そこにはぜったいその人間の「思想」が入り込んでいる。

まったくの、純粋情報みたいのを得たい人をオタクはいやがるでしょう。たとえば何の興味もないのに、ある会社の株を持っているからといって「そこの商品は売れるか売れないか」を聞いてくる人間がいたら、イヤだと思うし、少なくともタダでは教えんぞ、とか思う。
それは、私にとってはその人の「思想」がほんの少し現れた瞬間ではないかと思う。

それを大前提とした上で、自分の言説がいったい大状況の中のどのレベルのものであるかは、自覚しておいた方がいいに決まっている。
自分の言説がどの位置にいるかを計るのは、私個人はそんなにむずかしいことではないとは思っている。
「コップの中の戦争」はそれなりに楽しいものだ、という逆説もあるが、「自分がいるのがコップの中かどうか」を認識するのも勉強のひとつだろう。

重要なのは、何度か書いてきたが、何かについて語る(この場合は「オタク的なことについて語る)にあたって、「自分の居場所を確保できるか」、ひいては「幸福になれるのか」が、最終的な言説の基準になる(と私は思っている)ということだ。

現在、オタクのいる場所は充分に確保されている、と考えている人と、そうでないと考える人の間では考え方は分かれるだろう。

なぜここまでややこしいことになってしまったかというと、文学史における「三島由紀夫の自殺」みたいな区切りがオタク史の中ではまだまだ明確ではない、若い議論だということがいえるのだが。
「だれかが自殺しろ」って意味じゃないよ当然。

オタク論で言えば「オタク」というフィルターでモノを通して見るか、見ないかという多分に恣意的な作業が必要になってくるのが、議論を面倒なものにしている原因だろう。
それに輪をかけて、マンガ史に区切るとまだまだ不完全な印象があるのが問題を複雑にしている。

しかし、マジメに物事を考えれば、そこら辺はいずれ明らかになっていくとは思う。

そうとうまとまりのない文章になったが、言いたいことはいちおう終わる。
(02.1217)



【小説】・「ミニモニ。におまかせっ!」(1)学園祭はドッキドキ!? 楠未莉(2002、竹書房) [bk1] [amazon]

小説。「ミニモニ。文庫」としてシリーズ化される予定らしい。文庫と銘打っているが、B6判なので書店の児童文学のところで買った。ちなみに、表紙や口絵はコゲどんぼ、本文イラストはあまぎゆう。

最近、私がミニモニ。づいているのは、「アイドルマンガ特集」の同人誌をつくるために、毎日せこせこ読んでいるため(でも風邪ひいたらできないかも)。本作はマンガではないが、ミニモニ。商品展開の中では見過ごしにできないと判断し、読んだ。

・あらすじ
コンサート中に、ステージ上からブレスレットを落としてしまったミニモニ。の矢口真里。メンバーも含めて探し回るが見つからない。それを見つけて、届けてくれたのがファンの小学生・永瀬舞ちゃんだった。

しばらくして、新潟に住んでいる舞ちゃんから手紙が来る。自分の通っている学園と、お兄ちゃんの様子がおかしいというのだ。
すっかり彼女を妹分だと思っている矢口は、休みを利用して新潟まで行ってやろうと決心する。しかし、故意か偶然か、舞の通っている学校の学園祭への出演依頼が来て、渡りに船とそれを承諾するメンバー4人だった。

学園にはさまざまな人物がいた。どこからか舞い込んできては矢口にまとわりつく人語を解するオウムのオウちゃん、舞の兄・幸生、幸生の親友・加賀、優等生の女の子・伊集院雅、ミニモニ。に学園祭出演を依頼した謎めいた教師・結城正義。
物語は前半、謎が謎を呼ぶが、学園祭当日、伝奇アクション妖魔退治モノ的展開として一気にスパークする。

・感想
典型的なライトノベルという感じで新味はないものの、ミニモニ。のメンバーがファンタジックではあるがシリアスな事件に巻き込まれる、という方向性は今までなかったし、またこのテのものは映像化などで金もかかると思うので、小説の形式がぴったりだろう。
いきなり難を言うと、ミニモニ。以外の人物描写が食い足りない。伏線に乏しく、「過去にどんなわだかまりがあるか」などの説明がぎこちない。ミニモニ。のメンバーが潜入する学園祭前日の学園内も、ゲームの「なんとかんとか殺人事件」をプレイしていていろんな人に話を聞いて回るような感じで、キャラクターの小説としてのキャラ立ちが乏しい。
人物描写が荒いので、たとえば「加護」と「加賀」とか、「雅」と「舞」などの字ヅラだけで混同しかねない。まあ読めばそりゃわかるんだろうけど。

が、ラスト近くのクライマックスで「巨大化したカブトムシに乗って空を飛ぶ敵を、同じく巨大化したオウムの背中に乗って追いかける矢口真里」というのが面白かった。まあ実在のアイドルが主役の小説で、こうも飛躍しているものもそうはないだろう。
力道山が、映画でターザン役をやったとかいう話を思い出す。

巻末には矢口の直筆(?)感想文付き。

なお、2巻「ミニモニ。におまかせっ!(2) あの子の夢を守れ」は早くも21日発売と言うことである。著者は同じく楠未莉氏。
(02.1217)

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