61ページ読みきり森田まさのり「スベルヲイトワズ」は、高校で「自分がいちばん面白い」と思っている下ネタ連発のややツッパリ風の少年・上妻(あがつま)が、学園祭に呼ばれる人気若手芸人コンビ「和田大和田」の前説で漫才をやることになる。
しかし、機嫌の悪い「和田大和田」の和田の方の機嫌をさらにそこねてしまい、帰る帰らないの事態に。「一度でも爆笑をとったら出てやる」と和田に言われた上妻は望むところだと息巻くが、相方はプレッシャーに押しつぶされて逃走。一人でやることになった上妻はアガってしまい大ピンチに。
それを救いに来たのは、上妻のようなバカはやれないがコツコツと漫才のネタを描いているハガキ職人の子安だった……という話。
私の乏しいマンガ知識では、若手芸人の青春期みたいなストーリーマンガで面白かったためしがない。理由は簡単で、熱血とか根性という部分と、実際の「ネタ」が乖離してしまうからだ。音楽のマンガや絵画のマンガというのもむずかしいが、劇中の漫才やコントの表現も非常にむずかしいと言えよう。
で、もうサブイ展開には目も当てられないので、飛ばし読みをしてしまった。ところが、クライマックス、壇上でアガってしまって言葉につまった上妻のところに、地味な子安が助っ人として現れる(子安は、上妻の潜在的なツッコミ能力を唯一評価している少年)。
.で、その子安が額に「肉」って書いてウルトラマンのポーズをとって「ドラえもん!」って言う。観客は何が起こったのか凍り付く。
ここでね、上妻が「ツッコミの能力」を見せなければならない。
それで感心したのが、登場した子安を最初ツッこまない、「流す」んですよ。
あえて流すことによって、笑いをとるのね。
ここにすごく感心してしまって(まあ「ボーボボ」とかでよくやってる手法と言えば言えるんだけど)、最初から読み直しましたよ。
そうするといろいろ面白いところが見えてきて。
まず上妻っていうのはとても外向きの人間で、下ネタ大好き。自信過剰。ツッコミの能力はあるらしいけど、クラスの女子とかは下ネタだけでイヤがるからそれに気づいてない。
最初の相方の梅垣は、上妻の下ネタに付いていけないし、「カノジョも見に来る」というのが逃亡の一因になってる。
子安は、ハガキ職人としての能力はおそらく上妻より断然上。でも前に出るタイプの人間じゃない。だから上妻に憧れているというのも説明が付く。
上妻が「和田大和田」の和田の頭をはたいてしまったために、和田が怒って帰る帰らないの騒ぎになるが、和田の顔はまったく波田陽区(笑)。テレビやラジオではボケ担当らしいが、ふだんはすごくコワイ。
でもただのイヤなやつじゃなくて、「ファンの子にチョコバナナをくっつけられた」という不機嫌な状況があって、そこに上妻の空気読めない行動があっての出演拒否だから、まあ根っから悪いヤツじゃない。
ほとんど出番のない和田大和田の大和田は、わりとフォローに回るタイプ。少ない出番でコンビの対比を表しているわけね。
他にも、上妻がニセの関西弁を使っているとか(杉並の高校が本作の舞台らしい)、文化祭実行委員の女の子の立場とかね、焦った壇上の上妻の頭が真っ白になってしまうところとか、すごく小技がきいてる。
上妻・子安の漫才台本は、まあ字面だけ追ってものすごく面白いかというと微妙なんだけど、演じる人が面白ければ面白くなるとは思う。
とにかく子安が壇上に登場したのをいったん上妻が流すというね、それが私はすごく気に入ってしまって、実際に同じことやったら受けるかどうかはわからないよ。だけどマンガとしては面白い。この一点だけでも、この作品は描かれた価値があると思います。
(05.0111)
【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2005、テレビ東京)
1月9日放送分。
公式ページ。
モーニング娘。7期決定SP。
エンエン引っ張ったあげく「該当者なし!」ということで、椅子から転げ落ちて「ズコー!」となった次第なんだけども、まあなんでもいいですわ。
前から思ってたけど、モーニング娘。の戦略って、いくら考えても予想がつかないようにできてるから。「今後どうなるか」は、娘。っていうのは帰納法で考えるしかないようにできてる。
つんくの「ロックやで」っていうのは、何も考えてないというか、正確に言うと「エンターテインメントだけではないいろんなもの、スタッフを食わせてあげないといけないとか何とか」等々を含めての一つひとつの決断だ、ということをボヤかして言っていると私は思っている。
秋元康だったら、ある程度方法論は決まっているわけだから演繹的に予想することはできるかもしれない。でもまあ、秋元の場合はどこからどこまで関わっているのかとか、そういうのがわからないからやっぱり予測のしようがないわけで。
つんくが「八手三郎」みたいな存在だったとしても、まだしも「ハロプロ全体」という枠で演繹的な予想が可能なように思えるけど、実は違うからね。
でもまあ、そういうのを楽しむのが広い意味で「モーニング娘。」なんだろう。
まあたとえばですね、PRIDEとかK-1の試合評とかをネットで見ますよね。曙だらしねえとか。
私は、PRIDEとかK-1そのものやそれを見て論評するということを否定するつもりはまったくないんだけど、でもやっぱり90年代以降的スタンスだなという気はするのね。
それまでは、たとえば「活字プロレス」とかって言っていた頃(今も言っているのかもしれないけど知らない)は、「プロレス」っていうものの真実を探すために見る側のギリギリのアプローチみたいなものを必要としてた気がする。
「私、プロレスの見方です」的な視点とすればね。
それは、一方でナンシー関的な、テレビをテキストとして見るというか、あくまでも「画面に映ったこと」のみを手がかりとして、「テレビ」という場を読み解いていくという手法と呼応してた。
まあどっちにしても、「真実」というのはあるかもしれないんだけどそれだけを取り出すことはできなかったわけですよ。
「アイドル」というのもかつてはそういうものだったし。「なんてったってアイドル」は、「アイドルは実はこういうことを考えているんだよ」っていう本音バクロじゃなくて、パッケージングされた「アイドル」っていう存在の「真実」をさらに遠ざけるための巧妙なギミックだったと思うし。
でも、K-1とPRIDEの人気が定着してから、そういう見方ってあきらかに変わっていったと思う。
活字プロレスにあったエクスキューズが、論評の中にないから。
だから、もうそこから先はわからなくなってしまったんですよね。「見る側」にそのエクスキューズが言語化されないままで共有されているのか、本当に素直に見ているのかというのが、もう評を読んでもわからないんですよ。
まあ、ものすごくマニアックな領域ではコアな議論があるのかもしれないけど、けっこう格闘技ファンでもない普通の人でも「曙ダメだね」とか「ヒョードル強いね」ってなるでしょう。私が知らない間に、すごくメジャーになってる。
で、ひるがえって同じことはアイドルにも言えて、大半のアイドル論っていうのは80年代論とリンクしてて、アイドルは80年代とともに終わったみたいなこと言ってるからダメなんです。ダメと断言。
そうじゃないんですよね。モーニング娘。は90年代後半に、セミドキュメンタリー番組の中から生まれたユニットでしょ。まあ、最初の頃はぜんぜん知らないからどういうふうにどうなってったかというのはわからないんだけど、ASAYANとかつんくっていうのは、もう80年代的なひねくれた「読み」の方法論では読みとれないところに来てたと思う。90年代も後半になって。
だから、もう私には手に負えないんです。たとえば80年代的な「読み」の方法では、ひとつには果たして「該当者なし」は狙ったものなのかそうでないのか? というところが問題になるんだけども、それはいくら考えても答えは出ない。
また、形成された「場」として、今回の放送は何だったのか? ということも考えなければならないんだけど、それも宙づりにされたままでわからないわけね。
たとえば、「七期がすぐには入らないと決まって、現メンバーは何かホッとした様子だった」という「読み」があったとするじゃない。
でも、もうそれくらいのことは送り手側で狙っている可能性はじゅうぶんあるからね。
今回の放送を真剣に考えた場合、「これで七期を真剣に選ぼうとしていることがハッキリした」ということも、「『エース候補』なんて言って自分でハードルを上げたから自爆しちゃってるのでダメだ」ということも、両方言えちゃう。
それを楽しめるかどうかっていうことになると、80年代的な視点ではムリだと思う。
ナンシー関もつんくの戦略には慎重な態度をとっていたようだけど、「あざといと言われることを承知でやって、『あざといですね』って言われたら『ええ、あざといですよ』」って答えてしまうのが秋元康だったとしたら、「あざといと言われることを承知でやって、『あざといですね』って言われたら『とんでもない、大マジです、ロックです』」っていうのがつんくなんだよね。
秋元は、たとえば「雨の西麻布」を真剣に演歌として聞く層と、パロディとして聞く層が出てくることを完全に承知していて、「わかってる/わかってない」を明確に区分しつつ、どちらもお客さんとして遇するという態度をとっていた。だから、「『雨の西麻布』っていうのはパロディソングなのに、それに気づかないヤツがいる」と言えば済んでいた。
だけども、「LOVEマシーン」になると「わかってる/わかってない」を客の階層として分けない。だれもが内心アホらしいなとは思ってた。だけども、あれを楽しもうとすると斜にかまえた態度だと楽しくないんだよ。「LOVEマシーン」を楽しむという態度は全員フラットだと思う。「マツケンサバII」とかにも言えるけど。
正確に言えば、「とくに何も考えてなくてお金を払ってる層」がいつの時代にも圧倒的に多いことは確か。そうじゃなくて、ネットとかで発言したいちょっと斜に構えた層への突きつけられ方が、それまでのものとは明らかに違ってるんだよね。
で、オーディションだとか合宿だとかということに関しては、私はいまだにわからない。その後の戦略的な意味はもっとわからない。たとえば超大物を入れるという計画が秘密裏に進んでいて、今回の番組がすべてそれへの布石だったりしたら、いくら帰納法的に考えたってしょうがないわけで。
え? その場その場で楽しめればいいだって? それはもちろんそのとおり。
その観点で言えば、現時点で応援したくなるような子はいませんでした。みうなガンバレ。
・前回の放送
(05.0110)
・「マル被警察24時」 小田扉(2003、実業之日本社) [amazon]
漫画サンデー連載。1話あたり4ページ。前半部は老刑事・赤山と、新米刑事・黒川のやりとりを中心としたいわくいいがたい味のギャグマンガ、後半に入ってから変わり者の女性刑事・藤蜂子が非番のときに探している男が、昔赤山の追っていた事件に関わる重要人物「マカナイ」とからんでくるというシリアス展開。
おお、これは何の抵抗もなくスイスイ読めたし、単行本としてのまとまりも素晴らしい。「こさめちゃん」(→感想)とか「そっと好かれる」(→感想)には当惑を隠せなかった私でも、じゅうぶん楽しめた。
これは好みの問題としか言いようがないと思うが、以前にも書いたが心理描写をまわりくどくする、あるいは人間同士のぶつかり合いを回避することによって、それを作品の体裁にしようとするというのがあまり好きではなかったので。いや、小田扉作品すべてがそうだとは言わないが、しかし明らかにそっち系の作品の傾向はあると思う(まあ、たとえば私は黒田硫黄をものすんごく面白いとは思わない、というようなコトです)。
本作は何だかんだ言っても、ギャグ部分もシリアス部分もわかりやすい。だから面白く感じた。
(05.0110)
・「傷追い人」(3) 小池一夫、池上遼一(2002、2005、小学館) [amazon]
1983年頃から連載が始まって、すでに完結している作品。コンビニ売り単行本として再販。
恋人を殺された元アメフト・クォーターバックの茨木圭介が、組織に復讐を挑む。
うーむ、感触は1巻、2巻と変わらず。70年代の小池一夫作品と比較すると信じられないお話の進みの遅さ。このタルさはちょっと耐え難い。ご都合主義な展開も、ちょっと耐えられないレベル。
なんでこんなんなっちゃったのかなあ。池上遼一の絵はいいんだけどなあ。
・1、2巻の感想
(05.0110)
・「キン肉マン2世」(25) ゆでたまご(2004、集英社) [amazon]
週刊プレイボーイ連載。悪魔超人のデーモンシード軍VS元悪行超人のアイドル超人軍の軍団抗争マッチ。第5ラウンドはボルトマンと、ジェネラル・ストーンによって若さを取り戻したアシュラマンVSケビンマスクとスカーフェイスのB-エボリューションズ。
旧世代超人の格闘センスと若い肉体双方を持ち合わせたアシュラマン、身体から電気を発するパワーファイタータイプのボルトマンに苦戦を強いられるB-エボリューションズ。なかなか熱い展開。
・24巻の感想
(05.0107)
・「キン肉マン2世」(26) ゆでたまご(2004、集英社) [amazon]
週刊プレイボーイ連載。○○が××してしまったために、万太郎とケビンマスクは新タッグを組んでアシュラマン・ボルトマン組と日をあらためて戦うことに。しかし、お互い遺恨のある万太郎とケビンマスクはまったくうち解けようとせず、二人は別れて別々の場所で特訓をするのであった。
戦いの場所は恐山。そこには悪魔超人の頂点に立つ「恐怖の将」の巨人像が建ち、その中でアシュラマンとボルトマンが、万太郎&ケビンを待つ。
二人に友情パワーは宿らないのか? ミートの肉体は取り戻せるのか?
25巻からこの巻までの展開は、旧・キン肉マンと合わせて今まででいちばんよくできているのではないかと思う。まあ、ハッキリ言って旧キン肉マンの友情パワーというのは、初期の展開から見ていくとちょっとご都合主義すぎるところがあり、掲載誌の少年ジャンプの「友情・努力・勝利」というお題目があってこその納得という部分もあった。
が、25巻からこの巻まででは、超人オリンピックでの決勝の遺恨がミートのバラバラになった肉体争奪戦で活きているし、ジャンプ時代にはとくにツマンナイ特訓シーンを描くことの多かったゆでたまごが、「万太郎とケビンの遺恨」から「お互いに負けてたまるかと特訓する」というふうにして、じゅうぶん面白い特訓シーンを描いている!
本作は他のジャンプ系リメイク作品とは少し違って、旧作のストーリーを次世代で語りなおすということと、旧作のキャラクターが「超人である」という理由である程度フレキシブルに出てこれるということが強み。で、それをふまえてもここらあたりの展開はなかなかすごいと思います。
・25巻の感想
(05.0107)
【雑記】・無意味
ひさしぶりの雑記。昨年の総括はまた別だから。お菓子は別腹だから。何が別腹だ! あと、お菓子を「スイーツ」っていうの禁止! 勝ち組とか負け組とかいうのも禁止。それは、日本全体が地盤沈下していることの証明だからだよ!
今こそ、おれ以外の人間がむちゃくちゃ勉強して国力を回復するべきだよ。
そして、結果として供された餅を座りしままに食らうボクたち。
何で雑記を書こうかと思ったかというと、「キン肉マン2世」の感想を連続して書くと何巻から何巻までかが非常に見にくくなってしまうからだ。いちおう日付順に感想を書いているのでね。間にテキストを置くと見やすくなるんだよ。私が。
それにしてもさあ、こんな金にもならんし、頼まれてもいないテキストをおれはどんだけ書いているんだと。もう百万回くらい自問自答しましたよ。カンペキに、立ち位置的には「オーディション番組でやたら見かける、列車の警笛などの口まねをするおっさん」みたいになっているよね。
昔そういう人がいたんですよ。鉄ちゃん的な人で。鉄道オタク的な人。何ていうの? あの電車の「ピリリリリリリ」っていう音を口でするの。それの変形で、「UFOの音」っていうのもやってた。
とにかくそういうヒトですよね自分の現状は。「この人何やってんだろう」的な。しかも、一時期のオーディション番組荒しに竹中直人がいたけど、竹中直人とか、あと「フィーリングカップル」に出ていた大川総裁とかは、存在感があったでしょ。「この人はなんかやりそうだ」とか「目的があってこういうことやってるのかもしれない」とか。
でも、その「列車のまねをしてた人」はそういう将来性みたいなものが何もないからね。「この人は、一生こういうことをやっていくんだあ、あーあ」みたいな感触だけが残るんだよ。いや、好きだったんだけど。
まあだいたいねえ、5年くらいサイトやってれば自分の限界ってのが見えるよね。私は、オタク的世界観というのは基本的に支持してますけど、オタクって大食い大会みたいなもんだと思うんですよ。フードファイト的な。
「ものの見方」というのは、人間ある程度変えることや研ぎ澄ましていくことはできるんだけど、実質的な知識量のプールというのは、これはもう能力差があってどうしようもない。
大食い大会と一緒で、どれだけ知識を詰め込めるかというのは、まあはっきり言うと生まれたときから勝負がついていると思うんですよね。
だから、私のここ数年の課題というのは、詰め込む量に必ず限界がある自分の「知識」をどうあやしていくかということと、その限界を突破する方法はないかということだったんだけども。
でもやっぱり結論は出ないんですよ。それは「知識だけじゃないんだ」っていう人も、けっきょく知識で勝負してるから。
そうだなあ……唯一勝負できるとしたら、よほどの天才的な感性を持っているとか、そういうんじゃないのかな。
後は、どんなに思考しても、マテリアルとなる知識がないとどうしようもないからね。
何話してたんだっけ。なんか忘れちゃいましたな。
でも、トシをとると感動することは増えるんじゃないかと思いますよ。十代で高橋愛と付き合うより、結婚して子供つくって、それらをぜんぶなげうって高橋愛と駆け落ちした方が何千倍も感動するよきっと。
どっかのひなびた旅館に泊まってさあ、テレビを付けると「高橋愛が行方不明になりました」ってやってんのよ。
でも、高橋愛と駆け落ちした二人はそのテレビを見てかえって盛り上がるわけ。
実にバカですね私は。しかも、あえて高橋愛という名前を出した責任も、とりづらいものがあります(じゃ書くな)。
ところで、なぜか年末年始に安倍麻美を見る機会が多かったんですが、ちょっと最近ブリっ子してますが(なんかFRIDAYだか何だかされた反動だとも思うけど)、もっと意識して小悪魔キャラになったらかわいくなると思いましたよ。
だんだん洗練されてきてて、しかもなんかムチムチしてるんで、実際にイベントとかで見たらすごいかわいいと思うんだよね。
それと、ぜんぜんカンケイないですがギャグの道も厳しいですよ。伊集院のラジオでいじめ抜かれていたアンタッチャブルを見てると。しかも、私にはそれらの身体をはった企画がぜんぜん面白いと思えなかったからね。ここまでつまんないことやんなきゃいけないのかと。
水道橋博士は、ギャグっていうのはダメでも負けでもそのままにならないものなんだ、ってどこかに書いてたけど、それはそうとうな覚悟がないと言えないハナシで、小さい頃からどうやって怠けて暮らそうかということばかり考えていた私としてはキツい話です。
けっこう、ヤンキーの成功譚なんかでも、あいつらやる気になると急に頑張ったりするでしょ。まあそういう人たちはほんの一握りだとしても。でも、私はヒドいことに「ああ~やっぱりがんばんなきゃダメなんだ~」と思って、シュルシュルシュルって気力が萎えたね。
まあ、押尾学の顔見てるだけで気力が萎えるんだけどね。
みんな働き者すぎるんだよ。もちろん、そういう人がいるから私がその恩恵をこうむって文明生活ができるということはあると思うんですけどね。
最後にひと言。長井秀和はこの間、ネタでフリーター批判をしていたが、彼自身もバイト時代が長いんじゃなかったっけ?
まあそういうゴーマニズムがなければ、世の中に対してひと言だって自分の意見を言うことなどできぬのかもしれん。
(05.0105)
・「キン肉マン2世」(22) ゆでたまご(2002、集英社) [amazon]
週刊プレイボーイ連載。超人オリンピックも終わり、山籠もりして鍛える万太郎。そんなおり、ミートが悪魔超人たちの手によって身体をバラバラにされてしまう!
ミートの身体のパーツをすべて取り戻すには、6人の悪魔超人と戦って勝たねばならない。
万太郎は、第一の悪魔超人、ザ・コンステレーションとの戦いに挑むのだった。
「ザ・コンステレーション」というのは星座の超人。顔の星座の配置を変え、天空に映し出すことによってその星座の能力を使うことができる。次々と変身を繰り返す、スニゲーターみたいなタイプの超人ですね。でもこれに対する万太郎の反撃のアイディアも効いているし、なかなか面白い試合でした。
・21巻の感想
(05.0105)
・「キン肉マン2世」(23) ゆでたまご(2002、集英社) [amazon]
週刊プレイボーイ連載。傷ついた万太郎の代わりに悪魔超人と戦うことを名乗り出たのは、スカーフェイス、バリアフリーマン、ハンゾウ、イリューヒン、ケビンマスクの5人。いずれも、正義超人との戦いの中で正義に目覚めたかつての悪行超人たちだ。
少しでも悪行の心を持っていないと悪魔超人のリングにあがることができないため、正義超人に変わって彼らが戦うことを宣言。開き直って自らを「アイドル超人」だと言うところがプロレス的でサイコーである。
ハンゾウVSゲッパーランド。ゲッパーランドっていうのは魚みたいな超人ね。なかなかグロテスクである。
次がイリューヒンVSメルトダウン。戦いの舞台が、出雲大社の地下に、逆さまに埋められていた悪魔超人の神殿・逆さ大社だというのがかなりビジュアル的にすごいことになっている。
・22巻の感想
(05.0105)
・「キン肉マン2世」(24) ゆでたまご(2002、集英社) [amazon]
週刊プレイボーイ連載。イリューヒンVSメルトダウンの続き。ステルスに変形して姿を消したイリューヒンを、バイクに変形し、「超人ナビ」で突き止めるメルトダウンというシュール展開。悪魔超人が打ち上げた対正義超人専用軍事衛星からの特殊電波をキャッチするというシュールすぎる技だ。
次が、五稜郭で行われるバリアフリーマンVSザ・タトゥーマン。遠山の金さん調デザインのザ・タトゥーマンと、老人と若者の合体超人バリアフリーマンとの戦いもかなり冴えている。バリアフリーマンは、老人と若者とのチームプレイ、かつての悪行超人時代の贖罪としての戦いなど、葛藤もわかりやすく、ストーリーが盛り上がる。
・23巻の感想
(05.0105)
【映画】・「ULTRAMAN THE MOVIE」 監督:小中 和哉、脚本:長谷川圭一(2004、日本)
公式ページ。
空自のエースパイロット真木(別所哲也)は、病弱な息子と一緒にいられる時間を増やすため退職を決意。だがその直前、ラストフライトで赤い謎の発光体と接触。
一方、その事件から3カ月前、青い発光体と合体した人間(大澄賢也)は怪物となり、収容される施設から脱出してしまっていた。それは「ザ・ワン」と呼ばれた。
真木は、「ザ・ワン」を倒すことができる唯一の存在とみなされ「ネクスト」と呼ばれた。
ザ・ワンが真木を狙ってやってきたとき、真木は謎の超人に変身した。
最近は「子供を連れて映画館に入ったお父さん世代を泣かせてやろう」という主旨の作品をちょくちょく見かけるが、本作も完全にそのたぐい。仕事も家庭も、そして「大義」に対するコミットメントもすべて満たしたいお父さんの願望充足映画ともいえる。
だから、カミサンが都合が良すぎる女だとか、病弱な息子がかわいくて素直すぎるとか、そんな批判は当てはまらない。願望充足映画なのだから、願望が充足される設定なのは当然である。
「ザ・ワン」を研究している女学者・水原(遠山景織子)さえもが、「浮気相手」を非常にオブラートにくるんだ表現だと考えればすべてぴったり行く。
なんか、すごく突き放した感想になってしまったが、「ウルトラマン」第1話のリメイクとして、独自の道を突っ走るコミカライズを読んだときのような(石川賢版のウルトラマンタロウを読んだときのような)充足感に包まれることうけあいである。
個人的には、最初に変身したヴァージョンの、肉体を持ち血液が流れているかのような雰囲気の生々しいウルトラマンが好きだ。
「ザ・ワン」は、ウルトラ怪獣としての違和感に賛否あるだろうが、クライマックスは映画「デビルマン」よりよほどハルマゲドンな感じがして良かった。わざわざ「悪魔だ」と言うセリフもあるから、「デビルマン」の影響がまったくゼロではないだろう。
まっとうにヒーローを描いたという点で、そしてまっとうにヒーローを描くと男のうぬぼれ鏡にならざるを得ないことを表したという点で、生意気な言い方をすると微笑ましい、真っ正面な書き方をすると、いいヒーローものだからヒーローの好きな人はみんな見た方がいいです。ということになる。
(05.0105)
【映画】・「カンフーハッスル」 監督:チャウ・シンチー(2004、香港)
公式ページ。
斧を武器とする暴力団がはびこる中国。しかし、貧民街は攻撃しても意味がないということで放置され、平和を保っていた。
ある日、ダメ二人組がこの貧民街を訪れ、その暴力団を騙って恐喝を働こうとしたことから、モノホンの人たちに目をつけられることになってしまった。
かかる火の粉を払おうと、貧民街のボロアパートに隠れていた武道の達人たちが、その力で戦いを挑む。
「少林サッカー」は、あくまでもカンフーのアクションをサッカーに取り入れたからこそ面白いので、カンフーでカンフーものをやってもそのままだからなあ……と思っていたら、じゅうぶん面白かった。
本作では「カッコいいはずの武道の達人の外見が、全員カッコ悪い」というのがギャグになっている。
「少林サッカー」もマンガ的な演出が指摘されていたが、本作では人が焦っているときのマンガ表現である「顔に流れるひとすじの汗」を本当にそのまま流れさせてそれをとっている。マンガ的な記号を実写で使っているのだ。
他にも、「アホの子」という表現をする際、その子がきっちり鼻を垂らしていたり、雑魚どもがコンテンパンにやられるシーンでの人物配置(一人だけ天上に首を突っ込んでいるやつがいるなど)が、とてもマンガ的なのであった。
それにしても公式ページが見にくい。読み込みに時間がかかって、知りたいことがすぐにわからないんだよな。
(05.0105)
・「キン肉マン2世」(17) ゆでたまご(2002、集英社) [amazon]
週刊プレイボーイ連載。キン肉万太郎VSバリアフリーマン。バリアフリーマンの造形やエピソードは「2世」屈指のアイディアではなかろうか。
その後は、ケビンマスクVSレゴックス。
・16巻の感想
(05.0103)
・「キン肉マン2世」(18) ゆでたまご(2002、集英社) [amazon]
週刊プレイボーイ連載。ジェイドVSヒカルド。ブロッケンJr.との師弟愛など、泣かせるものがある。まあ、どうしてもジェイドの場合、噛ませ犬的な雰囲気がつきまとうし、トーナメントだと結果が読めてしまうんだけど……。
それと、キン肉万太郎VSヒカルド。
・17巻の感想
(05.0103)
・「キン肉マン2世」(19) ゆでたまご(2002、集英社) [amazon]
週刊プレイボーイ連載。キン肉万太郎VSヒカルドの続き。どうもこの「正義超人に育てられた悪行超人」ヒカルドという設定は、中途半端に終わってしまった気がする。昔のジャンプなら、改心してただろうになー。それとも、「悪行超人が改心」というパターンを変えていこうとしたのか?
旧世代の超人がまったくからんでこないのも、イマイチの原因かなァ。
それと、ケビンマスクVSイリューヒン。こちらも、両者にそれほど因縁がないわりには試合が長いし、オチも「ゆでだから」ということを斟酌しても唐突すぎる。
・18巻の感想
(05.0103)
・「キン肉マン2世」(20) ゆでたまご(2002、集英社) [amazon]
週刊プレイボーイ連載。ついに超人オリンピック決勝、キン肉万太郎VSケビンマスク。ミートくんがケガでセコンドにつけないため、同じ日本の超人・農村マンが再登場。ケビンマスクの「大渦パワー」っていつ頃でてきたんだっけ? 前の単行本を読み返したけどわからなかったよ。
・19巻の感想
(05.0103)
・「キン肉マン2世」(21) ゆでたまご(2002、集英社) [amazon]
週刊プレイボーイ連載。超人オリンピック決勝戦決着。まさか、○○が××になるとは思わなかった。これは驚いた。だれが決断したかはわからないけど、これで本作が単なる固定客狙いの続編以上のものになったと思う(固定客への語りかけではあるんだけどね)。いい展開でした。旧世代超人の使い方も堂に入っている。まあ、あいかわらずのご都合主義はすごいけど……。
・20巻の感想
(05.0103)
・「ミズタマ」 山名沢湖作品集(1998、COMITIA実行委員会)
イメージ優先のかわいらしい話が多い短編集。ほとんどが同人誌に掲載されたものかな。男の子と女の子のちょっとしたすれ違いとか、逆にフィットする部分とかをファンタジックに描いているというか。そんな感じです。
「WORLD END HAPPY END WEEK END」は「世界の終わりを予感しながらも、とくに行動を起こすわけでもないし、本当に世界の終わりが来るかどうかもわからない」という点において、そういうかつての時代感覚に共感を覚えたりして。この作品が描かれたのが95年。ほぼ10年前で、こうした感覚は911やらイラク戦争やらでまた違う局面に入っていくんでしょうが、それはまた別の話。
恋人とカラオケに行き、つまらないジョークを言った恋人を歌本で叩いたら死んでしまったという「PARTY JOKE」がこの単行本ではいちばん好きかな。ファンタジックで、冗談みたいででもちゃんと少女マンガというかラブストーリーになってるところが奇妙な味で面白い。
(05.0102)
・「スミレステッチ」 山名沢湖(2004、エンターブレイン) [amazon]
月刊少年エース、アワーズライト、月刊コミックゼロサムなどに掲載された作品を集めた短編集。
「星菫女学院」を舞台に、生徒たちのあふれんばかりの乙女心がときに力を持ち、校内に紅茶とお花が溢れかえったり、バレンタインには「校舎チョコ化現象」が起こったりする「ホシスミレ」など、なかなか清純にして大胆な展開にびっくりするやら楽しいやら、という感じです。
そういったファンタジー現象は何かのメタファーなんだろうけども、それが現実的な心情とか欲望に帰結しない、メルヘン的なものの本質を探っていくとまたメルヘンなものが出てくるというか、そこら辺が作品全体の心地よいふわふわ感の理由なんでしょうな。
・参考
・「いちご実験室」 山名沢湖(2003、講談社)
(05.0102)