12 偽善、もしくは「本性」問題

「ぐだぐだコラム」もくじに戻る
「ぶっとびマンガ」電子版その2
「ぶっとびマンガ」電子版その1
・13 「ちゃっかりギャグ」を考える
・11 矢口がオイラという理由
一気に下まで行きたい






・12 物語における偽善、もしくは「本性」問題

・「それって偽善よ!!」
最近、マンガとかアニメとか特撮を見ていてなんだか気になることがある。
それは、主人公が自分の考えに強烈なアンチテーゼを突きつけられるという場面で、「それは偽善だ!」と言われたりするシーンを多く目にするということだ。

要するに、目先の同情や憐憫から成果の上がらない行動をとろうとしてしまう主人公に対し、批判者は「それは自己満足に過ぎない」、「しょせん自分のためにやっているだけだ」などと批判する。
で、主人公は悩んでしまったりイヤな思いをしたりする。

まあ、今に始まったことじゃないかもしれないが。

しかし、偽善の何がいけないのだろうか。こうして私がわざわざテキストを綴っているということは、その展開について、頭上にハテナマークが浮かぶことが多いということから来ている。

「偽善」、と辞書でひいてみた。
「みせかけの善事」とあった。

要はこういうことだ。たとえば、「集めた募金を、公表した目的に使わず、フトコロい入れてしまう。」とか。「表面上はいい人そうに見え、『いい人』をアピールしているが、実は自分で自覚的に悪いことをやっている」とか。
そういうのが最も単純な「偽善者」ということになるだろう。
もう少し広くとると、「自分はいいことをしているつもりでいても、バカだから悪い結果にしかつながらない人」とかも含まれてきて問題は複雑になる。
確かにそういうのは悪い。「みせかけの善事」というのは裏を返せばまったくの無駄かあるいは悪事であって、それが糾弾されるのはわかる。

しかし、物語内で「あなたは偽善者だ!」と言われる場合、それは「本人は善意のつもりでやっているが、状況に影響がないか、悪くするとさらによくない方向に導かれてしまう行為」という場合が多い。

それならば批判者から代案が出されるべきである。そこで始めてカタルシスが生じる。しかし、多くの場合は案は出ない。
ただ「現実はキビシイのよね」で終わってしまう場合があまりにも多い。

それは、私から見るとただ振り出しに戻しているだけで、何のカタルシスもない。それでは物語を綴る意味がわからない。

バイオレンス・ジャックは、マンガの中で子供の首をふっとばした。それはこの場で子供を助けても、より多くの犠牲者が出るだけだし、ジャックそのものが、その段階では善か悪かわからない存在である必要があったからだ。子供たちにとっても、スラムキングにとっても。逞馬竜のような子供たちを「関東の子」として鍛え上げる意味もあった。
ジャックのやったことは、少なくとも偽善ではない。むしろ悪かもしれない。しかし、それは代案ではあった。
そして、これが重要なことなのだが、この行為には読者が自分で自分が恐くなるようなカタルシスがあるのである。

子供たちの死体が散らばった、戦いの終わった地で、生き残った子供の一人がわざと突き放したように「死んでいったやつらは関東で生きる資格がなかったんだ」と涙を流しながら言う。
それを含めて、頭の後ろの髪の毛がピリピリするような、恐怖と快感が入り交じったような感情に襲われる。

偽善……本稿での「偽善」は、本来の意味よりは「目先の感情にとらわれたムダ行為」としておくが、これを排するなら、それ以上のカタルシスが描けるのか? ということが問題だと思う。
カネがどこに行ってしまうかわからないところ(まああまりにもあやしいところは別にして)に1000円募金するのは偽善かもしれないが、だからといってその1000円をどうカタルシスに持っていけるのか? という物語上の問題があると思う。

そもそも、通俗的な物語というのは、「ムダだとわかっている行為を、心情的にどうしてもやらざるを得ないからやりたい」という読者の気持ちに支えられていることが多い。ものすごく簡単に言えば、物語内の「ヒーロー」というのはそういう「心情的にどうにかならないものかと思っていることをどうにかしてやる」存在だ。
そのような通俗的な願望に応えてやることは、物語のデキとしては確かに安直だ。しかし、それを否定しておいて、新たなるカタルシスを出さないのはズルいと思う。

・「おまえは本性を出していない」
「本性」問題については、具体例をあげることができる。
「爆竜戦隊アバレンジャー」の、凌駕とアバレキラーとの第20話でのやりとりがそれに当たる。

「爆竜戦隊アバレンジャー」は、4月から始まった戦隊もの。凌駕はアバレッド、脳天気すぎるところはあるが、アバレンジャーのリーダーである。底抜けに前向きで、明るいところに特徴がある。
対するアバレキラーは、江戸川乱歩言うところの「退屈という精神病」にむしばまれた天才外科医。とにかく退屈がまぎらわせられる「ゲーム」に参加できればそれでいい。自分が面白ければ、後はどうなってもかまわないという刹那主義者だ。

アバレキラーのスーツを長時間身に着けていると命が危ない。凌駕はアバレキラーから、スーツを脱ぐように頼むが、アバレキラーにとって他人の命を心底心配するという凌駕の態度自体が気に入らない。
二人は戦い、アバレキラーの圧倒的な勝利に終わったかに見えたが、凌駕が人が変わったように反撃したため、アバレキラーは「自分の潜在能力を隠していて、それを思う存分使ってみたいと思っているおまえはおれに似ている」的なことを言う。

いちおう凌駕(アバレッド)の反撃について細かく書いておくと、怒りに逆上してキレてしまったのか、アバレキラーを助けたい一心で火事場のバカ力が出たのかは、はっきりしていない。
ただし、これまでの展開から見ると、アバレキラーを助けたいがために潜在的な力が出たと解釈した方がいいと私は思うのだが、アバレキラーに「似ている」と言われた凌駕は戦いの後に激しく動揺する。

以上が「本性」問題の例だ。
アバレキラーは、自分のこと以外に関心があって心をくだいてやるような人間が徹底して信用できない。人間はみんな、自分のことしか考えないと思っているフシがある。
そこで、「みんなのため」に戦っている凌駕(アバレッド)に、アンチテーゼを突きつけるのである。

この後、どうなるかは放映中なのでまだわからないが、こういう「人間は自分のため、自己満足のためにしか行動しないから、それが正義だと信じていることは偽善であり、『本性』を表してやりたいことをやるのが人間本来の姿なのだ」みたいな考えも、否定されるにしろ肯定されるにしろ、物語にはよく出てくる。

でもなー、「本性」っていうのが真実で、表面上の態度がウソなのかね本当に?
人間、TPOでそういうところが微妙に変わるのが普通じゃないかな?

・「おまえは本性を出していない」その2
「極限状態に追い込まれた人間たちが、思わぬ行動を起こしてパニックに」といった映画やマンガもあるけど、それが「本性」、人間の真実というわけでもないだろう。
「衣食足りて礼節を知る」と昔のだれかも言ってるし。
もちろん、ホンネとタテマエが人間の心の中に存在することは否定しないが、あまりにも「本性」ということにこだわりすぎると、それはそれでまた違うような気がするのだ。

そして、「本性」にこだわるというのは、「偽善」にこだわる姿勢と表裏一体という気がする。「おまえは偽善者だ」というのは「本性を現していない、みせかけだけで行動している」という批判ととれるからだ。

牽強付会と言われようが、私はいまだにこうした展開が通俗的な物語展開で好まれることは、70年代以前に「ホンネをガマンすることが美徳」という考えがあまりに強烈だったための反動だろうと思っている。

ポストモダ〜ンだなんだと言ったって、いまだに80年代に「ザ・マンザイ」でビートたけしが「赤信号 みんなで渡れば恐くない」と「ホンネ」をギャグにした頃と、根本的なところは変わっていないと思う。
いいことか悪いことか知らないけどね。

ただ「偽善者」発言は真の善がこの世にある楽観主義、あるいは善などこの世にまったくないという絶望しか多くの場合導き出せないし、「本性」発言は単にホンネ/タテマエという単純な図式しか提示し得ないということは言えると思う。

それならば、キャラクターや設定を複雑にしなくても、もっと単純な物語でカタルシスは得られるはずだと思ってしまう。

もしかしたら、次回のコラムが関連しているかもね。
(03.0715)



ここがいちばん下です
・13 「ちゃっかりギャグ」を考える
・11 矢口がオイラという理由
「ぐだぐだコラム」もくじに戻る
「ぶっとびマンガ」電子版その2
「ぶっとびマンガ」電子版その1
トップに戻る