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「つれづれなるマンガ感想文」5月後半
「つれづれなるマンガ感想文」6月後半
一気に下まで行きたい
S-Fマガジン1月号に掲載された短編小説。「歌丸大将軍」という、まあ「葦原将軍」みたいな輩がいて、だれかに自分がやっていることを尊大に語って聞かせている。それによると、歌丸大将軍は「なぎら健壱の『世界平和』」を守るために、ウヴェクンヴァ族と戦っているのだという。
当HPでレビューを書いた「テクノ番長」、sawadaspecial.comさんにリンクされてから、あちこちで取り上げてくれた。率直に嬉しい。
成年コミックの短編集。「まんが愛!姫」、「ピアスクラブ」などに掲載。
さあ 愚かなる堕天使達よ
当HPでレビューを書いた「テクノ番長」、けっこうネット上では話題になったみたいで、ひさしぶりの「ぶっとびマンガ電子版」更新としては嬉しいかぎり。
12回日本トンデモ本大賞決定! 当日のお客さんたちの投票によって決まる賞。詳細はこちら。そして大賞は「歯は中枢だった」村津和正に決定しました。
第62話「キンタとポンタ」(6月7日)
とつぜん、グルミの村に「ほころび穴」が出現。その穴にすいこまれたキンタの弟分・ポンタは、人間界に落とされて行方不明になってしまう。おなじく、ほころび穴から人間界へやって来たキンタは、ミルモたちと協力してポンタをさがすことになる。
7日はトンデモ本大賞東京大会。於:日暮里サニーホールでした。私はその中の「と学会エクストラ」という「ふだんの例会を壇上で再現するコーナー」で、他の方々に混ざって7分間、トンデモマンガについて壇上で発表しました。
一時期、けっこう夢中になって聞いていたが、最近急速に醒めてきた。
6月8日放送分。
今回は日記風に、マジに日常生活について書いてみたい。
月刊少年マガジン連載。「修羅の門」などの川原正敏の作品。私立聖(セント)パラダイス学園中等部の宮崎ちひろは、純情可憐な学園のアイドル。しかし、偶然ワルガキの司馬新作にアソコを見られてしまい、そうなった以上、司馬と婚約しなければならないと思い込む。
ハロープロジェクトの矢口真里(モーニング娘。)、石川梨華(同)、里田まい(カントリー娘)、斉藤瞳(メロン記念日)、アヤカ(ココナッツ娘。今回はいなかった)が、「セクシーマチコ先生」(ナレーター)の指導によりセクシーさを身に着けようという月〜金帯の深夜番組。
6月1日放送分。
第60話「ムルモはわたちのもの」(5月24日)
今日こそムルモに想いを伝えようと誓ったパピィ。しかし、いざというところで毒づいてしまい、ムルモからすっかりきらわれてしまう。そんな時、突然2人の前にアクミがあらわれ、ムルモがつかまってしまった。
第61話「危険なリサイタル」(5月31日)
沙織のフルート・リサイタルが公会堂で行われることになった。そんな時、ふとしたことからミルモが沙織の指にケガを負わせてしまう。責任を感じるミルモに対し、だいじょうぶだと強がる沙織。ミルモは、そんな沙織に好感をいだく。そしてリサイタル当日。ミルモと楓が心配そうに見守る中、沙織の演奏が始まる……。
【映画】・「マトリックス リローデッド」 監督、脚本、製作総指揮:ウォシャウスキー兄弟(2003、米)
【ほぼ日刊バカ日記】
【小説】・「歌丸大将軍の砲兵隊〜又は「なぎら健壱の『世界の平和』」 深堀骨(2003、S-Fマガジン1月号、早川書房)
【雑記その6】・「テクノ番長」レビューその後・その2
・「性癖 −このみ−」 きいろ猫(2001、東京三世社)
・「ボボボーボ・ボーボボ」(9) 澤井啓夫(2003、集英社)
【雑記その5】・「テクノ番長」レビューその後
【雑記その4】・「第12回日本トンデモ本大賞決定」
【アニメ】・「わがままフェアリー ミルモでポン!」第62話(2003、テレビ東京)
【雑記その3】・「トンデモ本大賞」と学会エクストラ発表
【雑記その2】・「J-POP」衰退中?
【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2003、テレビ東京)
・【雑記】飲めなくなった、みんな実写になればいい
・「パラダイス学園」全3巻 川原正敏(1985〜86、講談社)
【テレビ】・「セクシー女塾」、セクシー世紀セヴァンゲリオン(2003、テレビ東京)
【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2003、テレビ東京)
【アニメ】・「わがままフェアリー ミルモでポン!」第60話(2003、テレビ東京)
【アニメ】・「わがままフェアリー ミルモでポン!」第61話(2003、テレビ東京)
【映画】・「マトリックス リローデッド」 監督、脚本、製作総指揮:ウォシャウスキー兄弟(2003、米)
公式ページ。それにしても非常にわかりにくいページだ。
あらすじを説明すると、すべて1作目のネタバレになってしまうのでしない。
結論から言うと「金満CG・限界効用逓減の法則」がはたらいてしまっていると思う。
CG、アクション、ともにすごいのだが、何か物足りない。すでに「スパイダーマン」や「少林サッカー」を経験してしまった観客にとっては、本作の映像はイマイチだったのではないか。
CGに費やされるカネやヒマは素人にはわからないので予想だけで書くが、今回のいちばんの見せ場はカーチェイスシーンだろう。ものすごいカネとヒマがかかっていそうに見えた。
が、個人的にはイマイチだった(しかし、カーチェイスシーンの最後の最後のシーンはすごかった)。
そう考えるとアクションというのはむずかしい。「少林サッカー」で、主人公がなにげにサッカーボールを的に蹴り続けているシーンだけでも見ていて何か嬉しくなった。前作の「マトリックス」では、弾丸をえびぞりでよけるシーンをみんながマネした。そういう「楽しいCGアクション」が、今回はいまいちハジケていない。
「予言者云々」のもったいぶった会話を「ウザい」と思う人もいると思うが、前作からここら辺は一貫している。私はここら辺のくだりは皮肉でなく楽しめた。
もともと、第1作目の「マトリックス」という映画自体、映像感覚というか観客の視覚に新しい何かを植え付けた作品であるとは思うが、「カッコいい作品」であるとは私は思っていない。はっきり言って、ダサい。
「虚構と現実」というテーマでいえば、「未来世紀ブラジル」や「ブレードランナー」の方がよほど洗練されているだろう。
だから、本作「リローデッド」において、仮想現実とか、機械と人間の関係についてまじめに論じるのはバカげているとまでは言わないが、その点に関しては最初から新鮮味がないのだから、今さら云々してもしょうがないと思う。
問題は、観客がどんなにすごいシーンでも「どうせ架空世界の話なんだろ」と「すごさ」を実感できなかったり、1作目でのネオとスミスが空中に静止したまま拳銃を撃ち合い、それをカメラがグワーッと回転して撮る、そうした新味のある「CGアクションのワクワク感」を提示できなかったことだ。
それにしても、本作の結末は山田正紀作品などでも別役実作品にも目にしたことがあり、もはやSFでの「お約束」になっていてかえって嬉しくなってしまった。
あとキー・メーカー最高。キー・メーカーのフィギュアだったら買うかも。モーフィアスのフィギュアも買って、部屋を「いいオヤジ」で飾ってみたい。
(03.0615)
【ほぼ日刊バカ日記】
なんだよ! 今日アバレンジャーやらないのかよ! あばれてやる!
今ここに宣言しておきますが、もう即売会でコピー誌出しません。だって面倒くさいから。
「キンコーズ」というすごく便利な機関を発見した(遅い)ばかりだけれども……。
なんか寂しいもん。手に持つと。
でも、まあもともと高品質な、優れたデザインワークの本などつくれないのは自分でわかっているんで、オフセットでもよく言えば手づくり感、悪く言えば「おいおい素人かよ」な本づくりをしていきたいと思います。
ところで思い出したけど、学生時代にコピー誌を、本来右綴じのものを左綴じでつくって、しかもボツにしないで配ってたヤツがいたけど、さすがにそこまでいいかげんなことはできませんけどね。
後は、今後の人生で文化的なことから徐々に離れていこうと思います。そして「王様のブランチ」の「ディズニーナビ」というコーナーを見て、ディズニーランドに行った気になることにします。
それにしてもなんだよ優香の司会は! 無難すぎるんだよ! ……と、自分が王様にでもなったような気分でダメ出ししてみました。これが本当の「王様のブランチ」だね。
あと「ブランチ」で笑えるのは、姫さまのお買い物のコーナーで、ほんっとにどうしようもない店を紹介することがあるんだよね。「安けりゃいいだろ」っつって、センス最悪な家具とか売ってる店とか。「自分たちはセンスいいと思ってる田舎夫婦」が寄る店というか。田舎夫婦ってイイな。田舎料理みたい。
とにかく、もう見ててぜんぜん行きたいと思わないの。
それで、はしのえみって基本的に一生懸命だから、どんなにダサダサなものでも「安い」って聞くと「いいわ〜!」とか言って、すごいかわいそうなんですよ。
ブランチリポーターの新妻聖子って、オフィシャルページがあったんだ。この人すごいイイおでこしてるんですよね。まあ意識してるから出してるんだろうけど。ぜったいヅラつけて時代劇出た方がいい。もんのすごく日本髪似合いそう。
あ、「文化的なことから離れていこう」という話でしたね。でもよく考えたらムリだわ。「文化的なことから離れている人々」は、仕事を休んで西友の前に集まって、肉の代わりにカネを要求しているから……。そういう人たち、憎いとかそういうふうには思わないけど、自分を受け入れてはくれないと思う。
ところで「釣りはおもつらい」そうですが(しつこい)、イトイ語録で納得できない言葉をもうひとつ。おすぎだかピーコだかを「日本のおかあさん」と言うのはどうだろう。ツッコミをあらかじめ容認しているだけに、あざとすぎる。
自分だったら「日本のおじいさん」くらいにしておくよ。でもそれじゃおすぎだかピーコだか、キンヤだかわかんないな。「メキシコのおじいさん」じゃもっとわからないか。メキシコのおじいさんって、ぜったいUFO見てそうだよね。
それじゃ、タイガー・ウッズの唇が厚すぎるのでまた明日。
(03.0615)
【小説】・「歌丸大将軍の砲兵隊〜又は「なぎら健壱の『世界の平和』」 深堀骨(2003、S-Fマガジン1月号、早川書房)
確か去年の12月頃に出たはずだが、なんかねえ、いろいろあって読むのが遅れてしまった。
「なぎら健壱の『世界平和』」とは何か、については、ぜひとも書いておきたいので私なりに解説をしてみる。作品の性質上、ネタバレにはなるまい。
まず、「ためしてギッチョンチョン」だかなんだかいう番組に、ゲストで山瀬まみ、酒井和歌子、なぎら健壱が出ていた。テーマは「おいしいケーキの作り方」。山瀬、酒井はともかく、ゲストのなぎらはいささか場違いな雰囲気。なぜなら彼は無類の酒好き、甘党とはほど遠い。そこへもってきて、ゲスト一人ひとりに「デコレーションケーキを作らせる」という企画があった。健壱も、当然ケーキをつくらされる。
(以下、引用。歌丸大将軍の語り。)
「さてなぎらさん、このケーキの題名は!」
するとなぎらはこう答えた。「世界平和」とな。
(中略)
こうして語っていても吾輩の唇に会心の笑みが浮かぶのを止むることが出来ぬ。その時、「世界平和」という言葉を口にした際のなぎら健壱の言い方が実に素晴らしく、それはもう、何にも心が籠もってなくて、この上もなく空々しかったのだった。俺はモノクロォムの立小便画面の前で欣喜雀躍した。その丸で心の籠もってない、空々しいことこの上ない「世界平和」という言葉に、もう血沸き肉踊る思いがした。そして吾輩は悟ったのである、我が使命は、この何にも心が籠もってなくて、この上もなく空々しい、「なぎら健壱の『世界平和』」を守る事であると。何にも心が籠もってなくて、この上もなく空々しい、「なぎら健壱の『世界平和』」を脅かす者は吾輩が退治てくれようぞと。
(p229、引用終わり)
これだけではちょっとわかりにくいが、以上の動機により、「なぎら健壱の『世界平和』」を守ることを決心した歌丸大将軍は、「なぎら健壱の『世界平和』」を破壊しようとする「ウヴェクンヴァ族」と戦いを繰り広げる。あるいは戦っていると自称する。
深堀骨氏の独特の文体や奇想天外なお話はいつもながらのことなのだが、私は「なぎら健壱の『世界平和』」という1点に心を動かされた。ネットでざっと見たら本作について否定的な意見もいくつかあったが、その否定的な意見が「なぎら健壱の『世界平和』」について何の理解も示していない、理解したうえでの否定もしていないことは哀しいことだ。
作品の具体的な名前は忘れてしまったが、深堀氏の作品で、だれかの葬儀のときに仕出しの料理についていた「おいしいお吸い物」と書かれたインスタントのお吸い物、ソレの浮世絵モドキ、それに対する哀愁を「おいしいお吸い物」、ゴチックを使って「おいしいお吸い物」と連呼していた話があったと記憶するが、私の読解が間違っていなければ「なぎら健壱の『世界平和』」は、「おいしいお吸い物」の発展形であろう。
「ためしてギッチョンチョン」に場違いなふうで現れたなぎら健壱がケーキをつくらされ、やや投げやりな口調でそのケーキに「世界平和」と題名を付ける、そのわびさびを小説化しようとするのは確かに恐るべき大胆さで、そしてまたそうしたことを小説化できるという技量には驚かされる。
さらに言えば「世界平和」だから守るに値するのであって、コレが「家内安全」とかだったらまた違うものになったはず。「世界平和」であることには感動すら覚える。これは、守るに値する。
こうした「微妙な感じ」、「空気」といったものの表現は、もちろんナンシー関がうまかったし、私の知るかぎり小説では町田康が目指していたテイストだ。根本敬はもうちょっと人間のドロドロとした「業」のようなものに接近していたが、深堀氏の場合はいい意味で投げっぱなし。「おいしいお吸い物」は「おいしいお吸い物」で、「なぎら健壱の『世界平和』」はあくまで「なぎら健壱の『世界平和』」なのだ。
それにしても「なぎら健壱の『世界平和』」の「なぎら健壱の『世界平和』」感、とでもいうべきものに、いったい何人のS-Fマガジン読者がわが意を得たり、と思ったであろうか!?
最後に、本作は「なぎら健壱の『世界平和』」的感覚を小説にしようとしたという意欲作だと感じるとともに、オチが少々弱いかな、と思ったということと、「なぎら健壱」と「歌丸」(この際、「笑点」の歌丸はカンケイないのだが)という芸能人の名前が二つ重なることは、細いオシャレメガネをかけて「今の自分の興味は、90年代前半のサブカルチャーをあえて再評価してみようってカンジかな、今だからこそ」などと言っている連中(「れんじゅう」と発音)に読む前からキワモノという先入観をあたえはしまいか、という懸念があったことは、つけくわえておきます。
(03.0614)
【雑記その6】・「テクノ番長」レビューその後・その2
それで、リンクだけでなく、テキストに感想を書いていただいたところ(複数)に対して、返答というか何というか。
・まず「持ち上げすぎ!」ってどこかに書かれちゃったんだけど、ここら辺は実は甘受する部分はあります。私は「地獄先生ぬ〜べ〜」ですら持ち上げてしまった人間なんでね。
が、平野耕太のオタクとしてのスタンスって個人的にはけっこう興味があって、第一世代、第二世代といった区分ではない別のところにいると思うんですよね。それを強調したかったってのがある。
後から自分のテキストを読み返すと、「テクノを題材にしている」という部分と「平野耕太のオタクスタンス」に対する部分がちょっとゴッチャになっちゃったかな、と反省してます。
・「テクノ番長における『テクノ』は単なるギミックにすぎないのでは?」という意見に対しては、確かに、音楽マンガにおけるバンドもの(最近だと「BECK」とか?)と比較すると、確かにその扱いに特別「テクノ」である理由はないかもしれない。
「テクノ番長」の表紙に散りばめられているCDのタイトルを見てもわかるんですが、「B2dept」とか「赤富士」とか、あと「カラテカ」(以上全部和モノ)、それと808stateのぜんぜん良くなかったヤツとかなんですよ。
たぶん仲間うちで聞いていたんだろうなというセレクトです。マニアックでもないし、マンガの中に登場する本棚や音楽のように、作者が暗に「どうだこういうのおれは知ってるんだ」みたいな空気はないと思う。
しかし、それでもなお、本作を「テクノマンガ」にカテゴライズしたい気持ちが自分にはあります。作者にはないかもしれないけど(笑)自分にはある。
本作に登場する曲には本当に元曲があるそうです(私も何曲か聞きました)が、それをさしおいても作品そのものの圧倒的なグルーヴ感はやっぱりものすごいものだと思いますよ。
当然、現在の「ヘルシング」に通じている疾走感ですが。
・「当時のテクノ雑誌にぜんぜん『テクノ番長』が紹介されてない」のは、これは雑誌側は「知らなかった」じゃ済まなかっただろうとは思ってます。だって自分たちだってマイナーなものの編集してたんだから。そして、もし知られていても、やっぱり無視されていただろうと思う。さらに言えば、それで良かったのかもしれません。
本当の意味での内情は知らないけれど、ハタから見ていると「テクノ」というものを明らかに何か特定のカタチで強く打ちだしていこうという意図は、当時のシーンにあったと思いますよ。で、それはそれで良かったとは思うんだけど。
あんまり「何でもあり」じゃ、出される方もよくわかんないから。
で、そんな中で、「テクノに関連するもの」としてよしもとよしともとかジェフ・ヌーンのドラッグSF小説「ヴァート」が紹介されたり、あるいはゲーム文化との融合を意図した企画があったりしてたんだけど、そこに「テクノ番長」をおとしこみたいというのは、まあ私の夢想です。これはもう、私の気持ちなんで、しょうがない。
・それと、「ナードコア的なもの」なんだけど、私は潜在的に平野耕太は意識していたと思ってます。「テクノ番長」が、別にテクノ大好きな人の作品ではなくとも、テクノそのものがテーマではなくてもね。
それで卓球と平野耕太のスタンスの違いについて書いてみたんだけど。
そもそも、「電気グルーヴ」自体が、TMNとかを除けばダンス系のテクノであれだけ有名だったのに対し、電気のフォロワーって「ナードコア」としてまとめて紹介される以前、当時雑誌メディアしか情報が得られなかったのに、紹介もされなかったし出てくることもなかった。
今はもう「ナードコア」とも言わなくなったけど、とにかくそこでまとめて語られていたのは「電気のオールナイト」とかを中高生のときに聞いていた世代で、でも実はその前の世代にもぜったい影響下にあったユニットとか、そういうスタンスに影響を受けたモノってあったと思う。あったと思うけど、「テクノ番長」くらいしか商業出版では記録が残ってない(私が知らないだけかもしれないが)、ということも書きたかったの。
「宇宙犬」[amazon]くらいでしょ。90年代当時は。メジャーデビューもしたし(注:本人はフォロワーとは思っていなかったらしいが。いや本当にそうかもしれないし)。
でも他にもいたんだよ、それは結果的になんかすごいものになってたよ、ということが書きたかったというのはあります。
(余談だけど、卓球、平野耕太、つんく♂のスタンスの違いを考えるとなんだか面白そうだ。)
(03.0614)
・「性癖 −このみ−」 きいろ猫(2001、東京三世社)
ジャンル傾向としては野外露出ものとスカトロものって感じなんだけど、この短編集がユニークなのは、まったくの予想だがここに載っている作品が描かれた段階では、作者はいわゆる変態ものフィクションの系譜を何も知らず、想像力だけで描いていたのではないかということ。
しかも、「こんなヒドいことを描いてやろう」とか「こんなだれも思いつかないことを描いてやろう」という動機ではなく、たぶん純粋に自分の妄想をいかにかたちにするか、に苦心しながら描いていたのではないか。
だから、たとえば雑誌「フラミンゴ」系統の作品群のような過激さがない代わりに、何ともいえない気分に襲われる。人の妄想世界に入り込んだような。
非常に奇妙な味を残しているのは、収録中の「ミ・ツ・メ・ル」。先輩(♀)の卒業制作のアート作品づくりに付き合わされることになった女の子。水着を着て、360度を取り囲む12個のカメラとマイクを身体に取り付け、路上を歩き回る。当然、カメラには彼女を好奇の目で見る路上の人々が映し出されている。
それをビデオにおさめ、画像をつぎはぎして、ハリボテの箱の内部にその画像が映し出されるという「仮想現実空間」をつくるというのが先輩(♀)の卒業制作だ。
まずここで話が少ーしおかしい。そもそも、作品内に出てくる装置で360度ぐるりを取り囲める映像をつくり出せるかどうかが疑問だし、そんなカメラを取り付けて水着でウロウロする段階ですでに露出プレイだ。
だが本題はここからで、夜中にこの装置の中に忍び込んだ女の子(卒業制作を手伝った)が、装置を起動させ、昼間に録画された衆人の好奇の目の中で、さらに過激なオナニーにふけるというヴァーチャル体験をする。そこに、さらに先輩(♀)がやってきて、先輩にはなぜか何の説明もなくペニスが付いていて、二人は仮装空間の中で結合する。
「露出プレイを体現するための装置」という「アート作品」というのも独特だし、昼間のプレイをもう一度仮想空間の中で繰り返すというのも珍しい趣向だ。まさに作者が「自分の妄想の中に他人を引き入れる」ことを意図した話だと思う。
「手段と論理とみつの味」は、一人露出プレイをするために、危険かどうか町の下見をしてから実際のプレイにふける女の子の一人称。コレも、まあ私もそんなに詳しいことは知らないが、何かの手記や手記風の読み物を読んでそのまま描いたとは思えない。どこか作者が徹底的にヒロイン(あるいはヒロインを覗いている自分)とシンクロして描いたような感触がある。
さらに不思議なのは「箱の中」。ある女の子は精巧なドールハウスと人形、さらに自分ソックリの人形を持っているのだが、それはドールを使って妄想を膨らませてオナニーするためだった……という話。
おそらく「ドールハウスの中に自分が入った」ことを想像する幻想文学とかは過去にあると思うんだが、たぶん作者はそういうのを知らないで、とくに気にしないで描いていると思う。そこがかえって作者の無意識が出ているというか、不思議な感触を醸し出している。
特定のジャンルを描くのに、過去の作品の系譜を知っているべきか否かはむずかしい問題だと思う。私はそこら辺はアウトプットされた作品の結果論でしかないと思っているが、本作はいい方に出た例ではないか……と、想像を膨らませて思った。
(03.0613)
・「ボボボーボ・ボーボボ」(9) 澤井啓夫(2003、集英社) [amazon]
戦慄の調べを奏でようか
週刊少年ジャンプ連載。怒りのパワーを溜めたOVERは、真の姿「魚雷ガール」に変身。ボーボボたちと死闘を繰り広げる。
OVERを倒した後、ボーボボたちはマルハーゲ四天王・ハレクラニの手下たちと戦うことになるが……。
……って、けっきょくあらすじを説明しているとずっと戦ってることになるんだけどね。
最近思うんだが、ギャグマンガの批評ってものすごく軽視されてない? もっともこれには理由があって、ギャグマンガは面白いけどギャグを語ることはむずかしい、面白くなりにくいということと、批評とかをする人々は基本的にどうしても眉間にしわを寄せてしまいがちになる、それと「創作」とか「オリジナリティ」とかいうことについて考える人たちは、パロディに厳しい、ということなどがあげられる。
はっきりと「パロディは、読む前と読んだ後で読者が何も変わらないからダメだ」という意見もプロ批評家の文章で読んだことがある。ここまで来ると私にははっきり言ってむずかしくてわからないが、とにかくストーリーマンガだけに目を向けて「行き詰まった」と考えた場合でも、ギャグマンガにまで視野を広げればそうでもない観点というのが必ずあるはずだ、とは思っている。
実際、ギャグの説明ってむずかしいんだけど。
8巻の感想
(03.0613)
【雑記その5】・「テクノ番長」レビューその後
sawadaspecial.comさんにリンクされて、そりゃあもうすげえ数のアクセスがあって嬉しかった。平野耕太のすごさも思い知った。テクノ番長、実際につくられた曲のいきさつなんかも含めて単行本出すべきだと思う。作者本人がイヤじゃなければ。
さらに、最近知ったテクノ系ニュースサイト、YAMUTECH LUNCHにも紹介されたのでなんだか嬉しかったなぁ。10年前と微妙に、しかし明らかに音楽とオタクっぽいものの関係は変わってきている。それをいいという人も、悪いという人もいるだろうが。
(03.0612)
【雑記その4】・「第12回日本トンデモ本大賞決定」
正直、私は「ゲーム脳の恐怖」になるかと思っていたんですが、「より笑える方」ということではやはり「歯」の方になったようです。
「ゲーム脳」が大賞になればそれなりの問題提議になった気もしますが、あくまでもガチで「笑える方!」というカタチで決まった賞、それはそれなりにスジが通っているように感じます。
実は参加しておきながら、(たいして仕事もしてなかった私ですが)楽屋裏が気になって、会長のトークを聞いてないんですよね〜。その前の「基本講座」も少ししか聞けず。でも漏れ聞こえてくるお話はテンション高かったです。
(03.0612)
【アニメ】・「わがままフェアリー ミルモでポン!」第62話(2003、テレビ東京)
その頃、ポンタはサスケとハンゾーに出会い、なぜかすっかり仲良しに。一方、ダアクから指令をうけたアクミは、キンタのペット妖精・マサコに魔法をかけてモンスターに変えてしまう。
……前半、「なんだ、ポンタという新キャラのお披露目の回か」と思って少しテンションが下がったのだが、後半、モンスター化したキンタのトゲトゲによって、人々が全員ヤギになって、紙やお金をガジガジ食うさまが面白かったのでひとしきり笑った。
やっぱり、サスケとハンゾウはかわいいのら〜。
(03.0612)
【雑記その3】・「トンデモ本大賞」と学会エクストラ発表
実は一週間くらい前からキンチョーしていまして、何しろ私が舞台で何かをやったというのは、「その他おおぜい」で小学校の学芸会に出たとき以来20年ぶり近く、一人でという意味では、なんだかわからないがピアノの発表会で「日の丸の歌」を歌わされて以来、30年ぶり近い。
さらに、お金をとってお客さんに見てもらうわけだし、他の出演者の方々は各方面のトークのプロ、もしくは発表慣れしている人々。しかも最大限のキャパは500人という会場ですから、けっこう広いです。
そんなわけで、7分間といえど、あらゆる意味で自分だけ失敗するわけにはいかない。というプレッシャーをヒシヒシと感じておりました。
自分があがり性であることや、なにげないモノが右から左に移動した、急に状況が変更になるなど、ちょっとした変化に極度にオロオロすることなどは自覚していたので、緊張はMAXに達していました。
実際、午前中のリハーサルのときに発表する本数冊をビニールの袋に入れておいたんですが、壇上に上がってそれを袋に出すところでガサガサとひっかかりすでに失敗。
ここで冷や汗がジトーッと出ました。
最初つまずくと連鎖的にパニくるので、袋から本は取りだして手に持つことに。ちゃんと発表順に、上から並べました(「えーと」……などとやっていると沈黙が数秒間続いてしまい、しかも壇上での沈黙は長い)。
結論から言うと、自分なりに全力は尽くしました。ただ、最大の失敗は立ったまま発表したために、マイクから口が離れてしまい、音が拾えていなかった部分があったということ。再三再四「マイクに口を近づけて!」という支持があったんですが、説明に夢中になるとつい口が離れてしまっていました。
後ろの方の人、声が聞こえていなかったらすいません。
「聞こえてないところがあったよ」という意見を聞いた後、他の人の発表を見ていると、話すたびに口にマイクを近づけたり、やはりマイクに気を配っているところが見られました。
マンガの説明は画像命なので、書画カメラ(台の上に本や書類を置いてスクリーンに映し出すためのカメラ)の操作に関しては以前から神経質になっていたんですが、マイクは私にとっては盲点だったんですよね。
また、今回の書画カメラにはモニターが付いているにもかかわらず、いつものクセで後ろを振り返り、大画面に写った映像を見ながら説明したのが、口がマイクから離れた一因でもあります。反省点です。
それにしても、5年前に現在の自分から「キミは5年後に、シュシュトリアンと同じ舞台で何かしゃべることになる」と言われてもぜったい信じなかったでしょうな(司会アシスタントの「声」さんがシュシュトリアンのコスプレだった)。
その後はここに書いたとおり大泥酔、どこへどうやって帰ったのかもわからず世界が6万回転くらいしてしまいましたとさ。
(03.0610)
【雑記その2】・「J-POP」衰退中?
J-POP業界の詳しいことはわからないけれど、ひとつ何かが流行るとすごい勢いで右へならえになる傾向があるらしい。
現在は、ものすごいクォリティの低いカヴァーブーム。それと志の低いパンク、HIPHOPとの合体。
とにかく、私の耳で、原曲に匹敵、あるいは原曲を凌駕するカヴァーというのがこれだけ出ていてほとんどない。
半可通な知識だと、カヴァーの発端は島谷ひとみの「亜麻色の髪の乙女」だろう。
あれは良かった。だいいち、原曲を聴いたこともない(私もそうだ)人たちにも買わせるだけのものがあった。
しかし、島谷ひとみはけっきょくカヴァーを歌い続けなければならないという苦しい立場にあると思う。
HIPHOPがらみだと、「クリスマスイブ・ラップ」あたりが最初か。個人的にはギリギリだと思うが、それでもまだ歌っているユニットを売り出すための起爆剤的な意味もあったし、売り出す側もまさかこれだけで終わらせようとは思っていなかっただろう。あくまでも話題づくり。
パンクがらみ。これは知識不足でわからない。ただ、ブームの仕掛けがあまりにも作為的。「贈る言葉」のパンクヴァージョンとか、何なんだろう? だれが聞いて嬉しいんだろう?
以上のことがシラケさせる理由は、まず第一に「原曲を超えよう」といった意志が感じられないものが多いこと。
第二に、原曲のチョイスが非常に安易。たとえば「亜麻色の髪の乙女」や「ロックンロール県庁所在地」は、チョイスそのものにセンスを感じるのだが、他のカヴァーにはほとんどそれが感じられない。ただ「この世代がこれを懐かしがるだろうから、これにしよう」とかやってるだけ。
「でじこ」のエンディングがCoCo、っていうので自分的にはギリギリのセンスだと思います。
あとやっぱり、パンクっぽい楽曲ってだけで「パンク」って言っていいのか? と、パンクに思い入れのない私ですらハラハラしてしまう。これは美少女が出てくるだけが売りの深夜やってるSFアクションドラマを、「本格ハードSF」と言い張るのに近い。
どんな音楽をやるのも自由だが、名称はなんとかした方がいいと思う。
もうひとつ、最近の「お笑い系CD」というのがある。「なんでだろう」とか「はなわ」とか「ゲッツ」とか。
私は歌モノのお笑いはもともと好きなので、そういうのが出るぶんにはめでたいとは思うのだが、芸人をお笑い専門の番組以外のものに出させるためにCDを出しているという印象もないではない。
今までCDを出してきた芸人たちは基本的に「CDを出す」ことにそれなりに理由がある(ダンディ坂野は田原俊彦ファンだというし)が、およそ音楽に関係ないお笑いグループが本当にどうでもいいCDを出し始めたら要注意だろう。何をどう注意していいのかわからんが。
客観的に、CD業界景気悪いんだなーと思う。なんだか出ている曲がちっとも楽しくない。その「楽しい」部分はぜんぶゲッツとかにおっかぶせて、後はつまんないカヴァーものをつくってる印象。
さらに落胆するのは、音楽のこととか何にもわからないザ・芸能界の人たちが今、音楽業界を担っているわけじゃないでしょ。何もかも知ってて、洋楽もマーケティングも何もかも知っててこのセンスのなさってのは何なのよ!? とか思うわ実際。
今、見てて楽しいのはあややの太股だけ。
(03.0610)
【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2003、テレビ東京)
娘。が3人ずつのチームに分かれ、テーマに沿った歌を歌うというゲーム。
なぜかチームごとにマイクの高さが違ってた。
「ハロモニ。劇場〜駅前交番物語〜」は、まあわたし的には何も書くことないです。吉澤ひとみは、がんばってるとかがんばってないとかの領域を超えていた。安倍なつみは面白い。
「魁! 新垣塾!」は、新コーナー。
新垣司会で、6期メンバーに先輩たちへの質問に答えさせるという趣向。なんか体育会系合宿での恒例イベントみたいだな。
これは私好み。ちっともセンパイとしての貫禄がなく浮き足だっている新垣に加え、フォロー役のセンパイはてっきり矢口だと思っていたら安倍なつみだった。新垣&安倍ってのも、組み合わせとしては今までなかったなぁ。
今回は「矢口をどう思うか」で、その答えを別室で矢口本人が見ているという趣向。それにしても本当に田中れいなは恐いなあ。あんなに不敵な感じの後輩、困るよなあ。さだやす圭の野球マンガの主人公みたい(変な形容)。藤本美貴は、何があろうともうある程度自信があるだろうから、その不敵さはあくまでも芸能人的な不敵さなんだけど、田中れいなの場合もっと無方向というか。まあそんなこと考えてもしょうがないか。
矢口が新垣のことを「ガキさん」と呼んでいて、「ガキさん」というニックネームが定着すると面白いね。「ハロモニ。」って、他の番組でつけられたニックネームとか平気で使うんだよな。「保田大明神」とか。
とにかく、先週も書いたけど高橋愛プッシュ後退のおかげで他の5期メンバーの出る機会が増えて、いい塩梅になっていると思う。逆に言えば、即戦力が高橋しかいなかったということでもあると思うしなぁ。
「ハロプロワイド」は、ハロプロ関係の情報コーナーと称するコントみたいなコーナー。キャスターが中澤で、レポーターが小川と紺野。
小川、「北の国から」のマネよりもこっちのがぜんぜんいい。「デートしたことない」っていちいちふてくされるのが面白い。昔は16歳くらいのアイドルだと堂々と「デートしたことない」って言ってたけどね。だってそういうのが逆にウリだったから。今じゃかえって恥なのかなあ。よくわからん。
紺野は、今回「ミニモニ。」の小説が出るということで高橋愛のところへインタビューへ。インタビューする相手をわざとぞんざいに扱うという、これも一種のコントなのだが、紺野のキャラクターが非常によく把握された内容。特番「13人がかりのクリスマス」の頃から紺野のそういう役回りというのは期待されていたけれども、「13人……」の頃にはさすがに台本どおりというかおぼつかなかった紺野も、今はその役柄にピッタリだ。
ミュージカル「江戸っ娘。忠臣蔵」に出ているらしい「くのいち羅舞羅舞隊」がスタジオで歌を披露。矢口、辻、加護の3人がくのいち姿で歌を……って完全に初代ミニモニ。じゃないかよ!! だんぜんこっちの方がいいよ! 戻せ! あの雲をどけろ!(by黒沢明)
(03.0610)
・【雑記】飲めなくなった、みんな実写になればいい
まずどっかで飲み過ぎて、電車で1時間のところをどこでどうやって帰ったのかわからない状態になり、どこかでタクシーに乗って、ノロノロ運転に気持ちが悪くなってきて降りた。そしてなぜかまた電車に乗って最寄り駅に帰り着き、自転車に乗ったらすごい勢いでひっくり返ってしまった(後にイオカードの記録を確かめたところ、日暮里から池袋までは電車に乗ったことは確実。そのまま乗ってりゃ帰れるのに途中下車してンだよな。酔っぱらいの行動はわからん)。
ひっくり返った私におまわりさんが寄ってきて、「もう自転車、ひいて帰った方がいいですよ」って言われて、「親切だなー」と思ったら自転車が盗難されたものかどうかチェックされて、ムカッと来たので最初はひいて歩いてたけど、すぐに自転車に飛び乗ってヨロヨロしながら帰った。
ゲロ吐いたかどうかも記憶にない。でもたぶん吐いてないと思う。カバンに入れてあったおむすびが1個なくなっていたが、どこで食べたかまったく記憶にない。
30歳過ぎて6年間、思ってきたことだが酒が「弱くなった」のではなく、「飲めなくなった」のだと思う。赤玉が出ちゃったんだねきっと。
・エヴァ実写化、セーラームーンも実写化。
実写版がアニメになることはアメリカではよくあるようだ。まあ日本でも「ザ・ウルトラマン」とかがあったが、アニメを実写にするのは今後どんどんやればいい。
そもそも、「秘宝系」のようなバカ映画がある程度理解されても、「ぶっとんだマンガ」があまり理解されないのは、「マンガだからなんでもありじゃん」と思われていることに尽きる。
どんなにCGが導入されても、そこに演じる人間が存在するかぎり、実写映画のマヌケ度はマンガやアニメよりもアップするはずであり、そのギャップこそがいい意味での映画の「洗練されてなさ」だと思うから。
……いや、実写版のエヴァやせらむんが最初からマヌケになると決めつけているわけじゃないが。
(03.0610)
・「パラダイス学園」全3巻 川原正敏(1985〜86、講談社) [amazon]
二人の関係がギクシャクしているのをいいことに、司馬の悪友やスケベな校長、ちひろをライバル視する高島華子とその友達軍団などが、ちひろをすっぱだかにひん向いてはイタズラをしてやろうと常に狙っているという、狂騒的少年エロコメマンガ。
ぜんっぜんカンケイない話だが、私が平日休みのときが近所の中学(私の母校でもある)の野球部の練習日らしく、遠くから「うぉーっ、うぉーっ」という野太い声が2時間に渡って聞こえ続ける。
はっきり言ってうるさい。「声を出しながら練習しないといけない」ということなのだろうが、とにかくうるさいんだよ! ほんとに、「パラダイス学園」でも読んでグミ噛んで寝ろ。
そう、恐ろしいことに、amazonで本作はいまだに入手可能なのだ。絶版になっていないということか? 初版から18年が経とうというのに。作者のヒット作「『修羅の門』効果」は見込まなければならないが、それにしても恐ろしい話だ。
本作は簡単に言うと「ハレンチ学園」や「やるっきゃ騎士(ないと)」と同系統の、「学園全体が狂騒状態になってエッチなことをやりまくるマンガ」なのだが、非常に後味の悪い回とそうでない回の起伏が激しい。
後味の悪い回の特徴は、「純増可憐な乙女」という設定のちひろを、校長、司馬の悪友、高島華子などがよってたかってレイプまがいのいたずらをするからで、コメディ調に描かれていてもさすがにまずいだろうと思ってしまう。
過激さにおいては「ハレンチ学園」とか「イヤハヤ南友」や「やるっきゃ騎士」の方が上だが、この気まずさは何かというと、ちひろというヒロインの処女性が過剰に強調されている点と、矛盾するようだがちひろを「脱がす」設定の中途半端さにある。
80年代後半の月刊少年誌という、まあいわば「少年エロコメの製造工場」のようなところで生まれた作品であるにも関わらず、「設定が中途半端」ゆえに時代性を感じないところが気まずさを増幅しているといえるのではないか。
要するに「ハレンチ学園」にあった70年代パワー、「やるっきゃ騎士」にあった80年代的な空疎な狂騒といったものが、本作「パラダイス学園」には見られない。
「アソコを見られたから婚約しなければならない」という、当時にしてからかなりあり得ないちひろの古風な設定と、「ちひろのアソコを見る」ために大騒ぎする司馬の悪友や校長たちとの間にギャップが見られる。
ちなみに、「女の子が裸やアソコを見られたから、責任をとって結婚してくれと男を追いかけ回す」という設定は、80年代前半まではわりとあった。おそらく答え合わせをしてみれば、前近代的な教育を受けてきた女の子がそれゆえに主人公と「きっかけ」をつくり、その後近代的な恋愛関係を結び直していくというのがテーマの作品が多いのだろう。
広い意味では「うる星やつら」なんかもそのパターンに入る。
で、本作はどうかというと、司馬とちひろの関係はなしくずし的にうまくいってしまう。最終回は、なぜか二人とも中学生のはずなのに結婚してハネムーンに行ってしまうのだ。別に恋愛感情をキチンと描けとは言わないが、こうした「ラブコメ」的な展開と、「ミスコンテストを行って、その種目がことごとくセクハラものな内容」といった展開とが交互に繰り返されている印象だ。何か「前回やりすぎちゃったから、今回はラブコメ路線で」といった感じ。
このため、結果的に作品そのものの過激さは相殺されている。が、実際、ノーパンに浴衣姿のちひろを宙づりにして、肝試しのお面をかぶった男たち(校長含む)が、自分たちの顔がわからないことをいいことに、ちひろの両手にロープを結びつけてひっぱってアソコを見ようとするという展開(第2巻「スリル! 肝だめしの巻」)などは、最後にさんざん悪行を行ってきた男たちに何のペナルティも与えられないなど、悪ふざけにしてもコメディの常道を超えた「後味ダーク感」がある。
他にも、少女マンガ的パターン(積極的な幼なじみが転校してきたり)が物語全体の骨子になっていたりすることに気づく。つまり、どんなにエロエロな展開にしても女の子を登場させる以上、少女マンガからパターンを借りてこなければならなかったということなどに思いをはせてみたりと、当時の時代の停滞感を感じてしまったり、それなりに学ぶところはある。
正直、私は現在、マンガは失速しているような気がしてしょうがないが(根拠は不明)、注意すべきはそうした停滞感は、80年代半ばにすでに本作のようなところに感じられたということだ。否定的な意見ばかりになってどうかと思うので言い換えるなら、本作のようなエロコメは「停滞している」ことの証左としても感じられていたということだ。
しかし、それは「マンガ全体が停滞している」ということではなかった。70年代までの作家性の極度に強いマンガを支持している人たちは、本作のようなマンガを嫌ったけれども、産業としてのマンガは拡大傾向にあったし、なんというかマンガ全体にある種の疾走感があった。だから、少年エロコメもその一貫として受け止められていた部分はある。
「マンガはダメになった」ことの証左としても、「裾野の広がり」としてのポジティブな現象としても、少年エロコメは評価されていたことは書いておくべきだと思う。
そしてもうひとつ、「無視される」ということも事実としてあったとは思うんだけどね。
いずれにしろ、マンガの停滞感というのは80年代に入ってから、ジャンルやメジャー・マイナーといったカテゴライズの違い、あるいは受け手の立場や年齢によって、その評価はグチャグチャになっていた。
たとえば石ノ森章太郎の「マンガ日本経済入門」が話題になったとき、一般マスコミは「マンガはすごい」と書き立てていたけれど、この段階で「もう終わってんじゃないか」という意見もチラホラあったはずだ。
念のため書いておくが、これは学習マンガというジャンルがダメだというのではなく、「マンガ日本経済入門」という作品の「もう一歩感」にあったのだが。
このグチャグチャ感が何となくプロアマ問わず、あるいはミーハーマニア問わず失われ、「何となくダメっぽい……」というようなコンセンサスがうっすらと出てきたのがごく最近であるということだ(もちろん、今こそマンガが面白い時期はない、という考え方も充分にあるはずだが)。
つまり「パラダイス学園」は、80年代半ばのマンガの停滞感と、産業としてのイケイケ感を同時に示すことになった作品のひとつだと言える。
(03.0606)
【テレビ】・「セクシー女塾」、セクシー世紀セヴァンゲリオン(2003、テレビ東京)
本題に入る前に、毎回明らかに台本バリバリのトークから始まる。これに妙にマンガ・アニメネタが多いのだ。
今回(6月5日放送分)、徹底されていて面白かったので、できるだけ忠実にテキスト書き起こしをやってみようと思う。
なお、ずっと前に面白かった「ジュジュのセクシーな冒険」についてのテキストはこちら。
・以下、テキスト起こし
(矢口、石川、里田、斉藤の4人がテーブルについている。矢口がしきりにビデオのリモコンらしきものをいじっている。)
里田「あ! またアニメの『セクダム』の再放送録画しようとしてるんでしょ!(注:「機動戦士セクダム」の話題も以前ありましたが、イマイチだったのでテキスト起こしはしてません)」
矢口「フッフッフッフッフッ、ハッハッハッハッハッ! セクダムとは違うのだよ、セクダムとは!」
斉藤「じゃあ今日は何を?」
矢口「『セヴァ』ですよ『セヴァ』!」
石川「『セヴァ』って何ですか?」
矢口「あんたバカぁ!? セヴァと言えば、90年代一大ムーヴメントを巻き起こしたアニメ、『セクシー世紀セヴァンゲリオン』に決まってんじゃない!」
石川(すごくつまらなそうに)「知らな〜い」
斉藤、里田「知らな〜い」
矢口「マジでぇ!? あんたバカぁ!? セヴァにもさ、名言がいくつもあるんだよ! 逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ!……とかさ」
石川「まったく意味がわかりません。逃げたっていいじゃん」
矢口「あんたバカぁ!? 逃げちゃダメなのよ! あんたは『セクシー補完計画』に参加させないから!」
石川「別にいいですよ」
里田(斉藤に話しかける)「バカって……ねぇ」
セクシーマチコ先生「矢口〜」
矢口「はい」
セクシーマチコ先生「どうしたの、今日の矢口は。セヴァ同様、少々暴走気味なんじゃない?」
矢口「あ……や……そんなことないです。……好きなんですね」
石川「どうにかして!(ください?)」
・以上、テキスト起こしおわり
矢口に「あんたバカぁ!?」と言わせたいだけの台本のような気も。なぜか「です、ます」調の石川が興味のなさを効果的に表現している。いいですこういうの。
【テレビ】・「セクシー女塾」終了 (2003、テレビ東京)(03.0928)
(03.0606)
【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2003、テレビ東京)
保田圭、モーニング娘。卒業により、司会者として登場。しかし現メンバーからブーイングが起こり、「新司会者を決める」大会へとなだれこむ。
1期メンバー、2期メンバー……とそれぞれの代から代表者を決め、安倍なつみ、矢口、石川、藤本、紺野、そして保田が「カンペを噛まないように読む」などのお題に挑戦。他のメンバーは審査員。藤本以外の6期も研修期間中として参加。
新垣を「新垣さん、新垣さん」となぜか持ち上げる他5期メンたち、保田のやることをいちいち無視する辻と加護、「研修中なんで……」と保田に対する意見を言いたがらない新人6期など、要するにシチュエーション自体がコントになっている。
だれがつくっているのかは知らないが、「めちゃイケ」とか「岡女」の方法論ですねこれは完璧に。
私は面白かったけど、「なんだ、まねじゃん」と思った人もいるかもしれない。それともスタッフが共通しているのかな。わかんねー。
「ハロプロNEWS」は「ハロプロワイド」としてリニューアル、中澤裕子がキャスターになり、レポーターに小川と紺野が抜擢。
やっと「高橋愛大プッシュ」期間が終わったかと、少しホッとした。
小川のハイテンションぶりと、紺野ののんびりぶりが対照的で面白い。紺野はVTRで外に出ていって、松浦亜弥にインタビューしていた。今後、こうした外回り的役割を担うらしい。
紺野と松浦のツーショットというのも、非常に妙な感じで面白かった。
今回見て感じたのは、このコーナーはチャーミー石川だけではなく、他の子を呼んできてもそれなりのものになるということだ。まあ紺野・小川のタレントとしてのスキルが上がってきているということでもあるんだろうけどね。
中澤のツッコミは、地味だが的確だ。
紺野は、やっと「自分がどうしたらかわいく見えるか」を把握してきているように感じる。正確に言えば、幼い頃からそれを自覚はしていたがやっとテレビで出せるようになったのではないかと推察する。
ハロモニ。は、以前から5期メンに関してはずっと不可解な「高橋愛プッシュ」が続いていたが、それがなぜかやっと後退していく印象だ。というより、そうしなければ他の5期、あるいは6期がいつまで経っても浮かび上がれない。
しかし、高橋は最後まで「アイドルコント」の才能を開花させずに終わった。
私が、高橋の魅力が出ていると思ったところは、むしろ「素」を感じさせるところやアドリブ的な部分であった。これは「アイドルコント」とは正反対のベクトルである。
考えてみれば福井弁のキャラづくりなども「コント的」なものだったが、別にどうということなく終わってしまった。しかしまあ、まるで電気グルーヴに入ったばかりのまりんのようであった初期チャーミー石川のこともあるし、むしろ高橋には今後に期待したい。
そして紺野。むしろアイドルコント的には新垣と並んで潜在能力が認められる。紺野VS高橋という対立項を立ててみたとき、これは山口百恵と桜田淳子、松田聖子と河合奈保子、菊池桃子と岡田有希子、安倍なつみと後藤真希、石川梨華と吉澤ひとみ、あるいは石川梨華と藤本美貴といった対立に共通する、ファン側の妄想幻魔大戦を感じるのである。
ドンくさアイドルとシャープな感じのアイドルは、常に比較され、お互い切磋琢磨していくものだ。……というわけで、紺野と高橋には今後に浮かぶ瀬もあれと思う次第。小川・新垣もこれからである。ところで、
公式ページの次回予告、
魁!新垣塾!開講!
だらしないメンバーをきたえまくってやる!
……が気になるなあ。
(03.0602)
【アニメ】・「わがままフェアリー ミルモでポン!」第60話(2003、テレビ東京)
アクミはミルモを自分の手下にすべく、ムルモを人質にしようと考えたのであった。パピィはムルモを助けるために、アクミの手下になったフリをするのだが……。
「好きな人の前では素直になれない」を極限までカリカチュアライズしたのがパピィというキャラクターだ。ここまで毒づかれては、もしも思いが伝わったとしてもぜったいうまく行かないと思う。
ムルモは魔法以外に「触覚ビーム」というのを持っているのがナゾだ。
(03.0602)
【アニメ】・「わがままフェアリー ミルモでポン!」第61話(2003、テレビ東京)
「魔法を無効化してしまう沙織の不思議な力」がリサイタル会場でも発現する。もしかしたらアクミ側の、悪の能力かもしれない。嗚呼、ドラマチック。
(03.0602)
「つれづれなるマンガ感想文」5月後半
「つれづれなるマンガ感想文」6月後半
ここがいちばん下です
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