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「つれづれなるマンガ感想文」7月後半
「つれづれなるマンガ感想文」8月後半
一気に下まで行きたい
ある決意をもって15歳の誕生日に家を出た少年は、足の向くまま気のむくまま、四国へ行く。そして、高松である私立図書館にたどり着く。そこでいろいろあって、山の中で一人で過ごしたり幽霊を見たり、さまざまな体験をする。
当HP、別名スラムキング領内においては、藤本美貴は「安倍なっちと関係が険悪っぽい、恐い人」として評価が定着してしまっているわけだが、私だってタレントとして箸にも棒にもかからないと判断したら話題にはのぼらせない。こうしてCDなども買っているのである。
公式ページ(←昨年に比べるとなぜか格段に手抜き)。
ハロープロジェクトの矢口真里(モーニング娘。)、石川梨華(同)、里田まい(カントリー娘)、斉藤瞳(メロン記念日)、アヤカ(ココナッツ娘。)が、「セクシーマチコ先生」(ナレーター:友近)の指導によりセクシーさを身に着けようという月〜金帯の深夜番組。
紹介しておいてナンなんですが、コレが売れるほど現在ファミコンユーザーが多いってことですかね? すごいな。
8月10日放送分。
第68話「スーパーお嬢さま・桃ちゃん」(7月19日)
楓たちを自慢の別荘に招待することにした松竹くん。もちろん結木や安純は単なるダシで、本当の目的は楓のハートを射止めることだ。
第69話「大切な友達」(7月26日)
ささいなことから大ゲンカをしてしまったミルモと楓。家を飛び出したミルモは、真里奈という女の子がパートナーの妖精、ソフトを探すのを手伝うことにする。
第70話「動物ワンサカてんこもり」(8月2日)
松竹くんはみんなを動物園「松竹アニマルワールド」に招待する。しかし、ダアクの指令を受けてアニマルワールドにもぐりこんだアクミは、魔法で楓と結木くんを「南極体験館」に閉じこめてしまった。このままでは、二人は凍えてしまう……。
第71話「すいませ〜ん」(8月9日)
「妖精通販」を、長期休暇に入ったミモモの代わりにアルバイトのクモモがやることになった。しかし、注文をとり違えてばかりで店の評判も落ちそう。心配になったミルモたちは、クモモを手伝ってあげることにする。
ヤングマガジン連載。かつて暴走族として暴れ回っていた火野鉄は、現在は三十を過ぎ、その頃つきあっていた女性と結婚し、息子も中学生になっていた。しかし、生活はどこか停滞していた。
ヤングキング連載。スバル、スー、コータの3人は七里高校のケンカ最強トリオ。スーはバンドでプロを目指し、コータは父の後を継いで塗装屋になることを夢見ている。何も目指すもののないスバルは悩むが、喧嘩屋「ドラゴン」との戦いで「大阪の喧嘩王」になろうと決心、いろいろなところにケンカを売りまくる。
8月3日放送分。
週刊少年ジャンプ連載。ボクサーを目指しているがケンカが大好きで男気にアツい前田太尊(まえだ・たいそん)。今日も舎弟の勝嗣と米志をしたがえて、ゴタゴタに首を突っ込んでは暴れまくる。
・7月26日(土)に新宿リキッドルームにて開催されたJポップDJの祭典申し訳ないとに行けなかった。くそー。
【雑記その5】ひたすらに、雨
【小説】・「海辺のカフカ」(上)(下) 村上春樹(2002、新潮社)
【CD】・「MIKI 1」 藤本美貴(2003、ハチャマ)
【テレビ】・最近の「おはスタ」 (2003、テレビ東京)
【テレビ】・最近の「セクシー女塾」 (2003、テレビ東京)
【雑記その4】「えっ!藤本美貴って浜崎・宇多田よりウマかったんだ!?」、「プロアクションロッキー(PAR)FC用」
【小説】・「スプートニクの恋人」 村上春樹(1999、2001、講談社文庫)
【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2003、テレビ東京)
【アニメ】・「わがままフェアリー ミルモでポン!」第68話(2003、テレビ東京)
【アニメ】・「わがままフェアリー ミルモでポン!」第69話(2003、テレビ東京)
【アニメ】・「わがままフェアリー ミルモでポン!」第70話(2003、テレビ東京)
【アニメ】・「わがままフェアリー ミルモでポン!」第71話(2003、テレビ東京)
【雑記その3】「占い式!漫画ナビ」ほか
【雑記その2】80年代前半について考えてみた
・「莫逆家族」(1)〜(7) 田中宏(2000〜2003、講談社)
・「ゴールド」(1)〜(7) 山本隆一郎(2001〜、少年画報社)
【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2003、テレビ東京)
・「ろくでなしBLUES」(1)〜(15)(全42巻) 森田まさのり(1989〜91、集英社)
【雑記】行けなかった「申し訳ないと」、「うたばん」、「月刊 湘南爆走族」
【雑記その5】ひたすらに、雨
おれ豆知識として、おれの家は4チャンネルがよく映らない。だから「エアマスター」も見れない。
ネットウロウロしていたら、「日本テレビの24時間テレビは、フジの27時間テレビと比較してチャリティーを大義名分にしているからいまいちハジケていない」的な意見を目にした。
しかし、24時間テレビが始まったころは、「24時間、同じテーマで番組をつくる」ということにチャリティー以外の意味を用意することはほとんど不可能だった。
「27時間テレビ」も「24時間テレビ」があったからこそ出てきたものだと思う。
……とかそんなことを書いていたら、自分が実に年寄りに思えてきた。
川島なお美が42歳と聞いてガク然としたりする。「失楽園」ブームがもう5年も前のことだってさ。
24時間テレビの行く末ほど、どうでもいいことないなあ。マラソンですごく中途半端な人が走ればいいと思う。瀬古とかが。急に。しかもあまり乗り気がないふうで。さらにリタイア。その後逆ギレ。でも実は瀬古がしかけられたドッキリで、周りがクスクス笑ってて、怒り心頭に達した瀬古が次々と番組出演者を鎖がまで倒していく。
それをビデオで見ていた井筒監督が怒り狂う。さらにその光景がビデオに映し出されて……というポストモダン。いやポストモダンってそういうことでしょう。だいたいポストモダンのいちばんよくないところは、冗談が通じないことなんだよ。
あー、そんなことを書いている間も雨がやまない。とことんやまない。
比較的雨好きと言われている私、日本雨協会から認定されるかされないかという私でさえ、さすがに鬱陶しくなってきた。
そもそも、10年くらい前から関東の気候はおかしい。秋がなくなった。
普通は秋雨があって、ひと雨降るごとにだんだん涼しくなっていくというのが定番だった。
が、今は猛暑の後にはすぐ冬。そんでバカみたいなやつらがクリスマス、クリスマス、ってワーワーさわいで、酔って自動販売機を壊すことがラディカルな行為だと思ったりする。
しかも本当にそれがラディカルなことで、28歳営業マンが酔った勢いで自動販売機を壊すことによって、トミーフェブラリーのメガネが時速500キロくらいの速度で飛んでいったりする。
あと書き忘れていたが(注:ラディカルがどうのとかいう話は終わり)、テレビ東京の5分間番組「ハローキッズ」が、保田圭とキッズのコーナーがあまりにもアッサリ終わって、松浦亜弥とぬいぐるみのハローくんのコーナーに戻った。
こんなに重要なことが、ネットでほとんどふれられていないというのはどういうことなのか!
まあ、こういうこと書くから松浦ファンとか誤解されんだよな……。
本当は熊田曜子とかの方がよっぽどいいんだよ。でも、熊田曜子の話とかしてても興味のない人にはまったく広がりがないし、私も虚しい。だけど、もし熊田曜子と血がつながってて同居されたりしたら、たぶん気が狂って死ぬと思う。私が。
夜、ラーメン食いに行って客が私以外2人しかいなくて、雨がザーザーふっていて、山松ゆうきち的に書けばざんざか、ざんざか雨がふっていて、店内にチューブの知らない曲が流れてて殺人的に虚しくなった。
なんか、チューブの失恋の曲。聞いたこともないんだ。
んで、ラーメンもあんまり美味しくないんだ。
すげえ虚しい。チューブが血管キレそうになるくらい歌いあげるほど虚しい。
まあ、ホントは虚しくないんだけどね。こういうこと書いて「そうでしょう、そうでしょう」とか言われても。物語が要請したから「虚しい」って書いただけで。物語って。
(03.0815)
【小説】・「海辺のカフカ」(上)(下) 村上春樹(2002、新潮社) [amazon]
一方、東京中野区で猫探しを仕事とする老人ナカタさんは、「ジョニー・ウォーカー」という猫殺しの謎の人物に出会い、彼を殺してしまう。その後、中野区を出て高松に行かなければならないと直観したナカタさんは、ヒッチハイクをしながら苦労して旅をすることになる。
・その1
うーん、個人的にはダメでした。これならまだ「ねじまき鳥」の方がいい。基本線は、少年が異界へと行ってまだ戻ってくることによって成長するというオーソドックスなことなのに対し、さまざまなことどもがあまりにも「どうとでもとれすぎる」。
ネットでの書評をいくつか読み、そこでは「アンダーグラウンド」を村上春樹の物語製作の転換点だとしているものが多かった。私は「アンダーグラウンド」は読んでいないけど、別にそんなに変わったとも思えない。
村上春樹の作劇法をひと言で言ってしまうと、「ありきたりな物語を一度解体して、もう一度組み立て直すときに完全にきっちりと組み立てない」というふうに言えると思う。その「組み立てない」部分にブンガク的な余韻があり、その「不完全さ」をいかにうまく構築するかがポイントとなる。
短編の場合、それはほとんどミステリのトリックのように明確だ。たとえば短編集「神の子どもたちはみな踊る」の中の「かえるくん、東京を救う」は、はっきり言って長編「ねじまき鳥クロニクル」と、核の部分はそう変わらないと思う。ある絶対的な敵、絶対的な暴力が出てくるところが同じ。「ねじまき鳥」ではそれは「綿谷ノボル」で、「かえるくん」ではそれは「みみずくん」だ。
「かえるくん」とか「みみずくん」とするセンスに頼った、一点突破な作品である。
そして、「ねじまき鳥」の主人公と綿谷ノボルも、「かえるくん」に戦うことを頼まれた主人公の片桐と「みみずくん」も、まっこうから交錯はしない。そういう意味ではドラマとしては不完全。でもそこに含みがある。
「海辺のカフカ」も、ぶっちゃければ似たような物語構造だ。しかしそうした「含み」を持たせつつ、少年の成長物語としてきちんと機能しているかというと、ちょっと含みを持たせ過ぎだったと思う。少年の精神的危機とか物理的な苦難というものが、私にはあまりせまってこなかった。
・その2
50万部も売れたらしいというのが、正直理解に苦しむ。わからん。
村上春樹は79年デビューで、私がその作品を読み始めたのはその10年後くらいからだが、80年代には今とは比較にならないほど時代とシンクロしていた。
他にあまりそういう作家がいなかった。
手垢のついた意見だとは思うが、70年代に学生運動だのサヨク的な考えだのが急速に魅力を失ってしまい、多くの作家が、70年代後半から80年にかけて物語世界の中でそういったことに対してリターンマッチをしようとした。
マンガでいうと「男組」だってそうだし、時代劇「おしどり右京捕物車」で、ドラッグやって乱交パーティみたいなのをしているヒッピー的若者が出てきたりしたのもそのあたりと関係していると思う。
冒険小説でも、主人公が全共闘世代で、70年代から現在までひきずってきたものをトシをとってから精算しようとするものも見受けられた。なんだか例が極端だな。すいません。
で、その中で「どのようにリターンマッチをやるか」ということが当然ながら問われる中で、村上春樹はおもいきり乱暴に言ってしまうと「個人主義」と「乾いたユーモア」にくるんでそれをやろうとした。
いちばんわかりやすいのは「パン屋再襲撃」だろう。リターンマッチをしようとパン屋に赴いたら、パン屋そのものがなくなってしまっている話。
ぜんぶというわけではないが、ときおりこうしたモチーフは作品内に顔をのぞかせ、作者にとっても重要だったのだと思わせるが、88年の「ダンス・ダンス・ダンス」で実にドウデモな結末を迎えたと思う。ここでは「ただ踊る」ことが留保付きではあるがとりあえず最良のこととされる。70年代に明確化していたような、凶悪な仮想敵は出てこない。確か。
私は、作者にとっての「70年代のものごとに対する、内面的なリターンマッチ」はここで終わってしまったと考えている。
その後、特定の時代にこだわることなく、「ねじまき鳥クロニクル」のようにより象徴的というか幻想的なお話にシフトしていったように思えるが、まあ、私にとってはおんなじことの繰り返しである。
だから、多くの人がなぜ「アンダーグラウンド」を転換点のひとつとするのかが理解できない。
80年代に話を戻すと、「羊をめぐる冒険」などの「三部作」の、時代とのシンクロぶりにはあらためて感心せざるを得ない。初めてこれらを読んだ87年にも、その輝きはまったく失われていなかった。
今から考えると、村上春樹の80年代諸作品は、ちょっと毛色の変わった「ノルウェイの森」を除けば70年代的なものの考え方と、90年代的な考え方をスムーズに橋渡しする過渡期的な考え方、センチメンタリズム、やり過ごし方を実に的確に表現していたと思う。
だから、現実に90年代を迎えた頃から、まあはっきり言って村上春樹の、デビュー時からの村上春樹的な何かというのは役割を終えたのだと思う。
次の段階で、おそらく村上春樹は「70年代的」なものごとにこだわらない、もっと象徴性の高い物語を構築する試みを始めたんだと思う。しかし、おそらくそれの長編としての最初の試み、というか後から見れば準備段階ともとれる「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」(85年)が、「これって全共闘世代の物語じゃねえのか」的な部分を持っているからこそ、いちばん面白いように感じてしまう。
80年代に、村上春樹は「小説はテクニックだ」みたいなことを言っていて、それはおおやけにはあまり語られないことだった。今はそうでもないと思う。小説内でのガジェットの用い方なども、当時としては突出してシャレていた。またヘンな言い方になるが「広告代理店ぽい」ところを持ち合わせていながら、広告っぽいところにはストイックだと思わせるところに、一種のダンディズムが感じられることが特徴だった。
しかし、そうした「春樹的なもの」は、ほとんどが他分野に模倣され吸収されてしまった。正確に言うと、村上春樹の方が拝借していたのかもしれないが、それは80年代には画期的なことだった。今はだれでもやっている。
何が言いたいかというと、少なくとも私にとっては「昔は良かった」と言いつつその手法が新鮮だった村上春樹そのものが「昔は良かった」の「昔」の部分に組み込まれてしまったということだ。
どうもマイナスな意見でスイマセン。
(03.0815)
【CD】・アルバム「MIKI 1」 藤本美貴(2003、ハチャマ) [amazon]
本作は藤本美貴のファーストアルバム。今年の2月頃のリリースだが、オフィシャルページのディスコグラフィーが実にいいかげんなのは何とかしてほしい。どのシングルが何年何月何日に出たかくらいは明記してほしいです。バイオグラフィーは昨年7月で止まっちゃってるし。
内容は、曲の半分以上がCDシングルで聞くことができるという購買欲的には微妙なモノ。しかし、「シングルをロクに持っていないがまとめて藤本美貴の歌を聴いてみたい人」にはオススメだ。ボンブラのファーストアルバムのときにも同じこと書いたな。
「ごまっとう」以来、モー娘。加入やカントリー娘。加入などのユニット活動が続き、なおかつどうしても仲良しの松浦亜弥と比べられてしまうという、幸運なんだか不幸なんだかわからないポジションである昨今の藤本ミキティーだが、シロウトの私が聞いてもシングル曲はどれも非常に丁寧に、アイドルファンのツボを付いてくるつくりになっている。
シロウト耳で聞いてみても、この人はとても面白い声をしている。一度聞いたら忘れない。だからこの人がソロデビューをした理由はよく理解できるのである。歌のうまいヘタ、トータルなタレント性は別にして「特徴のある声」ということで言うと、ハロプロ内でも松浦、藤本、あと加護ちゃんくらいしか思い浮かばない。
んだから、娘。加入にしても、楽曲面では幅を持たせる存在になっていると思うんですね。ミキティーは。
後は、単体でどのような「アイドル的たたずまい」を獲得できるか、というのが僭越ながら課題だと言わせていただきます。松浦とのコンビは良かったけど、そんなにいつも一緒にいられるわけでもないし、何らかの方法で、一人で前に出るすべを身に着けた方がいいと思う。
なお「恐い」という面においては、実はそれほど心配していない。藤本美貴は、自分のアイドルとしてのオーラを信じていると思うから、一定以上のハメははずさないと思う。
それより心配なのは田中れいなだ。大きなお世話でしょうが。
(03.0814)
【テレビ】・最近の「おはスタ」 (2003、テレビ東京)
4月の改変ですっかり見る気をなくしていたおはスタだが、ボチボチとは見ている。
今期のおはガール・スターフルーツは、人選、売り出しともに試行錯誤の印象。キャラクタービジネスのプロ、小学館プロダクションが(おそらく)ついていながらのこの中途半端っぷりは実に謎だが、まあそんな舞台裏はいくら詮索してもわからぬことだ。
番組としては、ゾナーと組んでのポカスカジャン、日替わりでダンディ坂野、雨上がり決死隊、鉄拳と、若手お笑い勢を揃えて面白いと言えば面白いが、そのキャラクター性に頼りきっていると言えなくもない。正体不明のB級、C級タレントが番組独自のキャラクターを演じるという面白味は薄れたようだ。
先に否定的な印象として書いた現おはガールは、毎日見ているとそれなりにちゃんとしている子たちだということはわかる。3人とも、少なくとも昔の安藤希やあびる優(旧おはガール)よりはよっぽど使えるだろう。キャラクターもはっきりしてきたしね。
ただ、スタジオの天井からぶら下がってる謎のさなぎ「黄金虫」はまったくいらないだろ。なんか自己満足っぽいぞ。
(03.0814)
【テレビ】・最近の「セクシー女塾」 (2003、テレビ東京)
メンバーは「ROMANS」という新ユニットとして、8月20日にCDデビューも決定している。
何度か書いているけど、いやーこの番組面白いよ。何が面白いって、おそらく現在三十代ちょい上くらいの人間がつくっていると思われるところが。だから二十代、十代のやつはもう元ネタがわからなくてもいいんです。
台本にオタクネタをビシビシに入れている。基本設定「女塾」に加え、秀才の「IQガールズスクール」(紺野、メロン村田)、「聖ナチュラル学園」(小川、メロン大谷)などが挑戦してくるという設定はジャンプパターンそのものだし。
「なぞなぞMAKI先輩」という別コーナーでは、後藤真希に「スタンド(もちろんジョジョのスタンド)」、「キャシャーンの主題歌の前の台詞」などを言わせ放題。
OPコントでは、「ガンダム」、「銀河鉄道999」、「戦隊モノ」、「ワンピース」、「キョンシー」などやらせたい放題。昨日のネタでは、石川だの矢口だのが「食玩」を話題にしていて、もうそんなのとはまったく関係ないところに生きている娘さんたちが「ショクガン」って言うだけで私は笑ってしまいます。楽しすぎる。
「星のカービィ」の「星のフームたん」が話題になるなら、こちらもなるべきだ! と思うけど、少し違うのは、オタク的物件の扱いが、真性オタクというよりはそういうのにちょっと詳しいかつての大学生ノリ、とでもいったたたずまいを持っていることだろう。
そういうこと自体がカンにさわる人もいるかもしれないが、飯島真里や太田貴子がオタクをバカにしたような発言をして人気が落ちた(と聞いたが私は彼女らのファンではないので真偽不明)という80年代について考えるにつけ、隔世の感を抱くのである。
参考:
・「セクシー女塾」にアヤカ登場、ジュジュのセクシーな冒険(当HP内)
・「セクシー世紀セヴァンゲリオン」(当HP内)
・石川以上斉藤未満(活字セクシー女塾サイト)←かなり詳細な、毎回の解説があります。画像もアリ。
で、マチコ先生役の「友近」という女性のお笑い芸人も、けっこう面白いんですよ(ファンページ)。
最近はセクシーなキャラクターもつくらなくなってきて、単なる普通のしゃべりになっているんだけどよけい面白い。「化粧品の勧誘電話のモノマネ」とか。
ちょっと調べたら、関西より向こうでずっと活動してきた人らしいんですけど。今年30歳になるらしくて、現在30歳の人って、30代半ばの私の世代に近いものの考えをする人と、まったくそうでない新人類(死語)的な人といると思う。で、この友近って人は私世代の方に近いネタをかましてきてくれるから面白いです。
考えてみると女性のピン芸人だけでも、田上よしえ、だいたひかる、青木さやか、そして友近となんだか増えてきてますね。あとグループでは「北陽」と「森三中」か。どの人もそれなりに面白いし。
昔は山田邦子とさいとうゆうこくらいしかいなかったからなあ。ピンということで言うと。これも隔世の感を抱く理由のひとつだ。
【テレビ】・「セクシー女塾」終了 (2003、テレビ東京)(03.0928)
(03.0814)
【雑記その4】「えっ!藤本美貴って浜崎・宇多田よりウマかったんだ!?」、「プロアクションロッキー(PAR)FC用」
・キムネさんに掲示板で教えていただいたFLASH excitingの記事。
えっ!藤本美貴って浜崎・宇多田よりウマかったんだ!?(2ちゃんねる)(←ニュースコレクターin天上の飛鳥(試用期間))
思ったよりきちんとした記事だった。しかしその上で言うが、こういう評価に意味があるのかどうかは少々ギモンではある。
「うまいからといって、売れるとはかぎらない」のが広義のポップスの世界だからだ。
以前にも書いたかもしれないが、かつて「題名のない音楽会」で、紅白出場歌手の歌を声楽家が歌い、どれだけ差が出るか(当然、番組としては声楽家の方がうまいというスタンス)を試すという企画があった。
もう死んじゃった、なんたら言う人が司会の頃だからだいぶ前だ。まあ口幅ったい言い方だけど、思想的に左翼じゃない側であった司会者の、頑固オヤジ的イチビリだと考えて笑い飛ばすこともできた企画だ。というか、そうすべきなのだろう。が、私にはどうしても許せなかった。
ひとたびポップスの世界に足を踏み入れれば、「うまい、へた」は絶対的な評価基準でなくなってしまうからだ。それはタレント活動をする際にクラシックの人にも言えることで、「バンテリン」のCMに出ていたバイオリン奏者の女性(名前忘れた)が、顔がブサイクだったら出れただろうか? いや出られない。
「別にうまくなくてもいい」ものを別基準に照らして「ヘタだ」と言っても、それは皮肉にもならないと思う。その辺、FLASHの記事はさすがにある程度ふまえているのではないかとは思うが、「題名のない音楽会」はそうではなかった気がする。単なる教養スノビズムだと思う。むろん、ポップスでも「うまいへた」は存在するだろう。
だが、それが絶対的な基準のようにふるまってはいけないと思う。
あくまでも、それこそトリビアな存在でいいのではないか。
「藤本美貴は(すごい間が開いて)浜崎・宇多田よりも歌がうまい」
へぇ〜。
・プロアクションロッキー(PAR)FC用(←だ☆めーづ、8月11日)
PAR(FC用)は「秘技」を使えるゲーム周辺機器。秘技を使えば、レベルやお金をMAXにするなど、さまざまな効果を得られるのはもちろん、好きなアイテム99個入手したり、無敵状態でどこまでも突き進むことだってできるんだ!
まあ時間のない社会人が、「子供の頃買ってもらえなかったソフトを入手して遊び倒す」という点においてはけっこういいのではないかと。キャラクターがロッキーというのもなんだか合ってるぞ。ボーナス特典に「ロッキー」のマンガがついているんだよな〜。読みたい。
参考:
・「ファミコンロッキー」1巻感想
・「ファミコンロッキー」2〜9巻感想
・ファミコンロッキーリンク集(当HP内)
(03.0812)
【小説】・「スプートニクの恋人」 村上春樹(1999、2001、講談社文庫) [amazon]
22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった。それは行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒し、片端から空に巻き上げ、理不尽に引きちぎり、完膚なきまでに叩きつぶした。―そんなとても奇妙な、この世のものとは思えないラブ・ストーリー。
……とかどっかに書いてあったけど、ぜんぜんラブ・ストーリーじゃない。「ノルウェイの森」は恋愛小説だったと思うけど、本作は恋愛小説じゃないよ。
小説家志望の女子大生・すみれが、小説修行に専念するために大学を中退する。そして、ひょんなことから出会った年上の女性・ミュウに憧れ、恋をし、彼女の秘書として働くことになる。それが、すみれに恋している「ぼく」からの視点で語られる、というような内容。
でもいわゆる三角関係的なものでもないし。恋愛小説ではないわな。
なんで今頃、4年も前の小説、しかも村上春樹作品のレビューを書くんだって? 古本屋で見つけたからだよ! 悪いか! フギャーッ! それはものごとの悪い面だ! やれやれ!
それにしても、ネットで見ただけでも本作に関しては実にさまざまな意見があるな。
その中には「作者は模索している」とか「新しいことをやろうとしている」とかいう意見もあったけど、私が読んだかぎりでは、村上春樹というのは今後何を書いても、そんなに新しい何かが出てくるとはとうてい思えない。「海辺のカフカ」はまだ読んでないんだけどね。
で、「新しいものは何もないな」と思いながら読んでいったんだけど、ラストで不覚にも少し感動してしまったんだな。
ネタバレになるから書かないけど、ラストは、あれってデビュー作の「風の歌を聴け」のラスト近くで、ラジオのDJが唐突に「ぼくは 君たちが 好きだ」(大意)って語りかけることと、まんま同じだと思うんだよ。
孤独な人同士がそれぞれわかりあえなくて、すれ違って生きていて、それでもふれあえる瞬間があるという、言ってみれば何でもないこと、人生の途上でかすかに起こりうるその瞬間、そういうものについて最後の最後に描くために、本作のような何百枚もの長編小説を書いたのだと思うんだよね。
村上春樹本人は、自身の小説が少しずつ変化しているというような発言をしているらしいんだけど、いい意味でも悪い意味でも、私は変化していないと思う。それは本作を読んで思った。
村上春樹は(まあ作家ってものは本来そういうものなのかもしれないが)、いくつかのテーマを、繰り返し順番に書いていって、発表するたびに少しずつ少しずつ描き方や構成などが長けてきているけど、核となるものは結局は同じ。
だからその「同じ」であることを、いいと思うか悪いと思うかで最終的な評価が決まると思う。
村上春樹を知るために本作を読む必要はないとは思うけど、入り組んだ構成で、フッと最後に(私が思う)浪花節的なラストが訪れると、やっぱりプチ感動(大感動ではない)してしまうんだよな。
それと、ぜんぜんカンケイないが、ネット上の本作に関する感想はクダラナイのが多すぎる。もう長ったらしい自分語りはやめろ! あと分析も中途半端。ツッコミも甘い。グーグルで検索してランダムに三本本作のレビューを読んだが、どれもなんだか鼻持ちならなかった。もっと素直になれ!
まあこの私の駄文が面白いかというと保証はできんが、村上春樹について語るのに、無意識に村上春樹の文体になっちゃってるのとか最低でしょ。そういうのは避けたいっスよね。だからわざとくだけた文章にしてみたダス(「ダス」っていうのはイタイかも)。
あと、さすがに村上春樹の小説に出てくる男は女にモテすぎだとは思うな。なんかねえ、がっついてないだけ不気味なものを感じる。ある意味、大薮春彦の小説に出てくるような男より危険なタイプだろうこういうやつは。
それに、モテることに必然性がないのが恐い。「女に不自由していないやつにも、実存的な悩みはある」ということなわけ? なんだかわかんねー。
(03.0812)
【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2003、テレビ東京)
なっち卒業&ソロ記念スペシャルとして、ライブでの卒業発表の様子が流れた。
確かに、スクリーンに映し出されるハイテンションのつんく♂にはヒクなあ〜。あれに怒りを覚えた人も少なくなかろう。
そしてスタジオで「なっち裁判」という企画。要するに、メンバーから「安倍なつみさんにはこういう悪いことをされた」というのを申告して有罪か無罪かを決めるというものです。
見終わってはんすうしてみると、やはり私の心の中では「なっちVSミキティー」という対決カードが組まれている。藤本美貴の、コンサートにおけるなっちの言い間違いの指摘に「それもその場でツッコんでるんですよ」みたいなことを言って追い打ちをかける、屈託のない(多分ないんであろう)よっすぃー。
この場合、よっすぃーが緩衝剤になっているのか。それともさらにマズい方向に話を広げているのか。当事者にしかわからないことだろう。
別のサイトで、メンバーのだれがどの罪に「有罪」か「無罪」かの判定をしたかをぜんぶ表にしてあった。そしたら、藤本美貴ティーだけ全部有罪にしていた。こ、恐いよー。
さらに、別の意味で興味深いのが「加護VS辻」。二人は別に競っている意識はないだろうが。
「安倍なつみのエレベーター内でのようす」を、他のメンバーのものまねやジェスチャーもまじえて立体的に話す加護。それだけでじゅうぶん面白いし、オチまでちゃんと持っていこうという意志が見られる。
それに対し、「安倍さんの化粧のときの顔がコワイ」という話題のときに、「こういう顔をする」としてマネた辻の顔が私としてはツボに入ってしまい、大笑いしてしまった。
やはり堅実に、意識して笑いを組み立てていく加護と、別に笑わせようとしていないのにたまにホームランの辻という図式がここでも(私の中で)明確に。
まあ殿馬VS岩鬼って感じですか?
「ハロプロワイド」のおじゃマルシェ紺野は、安倍さんとはちょっと手が合わないようだった。
(03.0811)
【アニメ】・「わがままフェアリー ミルモでポン!」第68話(2003、テレビ東京)
しかし、幼なじみの梅園桃が一緒に行くと言いだしたから計画が狂ってくる。桃は、松竹グループと一、二を争う梅園グループ会長の娘。そんな彼女をムゲに扱うわけにもいかず……。
正直、内容を忘れた。でも楽しかったよ。兄妹のように仲が良かった親戚の女の子が、少し大人になってきて恋をして、おにいちゃん的役割だった男の子を困らせてしまうという定番の話。
松竹グループにおいて、執事的な役割の平井に対抗して梅園グループでは女性が同じような役を担っていて、平井とライバル同士というのが面白かった。
(03.0811)
【アニメ】・「わがままフェアリー ミルモでポン!」第69話(2003、テレビ東京)
一方、街へ買い物に出かけた楓は、そのソフトに出会い、真里奈の家を探すことに……。
いつもそうだが、ミルモや楓のトラブル解決に協力的な結木くんと一緒にいたいだけで、何も手伝おうとしない安純には本気で腹が立つ。ある意味ジャイアンよりもやっかいな女。マジで教育上よくないよコイツ。
ムリヤリお話にからんできた松竹くんに大笑いした。
(03.0811)
【アニメ】・「わがままフェアリー ミルモでポン!」第70話(2003、テレビ東京)
妖精二人の楽器を使う「セッション魔法」というのが出てきている。これのシーンが、それぞれの楽器の音色の合わさったテーマ曲が流れて、とても楽しい。ベタなノリツッコミも、とても楽しい。
(03.0811)
【アニメ】・「わがままフェアリー ミルモでポン!」第71話(2003、テレビ東京)
どーでもよさげなモノが伏線になっていたりと、藤子・F・不二雄的な伏線に対する律儀さが好感が持てる。とてもよくできた回。
(03.0811)
【雑記その3】「占い式!漫画ナビ」ほか
・「占い式!漫画ナビ」
スズキトモユさん執筆の占い形式のマンガ紹介。ちなみに私はグループCでした。
「占い式!漫画ナビ」結果リスト(ありさとの蔵)
こうしたネタ的アプローチでありつつも、しっかりレビューとして成立している企画というのは「やられたー」と思いましたね。よほど全方向的なというか、フレキシブルな頭と腕がないとできないですから。「ネタ、そしてレビュー」は私の目指すところでもあるし……。
しかし絶望的なのは、私が占いをやってみて最初グループ「C」だと思って申告したつもりで「E」と書いてしまったことだ。こんなに何度も訂正したら、私がいいふうに見られたいと思ってウソ申告しているみたいに思われてしまう。
精神的に打たれ弱いという側面もあり、ひとたび挫折を経験すると回復までに長い時間がかかることも。
そのとおりだよ……だれか助けてくれ……。っていうか具体的に若く、きれいでなくても気だての優しい女の子に助けてもらいたい……。
言ってることがオヤジくさいのでさらに絶望だ……。
・マンガ家のあびゅうきょ氏の日記を、ときどき読んでいる。
その中には同意できる部分とできない部分があるが、7月、8月の日記の7月30日と8月8日の日記は氏の真骨頂というべきだろう。
7月30日は「サマージャンボ宝くじ」について。
「もし3億円当たったとしても、全部一円玉に両替えして渋谷か新宿の繁華街のビルの上からスコップで全部ばらまく。」(引用していいかどうかわからないから、大意)
……か、カッコいい。私にはとうていできん。3億円当たったら、私の現在の悩みの99パーセントまでは解決してしまうだろう。
8月8日は「モー娘。」で自衛官募集 防衛庁がポスター一新
について。
「モーニング娘は全員日の丸鉢巻きに制服姿、そして両手には骨壷を大事そうに抱き、ロケ地は無論、靖国神社にするべき」(引用していいかどうかわからないから、大意)
……すばらしい。まあこの日記だけだと意味がくみ取れないかもしれないが、氏のマンガを読んでいるとなるほどと思ってしまうブラックユーモア。いや、本気かもしれんと思わせるようなきわどいユーモア。
すごいね。
(03.0810)
【雑記その2】80年代前半について考えてみた
・「ぶっとびマンガ 電子版その2」の「マッスル超宇宙マッスル超絶マッスル世界」2に、「熱笑!! 花沢高校」全29巻 どおくまんを追加しました。ワンクリックするのが面倒くさいかもしれないけど、「マッスル」系としては実にひさしぶりの更新です。よろしく。
ここでは、「熱笑!!……」が連載されていた80年代前半のマンガとかアニメ関係について、少し私の思うところについて補足を。
まあ私が今頃になって言うのも本当にバカな話だとは思うんですが、とくにブンカ的な歴史というものは一夜にして変わってしまうことはなく、あっちこっちでギクシャクした変化が起きて徐々に変わっていくものなんだなあとあらためて感じる。
マンガやアニメにおける80年代というのも、考えるほど面白い。まあ私がその時代に思春期だったことが大きいけど。
たとえば、80年代後半か90年代初頭には、80年代は「軽薄短小」で「スカスカだ」と言われた。「言われた」っつったって、そういうことに興味のある一部の人だけだけど。
でも、何となく調べるだけでも、80年代前半というのはそうとは言いきれず、非常に混沌としていることがわかる。
70年代中盤に、学生運動の終息に伴い若者が「三無主義」などと言われ無気力を批判された。あくまで一般的な解釈ではあるが、それと入れ替わりにSF映画やアニメのブームが起こってオタク黎明期が始まっている。
で、マンガにおいては少年ラブコメの出現や美少女マンガブーム、芸能関係では漫才ブームが起こる。80年代後半にはオールナイトフジやおニャン子クラブが出現することによって80年代は「軽い」という印象を付けられがちなんだけど、調べるとやっぱり今に比べるとギトギトしていると思う。
当時のマンガを観ると、意外に絵が古くさく感じる。まあ今二十代前半の人とかからすれば当然だとは思うが、私が観るところすごい混迷記で、70年代的浪花節路線も、ニューウェーヴも、アニメ絵も少女マンガもゴッチャになっていた印象。
「みゆき」などの少年ラブコメが流行る一方で、「激!! 極虎一家」が載っていたりして、両方人気があった。
アニメではリアルロボット路線の、今でも記憶されている「ガンダム」、「ダグラム」、「ボトムズ」などという、今のアニメと比べるとギトギトしたのをやっていたし、さらにプラモデルでガンプラをマネした路線が、カタチだけはマネしていたけどガンダム的世界観を理解せず、「亜空大作戦スラングル」のメカをいっぱいプラモ化してみたりと、混乱が観られる。
ガンダムはガンダムなりのギトさがあったけど、スラングルはスラングルのギトさがあったしね。
J-POPではなく、もうちょっと日本的ギトギト感の強かった「ニューミュージック」というカテゴリーがあったし。
最近、嶋大輔が「男の勲章」[amazon]をリバイバルさせているが、あれが初リリース当時は、「男組」的な不良感と「ビーバップ」的な不良感との中間的な位置にあったと思う。まあ「銀蝿一家」自体がそんな印象なんだけど。
これは私の世代的な印象だが、こうした混沌が軽んじられてきた(と私は思う)一因は、これらギトギトしたものよりも、もっともっとギトギトしていたものを享受してきた全共闘世代の人々が、それらを「おれらのギトギトに比べれば、薄い」として評価しなかったからではないかと思う。
確かに、80年代前半のギトギト感は、60年代、70年代に比べると薄味であることは否めない。それ以前を定食屋のレバニラライスとすると、80年代前半はファミレスのちょっとギトりとした肉料理のようなイメージがあるから。
実際、「ガンダム」なんかは「脂っこくない」という理由で批判されているのを読んだことがあるし。
そんなわけで、80年代前半のギト感は、ガンダム的なものは「リアルロボットアニメ」として、「ゲームセンターあらし」は「ガキ向け」として、車田正美は美形キャラの構築によって「やおい」に、本宮ひろ志は「本宮マンガ」という1ジャンルとして腑分けされていってしまった。
宮下あきらは無手勝流の「極虎一家」からトリック重視の「男塾」へ移行するし。
だから「混沌」として認識されないのではないかと。
過渡期と言ってしまえばそれまでだが、やっぱり印象だけでなく原典に当たらないとダメだなと自戒した次第。唐突に終わるが。
(03.0809)
・「莫逆家族」(1)〜(7) 田中宏(2000〜2003、講談社) [amazon]
ある日、親友の娘であり息子・周平のガールフレンドである真琴が街の不良どもに拉致されたことをきっかけに、落ち着いてオトナになったはずの、鉄の溜めていた怒りが爆発する。
鉄は、かつての暴走族の仲間によって、魂で繋がれた「家族」をつくり、「家族」を守り、「家族」のルールによって生きていこうと決心する。こう決めたとき、鉄の心に輝きが戻り始めた。
しかし、仲間に強い結束を求めるということは、同時にそこから排除するものを生み出し、そしてそれは牙をむいてきた。暴走族時代に傷つけたもの、背負っているものを再認識させることにもなった。
さらに、鉄を憎んでいる敵が、もうひとつの「家族」をつくろうとしていた……。
少年マンガの主人公、とくにアウトロー的なキャラクターは、その後の人生が想像できないやつが多い気がする。スポーツマンガではプロになればいいが、アウトローすぎるとその後どうやって生きていくんだろうと他人事ながら心配になる。
学園もので主人公が教師となって学園に戻ってきたり、逆にものすごい立身出世をして社長になってしまったりというのが思いつくパターンだ。「魁! 男塾」の桃太郎たちは、同じ作者の「天より高く」で江田島塾長の言うとおり政・財・官を牛耳るところにまで出世している。
ところが本作で、十代の頃暴走族の頭になり、憧れられていた男たちがどうなったかというと、建設作業員、町の電気屋、ジゴロ、シェフ、警官と実に現実的。暴走族時代の殺人が元で刑務所に入ってしまった者もいるし、一人、先にミュージシャンになる夢を求めてゾクを抜けたヤツが結局挫折して、現在いちばんダメっぽかったりするところは泣けてくる。心にしみるわぁ〜。
彼らは結局、十代の頃の親友の絆がいちばん強いと感じ、「家族」をつくって暮らしていこうとする。しかし、それは過去の惨劇を背負って生き続けるというマイナスの意味も持ち始める。
また、彼らの背負っていたものは、彼らの子供たち、次世代にまで影響を及ぼしはじめ、新たな惨劇を呼ぶ気配すらする……。
さすがに6巻あたりでは、おそらくすでに決まっているお話を消化してしまうと早く完結してしまうためか横道にそれた話も多い(それはそれで面白い)が、抗争が繰り返されていくうちに、過去の因縁がどんどん掘り返されていくあたりの展開は絶妙だ。
ヤンキーものは地域に根ざしていることが多いが、それを逆手にとって十代におこした過ちが三十代の主人公たちに影響してくる展開や、三十男たちがヤンキー的ふるまいをしてそれが通ってしまうことを一種のファンタジーとして描いているところなど、読んでいて実にいろいろと考えさせられる。
また、設定そのものはヤンキーマンガというジャンルの成熟、爛熟を表している。お約束を繰り返さなければならないジャンルほど、シバリが逆に真新しい作品を生むことがあるが、本作もそんな感じである。
そうか、もうここまで来たのか、という印象だ。
(03.0807)
・「ゴールド」(1)〜(7) 山本隆一郎(2001〜、少年画報社) [amazon]
一方、コータは家の事情で塗装屋になることを断念、やくざの舎弟になり、スーはバンド活動に専念、3人の心は次第にすれ違ってゆくようになる。
ドラゴンは「大阪の喧嘩王」のゴールとして、ティーンエイジ・マフィア「ロットン・アップルズ」を倒すことをスバルに提案。しかしそれは、そこらのゴンタクレが集まったところではとうていたちうちできない、ヤバい「組織」だった……!
ずっと前、当HPで「最近のマンガはつまらん」みたいなことを書いたが、正直、間違っていた。そう思わせる作品。
本作は、基本的にヤンキーマンガである。ヤンキーがダラダラしてときには抗争して、というジャンルだ。異論はあるだろうが、私はジャンルの約束事を保持している作品が好きである。むろん、それを破壊することで新しい地平が見えてくることもあるが、約束事を保持しつつ物語を展開させるのもかなりのテクニックを必要とするし、またそのシバリが読んでいて面白い。
本作で目をひくのは、まず主人公3人が「夢を、目標を持とう」と思っている点にある。少年、青年マンガでは主人公の目標が異様に明確な場合とそうでない場合がある。たとえば同じヤンキーマンガで言えば「ろくでなしBLUES」(→感想)は、そこら辺がアイマイだった。
もっとも、いまどきの高校生は将来の夢など明確に持っていないのが当たり前だとも言えるし、「ユルく、長く連載を続ける」という意味でも、明確な目標を持つと何かと都合が悪いという側面もある。
自分がバカだと承知で書くが、「主人公が明確な目標を持たない」現象はヤンキーマンガと少年ラブコメというある意味両極端なジャンルで、80年代に車の両輪のように起こっていたことに、最近気づいた。
少年ラブコメの少女マンガにすらないダラダラ感は、80年代に「後ろ向きの反抗」として、それがテーマとして全面に出ないことが多いながらも展開されたが、ヤンキーマンガでも明示はされていないが同じような動機で演出されていた。
さて、本作では主人公のスバルを始め、スーもコータも明確な目標をもって動き出す。モラトリアムを持たないのだ。しかし、ヤンキーマンガの方法論では意味なく全国制覇を唱えたり、凶悪な不良を正義の名のもとに倒したりすることはあっても、明確な目標を持ったらそこで終わってしまう。ツッパっているヒマなどないからだ。
だが、スーやコータはともかく、スバルの目標が「大阪の喧嘩王」というのがふるっている。これは「プロのミュージシャンになる」とか「やくざになる」というのとはまったく異質な目標だ。しかもそれがお題目に終わっていない。スバルが「大阪の喧嘩王」を目標にすることが、他の2人と何ら変わることのない目標として、読んでいて感じられるのだ。
これはヤンキーマンガというジャンル性を保持する上で、たいへん重要な点である。
そして、「大阪の喧嘩王」という傍目からは無意味と思えるスバルの目標に、強烈に異議を唱える、究極とも言える「実のある目標」を持ったキャラクターが現れる。
それが「ロットン・アップルズ」のリーダー、御吉十雲(みよし・とうん)である。
彼は養護施設で育ち、運命のいたずらから暴力団の組長の養子となり、それを基盤にし、さらに人一倍努力して成り上がろうとする。
そのためには罪もない人間を殺すことなど何とも思わない。要するに「本職」の方である。
ここでも、「本職」の方とヤンキーのケンカというのはかなりありえないし、実際激突すればまったく別の「本職」っぽい物語に移行してしまう可能性もあるわけだ。
ところが、現在のところヤンキーマンガというジャンルからは逸脱していない。
どう考えても「大阪の喧嘩王」よりは、やり方の是非はともかく御吉十雲の野望の方がハタから理解はできる。ところが、スバルは御吉の夢を否定するのだ。
そこがすごい。
スバルの夢はキャラクターの中でもいちばん不明瞭だが、それだけに大きさを感じさせる。ここでスバルが「成り上がろう」として御吉と同じレベルで争ったら、それはマフィアの抗争ものであってヤンキーものではない。しかしスバルの夢が不明瞭で大きいがために、ヤンキーマンガとしてのジャンル性も保持しているし、なおかつ後の展開もいい意味で予想できないものになっている。
むろん、もしかしたら「ヤンキーマンガの範疇を出ない」ことはストーリーの組み立てに何らシバリになっていないかもしれないが、とにかく7巻まで読んだ段階ではあくまでも「ヤンキーマンガ」の範囲内で何かをやろうとしていると感じられる。
そして、それゆえに物語の緊張感が保持されている。
読んでいて、何度も唸らされましたよ。
(03.0804)
【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2003、テレビ東京)
矢口率いるキッズのユニット「ZYX」の曲披露。想像していたのとぜんぜん違ってた。矢口がセンターってわけじゃないし、歌詞も妙に大人っぽい。「ミニモニ。」をのれん分けしただけじゃなかったんだなぁ。
こういういい意味での裏切り感覚が、全盛期の、南方熊楠のマンガとかとつぜん載せていたころの少年ジャンプを連想させて、とても面白い。
今回の企画としては「モーニング娘。に100の質問」とか言ってましたが、実際100の質問は出たけど答えたのはそのうちほんのいくつか。
なんだか最近、安倍なっちさんのトークが目立つ。
今回も「モーニング娘。に必要なものとは?」みたいな質問のマジトークで藤本に「モーニング娘。に入って学んだことって何?」とふる安倍なっち。こ、恐いよー。
やっぱりこの2人の間には、見えない火花が散っているよ。
そのときの藤本さんの表情は、私が「翻訳コンニャク」で翻訳したところ、「ンだよ! あたしがソロでわがままこいてたって言いたいのかよ!」ということでした。でもその気持ちもわかるね。いや、ホントにそう思ってたかどうか知らないけど。
あと、飯田さんと安倍さんは、わりとねばっこい説教をする人たちなのではないかと、少し思った。まあ組織のリーダーですから。
「メンバー内にライバルはいるか?」という質問で、「いる」と答えた人が数字で出るようになっていた。五期メンにふられて、でも結果は「2人」という実に中途半端な数字。なんかこの辺がすごく「五期メン」って感じだった。
たぶん六期なら、3人全員ボタンを押すだろう。
「ハロモニ。劇場〜駅前交番物語〜」。わー、めんどくさいから飛ばしちゃいました。スイマセン。
「目指せ! ハワイヤ〜ン娘。」。フラダンスのときに頭に着ける髪飾りをつくってました。
それにしても、オッサンの私から見るとモーニング娘。ってほとんどがノースリーヴで「ノースリーヴ女子軍団」という感じ。中澤裕子まできっちりノースリーヴだった。夏だねえ。
(03.0804)
・「ろくでなしBLUES」(1)〜(15)(全42巻) 森田まさのり(1989〜91、集英社) [amazon]
それを心配そうに見つめる千秋ちゃんとの恋の行方も、どこでどうなってくるかわからない学園生活なのであった。
ヤンキーマンガについて考える際、真性ヤンキーマンガとはちょっと言いがたい雰囲気を持ちながらも、人気の度合いや発表年度などから注目せざるを得ない作品。
単なる予想だが、連載当初はボクシングマンガにしようとする芽もあったのではないかと思われ、展開がどう転んでいくか予想がつかなかった。太尊は一刻も早くプロボクサーになりたい男として描かれており、ライバルの畑中(ボクシングでオリンピックを目指している)という男も早々に登場している。
ところが畑中は序盤で表舞台から退場してしまい、太尊も、急にプロボクサーのライセンスをとることを仲間に恥ずかしくてうち明けられないということになってしまう。
その後も、ボクシングが常に話にからんでくるが決してボクシングマンガにはならないとか、毎日練習しているボクサーにふだんからダラダラしている感じの太尊がケンカでは一歩もひけをとらないとか、妙な話になってくる。
実際、作者が「ボクシングを描くより学園生活の方が人気がある」みたいなことを、単行本の対談の中で言っている。
太尊のダラダラ学園生活に大義名分が見当たらないままお話は進むが、単行本14巻にしてやっと、再登場した畑中とのスパーリングによって太尊は「自分は今、仲間たちと遊んだりケンカしたりすることがいちばん大切なんだ」と気づき、プロのライセンスは卒業してからとろうと決める。
ひとつの雑誌の中だけで何かの継承があるわけではなく、当然マンガ家も編集者も他のマンガ雑誌を読んだりしているわけだが、それにしてもいちおうの系譜というものはあると考える。
少年ジャンプは、他誌に類を見ないほどの「男気」の雑誌であった。しかも旧態依然としたものを引きずっているというのではなく、「男気」で600万部まで行ったような雑誌である。
そんな中、「男気」的観点で言えば、太尊はストーリーの序盤で、畑中の影響によりすぐにプロになってもおかしくない。しかし、むしろ展開は学園の方に向き、他校とのケンカや千秋とのラブコメ的展開が繰り返されることになる。
連載上の都合とはいえ、本作のような男らしいマンガが「目標があるのにそれに邁進しない」という展開になったことは、ジャンプ誌上では「きまぐれオレンジロード」などのラブコメ大ヒットなどには及ばないが時代の流れを表していたのではないかと思う。
「登場人物はヤンキーなのに、ヤンキー的ディティールがハッキリしない」、「主人公がボクサーより強い」、「なぜかボクシングとつかず離れずの微妙な展開」などのかなりムリヤリな流れを、いざ読むとあまり感じさせないのは、作者の画力とボクシングに対する説得力ある描写によるところが大きい。
「ビーバップ」で有名になった「鼻割り箸」だの「ボンタンなどのヤンキー的オシャレ」のような細部はあまり描かれないが、地元・吉祥寺や井の頭公園の描写は非常にきっちりしているし、ボクシングジムでアッパーを学んだ太尊がそれをケンカに応用するシーンなどには説得力がある。
また、ヤンキー=ヤザワ信者と自分は違うタイプの男気を持っているんだと作者が主張するかのように、作品内にパンクやブルーハーツの曲がけっこう出てくるのも面白いところだ。
チバや神奈川を舞台に、流れてくる音楽はヤザワ、というよくあるヤンキーマンガに対し、本作は地元は吉祥寺で、流れてくる音楽はパンクなのだ。
ラブコメがジャンプらしいスマートさできっちりまとまっているところも、洗練されている。
(03.0803)
【雑記】「うたばん」、行けなかった「申し訳ないと」、「月刊 湘南爆走族」
でも私の周りに、JポップDJに興味のある人って皆無だからな……。
・えーとモー娘。出演の「うたばん」は7月31日だっけ? 私はけっこう面白かったですよ。ケメ子がいなくなった後の穴をどう埋めるかとうことなわけなんだけれども、逆にケメ子に頼りすぎていた今までが明らかになっちゃった……ところはまあ私にとっては別にいいんだ。
「ケメ子」そのものが、夕ニャン世代の私にはもういいって感じのいじり方だったし。
それより、石橋がいろんなメンバーに話をふって探りを入れていくような感じの中で、「無意味」に到達しかかる瞬間があった。
旬でもないし、あまり意味があると思えない矢口のソロ写真集をいじり倒してみたりとか。
6期メンバーに話が流れて言っている中で、突然流れを止めた吉澤とのやりとりとか。
そもそも、とんねるずってけっこう「無意味」に近いところにいたのを、秋元康が見出してそっち系のものは見事なまでに全部封印した。それで現在がある。
ついでに言うなら関根勤も、普通のバラエティ番組で「無意味」に到達しかかるときがある。似てねぇものまねが、ほんっとうに似てなくてだれだかわかんないときとか。
・増刊号、「月刊 湘南爆走族」が8月26日(火)創刊。最近、新刊書店で手に入りにくくなっているらしかったですが、こういうカタチで出るんですね。(「最後通牒・半分版」)
とりとめもなく、終わる。
(03.0803)
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